五月の印象(天気と鉄道とシャンパン)

さて、イギリスの五月である。 この前、TK大の小室哲、、いやNさんにお会いしたときに、 イギリスに行く話をしていると「ボートの三人男」 ("Three Men in a Boat" by Jerome K. Jerome) という本を紹介してもらった。 こちらに来てから読もうとしたのだが、難解で途中で挫折してしまった。 そもそもユーモアを外国語で理解するのは難しいし、 それにこの本のように皮肉と婉曲表現で成立している笑いは特に難しい。 とはいえ、なかなか楽しい本であることはわかった。 イギリスという国やイギリスの人々のおかしさ、 奇妙さを主題にしていて、 天気と天気予報についてや 鉄道についての個所などは私でも笑えた。

私が暮らしている所はイギリスの中部にあたるが、 天気が非常に変わりやすい。五月の前半は特に激しかった。 日本の秋の空は女心と同じくらい変わりやすいというが、 ここの五月の気候に比べれば、木村重成の妻のような貞淑ぶりである。 実際ほぼ毎日、天気は雨のち曇りのち晴れのち雨のち曇りのち、、、 で、その移り変わりも五分単位である。 丸一日晴れとか丸一日雨とかいった日はない。 また信用できないのが天気予報である。まったく信用できない。 私はテレビを持っていないので毎日チェックしているわけではないが、 まったく予報としての用をなしていないと思う。 第一、毎日が「曇り時々晴れまたは雨、所により嵐」なのだから、 そう言っておけば八割以上の確率であたると思うのだが、 なぜか確信を持って「明日は晴天」「明日は強風を伴う雨」 などと断言するのである。もちろん、その予報は外れて、 正しい答は「曇り時々晴れまたは雨、所により嵐」である。 それでも予想をしてみたくなり、人の予想を聞いてみたくなるのが、 人間の性というものなのだろう。 場外馬券場の予想屋しかり、ファンドマネージャーしかり。 とはいえ、 五月の終わりに近づくにつれ安定度は増してきて、 最近では天気の良い日と悪い日の区別がついてきた。 また太陽さえ出ていれば爽やかで非常に快適である。

また信用できないものと言えば、鉄道である。 日本にいる時に聞いた噂によれば、時間通りに滅多に来ないし、 その駅発の列車でも時間通りに発車しないということであったが、 そう極端でないにしろあながち嘘ではないらしい。 大きな駅のプラットホームや構内には飛行場のように、 電車の発車時刻がモニターなどで表示されているのだが、 ふと目をやると表示されている列車のほとんどが「遅れています」 だったりする。まあしばらく待っていれば来るのだろう。 京都の市バスみたいなものかもしれない。 一度、ノッティンガムでのシンポジウムに出かけたときのこと、 駅で表示を見ると私が乗る列車は"On Time"と出ていたが (そもそも「時間通りです」などという表示があること自体おかしい)、 実際には五分ほど遅れてやってきた。 数分くらいの遅れは遅れと見なされていないのかもしれない。

雑談はそれくらいにして、 大学での数学の日々について。 この研究所では非常に頻繁にシンポジウムや小さな研究会が行われている。 ほぼ毎週何かあるような気がする。 それからセミナーが週にいくつかある。 日本にいるときは自分が積極的に興味のある分野の話しか聞かないが、 英語の勉強になるかもしれないというのと物珍しさで出来る限り出席している。 おかげでここの数学的雰囲気がわかってきたような気がする。 多分特徴としてあげられるのは、 純粋数学と応用数学の両方に深く根が張られていることだと思う。 たまたまかもしれないが、 特に理論物理とシミュレーションの背景が目立つような気がする。 この2ヶ月あまりの間に大きなものだけで、 格子のエルゴード理論、数理物理と低次元幾何、 対称性と力学系、力学系の応用的問題、 マルコフチェーンとその応用、 動物の運動とその数学(!)、などなどがあった。 最後の動物の運動の数学って何だそりゃ、と思ったが、 動物の動きを対称性から群論で調べるとか、 神経系から力学系で調べるとか、 鳥の羽の動きと流体力学の話とかいった非常に楽しい研究会だった。 ちなみに主催者はここのスタッフのイアン・スチュワートであった。 これから夏に向けても研究会のシーズンで、 無限次元幾何や代数幾何のシンポジウムなどがある。 しかし、ここの研究所はそれほど規模は大きくない。 いや、小さいと言ってもいいくらいである。 ということは逆に言うと、 ごっそり抜けている分野がたくさんあるということである。 いくつかの限られたテーマの周辺の人しかいないのだが、 それでいて純粋理論と応用面のバランスが取れていて、 うまくリンクしているといった不思議な印象である。 意図的なのか偶然なのか知らないが、非常に戦略的な匂いがする。 例えば、場の理論の研究者が主催して流体力学の数値計算の人に話してもらう。 そのセミナーには確率偏微分方程式の人や、力学系の人が聞きにくる、 (ついでに一番後ろの席でスチュワートがSF小説の原稿を書いている)、 といった感じである。 的をはずしているようではずしていない。 ついでに言うと、他の大学から誰かに話しに来てもらうと、 つまりほぼ毎週のことなのだが、 大抵そのセミナーの後の夕方、コモンルームでワインと軽食がでる。 そのセミナーの規模によって、チーズだけの時もあれば、 軽食と言うにはかなり豪華な時もある。 それが目当てもあって、人の入りが良いのかもしれない。 単に通りがかっただけでワインを飲んでいる人もいるので、 かなりいい加減でいい感じである。 流石に私はそこまでずうずうしくないので、 ちゃんとセミナーに出てから飲んでいるが、 一度たまたま通りかかったら「めでたいから飲んでいけ」 と呼ばれてシャンパンをご馳走になった。 私のプアな英語力では正確にはわからなかったが、 何でも誰かがケンブリッジの凄く名誉な地位に列せられたそうである。 ダーウィンとかケインズなんかに連なるらしい。 よくわからないが、イギリスらしいことであるし、 数学者が偉くなったのならこんなめでたいことはないと思って、 私もシャンパンを乾杯したことであった。