『詩を読む詩をつかむ』の批評

佐佐木幸綱(歌人)日経新聞4月25日朝刊・読書欄
難解な現代詩を読み解く楽しみ
 現代詩は難解だとされている。現代人は分かりやすさに馴れてしまったせいで、難解なものに挑戦する知的好奇心が衰弱したかのごとくである。そんな現状に対して刺激的な本が二冊出た。
 一冊目は谷内修三の『詩を読む詩をつかむ』。最近の現代詩34編を、明確な切り口で具体的に読み込んだ評論である。詩の読み方は一つではない。この詩はこう読めるか。随所で新しい読みに出あうことができる。
 現代詩が難解である上に、現代詩を論じる評論もしばしば難解で、結局どうなのかわからないものが多いなかで、本書は果敢に明快に自身の読みを押し出している。たとえば、大岡信『火の遺言』、入沢康夫『漂ふ舟』に対しては否定的見解を、荒川洋治『坑夫トッチルは電気をつけた』に対しては積極的な賛意を、実践的な読みを通して率直に書き込んでいる。現在進行形の現代詩が対象である分、スリリングかつエキサイティングである。(後略)
今村仁司(東京経済大教授)信濃毎日新聞4月11日朝刊・読書欄
「キイワード」通し原点説く
 誰でも自分の流儀で詩を読み、楽しむ。詩を読むことでなんらかの感動を得ればそれで十分であるが、さらにもっと深く味わうことができれば感動は深まるのではないか。そのとき詩を読む作法ないし指針を教えてくれるのが詩論であろう。本書は詩の味わいかたを読者に伝授してくれるのだが、けっしてかた苦しいものではない。詩や小説を理論的に論じる批評の理論があるが、カタカナだらけで面白くない。ところが本書は、詩を論じるというよりも親しい友人に語りかけるように、そして対象とする詩と等質な詩的精神を横溢(おういつ)させて語る。そこが実に楽しい。
 著者はひとつ重要な作法を提示している。絶対に読み落としてはいけない言葉がある。それを読み損ねると詩全体がまったく理解できなくなる。その種の言葉を著者は「キイワード」と呼ぶ。著者によればキイワードはけっして概念語ではなく、むしろ作者に身近すぎて読む方も気付かないほどである。当たり前であるがゆえにときには省略されることもある。だから読者は、作者以上に作者の心のなかにわけいり、かすかなキイワードを自分で取りだしたり再構成したりしなくてはならない。キイワードはけっして他の言葉に言い換えることができない独立語である。多くのことばがあり、それらは不可欠であるとしても、他の言葉に翻訳できるなら、詩のキイワードではない。キイワードは言い換え可能な言葉を通して、そしてそれらの言葉が沈黙するところにくっきりと姿を現す。極端にいえば、ただひとつの翻訳不可能な言葉があればそれが詩そのものである。これを本書は、三十四人の詩人の作品について実証している。
 詩論の文章は相手にする詩と同じように詩的でなくてはならない。本書を読むと詩論が詩のように響いてくる。たしかに著者はときに詩人を叱(しか)る文章もかいているのだが、それは詩人が自己を見失い、流行語に引きずられて、自己自身のキイワードを忘れるからだ。こうした消極的作法によって詩の読み方を教える。ときには著者が詩人になり、自分のキイワードをひそかにもらすこともある。そこがまた本書の読み所でもある。
 現在、詩や小説を輸入された批評言語や哲学用語で語るのが盛んであるが、このアカデミズムはどこかいかがわしい。こうした風潮にたいして詩論の原点、ひいては文学的精神の本道を本書はあざやかに指し示しており、それが読むものに爽快(そうかい)感を与える。
田野倉康一(詩人)「現代詩手帖」4月号
 多様な時空間軸の束としての歴史性を文字通り、体現する書物として谷内修三の評論集『詩を読む詩をつかむ』(思潮社)を忘れるわけにはゆかない。ここには34篇の書評が並べられており、いずれも対象となる詩集や詩人に対する既存のイメージや文脈にはとらわれることなく、詩句あるいは詩行の一つひとつから読み解かれている。そこにおのずから立ち上がるのは詩篇、詩集、そして詩人の個別性そのものであり、それらの束としての詩的現在、すなわち谷内氏のまわりに広がる豊穣で果てしない詩の領野であり、しかも谷内氏という名案内人の目をとおすことによってその地平は常に日常の目の高さまで降りてきているのである。
ことばが生活との往復運動をやめてしまうとき、「作品」は空想になる。それこそ「世間知らず」になってしまう。(「往復することば」)
なぜ荒川は「世間」にこだわるのか。「世間」こそが、ことばの現場だからだ。ことばがいきいきとした力を持った場だからだ。(「坑夫・荒川洋治」)
 氏の眼差しはとりわけ谷川俊太郎、荒川洋治、小長谷清実といった詩人について鋭い。
野沢啓(詩人)西日本新聞3月21日朝刊・読書欄
 《誰のこころにも、ことばでは伝えられない思いがある。そのあいまいな思い、自分にしかわからないような一杯の気持ち、「意味」になりきれない人の入り組んだ思い−それが「思想」だ。》と谷内修三は詩論集「詩を読む詩をつかむ」(思潮社)のなかで書いている。うまくことばとしてとらえきれないとしても、ことばに託して以外に思いを表出することができないのが文学行為であるとすれば、ひとはやはりことばを構築することの困難に立ち向かうことをつうじて自己を発見しなければならない。谷内はさらに 《文学は、その困難さだけが魅力のものなのだ。結論などないのが文学だ。そして「思想」は結論のなかにあるのではなく、ひとつひとつのことばの動きのなかにこそある》とも書いている。
 谷内はこうした理論で一貫して一冊の詩集を読み解いていく。そこにしばしば論理の硬直や過剰な思い入れが見え隠れするところがあるけれども、このように一冊の詩集をつうじて詩人の「思想」に内側から接近しようとする姿勢は好感がもてる。そのような読解をつうじてこそ、たとえば自死した永塚幸司の遺書に残された「妻の呼び声」というようなまれにみる静謐な詩のすばらしさの意味を言い当てることができたのである。
柴田基孝(詩人)読売新聞(西部)3月17日夕刊・文化面
 北九州市の谷内修三の評論集「詩を読む詩をつかむ」(思潮社)は、かつて「詩学」に毎月連載されたものをまとめたものである。1回ごとに1冊の詩集を論じて34冊に及んでいる。
 たとえば、谷川俊太郎の「世間知ラズ」の論評で、後半、谷内はある発見をする。それは「ことばを頼りに生活を整理し、生活を突き動かす----そうした要素は文学の大切な要素である」ということである。普通は生活が文学に反映する、いってみれば生活から文学へのルートが考えられており、一見、谷内の指摘は倒錯したように見えるが、そうではなくて、「自然が芸術を模倣する」という言葉に共通する回路があるのだ。  谷内は自分の感性にだけ頼って詩を読み、率直に自身の心の揺れを表現することで、詩をかみ砕くのである。単なる味読ではい。そこに谷内流の鋭利な読解法があるのだ。


写真は1999年2月17日、読売新聞(西部)夕刊/文化面。
松原新一(久留米大教授・文芸評論家)
 谷内修三の『詩を読む詩をつかむ』(思潮社)という評論集に大変感心した。この人について持っていた、才気の人という漠たる印象を修正させるだけの一種の気迫が有る。「死とはむきだしのことばである。誰にも頼らず、存在する力である」。その他、立ち止まって噛みしめてみるに足る大切な指摘が随所にある。