目的と手段

13.01.28
本日はちょっと前、外資社員様とメールで意見交換したことから思いついたことを少しばかり・・・

昔々、私が若いとき読んだスペースオペラというかファンタジーというか、そんな小説のクライマックス場面である。

主人公と悪役がそれぞれ大きなトカゲに乗ってサーベルで戦っています。勝負はなかなかつきません。
そのとき脇から現れた同志が「なんでこれを使わない」と光線銃で敵方を撃ちます。
敵は一瞬で蒸発。

これを読んであなたはどう思います。
ルール違反だ。情緒がない。オヤクソクを守らないやっちゃとか・・・
さあ、どうなんでしょう?

日本刀なんてものをご存じでしょうか?
剣道をされている方は居合などで本物を持ったことがあるかもしれませんが、一般の方はテレビや映画で見た程度でございましょう。
私のオヤジは終戦になったとき軍隊で使っていた軍刀を持ち帰り、長年自宅に保管していました。やがて1960年代になると、さすがに内緒で持っているのはまずいだろうと、捨てることにしました。もし見つかると銃刀法違反ですからね。どこにでもある普通の軍刀は美術品扱いにならないそうです。
その頃は、戦争に行ってた人たちで軍刀とか手りゅう弾などの兵器を持ち帰り、記念にしている人は大勢いました。中学校の同級生のオヤジは、なんとピストルを隠し持っていました。その同級生が我が家にはピストルがあるぞと自慢したので、我々悪童どもが見学に行ったことがあります。確かに実物がありました。ただその時でもかなり錆びていて動作したかどうかはわかりません。そのピストルはその後どうなったのでしょうか? いずれにしても、もう50年も前のことですから時効です。

さて、その軍刀を捨ててしまうというのでもはや傷がついてもよいだろうと、私は近くの竹藪に持って行って、テレビの時代劇のように切れるかどうか試してみることにしました。オヤジは手前まで振り下ろすと足を切るから注意しろと言いましたが、後は好きにしろという塩梅で・・
さて実際に竹を切ろうとすると切るどころか竹に刃が立ちません。ナタのように刃が食い込まずに、弾き返されてしまい薄く竹の表面をそぐだけに終わりました。角度を変えて、なんどやってもだめでした。私に剣道の心得がないからでしょうか?
私が遊んだ後、オヤジはそれを近くの自動車修理屋に持っていき、細かく溶断して鉄屑入れに放り込んでおしまい。
溶断とはガス溶接機の高温で鉄を溶かして切断することです。
オヤジはそういうことは得意だったのです。

50を過ぎた頃、日本刀を蒐集している方に会ったとき、中学生の頃竹を切ろうとしたことを話したことがあります。その方は美術品登録している高価な刀で竹を切ったことがあるそうです。刀を叩きつけるのではなく引くようにすれば簡単に切れるのだといいます。本当かどうかわかりません。それだけでは終わらず、その人は私に刀を買えといいます。脇差なら50万とか100万も出せばまあまあのものがあるといいます。脇差を持つと何が良いのかわからない私は、そのお誘いを必死に断りました。

いずれにしても刀で竹を切るというのは、素人には難しいというより、まずできないようです。テレビで暴れん坊将軍がバッタバッタと、バッタバッタとか、かえるかえるのように悪者を切るのは達人だからできるのでしょう。
ところが達人であっても、日本刀では何人もの人を切るわけにはいかないそうです。日本刀で実際に何人か切ると、刃は欠け、血のりで切れなくなる、下手をすると目釘はガタガタになると聞きます。本当に日本刀で人を殺すには、切るのではなく刺すらしいです。

さて世の中には日本刀はスバラシイ武器だと語る人がいます。朝日新聞は「百人切り」なんて報道して、それは間違いない事実だと言い張っています。朝日新聞社にはものすごい日本刀があるのかもしれません。
百人切りはほら話としても、日本刀とはそんなにすばらしい武器なんでしょうか?
ところで、スバラシイ武器とはなんでしょう?
とりあえず人を殺すことについて倫理観なしで考えましょう。 苦情を言わないこと。
武器であるなら、丈夫で長持ち、安くて調達が容易、大量の人を殺せること、そういうとまずいなら無力化できることでしょうか。
日本刀は丈夫でもなく長持ちもせず、安くはなく調達は容易ではなく、大量の人を無力化することはできないようです。
中国の青龍刀とは正しくは柳葉刀(りゅうようとう)というそうです。これは日本刀と違い金槌で叩いて鍛えるのではありません。鋳物です。鋳物というのは鉄を溶かして鋳型に流し込み、固まったら鋳型から取り出して研磨して仕上がりになります。鋳物ならもろく折れやすいんじゃないかと思われるかもしれませんが、それは鋳鉄の場合であって、鋼の鋳物はそんなことありません。例えばピストンリングは鋳物です。
日本刀が砂鉄から作られたということは、鉄鉱石から鋼を作ることができず、金槌で鍛えたということは鋼鋳物(はがねいもの)が作れなかったからです。それをするには脱酸素、脱炭素や高温を得る技術がなかったのです。決して日本刀の製造方法が技術的に高度ではないのです。むしろ熱効率は低く、生産性も低く、無駄が多いということは、つまり日本刀は低開発国の技術で作られ、柳葉刀は先進技術で作られたというわけです。
そして柳葉刀は刃と持ち手が一体ですから丈夫で長持ち、鋳型で量産できる。武器として日本刀よりも優れているかどうか・・・そこまでは私は知りません。
ともかく日本刀がスバラシイ武器であるということはなさそうです。
実は日本でもいくさで日本刀は主力兵器ではなかったのです。いくさで刀での切りあいってのは、あまりありません。
武田信玄と上杉謙信が切りあったというのは事実か否かわかりませんが、あのような戦いは、本来予測されたものでなく、仮に現代の戦いに例えると両軍の司令官がばったり出会ってピストルを撃ち合ったような突発的な事態であったわけです。
ピストルを撃ち合っても、ピストルが主戦兵器であるわけがなく、刀で切りあっても刀は主戦兵器ではありません
古墳時代でも源平でも主力武器は弓です。そりゃ100メートルも離れているところから何百何千という矢を放つ方が、刀を振り回すよりも敵を無力化する効率が良いのは言わずもがな。
近接戦になれば刀の戦いかといえばそうではなく、長槍です。何百人という足軽が長槍を持って横にならんで槍衾(やりぶすま)を作り前進するというのが戦国映画でよくみかけます。刀を抜いて馬で駆け進んでも弓矢に当たればオシマイ、弓矢に当たらずに駆け抜けたとしても槍衾を作る足軽に切りつける前に串刺しというのが相場でしょう。
そして鉄砲が入ってくると、ますます刀で切りつけるなんてことは困難になりました。
ちなみに戦国の小説を読むと、鉄砲隊が弾がなくなったりすると、石つぶてを投げると書いてあります。100グラムから200グラムの小石なら練習すれば数十メートルは投げるでしょう。当たり所が悪ければ即死です。刀の出番はますます・・
ちなみに硬球の重さは約140グラム、軟球の重さは約140グラム、ソフトボールの重さは約190グラムである。
なお小学生でもソフトボールの選手は60メートルくらい投げるらしい。
なお、ローマ時代の映画を観ると、大石を投げつけるカタパルト(投石器)が今の大砲に当たるようです。武器の効率は手で石を投げるよりはるかに高いでしょう。日本は狭いから投石器がなかったのでしょうか?

少なくても武田信玄は織田信長が鉄砲を撃ってきても卑怯だとは言わなかっただろうし、言ったところで意味はなかったでしょうね。当然、武田騎馬隊は馬に乗っていない敵から「馬上から卑怯なり」と言われても気にしなかったでしょう。
新撰組 時代が下って、新撰組が街で志士を追いかけたり池田屋を襲ったときは刀を使ったのでしょうけど、戊辰戦争でも函館でも鉄砲で戦っています。命をかけて戦うなら、相手より優位に立てる武器、少なくても同等の武器を使うのが当たり前ですよね。戊辰戦争で新撰組が日本刀で戦ってもバカと言われるだけのことでしょう。だから大砲で戦ったわけです。
新選組の主力兵器は鉄砲で、大砲も持っていました。
わがふるさとではないけれど、遠くはない会津若松で官軍に対抗した白虎隊は鎧兜で刀を持って戦ったわけではありません。洋服(学生服そのもの)を着て鉄砲を持って戦いました。ちなみに新選組も途中から洋服だったはず。

乃木将軍が203高地を攻めたときロシア軍が機関銃を使ったから被害が大きかったとよく言われますが、実際は乃木軍も機関銃を使っています。これもまた当然です。鉄砲で1発ずつ撃つよりも、連射ができる方が敵を無力化することが容易です。もっとも大量の弾薬を補給することは容易ではなかったようです。それは武器の問題ではなく工業力の問題です。

延々とくだらないことを書いてきたのですが、なんとかISOにつなげなければなりません。大丈夫でしょうか?

実は日本刀の話はまだ続きます。
日本刀は(つば)はありますが、手の部分を保護するものがありません。井伊直弼が襲われたとき、戦いの後、降り積もった雪の上には切られた指がいくつも落ちていたと書いてあったのを読んだ記憶があります。指を切られたら刀を持てませんから戦場離脱しかないでしょう。その点サーベルは持つ手の部分をカバーしていますから相手の刃先が手元まで滑ってきても指を切られる恐れは少ないと思います。
鍔が無くてもよいのは音なしの十兵衛だけだったのではないでしょうか。
柳生十兵衛は「相手と刀を合わせることもなく斬り伏せる事ができる」と言ったことから、「音なし」と言われたそうです。
また幕末、最初は道場で習ったように両手で持っていたそうですが、瞬く間に片手で持って戦うようになったといいます。刀の類を両手で持つのは日本の刀だけのようで、それも実戦とは無縁の道場剣法だけで、戦国時代も幕末も実際にチャンチャンバラバラをするときは片手持ちが主流のようです。宮本武蔵も二刀流でなくても片手だったらしい。
ともかく江戸時代になっていくさがなくなり刀も使うことがなくなったから、刀は武士の魂になったと思います。それまでは実用本位、魂どころか消耗品であったことでしょう。
いろいろ考えると、日本刀とは戦うための武器ではなく、心意気を示すシンボルだったのではないでしょうか?
そうしますと、剣道のみならず剣術も、踊りや生け花やお茶と同じく、芸であり、命を懸けた戦い方ではなかったのではないかと思います。剣道がスポーツであるように、剣術もスポーツだったという説はいかがでしょうか?
おおっと、剣道をされてる方から異議がたくさん来そうですが・・・
私の同業者で剣道7段になった方がいます。その方に、暴漢が刃物を持って暴れていても取り押さえられますねとヨイショしたら、その方、そんなことはできないし、危ないから逃げますと語っていました。

話はそれにそれて、剣道って面白いですよね。高校のとき友達が剣道部に入りました。彼はぎっちょだったので左手を先にして竹刀を持ったら先生にダメだと言われました。どうしてなんでしょうか? ルール上は左ギッチョの禁止はないようですが、指導の場では禁じているようです。実際に敵が刀をギッチョに持ってきたら、「それはだめ、ちゃんともて」とでもいうのでしょうか? 野球では左ピッチャーが苦手な打者には左投手を出すというのはまっとうな作戦ですが? 卓球だってテニスだってフェンシングだって、以下略
さて、その友達はなんとかギッチョをなおしたものの、結局剣道部を止めてしまいました。
ところで剣道の段位ってなんなんでしょう? ランキングにしてはヨボヨボの7段、8段より、若手の4段のほうがどう見ても強そうです。武蔵だって老境に至っては若い者には勝てなかったでしょう。とすると段位は名誉か?
横綱はランキングか名誉か?というのも悩むところです。剣道でも相撲でも、一度でも強い時期があったら、以降永遠にその地位にあるということは異常なしくみではないのでしょうか?
もっとも横綱は勝てないと引退となりますが、剣道では勝てなくても段が下がることはないようです。
アマチュア囲碁の場合、最近は段位ではなく点数で手合いを決めることが一般的です。勝負に勝てば持ち点数が上がり、負ければ下がる。対局する二人の持ち点数の差で手合い割(何目置くか)を決めるという公平な仕組みです。その人の点数を聞けば強さは段位よりも詳細にわかります。そのせいか最近は段位にこだわらない人が増えているようです。段位免状があってもなくても、勝てればいいのですからね。
昔、田舎の囲碁クラブで何年もやっても強くなれない人がいました。当時は新聞に定期的に問題が載っていて1年間回答すると免状がもらえるなんてのがありまして、その人はなんとか二段免状をとりましたが・・・田舎の囲碁クラブでもその段位は通用しませんでした。ありゃ単なる金儲けの資格商法だったのでしょう。でもその方の段位がほしいという気持ちは痛いほどわかります。
テニスだってゴルフだって卓球だって、全世界のプレーヤーが毎回の試合によって世界ランキングが常に変わります。まさしく実力の世界ですね。
何事でも一度は強かった人が、歳をとってランクが下がることにはものすごい抵抗があるかもしれません。でも、勝負事で、ランクを高くして常に負けるのと、ランクを実力相当にして戦うのは、どっちが好ましいのでしょうか?
常に負けるのも面白くないでしょうけど、弱い人と対戦して常に勝つのも面白くありませんよ。

スポーツならルールを決めて、そのルールの中で競うという発想はおかしくないです。しかし命を懸けているようなことで、わざわざ枠をはめるという発想はどうなんでしょうか?
しかし世の中は面白いもので、ルールも制限もないのに、わざわざ自分たちがやりにくいルールを決めてその制約を守って仕事する人も多いようです。
そうです、やっとISOにたどり着きました。

ISO規格というのは書いてあることがすべて、だってキリスト教の世界ですからね。行間を読めとか空気を読めとかうちの嫁とは無縁です。
ところがところが、ISO規格に仕組みを作れと書いてあると、こういった仕組みでないとだめとか、こういった方法でないとダメという制約条件(付加価値?)をどんどんと付け加えてしまったんですねえ〜、困ったものです。
剣道と剣術が違うように、ISO道とISO術というのがあるのでしょうか?
「剣道」では敵が火縄銃でくれば「飛び道具卑怯なり」と言えばよいかもしれませんが、「剣術」ではいかにして相手を斃すかを考えなければなりません。「ISO道」では点数方式だとか文書だとか決められた項目をしっかりと押さえてポイントを稼ぐことに意味があります。しかし「ISO術」には規格に書いてあることをちゃんとしていることを説明することに価値があります。
だって、ISO認証に意味があるのではなく、企業の目的、つまり社会的責任を満たして利益を出すという観点において意味がなければなりません。

そんなことを思うと手段が目的化してしまうというのは剣術だけでなくISOも同じようです。
今日本のISOというものを考えると、審査員も企業の担当者も、本来のISOではなく、ISO道という社会にも会社にも役に立たない『踊り』というか『おけいこ事』のようなものをしているのではないかと思うのです。
そう考えると、一定様式の中で伝統を守り、手の動き足さばきが伝統に則ったISOの仕組みを期待する審査員に、「それは規格のどこにありますか?」と無邪気にけたぐりを食わせる私のようなものは、ISO正統派の人には、サッカーをしている最中に突然ボールを持って走り出すように思われるのかもしれません。
じゃあどうするのかとなりますが、企業の仕組みをわざわざロスの多いものにすることもなさそうですし、やはりおかしなISOは排除するしかないと思います。
ISOに戻れば、家元制度ISOと私のような合理的ISOが、どちらが会社に貢献するか、費用対効果があるかという競技ではない競争をすれば白黒がはっきりするでしょう。
まあ、そんなことをするまでもなく、家元制度ISOがこけるのをながめるのが楽しいかもしれません。

うそ800 本日はボケの始まり
ここまで書いて来て以前同じことを書いたことを思い出した。

うそ800 外資社員様へのお詫び
面白い話が書けるかと思ったのですが、イマイチでした。すみません
本日の出来は悪い・・・まあ合格点には遠い


ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2013/1/28)
うーーーん。武道家の端くれとして真剣を振った経験はありますが、現実の殺し合いの場でアレを片手で振って人を「斬る」のは、まずムリだと思います。


たいがぁ様
真剣を振り回すのはアブナイヨ
せいぜい親権にしておきましょう
ナンノコッチャ 笑


外資社員様からお便りを頂きました(2013.01.29)

おばQさま
大事な事は、何度繰り返しても良くて、同じ骨子(目的)を見方(手段)を変えて論じるのは、議論や説明の基本ですので、今回も大変 参考になりました。
ここの書き物を初めて読む人もおりますので、主旨が転換しない限り、私は同じ骨子のお話は歓迎なのです。
今回も、刀というネタから、ISOへのお話は読みやすく判りやすかったのです。

例によって、本筋と関係ないツッコミをさせて頂くと、小説の目的は 読者に読む楽しみを与える事ですから、主人公は耐えられる最大限の艱難辛苦を味わう必要があり、必殺技はクライマックスまで出しはいけないのは、目的に添ったお約束(手段)なのです。
ですからウルトラマンは赤タイマまで光線を出さず、忍者部隊月光は「拳銃は最後の武器」なのです(笑)

多分、日本刀愛好家の多くは、道具とは思っておらず、魂の憑代とか美術品としての美しさが好きな人も多いのかもしれません。 某居合道の演武会を拝見したら、季節に合わせた美しい象嵌の拵えや鞘の蒔絵など、大変 素晴らしかったです。
刀を人を切る道具と考えれば、法的に出来ない事を目標にせざるを得ず、極める程に不法行為に近づきます。
そんな後ろ暗い道よりは、美しさ(当然 形や演武を含む)を追求する方が社会的に健全だと思います。
剣道も同じですが、危険なのは実戦と勘違いする事で、決められたルールの中で競うもので勝ち負けだけが価値では無いとするならば、俗に対する聖として、それは道として成立するのだと思います。

企業の目的は俗の中にあり、それだけではない(社会福祉の一端を担うとか地域貢献など)と言えるのは その会社が利益をだし、聖にまで力を及ぼす余裕があるからだと思います。
但し、聖に一生懸命な会社が素晴らしいと言えないのも事実で、経営者が本業そっちのけで文化事業に精を出し、講演会に忙しく、エコだのグリーンで利益を圧縮するのは本末転倒なのです。

話しを転じて、今後のネタ希望があります。、炭酸ガス排出量や、カーボンオフセットの現状についてです。
震災後 原発による発電量は激減しました。当然 購入電力に対する炭酸ガス消費量は増えているでしょうが、そうしたものは見直されているのでしょうか? また企業でも自前のディーゼル発電機等を導入した会社も増え、ならば 生産に対する炭酸ガス排出量も増やして計算するのだと思います。
私の会社では、炭酸ガス排出削減などという高邁な理想は無いので、単にエネルギー消費と売上の比率のみを管理しています。 俗人には利益の確保が重要ですから。
一方で、過去にクリーンエネルギーを導入と、誇らしげに成果や目標を掲げた企業の、具体的な数値改善は、トント判りません。ある会社はエコ関連の資料やHPが丸ごとなくなり、ある会社は太陽光発電の大規模導入を報じるが数値的な実態(太陽光パネルは半導体セルですから電気の塊で、導入のエネルギーをいつリターンできるかの管理は必要のはず)が不明です。 もしご存じでしたら、ネタにしてご教示頂けると幸いです。
太い竹を日本刀で切るのは、居合の上級者でも嫌がります。
つまり困難で、失敗すると、まず刀が曲り、それでも切り付ければ、鍔が緩み、柄が割れ、目釘が折れ使えなくなります。 つまり、これが日本刀の耐久限界で、切りそこなうと容易に曲り、無理に使い続けると使えなくなります。結局切る事に特化すれば、ご紹介の柳葉状の中国刀のような、身も厚く幅広の鉈のようなものが一番向いています。

日本刀の片手持ちが出てきたのは、突く事を重視したからと思います。
突くならば、上記のような不利は無く、リーチを少しでもとれる方が合理的で、突きならば両手で保持しなくとも可能です。

左利き
剣道試合審判細則規則には、禁止の記載が無いようですね。
真偽不明ですが、新撰組の斎藤一は左利き説があります。
出会いがしらの一発勝負ならば、常に右利きと動きを練習できた「左利き」と、本番で左利きと一発勝負する右利きならば、どちらが有利かは言うまでもありません。
但し、指導をしてくれる人も限られますので、自己研鑽が必須とは思います。
その辺りが指導者が矯正する理由かもしれません。

外資社員様 いつもご指導ありがとうございます。
だいぶ前にご一緒させていただいたときのお話を参考にうまく書こうと思ったのですが、筆力のなさ故せっかくの題材を使いこなせず申し訳ありません。
おっと、日本刀を使いこなせないヘボ剣士のように、面白い話題を使いこなせない駄文戯作者であいすみません。
物事にはすべて目的があり、その目的を達成するために行動するわけですが、いつのまにか本来の目的が忘れられ、昔は意味のあった行為とか手順だけが生き残り、文字通り形骸としてあるというのは多いと思います。
芸やスポーツならそういうこともあっても許容されるかもしれませんが、企業の経営においては許容以前に無意味でしかありません。
おっしゃるようにかってはなにがなんでもディミング賞をとりたいなんて駄々をこねた社長もいたそうです。ディミング賞は結果なのか目的なのかはたまた単なるマスコットなのか・・
しかし経営に寄与すると言いながら少しも経営に寄与しないISO活動があるというのも面白いですね。
そして省エネ活動のためである太陽光発電や本来ならCO2排出の代償であったカーボンオフセットは単なる自己満足となっていたようです。おっしゃるように現実の経営が厳しくなるとそういうお遊びはあまり聞かれなくなりました。
ともかくお題をいただきましたので考えます。
次回はもう少し自己採点でも良いものをと・・・


還暦じじい様からお便りを頂きました(2013.03.29)
「目的と手段」を読ませていただいて
なんといいましょうか、敬服いたしました
駄洒落も含めまして、まったく恐れ入りました
うそ800、私のバイブルです
まだ、30%程度しか読みきれていませんが、本稿は現在トップ1w
比較的長文ですが、流れるように読み進められ、あらためて文才に感動するばかりでした
太陽光発電などの宿題?wを対応されるご様子、期待でワクワクしております
意見ではないのですが、この気持ちを伝えたく投稿させていただきました

還暦じじい様 毎度ありがとうございます。
お褒めいただき正直うれしいです。
ひとつ嫌な予感がするのですが・・・・
還暦じじい様は私をだれかご存じのような気がします。私も言葉の端々からどこかでお会いしたような気がいたします。
ひょっとしてどこかの結婚式かそんな場で、名刺交換などしたのではないかという気が・・・
ちょっとあぶない感じです。



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