1999 May. 前期 (Arcana 18)

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過去のお言葉

May 1st(Sat.)

昨夜の読書、「グリーンマイル1」(S.キング)。 どこかで読んだことがあるなあ、と思ったら、 飛行機の中で読む本がなくなってしまって、 しょうがなく中継の空港の売店で一番薄かったので、 これなら読めるかもしれないと思って買ったペーパーバックがこれだった。 あのときはこの「1」だけを読んで、そのまま忘れてしまっていた。 英文読解力の問題で、 すぐ次が読みたくなるほど内容が分かっていなかったのだろう。 それはそれとして、 ディケンズが始めたという薄い分冊に分けるアイデアはなかなかだと思うが、 それにしても150ページもない薄さで、 一冊450円というのは高過ぎるのではないだろうか。

不思議と死刑囚の話に魅きつけられるのは、 そこまで濃密に死と向かいあうという体験が他になかなかないからだろうか。 何せ、将来の何月何日の何時何分何秒に自分が死ぬことが確定しているのだから。 難病にかかろうが、戦争に行こうが、 ここまで正確に自分の死が予定されている状況は他にはない。 死刑の話と言えばスタンリイ・エレンの短編に、 ものすごーく後味の悪い作品があったのだが、 内容も題名も思い出せない。 (スタンリイ・エレンの短編は大抵どれも凄く後味が悪いのだが。)

May 2nd(Sun.) - 3rd(Mon.)

二日(日曜)。午後から北山の植物園の傍にあるバーでの チェロのソロ・コンサートに行く。 曲はバッハの無伴奏組曲の一番と三番。 コンサートホールでなく、 こんな普通の場所で真近にチェロを聞くというのもいいものですね。 夕方、四条に戻って、あちこちの本屋を周りながら、 河原町の丸善へ。 もと切り裂き系、試験管系経由、現営業接待系(?)の R 君と丸善で待ち合わせて飲みに行く。 非常に多忙な毎日を送っているらしく、 本を読む暇もないとと言いつつも、 最近は国産 SF を集中的に読んでいるようで、 色々と教えてもらった。その他、製薬会社の裏事情など。12時頃帰宅。

三日(月曜)。 連休もあと三日となったが、あいかわらず、 チェロを弾いたり、本を読んだり、数学を考えたりの幸福な日々。

連休中の読書。「グリーンマイル 1〜6」(S.キング)。
連休が始まっていから一日一巻読み、現在「4」まで読了。 僕の読書のスピードからして、一日一巻(150ページくらいの薄さ) は物足りないのだが、 毎月一冊刊行のキングの方針を尊重して、 毎日近所の本屋に続刊を買いに行くようにしている。
連休中の音楽。「フーガの技法」(バッハ、ジュリアードSQ)。
僕は同じ CD を一、二週間くらい聞き続ける習慣がある。 気に入れば一週間とか二週間くらい毎日同じものを食べるのも平気なので、 一般性のある精神的傾向(性癖と言うべきか?)かもしれない。

May 4th(Tues.) 5th(Wed.)

四日(火曜)。京都は雨。ちょっと至急に届けたい郵便物があったので、 祝日でも窓口が開いている京都駅横の郵便局まで行く。 ついでに本屋で、「名人と蠍」(P.セリー)などを買って帰る。 家でサンドウィッチを食べながら読書とか。

五日(水曜)。今日で連休もおわり。 ずっと休みだといいのに、どうして仕事しないといけないのだろう。 今日は近所で髪を切った以外は、ずっと家にいた。

「名人と蠍」は非常におもしろかった。 幼くしてチェス界のモーツァルトと呼ばれたチェスの名人の、 ナチスの強制収容所時代の囚人としての地獄の日々と、 収容所で精神を病んで、 老後スイスに隠棲して通信チェスで最強の敵と闘う生活の、 二つの時代を交互に描く。 特に収容所での囚人達を駒にした人間チェスのシーンが圧巻。 盤上から取り除かれると即座にその場で死刑されるのである。

最近、気になる問題。
1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + ... の無限級数を調和級数と言うが、 これは無限大に発散することが知られている。 高校の教科書にも載っている簡単な事実である。 この和は全部足し算だが、一回ごとにコインを投げることにして、 表なら足し、裏なら引くことにする。 例えば、1 + 1/2 - 1/3 - 1/4 + 1/5 - ... といった感じになる。 こうすると、実際確率 1 でこの和がある値に収束することがすぐ分かる。 実は裏表が出る確率が半々である必要もなく、 裏が出る確率がちょっとでもあれば収束する。 そこで、問題なのだが、収束するのはいいが、 ではどういう値に収束するのか? 一番いいのは確率分布を決定してしまうことだが、 それは無理としても、何か分かることはないだろうか? 収束するという事実以上のことは聞いたことがないのだが、 もうわかっていることなのだろうか… あまり真面目に考えてはいないが、分布は連続で、 この収束の値は任意の値を取れるような気がする。 それより詳しい予想は、そもそも思いつかない。

May 6th(Thurs.)

午後から大学へ行き、連休中に机の上にたまった雑務を片付け、 確率論のゼミをする。 その後、昨日書いた問題などを考えていた。 ゼータ関数のアイデアを用いて、 1/n の和の代わりに、1/2, 1/3, 1/4, ...それぞれの等比級数の 和を考えて、その積だと思うのが筋が良さそうな気がして、 オイラー流に色々こねくりまわしてみたり、 また方針を変えて、真面目に特性関数でテイルの評価をしてみたり、 あれこれやってみていたら夜になっていた。

夜になって家に帰り、夕食を作って食べる。 ピーマンと玉葱の焼ビーフンに、 豚のリブを辛味噌で煮て付けあわせてみた。 最近、なぜかビーフンとサンドウィッチにこってしまって、 昼はサンドウィッチ、夜はビーフンという日が続いている。 おかげで三日ほど米を炊いていない。

May 7th(Fri.)

午後から大学院進学の面接試験をし、 その後「確率・統計」の講義。 今日は離散の場合の色々な分布、二項分布、幾何分布、超幾何分布、 ポワソン分布などの意味と性質など。 連続分布に入る時間はなかったので、イントロに ガウス積分とコーシー積分の計算だけを見せて次回に続く。 講義の後は学系会議。その後、また小さな打ち合わせ。

例の問題は白井君によって若干進展。 少なくとも二次モーメントが存在し、したがって平均も存在する。 さらに n 次モーメントも存在するらしい (ゼータ関数で上から評価されるらしいので)。 次はやっぱり絶対連続性かなあ。 ゼータ関数のような綺麗な数論的対象と深く結びついていることは、 確かだと思う。遊びで考え始めたわりに、難しい問題かも。

最近、「確率・統計」の講義を持っているせいで、 初等的な確率論や統計の本を見るのだが、 確率論というのは非常に面白い分野だと再確認する。 そもそも確率論に入ったのも成行きだったので、 特に確率論に対する思い入れはなかったのだが、 今になってやっぱりとても不思議で魅力的な世界だなあと思う。 確率論は純粋数学である一方、なんとも奇妙に現実世界と結びついていて、 それが不思議な魅力を作っている。 例えば、 一年間に起こる交通事故の回数などがポワソン分布に綺麗に従っているのを 見ると、なんだか魔法のような気がする。 例えば、琵琶湖に何匹魚がいるかをどうやって調べるか? 一回漁をして魚を出来るだけたくさん捕まえ、 それに目印をつけて湖に放す。 そして充分時間がたってから、再び漁をして、 一回目に目印をつけた魚がどれくらい捕まったかを数えれば、 それは超幾何分布に従うので、 湖の全体で魚が何匹いるか恐るべき正確さで推定できるのである。 これも嘘みたいに不思議な話だ。 確率論は数学の中でも独特の地位をしめているのではないかなあ、 と思う次第である。

May 8th(Sat.)- 9th(Sun.)

八日(土曜)。午前は膳所でチェロのレッスン。 ふとした話から、鈴木秀美氏が先生の師匠であることを聞き、 とすればビルスマの孫弟子となるわけで、 ガット弦好き、古楽器好きのキャラクターはそのあたりに起源があったか、 と思った。
九日(日曜)。色々と家事をして、午後は三条の Cafe Riddle に珈琲を飲みに行く。 書類書きをしたり、 白井君から教わった数学の問題(出典:T 工大数学コンテスト)を考えたり。

将棋と碁が日本では支配的ですが、僕はチェスが好きですね。 それで、暇な時に棋譜を並べたりするのだが、 時代に先んじて一人だけ新しい発想に至っちゃった人が、 ぼろ勝ちしてしまっているケースがある。 多分、碁や将棋でもそういうことがあると思う。 チェスは20世紀に入るまでキングハントが主流だったのだが、 現在ではポジショナルプレイと呼ばれる考え方が主流になっている。 まあ大体、王様を詰めるということは二の次にして、 弱い地点(チェスの場合持ち駒がないので、 「永遠に弱い地点」が出来うる)や、ビショップのパリティや、 ポーンの状態など、配置から来る有利さを積み重ね、 その無形の利益を駒の交換によって、「勝ちの終盤」と言う 有形の利益に変換する、という戦略である。 ここでも「勝ちの終盤」とは王様を詰められるというより、 先にポーンを最後の段まで進めクイーンを作れるという意味である。 で、18世紀にフィリドールというプレイヤーがいたのだが、 今その棋譜を見るとその時代に一人だけ 「ポジショナルプレイ」をやっているのである。 その100年後、19世紀にシュタイニッツというプレイヤーが現れ、 この人も同時代で一人だけ「ポジショナルプレイ」をやっている。 同じ時代の他の人々は、この二人の前に、 首を傾げながら、なすすべもなくずるずると負け続けたが、 この概念に気付くことはなかった。 問題は、今から思えば素人にも自明にも思えるくらいのアイデアなのに、 「そのプレイを目の当たりにしながら、 何故他の人はそれに気付かず負け続けたのか?」 ということである。 どう考えてもよくわからない。 いずれその時代が来なければ、 万人に理解されないアイデアというものが存在するのだろうか。

May 10th(Mon.)

雑務があって午前中から大学へ。 早起きで頭がぼうっとするまま、午後も雑務をこなし、 夕方帰宅。夕食までしばらく昼寝をした。

最近、妙に眠い。寝付きも悪く、寝起きも悪い。 気候のせいか、体調のせいか…

昨日のチェスの話について、某 A 社の S さんから、 「ポジショナルプレイ」という言葉を知っていたら 彼等も気付いたかもしれない、という御意見をいただいた。 ある概念に名前をつけるということと、 その概念について理解するということが、 同じことであることがままあるので、 そういうことかも知れない。 名前をつけることで、その概念が始めて概念として成立した、 とも言える。


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