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News about Yutaka Akino


秋野・筑波大前助教授(小樽出身),タジキスタンで射殺体で発見
【モスクワ22日伊藤一哉】国連代表部から日本政府に二十一日入った連絡による
と同日朝、中央アジア・タジキスタンの山岳地帯で日本外務省から国連タジキスタン
監視団(UNMOT)に政務官として派遣されていた秋野豊・前筑波大助教授(48)=
小樽市出身=らの乗った車が谷底に転落しているのが見つかり、秋野さんら乗員四
人全員が射殺体で発見された。
 国連は秋野さんらが停戦監視活動中、何者かに待ち伏せされて襲われたとみて、
情報収集を急いでいる。在モスクワ日本大使館の河東哲夫公使らが二十二日にもタ
ジキスタンの首都ドゥシャンベに入り、現地警察当局などから遺体発見時の状況など
について事情を聴くとともに、日本政府との連絡にあたる。
 事件があったのはドゥシャンベから約百七十頚東のラビジャールの山岳地帯。道路
から五十m下のがけ下で自動車が発見された。秋野さんのほか、ポーランドとウルグ
アイの軍事監視員とタジキスタン人の通訳が同乗していた。
ハ 秋野さんは今年四月、筑波大を退職。外務省職員となった上で、UNMOTの政務
官に就任し、八月末までの任期で政治和解を進める民生部門を担当していた。秋野
さんは旧ソ連諸国を専門とする国際政治家で、不安定な状態が続くタジキスタン情勢
を直接、自分の目で見ることを目的にUNMOTに志願した。
 秋野さんの遺体は現在、ドゥシャンベ市内に安置されているが、治安状況が悪いた
め、一両日中にも同じ中央アジア・カザフスタンのアルマトイに移される予定だ。
 タジキスタンはソ連から独立後の一九九二年以降、政府とイスラム系反政府勢力
が内戦に突入、昨年六月、両勢力が和平合意に調印したものの、小競り合いが続い
ており、国内の治安は極めて悪い。

反政府勢力の支配地域で視察中に待ち伏せ―秋野氏射殺事件

【モスクワ22日共同】中央アジア・タジキスタンに駐在している国連タジキスタン監
視団(UNMOT)の秋野豊政務官(48)=前筑波大助教授=ら四人が射殺された事件
で、UNMOTは二十一日、声明を発表し、四人が反政府勢力の支配地域を視察中に
待ち伏せを受け、射殺されたことを明らかにした。
 UNMOTはまた、停戦の監視に当たる国連要員が殺害された事件を強く非難し、
各地で活動していた要員の首都ドゥシャンベへの引き揚げを決定した。
 犯人は不明で、事件に政治的な背景があるのかどうかは分かっていない。タジキ
スタン政府は治安機関メンバーなどで構成する調査委員会を設置し、事件の本格的
究明に乗り出した。
 在ロシア日本大使館は、日本政府として事件に対応するため、二十二日にも館員
を現地に派遣する方針。
 UNMOTの声明が暫定的な調査結果として明らかにしたところによると、秋野さん
とポーランド人、ウルグアイ人の軍事監視要員ら四人は二十日、視察のためドゥシャ
ンベの東方約百五十頚のタビリダラからラビジャールまで山岳地帯を車で移動中に
待ち伏せされ、射殺された。現場は反政府勢力の支配下にあったが、通常の視察の
ための通行は認められていたという。
 ソ連崩壊後に内戦が続いたタジキスタンでは、隣国のアフガニスタンに拠点を置くイ
スラム系反政府武装勢力が、越境して攻撃をかける事件が頻発したが、事件現場は
アフガニスタン国境から数十頚しか離れていなかった。
 また昨年六月の政権と反政府勢力の和平合意調印後も、地方では合意に従わな
い武装勢力が活動しているとされていた。
 UNMOT代表のクビシ国連事務総長特使(スロバキア出身)は二十二日に現地で
記者会見を行い、事件について説明する予定。

泥沼のタジキスタン内戦―秋野さん殺害事件

【モスクワ22日伊藤一哉】国連タジキスタン監視団(UNMOT)に政務官として派遣
されていた秋野豊・前筑波大助教授(48)ら国連停戦監視団グループ四人が射殺さ
れた事件で、UNMOT代表のクビシ国連事務総長特使は二十一日、事件を「冷血非
道な殺人」と強く非難し、タジキスタンの政府、反政府勢力の双方に「殺害事件にか
かわったものは、厳正な措置に処する」と通告した。
 クビシ特使の発言は、事件の背景に両勢力の泥沼の対立があるとの見方を示した
ものだ。同特使は事件を重く見て、タジキスタン領内で停戦監視活動に当たっている
約七十人の国連要員を首都ドゥシャンベに引き揚げさせた。
 タジキスタンでは一九九二年九月以降、旧ソ連時代の政権を継承する共産党系政
府と、イスラム系の反政府勢力が内戦を繰り広げている。国連は九四年十二月、UN
MOTを設置したが、九七年四月にはラフモノフ大統領に対する手投げ弾による暗殺
未遂事件が発生した。
 九七年六月、ラフモノフ大統領とイスラム系のタジク統一野党側がモスクワで和平
合意に調印したが、その後も戦闘が散発的に続いた。同年十月、武装グループが大
統領護衛部隊本部を襲い、死者十四人、負傷者二十人以上を出すなど不穏な情勢
が続いている。
 イスラム系反政府勢力は隣国アフガニスタンのイスラム原理主義勢力の支援を受
けており、山岳地帯の国境を出入りしながら攻撃を繰り返すことで、政府側をてこずら
せてきた。今回の事件現場もアフガニスタン国境に近い場所だ。

悲報から一夜、友人ら駆け付ける秋野さんの自宅

「万が一のことがあっても、現地に来なくていい」―。今年四月、UNMOTの政務官
としてタジキスタンに向かった秋野さんは、妻の洋子さんに、そう言い残していた。
 秋野さんは、ロシア・東欧政治の専門家。研究室にこもらず、実際に各地を歩きま
わる行動派の研究者だけに、国連監視団活動の危険性は十分に認識していたよう
だ。
 突然の悲報から一夜明けた二十二日、妻の洋子さん(45)と高校二年の二女(16)が
留守を守る札幌市中央区宮の森の自宅には、親類や友人ら十数人が駆けつけた。
 外務省を通じて自宅に入った連絡によると、UNMOTの現地本部は「治安が悪く、
家族はこない方がいい」といっている、という。
 留守宅を訪れた義弟(43)によると洋子さんは「早く、現地に行きたい」という希望を
持っているものの、秋野さんの遺体は二十四日までには、タジキスタンから隣国のカ
ザフスタンの首都アルマトイに運ばれる、という情報もあり、家族が日本を出国するか
どうか、日程調整も含めて検討している。
 また、長女(21)は上海に短期留学中で、早ければ二十二日夜には帰国する予定、
という。
 現地の国連関係者から家族に一報があったのは、二十一日午後九時半すぎ。「大
変悲しいお知らせがあります。ご主人の乗った車が転落し、亡くなられました」という
内容だった。
 秋野さん本人からは十九日に、自宅の洋子さんに電話があり「元気でやっている。
現地の言葉を勉強している」と話していたばかり。それだけに、洋子さんのショックは
大きく、友人や知人からの問い合わせの電話に、涙声で答えている、という。

世界を駆けた行動派学者、秋野豊さんの死を悼む

「現代のマルコポーロになりたいんです」。タジキスタンで亡くなった秋野豊さんは、
昨年五月、北海道新聞の連載企画「北海道ひと紀行」の取材でインタビューした際、
そう語っていた。「現地へ行って、初めて分かることがある」という、徹底した現場主
義。冷戦体制崩壊後、動乱の続く世界各地を駆け続けた行動派の学者の人生は、
まさにその現場で突然の終止符が打たれた。
 小樽生まれの道産子。量徳小、住吉中、小樽潮陵高を経て、早大政経学部卒。北
大法学部に再入学して当時のソ連・東欧に興味を持ち、同大大学院からロンドン大ス
ラブ東欧学研究所に留学。帰国後、北大法学部助手を経て、八三年、モスクワの日
本大使館専門調査員になり、ゴルバチョフの登場を間近に見た。
 八六年に筑波大講師、八八年から助教授として教壇に立ったが、活動は大学の枠
にとどまらなかった。経験と知識を買われて、たびたびテレビ出演したほか、九一年
四月に当時のゴルバチョフ・ソ連大統領が来日した際には、北海道新聞に「秋野豊
の目」を連載し、日ソ関係の未来を的確に分析。国際情勢の先を読む洞察力には定
評があった。
 九二年、チェコ・プラハの研究所に留学したころから、冷戦後の世界を揺るがせてい
た民族・地域紛争の研究に本格的に取り組み始める。九四年に帰国後も、アフガン、
ユーゴ、チェチェン、中央アジアと、常に紛争の最前線に飛び込んで現地を踏査。「四
年ほどの間に、十回ほど取り調べ、逮捕、強制送還された」という、危険と隣り合わ
せの生活が続いた。
 学者としては型破りのそんな幅広い活動を支えたのは、柔道とラグビーで鍛えた体
力と気力。「危険な所に行くときは気合の勝負です」。ゲリラの指導者と、武道を通じ
て親しくなることもあったという。

世界を駆けた行動派学者、秋野豊さんの死を悼む(続き)

 しかし、悲惨な内戦や民族紛争の現場を歩いた経験から、「もともと、人間はそれ
ほど賢くないのではないか、と思うようになった」とも語っていた。「長い間の教訓を学
ばないのが人間。われわれは、弱い存在だな、という気がします。でも、このままで
はいけないんですよ」。筑波大を退職し、国連タジキスタン監視団の政務官として日
本を出発する際の記者会見でも「日本のユーラシア外交は、汗をかくことはまだまだ
の面がある」と、国際貢献への意欲を語っていた。
 九四年から札幌住まい。大学での講義の際には、筑波まで飛行機で「遠距離通
勤」を続けた。札幌に引っ越したのは「一番、居心地の良い所に住みたいから」。「北
海道はいいですね。実に開放感がある」と、道産子としての故郷への思いを語ってい
た。
「人生はラグビーに似ている。グラウンドいっぱいに、自分という球を動かしたい。逃
げずに勝負したい」。知る人すべてが「好漢」という秋野さんのそんな思いは、非情な
銃弾によって絶たれた。

 (三浦 祐嗣編集委員)


北海道新聞ハ 社説

秋野豊さんの志を無駄にするな(7月23日)

柔道とラグビーで鍛えた大きな体に、ちょっとはにかんだような笑み。
あの人なつっこい秋野豊スマイルに二度と会えなくなった。
国連監視団の一員として派遣されていたタジキスタンで撃ち殺された。
武装解除が進まない反政府勢力の状況を視察中に、ゲリラに待ち伏せ攻撃されがけ下に
投げ捨てられたようだ。なんともむごい。痛ましいかぎりだ。
秋野さんは、第一次情報を求めて行動する研究者だった。フットワークの良さには定評
が あった。
モスクワの日本大使館に専門調査官として勤務していた時は、旧東欧諸国や朝鮮民主主
義人民共和国(北朝鮮)の大使館を回って情報を集めてきた。本人から直接、話を聞いた
記憶がある。
秋野さんは、橋本竜太郎首相が一年前に打ち出した「ユーラシア外交」の先駆的な担い
手だった。
その志を無駄にしてはいけない。
 ユーラシア外交は、日本がロシアだけでなく旧ソ連崩壊で生まれた中央アジア、コーカ
サスのシルクロード地域の国づくりを積極的に手伝う考えである。
 タジクでは、旧ソ連崩壊後もっとも長く内戦が続き、昨年夏に大統領派とイスラム系の
野党が和平協定に調印した。しかし、小競り合いは続いている。
 日本にはなじみの薄い国だがユーラシアの要衝に位置する。
 北のロシア、南のアフガニスタンやパキスタン、東の中国、西の中東諸国が交わる十字
路にあたるからだ。
 紛争が再燃し、和平協定に基づく国連の停戦監視や反政府勢力の国軍への編入が失敗す
れば、日本がユーラシア外交を繰り広げる前提条件の一角が崩れる。
 秋野さんのタジクに対する思い入れは強かった。赴任に先立ち、単身で何度も訪れてい
た。だれよりも早く、地政学的な重要性に気づいていたのだろう。
 秋野さんの死は、国連平和維持活動(PKO)が、いつも死と隣り合わせであることを
あらためて浮き彫りにした。
 ユーラシア外交が一筋縄ではいかないことも示した。しかし、あきらめてはいけない。
それは故人の遺志に反する。
 単なる宣言にすぎなかったのか、粘り強く続ける意志があるのか。ユーラシア外交その
ものが問われているのだ。
 タジクに日本政府の出先機関はない。政務官の派遣をやめることはユーラシア外交の中
断につながる。
 政府は、国連とも協力して万全を期した上で後任の政務官を派遣してほしい。危険な地
方には派遣せず、当面首都のドゥシャンベにとどめてもよい。
 タジクでは、昨年初めにも二週間近くにわたって、国連の軍事監視員ら十五人が人質に
取られる事件があった。
 国連の枠内での活動なら安全だという認識は通用しない。
 事件の真相究明に全力をあげることは言うまでもない。政府は、現地に外務次官級を派
遣し、直接抗議の意思を伝える必要があるのではないか。
 それが、ユーラシア外交を推し進める一歩につながる。



1998年7月26日(日) 6時25分
<邦人射殺>秋野さんに武装警護を要望した タジキスタン内務省(毎日新聞)

 【ドゥシャンベ25日高橋龍介】タジキスタン内務省のマジャル第1内務次官は25
日、秋野豊さんら国連タジキスタン監視団(UNMOT)のメンバー4人が同国内で殺
害された事件に関連し、安全確保のため、武装した警護の同行の必要性を訴えていたこ
とを明らかにした。これに対し、国連側は同日、監視団の規定が武器の携行を認めてい
ないことと、武器携行が逆に反政府勢力を挑発させる恐れがあることなどから武装警護
を同行させる意向は今後ともないと説明した。

 同次官は、事件の発生場所を含む同国東部の山岳地帯はさまざまな反政府勢力が「群
雄割拠」する事実上の小独立国家群であり、政府の力の及ばない地域であることを強調
し、また外部からの侵入者を嫌う伝統もあるため、秋野さんがドゥシャンベに戻った折
に、再三にわたり、危険性を警告していたと語った。

 ただ、秋野さんは事件発生地域の指導者ニゾーモフ氏を含め反政府勢力リーダーと対
話を重ねて、信頼を獲得していたといい、事件発生当時、秋野さんの入った地域が特に
危険な情勢にあるとの情報もなかったという。

 監視団によると、国連の停戦監視活動はボスニア・ヘルツェゴビナを例外とし、武装
警護を同行していない。むしろ秋野さんは監視活動中に人にあうと、車から降りて、握
手を求め、対話に努めるやり方で地域住民の信頼を獲得していったという。

 国連監視団クビシュ代表は、秋野さんらの努力により、どうしてこの地域に全く関係
のない日本人やポーランド人などの外国人がこの地域で活動しているのかが、地域住民
にも理解されるようになってきたと指摘し、「秋野さんは現場に入る前にニゾーモフ氏
と連絡をとり、訪問の許可と安全の保証を得ていた。このため、ニゾーモフ氏自身も事
件の発生に驚いている」と語った。

 同代表は「もし危険が実際に存在するとしたら、秋野さんこそ、一番最初にそれを感
知できる人だった」と語り、事件が予測不能であったことを強調する一方、今後も武装
警護を同行させる方針はないことを確認した。

[毎日新聞7月25日] ( 1998-07-25-20:00 )

1998年7月26日(日) 6時25分
<邦人射殺>秋野さんの遺体、札幌の自宅に 悲しい対面=再替(毎日新聞)

 中央アジアのタジキスタンで国連平和維持活動(PK0)に従事中、射殺された「国
連タジキスタン監視団(UNMOT)」の日本人政務官、秋野豊氏(48)の遺体が2
5日、成田空港に帰国した。同夜、新千歳空港に到着し、出迎えた大学3年の長女さや
かさん(21)と高校2年の二女ひかるさん(16)が父親と悲しみの対面をした。遺
体は2人の娘に付き添われて、派遣以来3カ月ぶりに札幌市の自宅に戻り、妻洋子さん
(45)が青い国連旗にくるまれた夫のひつぎを迎え入れた。

 遺体は午後9時45分ごろ、札幌市中央区の閑静な住宅街にある自宅に到着した。か
つてキャプテンを務めた小樽潮稜高柔道部の同級生や後輩に担がれ、洋子さんと2人の
娘の目の前を通りすぎ、我が家に運び込まれた。

 喪服姿の洋子さんは「やっと私のそばに戻ってくることができてうれしく思います」
と事件後初めて報道陣に心境を語った。遺体到着の直前だった。志なかばで悲運の死を
遂げた夫を「彼は行動の人ですべて行動が先だった。多少やり残したことはあるが、全
力を尽くした。最後まで自分が死ぬとは思っていなかったのでは」と語り、うつむいた
まま唇をかすかに震わせた。

 「私の方から皆さんにお願いがあります」。そう言葉を続けた洋子さんは「秋野の死
を無駄にしないで、たくさんの若者が後に続くように願っています」と、今後も日本の
PKO活動が途切れることがないよう若者に呼びかけた。

 新千歳空港で出迎えたさやかさんは22日朝、留学先の上海大学の寮で父の死を知り
、日本に戻ってきたという。出発前、茨城県つくば市で食事をしたのが父との最後の思
い出になった。その際、「父が悩んでいるのを感じたが、よく話し合って、なぜ行かな
ければならないか理解できた」とさやかさん。「父は、私が小さいころから親友として
対等に付き合ってくれた。素晴らしい人です」と、しっかりした口調で語った。

 本人が無宗教のため、葬儀は行わず、26日に家族だけの密葬を行う。札幌と東京で
は、知人や外務省などがお別れ会を開く。

[毎日新聞7月26日] ( 1998-07-26-00:09 )


7/24北海道新聞社会面

秋野さんの遺体は25日夜に札幌へ

外務省は二十三日、タジキスタンで射殺された国連タジキスタン監視団(UNMOT)
政務官の秋野豊・前筑波大助教授=小樽市出身=の遺体は二十四日に現地から運び出し、
二十五日午後八時すぎに新千歳空港に到着すると発表した。
 秋野さんの遺体は二十四日にタジクの首都ドゥシャンベで行われるUNMOTの慰霊式
の後、カザフスタンのアルマトイ、韓国ソウル経由で二十五日午後、成田空港に到着した
後、新千歳空港に向かい、札幌の自宅に送り届けられる。
遺体にはアルマトイ入りした西村六善外務省欧亜局長らが付き添う。成田では遺族のほ
か外務省、筑波大学の関係者らが出迎える。

7/25北海道新聞社会面

秋野さん無言の帰宅 洋子さん悲しみこらえ対面 札幌

 中央アジアのタジキスタンで停戦活動をしている国連平和維持活動(PKO)の「国連
タジキスタン監視団(UNMOT)」で政務官として監視活動中に銃撃され死亡した秋野
豊・前筑波大助教授(48)=小樽市出身=の遺体が二十五日夜、妻洋子さん(45)が待つ札幌
市中央区宮の森の自宅に到着した。四月二十五日の出発から九十一日ぶりの無言の帰国と
なった。
 遺体は、一時安置されていたタジキスタンの隣国・カザフスタンのアルマトイからソウ
ル、成田空港経由でこの日午後八時すぎ、新千歳空港に到着。大学二年の長女さやかさん(21)、
高校二年の二女ひかるさん(16)ら遺族が出迎えた。空港には堀達也道知事も駆けつけた。
 ひつぎは、遺族や成田から同行してきた実姉の依田百合子さん(57)、綾部裕子筑波大国
際総合学類長ら大学関係者、外務省の柳井俊二事務次官、タジキスタンから付き添ってき
た西村六善欧亜局長ら外務省関係者らに伴われて、車で同日午後九時四十分すぎ自宅に到
着し、妻洋子さんが悲しみの対面をした。
 洋子さんはひつぎ到着の直前に自宅前で報道陣の質問に答えて「秋野は最後まで自分が
死ぬとは思っていなかったでしょう。彼は行動の人。全力を尽くして仕事をしていた」と
涙をこらえながら語った。
 秋野さん宅には友人や親せきらが次々に弔問に訪れ、柳井外務事務次官が遺族らにお悔
やみの言葉を述べた。
 秋野さんの葬儀は二十六日午後、自宅で親類やごく親しい友人らによる密葬で行われ
る。

柳井外務次官「調査十分だったが、犠牲出したことは遺憾」

 外務省の柳井俊二事務次官は二十五日夜、札幌市中央区の秋野さん宅で弔問をすませた
後、同市内のホテルで「秋野さんが亡くなったことについては、無念の一語に尽きる。秋
野さんは国連の一員として貢献されてきたが、道半ばで凶弾に倒れた。さぞかし無念だっ
たろう」と語った。
 政府派遣の政務官が犠牲になった責任について「(安全についての)調査、分析は十分
にやってきたつもりだ。有為の日本人の命が奪われたことは遺憾に思っており、安全対策
に万全を期して行かなければならないと思う」と答えるにとどまった。

7/26北海道新聞社会面

秋野さんと悲しみの別れ 札幌の自宅で葬儀

中央アジア・タジキスタンで銃撃され死亡した国連監視団の秋野豊政務官(48)の遺体が
二十六日、だびに付され、札幌市中央区の自宅で遺族や親しい友人らだけによる葬儀が行
われた。
 秋野さんのひつぎは午前八時半すぎ、遺族らのすすり泣きの中、バスに乗せられ火葬場
へ向かった。だびに付された遺骨は午後一時前、妻の洋子さん(45)の両手に抱えられて自
宅に戻り、その後、密葬の形で葬儀が営まれた。
 弟の実さん(46)によると、当初、葬儀は近親者だけの予定だったが、急きょ駆け付けた
筑波大の学生らも参加することになったという。
 この日も、自宅車庫に設けられた記帳所には故人をしのぶ弔問客が午前中から次々に訪
れていた。
 葬儀とは別に秋野さんとの「お別れの会」が計画されており、札幌市では高校時代の友
人らが中心になって八月に、また東京では筑波大関係者を中心に九月にそれぞれ開かれる
予定になっている。

秋野豊さんの密葬がしめやかに

 国連監視団(UNMOT)政務官として赴任した中央アジア・タジキスタンで射殺され
た秋野豊さん(48)=小樽市出身、前筑波大学助教授=の密葬が二十六日、札幌市
中央区宮の森の自宅でしめやかに営まれ、妻洋子さん(45)ら遺族が最後の別れを告
げた。
 秋野さんの遺体は遺族や筑波大の教え子約七十人に見守られ、同市清田区里塚
の火葬場でだびに付された後、小さな骨箱に納められた。骨箱は洋子さんの両手に
しっかりと抱えられ、二女ひかるさん(16)が持つ遺影とともに午後一時前、自宅に戻
った。
 参列者によると、洋子さんは「豊さんは、私のすべてでした。いま、秋野は自分のす
ぐそばに感じ安らかな気持ちです」とあいさつ。長女さやかさん(21)も「父が生前『紛
争は憎しみから始まる』と言っていたのを少し理解できたような気がします。父の遺
志を継ぐことは何かを考えていきたい」と語った。
 自宅車庫内に設けられた記帳所には、同日までに約百五十人が弔問に訪れた。
葬儀とは別に、秋野さんとのお別れ会が母校の小樽潮陵高の同窓生らによって八
月に札幌で、筑波大や外務省関係者らによって九月に東京で、それぞれ執り行われ
る予定。

7/27北海道新聞社会面

小渕外相が秋野豊さん宅弔問 札幌

 小渕恵三外相(自民党新総裁)は二十七日午前、中央アジア・タジキスタンで銃撃
され死亡した札幌市中央区宮の森の秋野豊政務官(48)=小樽市出身、前筑波大教
授=の自宅を弔問した。
 小渕外相は同日早朝、マニラから羽田空港経由で新千歳空港に降り立ち、午前九
時二十分すぎ、秋野さんの自宅に到着した。秋野さんの早稲田大の先輩にあたり、
中央アジア歴訪で同行するなど個人的にも親しい間柄だった同外相は、自宅で秋野
さんの遺影と対面。手を合わせお悔やみを述べ、二十分間ほど妻洋子さん(45)ら家
族と秋野さんをしのんだ。
弔問後、同外相は報道陣に「秋野さんは理論だけではなく、地域に足を運び、実践
するまれに見るタイプの学者だった。タジキスタンの和平が戻り、より安定していくた
めに自ら活躍していたが、お亡くなりになり、日本外交にとって大きな損失だ。言葉に
ならない無念さを感じる」と述べた。

[北海道新聞 1998年8月1日]

秋野豊さんの遺品から写真発見 未現像のフィルム3本(北海道新聞)

 中央アジア・タジキスタンに国連タジキスタン監視団(UNMOT)の政務官として派
遣され、不慮の死を遂げた秋野豊・前筑波大助教授(48)=小樽市出身=の遺品から、現地
での活躍ぶりをしのばせる本人の写真が、三十一日までに発見された。

 秋野さんの遺品は段ボール箱二つ分あり、遺体の入った棺と同時に二十五日、札幌市中
央区宮の森の自宅に戻されていた。遺族が密葬が終わった後、整理したところ、未現像の
フィルム三本が出てきた。

 写真の撮影場所は不明だが、反政府勢力の武器と思われるものが写っていたほか、現地
の住民や国連監視団の仲間などと記念撮影した写真数点もあった。


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