現場の標準化2

21.11.22

私は知らないことはもちろん、知っていることでも、何でも他人に聞くことにしている。道を歩いていて分からないとき、いや地図を持っていても確認のために、警官であろうとお店の人であろうと、通行人であろうと、どこそこに行きたいのだがどう行けば良いのでしょうか? あるいはこの方角でよろしいですか?
家内はそういう行為を嫌がるが、私はそう聞くのは恥でも何でもないと思っている。
それは道を聞くだけでなく、すべてにおいて聞くことに抵抗がない。

といって私は善人…つまり人を信じているわけではない。法律でいう善意とは”知らない”意味だから善意の人でもない。だから通行人Aに聞くだけでなく、同じことを警官Bに聞くし、 道を教えてください 通行人Cに聞く。それが前に聞いた人に対する不信・背信とは全く思っていない。警官だって道路も会社も知らないことはあるし、間違えることもある。お店の人や通行人が本当のことを語るとは限らない。いたずらで嘘をつくこともあるだろう。

同じく、道路だけでなく芸能人の名を知らなければ、家内にそいつはなにものだ?と聞き、その後でネットでググる。別に家内がほら吹きと思っているわけではないが、すべての情報は検証しなければならないと体に染みついている。

実を言って、そういう物事を聞くスタンスや、複数人に聞いて決定するという考え方は監査をする上で大いに有用である。私の性格は監査に向いているのだろう。単に人が悪いともいう。いや露骨に言えば疑い深いのだ。
誰だネット詐欺に引っかかったくせにと言ったのは


現場で不具合を見つけたり改善を考えたりするには、現場の実態を知ることが大前提だ。そしてそれはまず現場の人に聞くことである。それも同じことを複数の人にだ。
もちろん現場の人が知っているとか、現状を正しく認識しているなんてことはない。だが最大の情報源であることは間違いない。

半世紀も前、設計から製造に異動したときのこと。現場のことは何も知らない。そりゃその工場で数年働いていたわけだから、その職場では何をしているかとか、電車で一緒に通勤している人の顔は知っている。だが細かいことはわからない。
なにごとも初めが大事。異動してから歩き回り話を聞き質問攻めにした。まさにどちて坊やである。

当時は40代後半の人は戦争に行っていたし年配者はけっこう怖い感じだったが、私は若かったし、知らないことは恥ではないと何でも聞いた。年配の人は概ね目下に教えるのが好きだ。言葉使いはともかく聞けばいろいろ教えてくれた。

話をして感じたことは、人はいろいろだということ。設計にいると皆向上心があり、日々勉強しているし、またものごとをいろいろ考える。そういう教育を受けてきたこともあるだろうし、そうしないと進歩に付いていけないということもある。

他方、現場では言われたことをやればいいという人と、己の仕事を極めようとか仕事を改善しようと考えている人に二分されるように思えた。
ある老練な技能者に話して聞かされたことは、毎朝会社に来るのが楽しみでしょうがない。毎朝起きると、昨日の問題をどう解決するか、今日は予定を達成するのにどう手を打つかと考えると一刻も早く会社に行きたいと語っていた。

もちろん会社は生活の糧を得るところと割り切っても、趣味をするために働くと考えても悪いわけではない。会社では職務を100%遂行してくれればよいのであって、現場の人にそれ以上を、例えば改善を要求するのは筋違いだろう。その意味で私は日本の小集団活動とか提案制度に懐疑的だ。言われたことだけすればよい、余計なことを考えるな、提案などするなという国もある。
提案を受けて対策しまたその功績を評価する仕組みはともかく、その運用、例えば全員参加で云々というのは集団主義そのものだ。まあ、提案制度も小集団活動(サークル活動)も21世紀の今は過去となった。

ともかく己の仕事を改善しようという意欲を持っている人が、現場の2割はいた。そはいえ2割の人たちも考えはいろいろだった。
1970年当時は小集団活動が盛んであり、それと同じではないがだいぶ重なって提案制度が行われていた。改善提案で賞金稼ぎをしている人もいた。といっても月数千円だったけど。
本を読んだり他社事例を調べて種々検討して作業や方法を改善する人もいた。案外そういう人は改善提案などせずに、自分自身の力量向上に価値を置いていたように思う。


新機種対応のジグ制作の部署があった。工作スタッフがジグの図面を描いて作ってもらうこともあるが、面倒くさいので過去からの応用で作れるものは部品の製作図を渡して作ってくれと丸投げすることも多い。とはいえそれは過去からジグ制作をしていたからできることだ。ジグを作っている人は過去の蓄積をどのように記憶しているのか?

そこのベテランの話を聞くと、分厚いノートを取り出して見せてくれた。そこには種々のジグの考え方、構造、作業手順、寸法基準がこと細かく書いてある。過去に作ったもののメモ、トラブルや修整記録など、これがあるから丸投げしてもモノができるのだなと実感した。
しかし技術スタッフが現場に丸投げするのは間違いじゃないか。そういうものをスタッフが作って作業者に教育しなければならないはずだ。実際その方は、今まで作ってきたものを会社の文書にして、それを基に作業指示をしてほしいと語った。


刃物研磨をしている人がいた。機械加工の現場で刃物というのはバイトとかドリルのことだ。研磨というのは切れなくなった刃物を研ぐことだ。
ドリル
ドリル
ドリル
製造部門で加工時間を下げようとするときどうするか?
機械加工で、切削スピードを上げるとか、切込みを大きくするなんてのは限界があるし、既に切削条件は試みられて今が最適条件に至っているのが現実だ。だからそう簡単には加工時間は下がらない。

じゃあどうする?
段取り時間を下げることだ。段取りは改善や工夫すれば大きく減らすことが可能だ。
特に段取りが作業時間に多く占める仕事は、生産量、ロットが小さいものだ。刃物研磨などはまさしくそれにあたる。
メタルソー その研磨担当者もいろいろ工夫が好きな人で、刃物を購入してから摩耗して廃棄するまでロット管理するという方法で段取りを減らした。例えば超硬ドリルなら20本、メタルソーなら15枚とか、同時期に購入したものに表示をしてそのロットは同じ設定で同時に研磨するようにした。刃物には寿命もありどんどん回転するから、そのようなロットで管理運用をしても保有する刃物が増えるとか、研磨までの時間的ロスが発生することもなかった。

彼の改善策は素晴らしかったが、問題もあった。改善をして作業時間が短くなった分、彼は働かなくなった。ラインから離れた場所で少人数の作業であったから、暇になった分、タバコを吸ったりさぼるようになった。それじゃ何のための改善か分からない。もしかして改善した分、自分が楽にならないと損だと思ったのかもしれない。
人は見ているから改善効果は知られても彼の評価は低かった。


創意工夫といっても技術的なことばかりではない。
塗料を手配する人は、危険物保管庫の棚にペンキで線を引いていて、その線のところまで来たら手配するようにしていた。その線が発注点である。
そんなことをしなくても缶がいくつあるか見れば分かるだろうなんて言ってはいけない。 台車 塗料だけを相手にしている人ならできるだろう。だけど現場の少量保管庫の塗料が切れたら危険物倉庫に塗料缶を取りに走っている人が、そんな余裕はない。線が見えたら事務所の庶務の女性に「○○が切れそうだから頼むよ」と声をかけるのが精いっぱいだ。
それに定量発注方式なんて習ったことがない現場の人が、自ら考えたなら創造的で尊敬に値すると思わないか?

本来ならそういう仕組みや基準を会社の文書にして、それに基づき仕事をするように指示しなければならないはずだ。
手順とは在庫量が定める個数に減ったときに、誰がどのようにどこに発注するのかを決めたものであり、基準とは手配するときの個数を決めたものである。

そういうのはどんな文書にするのか? そんな疑問を持つ人がいるかもしれない。
なんでもいい。例えば危険物倉庫管理手順とか、塗料発注基準という文書にすることになる。
会社の仕事をすべて文書で決めるというのは当たり前のことであり、このルールをどんな文書に定めるべきかと悩むようなことはない。


私は仕事の方法とか改善を、現場の活躍に期待するのは間違いだと考えている。指示・監督する立場の人が作業標準を確立して、それを基に指示しなければならないというのは私の若い時からの持論である。
だが現実は理想とは違う。まだ技術基準が確立しておらず管理者が手順や基準を持っていないなら、現場の蓄積を尊重しそれを手順・基準とすることが悪いことではない。

ヒアリングすることによって、管理側が適正な手順・基準を定めずに、現場に頼っていて、また現場もいろいろな改善が行っていることを知った。そしてその多くが手順・基準として蓄積されず、属人的であり永続しないことも知った。
ならば固有技術を知らない私にできること、そしてしなければならないことは、それらの先人の創意工夫を固定化すること、つまり標準化することだろう。
そしてそれからの改善は定められた基準を基にして、基準を見直していくことになる。

標準とはなにかを思い出してほしい。その最大の目的は共通化を図り、利益、利便性を高めることでだが、その他に重要なのは、

  1. 改善のベースとなる
    基準となるものがなければ改善も改悪も判定できない
  2. 技術の蓄積
    教育の資料となる

注:標準とは定められた手順、基準、ノウハウなどである。理屈からは文書化しなくても標準とすることはできそうだが、現実には文書化してなければ意味がない。
但し、文書化とは文書にすることだけでなく、見本、ビデオなどでも良い。
標準と訳されたstandardは、元々は中世ヨーロッパで軍勢を集める時に目印として掲げる旗であった。その後、貴族や国王の旗や紋章の意味になり、規則や法律の意味となり、原器や基準の意味になった。

現状を書きものの標準にされていけば改善はしやすくなるだろうし、新たな改善は標準の見直しという形になって定着し蓄積されていくだろう。


現場における標準化は技能者の創意工夫の賜物である。しかし文書化されていないそれは消滅や劣化しやすい。だから誰かがそれを文書化し標準化しなければならない。
標準化は上からも下からもあって良いし、有用なものは大切にしなければならない。
もちろん現場には矛盾した意見もある。だがそれこそが改善の手掛かりになる。もし正解がひとつならより良いほうを選択すればよく、双方甲乙つけ難いならきっともっと良い方法があるに違いない。


うそ800 本日の思い出

まあ、そんなことをしてきたが、もちろん完成など遠い々々道のり。そこに至るの前に私はその職場を離れ、それから10年後にその製品の市場そのものが消滅した。




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