四月の印象(サンドウィッチ)

イギリスに渡って一ヶ月半が過ぎた。 何の準備もなくやってきて、どうなることかと思ったが、 まあ何とか無事に暮らしております。 相変わらず言葉がよくわからないが、 かのマーク・カッツですら、初めてアメリカにやってきたときには、 食堂で注文することすら出来ず、 毎日ドラッグストアでチーズサンドウィッチを買って食べていたのである。 (see, "Enigmas of Chance" by M.Kac).

この一ヶ月あまりの間に色々あったのだが、 そういう面白い話は私が帰国した折に、 美味しい日本料理でも食べながら個人的に披露することにして、 あたりさわりのない話など。

イギリスといえば有名なのは、 その食べ物のまずさであろう。 私も随分期待していたのだが、 残念ながら(少なくとも私の味覚では) それほどまずくはないと思う。 もちろん、他のヨーロッパの国でも見られるように、 「スナック菓子とリンゴとパンのかけら」が昼ご飯といった、 日本人には到底理解しがたい食に対する無関心さに 心打たれることはあるが、 特にイギリスでは昼食を軽く済ませる傾向があり、 まあそう気にするほどのことでもない。 どこに行っても、必ずテーブルの上においてある モルトビネガーも相当の代物だと最初は思ったが、 最近では
「ひょっとすると積極的にまずいとまで言いきれないのではないか」
とまで思えるようになってきた。 実際、チップス(フライドポテトのこと。 いわゆるポテトチップスのことはクリスプスと言う) にかけて食べるとなかなか旨い。 コツは、ビネガーびたしになるくらい大量にかけることだと思う。 何事も度を過ぎると質的変化を起こすものである。 パブで食べるものは結構美味しい。特にビール。 また何度か家庭でご馳走になったが、家庭料理は本当に美味しかった。

そういうわけで、全般にイギリスの食べ物はそうまずくはない。 しかし、私の期待をある意味で裏切らなかった食経験が一つあった。 イギリスに到着してまだ二日目のことである。 30時間に及ぶ長旅のあちこち、 主に機内でくすねてきた食料を食べ尽くしたので、 何か食べるものを調達しなければならない。 まだ本格的にまずい物にチャレンジする勇気がなかった私は、 カッツに習って売店でサンドウィッチを買うことにした。 そこで私の目を引いたのが、 「クリスピーなベーコンとアボガドのサンドウィッチ」である。 これは美味しそうだ。 そんな組み合わせのサンドウィッチは食べたことがないが、 私の頭の中では明確にそのハーモニーが予想できた。 2プラス2は4であるのと同じくらいの確信を持って、 私はそのサンドウィッチを買った。 私は二口ほど食べて、しばし言葉を失った。 私が生涯で食べたサンドウィッチの中で、最悪の代物であった。 悪夢と言ってもいいくらいにまずかった。 確かにサンドウィッチ自体ご馳走ではないが、 普通はそうまずいものではない。 何せ、パンの間に何かはさんであるだけなのである。 いったいどうすればここまでまずくなるのであろうか。 私の予想が間違っていたのだろうか。 念のために言っておくと、腐っていたわけではない。

私は数日後、 学内の格安スーパーその名も「コストカッター」 でパンとベーコンとアボガドとマヨネーズを買って、 家でサンドウィッチを作ってみた。 結果は私が明確に想像した通りの平凡な美味であった。 村上春樹に聞くまでもなく、髭剃りに哲学があるように、 サンドウィッチにはサンドウィッチの哲学がある。 バターでパンを保護して水分で濡らさないことや、 冷たいものと熱いものを分けることや、良く切れる包丁でパンを切ることなど、 それぞれは些細なことでも、そのベクトルの合計が問われているのである。 普通は滅多なことでは(正にも負にも)大きな値は出ないのだが、 とんでもない足し算が実現することもありうるのだろう。 ブラウン神父の言葉を借りれば、 「2と2を足して400万」(see, "The Queer Feet" by G.K.Chesterton) になることもあるイギリスの神秘である。 イギリスに到着数日にしてサンドウィッチまでまずい国として、 いったんは認識しかけたわけだが、 それから一ヶ月以上が過ぎ、徐々にその誤解は解け、 「驚くほどまずい物もあるが、全般にはそれほどではなく、 なかには美味しいものさえある」 とまで私の印象は改まっている今日この頃である。