1998 Sep. 中期 (Arcana 18)

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過去のお言葉


Sep. 14th(Mon.)

午後から京大数理研での Lai-Sang Young の特別セミナーに出席。 カオス、エルゴード理論方面の話なのであまり(というか全然)分からないのだが、 一応T師匠が主催したセミナーなので、 人が全然集まらないなどいう事態になっていてはいけないとの、 「親を思う子ごころ」で、顔だけ出しにいく。 心配は杞憂だったらしく結構な人が集まっていたので、 忙がしいこともあり講演だけ聞いてさっさと帰ってきた。 多分(自信はないが)、一様準楕円性が成り立たないような場合に、 混合性(mixing property)の漸近の速さの評価を、 かなり一般的な設定で出すというような話だったと思う。
Lai-Sang Young は UC バークレーの数学者で、 確か Young は「柳(ヤン)さん」だったと思う。 Lai-Sang は「美しい」という意味の字と日本で言う所の笙、 笛の意味の字の組み合わせだそうで、 名前からはどんな美人かと思うが、実際は迫力のあるおばさんである。

それでちょっと思い出したが(と言うとヤンさんに失礼だが)、 昔、女性の数学者がほとんどいなかった時代に、 エンミ=ネーターという女性数学者がいた。 ある時、「女性にろくな数学者がいない」という意見に対して、 「ネーターがいるじゃないか」と誰かが反論したところ、 「ネーターが偉大な数学者であることを認めるにやぶさかではないが、 女性であるかどうかは疑問だ」 と即座に切り返されたと言う。 ネーターはあまり魅力的な外見ではなかったらしい。 その時代とは違い、今では女性の優れた数学者がたくさんいる。

某所での対談。バルベス警部と間違えた訳ではなく、 本当にモガール警視を意図して挙げたのだが、 理解されなかったらしい、、、

Sep. 15th(Tues.)

休日。午前中はチェロを弾いて、午後は翻訳など。 夕方から資料を買いに三条へ。Bass の "Diffusion and Elliptic Operator". 十字屋で CD などを見てから、Cafe Riddle で休んで帰る。

十字屋で、楽器と人間の性格の関係を書いたエッセイを立読み。 その性格だからその楽器を選ぶのか、 その楽器の音を聞いたり演奏したりしている内にそういう性格になるのか、 やはり楽器と性格の間には強い相関がある(だろう)、というお話。
例えば、フルートは貴族的な雰囲気があり、音色が柔らかで、 また失敗してもそれほど大変なことにならない(らしい)こと、 などから人あたりのいい、 冷静で客観的な学者肌の性格になるという。 また息の出る方向に障害がなく常に息が自然に出てはいくが、 逆に息がすぐに不足するという点、また両手の自然なかまえ方から 非常にテクニカルな演奏が可能になる点などから、 開放的で口の達者な、頭の回転の速い性質を持つが、 逆に忍耐強さや長期的展望などに欠けるという。 オーケストラの中では、 常にスコアの最上段でメロディを演奏することが多いので、 周囲からの奉仕に慣れ、ますます貴族的なエリート感覚を増すという。
本当かなあ、、、白井君にでも今度聞いてみよう。

またチェロは、感情に訴えかけるような甘い高音と、 あたたかでまろやかな中音、グロテスクすれすれのしわがれた苦い低音を、 一つの楽器の中に持っていることから、 強く感情にアピールして人の心を揺り動かす表現性と、 あたたかい人あたりの良さと、 一方ではどこか底知れぬデーモニッシュな面を合わせ持つ、 複雑な性格になるという。 チェロ自体は非常に高い機能を持ちながら、 合奏上は結局、主旋律を弾く高音楽器のバスパートであり、 多彩な機能と幅広い音域を持つが故に逆説的に、 他の弦楽器達の間を取り持つという地味な役割に埋もれることが多い。 そういった器用貧乏からくる欲求不満と屈折の果てに諦めのせいで、 頼まれると嫌と言えない奉仕的性格や、 所詮脇役だから、といった人まかせの性格になるという。
本当かなあ、、、さらに、 チェロの演奏はエンドピンを床に突き差すところから始まるので、 サディスティックな傾向を導く、ともあったが、、、

あなたはどんな楽器が好きですか?

Sep. 16th(Wed.)

午前中はチェロを弾いて、午後は遅れまくっている翻訳三昧。

昨日の続きというわけではないが、 パーカッション系の楽器が好きな人というのはちょっとマズイ 性格なのではないか、という偏見が僕にはある。 というのも、僕の妹の青春時代に原因があるような気がする。

妹は子供のころはエレクトーンやら、中学あたりではサクスフォンやら をやっていたような気がするのだが、何故か高校に入ったあたりから、 ドラムに凝ってしまった。 家の中でドラムセットで練習するわけにもいかないので、 実際の練習は学校とレッスン先でやっていたのだろうが、 家ではスティックを持ってあちこち構わず叩きまくるのである。 机だろうが、テーブルだろうが、茶碗だろうが、テレビだろうが、 何でも叩く。無言で叩きつづけるのである。 言うまでもないが、メロディなどなく、なにかしらリズムを刻むのである。 若い女の子が黙りこんで、机の端などを
「たたたたたたたたん、たかたんたららんたらったたららん、 たたたた、たたたた、たらった、たたたん」
などと一時間でも二時間でもやっている姿は、 ある意味迫力があるというか、かなり恐かった。 大学オケの連中が壁に向かっていつまでもロングトーンをやっている姿も 恐かったと言えば恐かったが、 それとはまた別の「ヤバさ」を打楽器系に感じるのはなぜだろうか。

Sep. 17th(Thurs.)

朝八時に起床。BKCへ。今日は修士の中間発表会のため。 人数が多いためいくつかのグループに別れてするのだが、 僕の所属したグループは人数が少なかったため、 午前中で終了。
午後は会議など。

ちょっと思ったこと。
数学をやる人は皆、数学的概念に実在性を感じていると言う意味で、 プラトン主義だと思う。 もうちょっと分かりやすく言うと、 数学者は定理を「発見する」のであって、作るとはあまり言わない。 つまり数学的真実は先験的に既にどこかにあると思っているのであって、 それは調和的、真実的、真正なる真理は、 それが真理であるが故にイデアとして既に存在するのである。 エルデシュという数学者が言ったのだが、 神様は "The Book" という名前の本を持っており、 その本には全ての数学的定理と共に、その最善の最も本質を表した (その故に最も美しい)証明が載っているのだと言う。

で、僕の思ったことと言うのは、 そういうプラトン主義の数学者にも、 「強いプラトン主義者」と「弱いプラトン主義者」の二派があると思うのである。 上のエルデシュのように、強い意味のプラトン主義者は、 上に述べたようなことを強く感じ、信じてもいる。 一方で弱い意味のプラトン主義者は、上のようなイデアを 研究上の重要な指針であることは認めるが、 どこかでその予定調和に疑いを持っているのである。

もちろん、この二派のどちらが優れた数学者かと言うと、 「強いプラトン主義者」の方なのである。 何にせよ、ためらいのない人間の方が強い。 美に対する感受性よりも、その美に対する信念の度合の方が、 はっきりと重要なのだと思う。

Sep. 18th(Fri.) - 21th(Mon.)

最後の方で「塗仏の宴」の感想を書きます。 具体的内容をばらすようなことはありませんが、 未読の方で予断を持ちたくない方はお気をつけ下さい。

18日(金曜)、学系会議終了後、新幹線で東京へ。 渋谷の「黒い月」で友人と朝まで飲む。
今日は僕の三十歳の誕生日で、 お祝いの言葉を下さった方にはこの場で御礼申しあげます。 三十というのは十進法で切りがいい数字のせいか、 特別な感慨はあるか、と何人かに聞かれたが僕はあまりない。 強いて言えば、僕は昔、三十くらいまでは 多分食えないだろうと思っていたこともあって、 今までかなりいい加減に仕事をしてきたが、 この年になるとちょっと真面目に仕事しよう、 と思ったり。

19日(土曜)。二日酔いで下北沢の自宅でごろごろしながら、 読書していた。
20日(日曜)。夜、下北沢の「魚真」で白井君の就職記念の宴会。 参加者は○菱○託系研究所のSさん、昭○大学のHさん、 と白井君、僕の四人だったのだが、 途中で店の前を通りかかった関東一キュートなY嬢が飛び入りで参加。 Sさんの自称サラリーマン乗りを誘発したり。 さらに近くのバーで二次会を少し続けて解散。
白井君には今最も期待されている確率論研究者として、 さらなる活躍を期待します。兎に角、おめでとう。

21日(月曜)。新幹線で京都に移動。
今回の東京往復の新幹線車中で、京極夏彦「塗仏の宴」の 前編「宴の仕度」、後編「宴の始末」を読了。 退屈せず車中を過せたと言う意味で暇つぶし小説 (というと語弊があるから、エンタテイメントと言うべきかな) としては非常に面白かったと思うのだが、 もう既にミステリとしての面をまるで失なっており、 そういう一面も期待して読んでいる僕には、 なんというか不快感のようなものが残った。 ここには問題と解答が確かにあるが、 途中の式がない。 しかも主人公は「答は最初から知ってました」ということらしいし、 話自体は「ゲームマスターが全部お膳立てしました。 色々怪しいことがありましたがそれはゲームマスターの趣味です」 ということでは、 狭量かもしれないが僕には納得できない。 もしこれをミステリとして読むなら、 最後のオチ、怪しの登場人物達が一つの○○だった、 で驚かなくてはいけないのだろうが、そう言われても急に話がちんまりして、 「そうですか、、、」という程度の感想しか持てなかった。 そういった巨大な怪しの宴に見えたものが、 こじんまりした陳腐さに収束するところが「塗仏」の本質なのだ、 それを承知のプロットだ、と言うことなのだろうが、やはり納得できない。 そういうネガティブな感想を持つのも、 今一つ小説としての骨子も目新しくなかったからかもしれない。 なんとなく今までの作品に比較して背景が陳腐な気もした。 大長編であるせいか書きっぱなしや破綻も目立つ。 家族の再生なんて言われて鼻白むところもあったかも知れない。 というわけで僕自身はこの作品はあまり評価しない。
ただし、キャラクタ小説としては出色の出来なので、 今までこのシリーズを続けて読んできて、 大好きな登場人物がいる人にはこたえられない面白さ、 と思う。 超人的な物凄い腕力であることはもう間違いないし。 その辺りを受けたポジティブな意見としては、 この方のもの などが正論と思う。


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