金 魚 南方熊楠
六月号(『彗星』二年六号)三七頁(金魚)に森沢(瑞香)君は、坂部甚五郎の享保九年甲府赴任の道中記より、鶴瀬という所で金魚を珊瑚樹魚と名づけて見世物にした、在辺の者はまだ見ぬ物とみえる、とあるを引いて、金魚はあまり古くよりあった物と思われぬ、と言われたが、件(ルビ/くだん)の文は、金魚ほど日本の都会で見慣れた物を、まだ知らぬ僻邑もあると呆れて書いたので、そのころすでに金魚が、日本全体よりみて、さほど新しい物でなかったと証する。
紀州東牟婁郡色川村は、海より三里ばかり距たった地だが、三、四年前そこの小学生徒が初めて海をみて、チベットのラマ僧が、前年初めて日本海をみた同様驚いたと『大毎』紙で読んだ。また日高郡山路村などの老婆が、近年初めて馬を見て仰天したことあり。大正九年、同郡高城村より、予方へ下女奉公した十六歳の女を、田辺町内で使いに出すごとに、返りがあまり遅いから、跡をつけてみると、水菓子の上に仕掛けた水ガラクリの管から出る水が車を廻すを見つけ、未曾有の奇物と、一、二時間も立ち留まって眺めおった。その水ガラクリは吾輩生まれぬうちからある物だが、南部町より三里ばかりの高城村で夢にもみたことなしと言った。
羊はドットむかしよりしばしば日本へ渡った記事あり。綿羊とも山羊とも別(ルビ/わか)らぬが、とにかく明時代には山羊が大分日本にあったらしく、『古今図書集成』の辺裔典三九巻に、そのころの日本奇語を載せたうちに、羊を羊其(ヤギ)と訳しあり。『大和本草』一六に、「野牛。これ羊の別種なり、羊に似て同じからず、云々。その形は牛と相類せず、これを野牛と謂うは、訛称なるのみ。『本草』これを載せず、その種(ルビ/しゅ)、外国より来たるか。今、本邦の処々の海島これを放養し、はななだ繁殖す。あるいは山羊というなり」と言ったほど、当時すでにあまり珍品でなかった。しかるにこの田辺町などには、十余年前まで、金魚を珊瑚樹魚と名づくるごとく、種々の名をつけてヤギを見世物にした。これらの例と等しく、坂部氏の記事は、享保九年に甲州に金魚を知らぬ村があった証拠になるのみ。金魚が本邦へ初めて渡った年代を徴するに役立たぬ。
本邦へ金魚が初めて渡った年代については、元禄八年に成った『本朝食鑑』七に、外国より来たって五、六十年来玩賞す、とあれば、寛永十一年から正保二年までに渡ったらしい。しかるに『大和本草』十三には、「むかしは日本に無之(ルビ/これなし)。元和年中異域より来たる。今世飼う者多し」とあって、この書ができた宝永五年、すでに希有の物でなかったと示す。甲州で見世物にした享保九より十六年前だ。さて白井光太郎博士の『増訂日本博物学年表』には、文亀二年(元和元年より百十二年前)正月支那より始めて金魚を泉州堺浦に将来す、とある。博士はきわめて綿密な人ゆえ、必ず確かな拠(ルビ/よりどころ)あっての言だろう。金魚初めて渡った年次として指されたうち、この文亀二年が一番古い。『嬉遊笑覧』一二下に、「江戸には、そのかみ金魚屋も少なかりしなるべし。『江戸鹿子』に、上野池の端しんちうやとあるのみなり。西鶴が『置土産』(江戸下谷の条)、黒門より池の端を歩むに、しんちうや市右衛門とて、かくれもなき金魚、銀魚を売るものあり、生舟(ルビ/いけふね)七、八十も並べて、溜水清く、云々、中にも尺にあまりて鱗のてりたるを、金子五両、七両に買い求めていく、云々」。貞享・元禄のころ江戸に金魚屋があったので、金に似た色の真鍮もて屋号としたのだろう。『柳亭筆記』にも、延宝八年板『俳諧向の岡』より、「影涼し金魚の光りしんちう屋」という句を引きある。としたりげに書いてさて前文をみると、真鍮屋はもと煙管を売った縁でつけた号という考証を出しある。また万治三年成った『新続犬筑波集』の「をどれるや狂言金魚秋の水」なる句を引き、金魚の水中に宛転するを狂言ということも古い、と言いおる。
さて文亀二年以前の日本人が全く金魚を知らなんだかと言うに、『碧山日録』一、「長禄三年(文亀二より四十八年前)五月十一日、最勝翁の開頌の会、金魚風鈴をもって題となす。これを賦していわく、躍鱗活動し響丁東(ルビ/ひびきとうとう)たり、全身を放下し浪(ルビ/なみ)空を拍(ルビ/う)つ、日夜金声別調なし、海門吹き送る鯉魚の風、と。衆品は第三科にあり」。この金魚は金作りの魚形の風鈴を謂ったものか。文亀二年より四百三十年前、延久四年釈成尋が入宋の記(『参天台山五台山記』)一に、四月ニ十九日杭州興教寺を見る、方池あり、黄金白銀魚出で遊ぶ、と出づ。これ邦人が金魚と銀魚を最も古くみた記事の現存するものだろう。『嬉遊笑覧』に引いた『帝京景物略』に、「按ずるに、金魚は古今いまだ聞かず。『鼠璞』にいわく、ただ杭の六和寺の池にこれあり、故に杜工部(蘇子美の誤り)の詩に、橋に沿(ルビ/よ)って金(ルビ/きんせき)を待ち、竟日(ルビ/ひねもす)ために遅留す、と」。杭州は金魚の本場、そこで成尋がこれを目撃したのだ。『本草綱目』にも、「金魚は、宋よりはじめて畜(ルビ/か)う者あり」。ちょうど畜い始めたころ、成尋が見たのだ。そのころの船では輸入し得ず、はるか後年始めて船齎されたのだ。
今の金魚と同異は分らねど、李時珍は、「金魚は、前古、知るもの(ルビ/まれ)なり。ただ『博物誌』にいわく、婆寒江に出づ、脳中に金あり、と。けだしまた訛伝なり。『述異記』に載すらく、晋の桓沖、廬山に遊び、湖中に赤鱗の魚あるを見る、と。すなわちこれなり」と言った。この他、金魚という名の出たのを、予が知った限り列べる。ただし今日謂(ルビ/い)うところの金魚とは決して定(ルビ/き)めてかからぬ。まず晋の葛洪の『抱朴子』の金丹巻四に、「黄帝の『九鼎神丹経』にいわく、神丹を服すれば、人の寿(ルビ/よわい)をして窮まり巳(ルビ/や)むことなく、天地とともに相畢(ルビ/お)え、雲に乗り龍に駕(ルビ/の)り、太清(ルビ/たいせい)に上下せしむ、と。黄帝もって玄子に伝え、これを戒めていわく、この道至って重し、必ずもって賢に授けよ、いやしくもその人にあらずんば、玉(ルビ/ぎょく)を積むこと山のごとしといえども、この道をもってこれに告ぐることなかれ、これを受くる者は、金人・金魚をもって東流する水中に投じ、もって約をなし、血を(ルビ/すす)って盟をなせ、と」。梁の任の『述異記』下に、「関中に金魚神あり。いわく、周平二年、十旬雨ふらず。天神を祭らしむるに、にわかにして涌泉を生じ、金魚踊り出でて雨降る、と」。元魏婆羅門曇般若流志が訳した『正法念処経』二四に、箜篌天の真珠河、「清浄香潔にして、白き真珠の沙(ルビ/すな)その底に布(ルビ/し)き、真金は泥たり。多く金魚あり、無量の宝珠、魚身を荘厳す」。同六八に、「大輪山は真金の成すところなり、云々。この山中において、緊那羅(ルビ/きんなら)および阿修羅(ルビ/あしゅら)あって、住んでこの山にあり。この甄那羅(ルビ/けんなら)の園林は愛すべく、河流と泉池あり、云々。河は金水と名づけ、広さ半由旬(ルビ/ゆじゅん)あり。この河の中において多く金魚あり、游洋して鱗を躍らせ、行く者また観る」。
(追記)本稿成りてのち、金魚が支那より渡った年紀の出処について、白井博士へ聞き合わせたところ、さっそく返書あり。泉州堺安達喜之著『金魚養玩草』に出でおると教示された。熊楠の蔵本は出板年月を欠くが、寛延元年初板出で、弘化三年の再板ありとのこと。よって就いてみると、四枚表に、「ある老人のいわく、金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月二十日、初めて泉州左海(ルビ/さかい)の津に渡り、珍しきことなりとて、その由来を記したるものありけるに、いずれの時にか、その書失せ侍りける。その金魚の卵彼方此方(ルビ/かなたこなた)に残り、今はた至らぬ隈(ルビ/くま)もなく世に盛んになりぬ」とあり。支那より将来との明記なし。博士また教示に、『増補武江年表』には、元和六年、朝鮮より金魚渡る、とある由。
(『彗星』昭和二年、八、十月号)
熊楠フォーラム代表吉川氏のご協力のもと、『南方熊楠全集』第四巻(平凡社)より抜粋いたしました。