学ぶ・教える21・ISO規格の力量

21.11.08

我が愛しきISOMS規格は、学ぶとか教えることについて、どんなことを書いているのか? 本日はそんなことを考える。
とはいえ毎度のことだが、私が初めに目指したところに着いたことなどなく、いつのまにか思いもしないところにたどり着くことばかり。ま、気にせず行ってみよう。


共通テキストとなった今は、EMSは?とか、QMSでは?とか、あるいは○○MSは?
考え中
などと考えなくても良い。書いてあることがみな同じだから。
もっとも、ということは問題があれば全部だめということでもある。いや世界の英知を集めて作ったものなら問題などない。ないはずだ……ないだろう……ないかもしれない。

ISOMS規格で「学ぶ・教える」に関わるのは「7.2力量」だ。それを裏打ちというか支えるのは「7.3認識」だが、そちらはいささか漠然といているからパス。

ISO14001:2015
7.2 力量
組織は、次の事項を行わなければならない。
  1. 組織の環境パフォーマンスに影響を与える業務、及び順守義務を満たす組織の能力に影響を与える業務を組織の管理下で行う人(又は人々)に必要な力量を決定する。
  2. 適切な教育、訓練又は経験に基づいて、それらの人々が力量を備えていることを確実にする。
  3. 組織の環境側面及び環境マネジメントシステムに関する教育訓練のニーズを決定する。
  4. 該当する場合には、必ず、必要な力量を身に付けるための処置をとり、とった処置の有効性を評価する。
注記 適用される処置には、例えば、現在雇用している人々に対する、教区訓練の提供、指導の実施、配置転換の実施などがあり、また、力量を備えた人々の雇用、そうした人々との契約締結などもあり得る。
組織は、力量の証拠として、適切な文書化した情報を保持しなければならない。

ISOMS規格は要求事項であるから、述べているのは仕様だけで実現する方法を語らないのは当然である。

それはともかく上記を見ると脱力するしかない。だって「あるべし」なんて旧約聖書のようなことしか言わない。あるべき姿を示してくれるのは良いが、そこへ至る道は険しくラクダが針の穴を通るようなもの。

「必要な力量を決定する」ことをしなければならないことは分かる。まぁ、それくらいはできそうだ。
だが「確実にする」となると、どうすればいいのか見当もつかない。「確実」ではなく「概ね」ならなんとかなりそうだけど、

ISO14001:2015附属書A.3によると「確実にする」とは日本語の一般的な意味ではない。「『確実にする(ensure)』とは責任(responsibility)を委譲することができるが、説明責任(accountability)については移譲できないことを意味する」とある。それが「確実にする」の意味なら、対応することはできそうだ。
だがちょっと待ってくれ、審査員は一部漏れがあるのを見つけ「要求事項を完全に満たしていないから確実にしていない」と語っていたが? あれは夢だったのか?
世の中のISO審査では、ISO規格に書いてある通りではないのか? 不思議である。

accountabilityの定義はISO14001にもISOQ9000にもない。だから一般の辞書にある意味で使われているはずだ。
規格では「responsibility」を「責任」と訳しているが、字義通り訳せば「対応できること」であり「実施責任」である。同様に「accountability」を「説明責任」と訳しているが、これも字義通り訳せば「なにかをできること」であり「結果責任」である。
債権者が押し寄せたとき、responsibilityとは「お金を渡す手足になること」であり、accountabilityとは「渡すお金を集める」ことである。
「説明責任は私にある」と言いながら、くどくど言い訳<だけ>する人の多いこと……

それは置いといて、ISO規格は「あるべし」と書けばおしまいだし、審査も「決定してません」「確実でありません」と言えば済むのだから楽だ。
組織のお仕事はラクダが針の穴を通るごときであり、審査はラクダに乗るがごときなんでありましょうか?

ところでイエスが語ったとされる「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(マタイによる福音書19章16節)」は誤訳らしい。 ラクダ 元々のヘブライ語の聖書では「ラクダ」ではなく「つな」だったそうだ。
確かにライオンの火の輪くぐりはともかく、普通の人は針の穴をラクダが通るなんて思いもしないでしょう。でも針の穴に綱を通すというのは、太さが違うだけで比喩としておかしくない。
それにラクダはどう考えても針の穴を通るのは不可能だけど、ラクダより細い綱なら可能性はゼロではない。イエスが説教するにしても、絶対不可能なことに比べるより、一縷でも望みがありそうなものを比較するほうが理屈は通る。
創意工夫の得意な日本人ならできるはず! 例えば綱用の太い縫い針を作るとか
おっと綱を細くしようというのはダメです。細い綱は綱でなく、なわといいます。

覚えておこう日本語の基礎
国語辞典的には、上図で間違いはないのですが、
出雲大社の注連縄しめなわはすごく太いけどなぜ縄なの?

ところで力量とは常に一定ではない。財布に1000円札を入れておけば、盗まれたり使ったりしなければ、いつまでも1000円あるはずだ。
だが力量は人に依存する。それは人によって異なるだけでなく、同じ人であっても、常に一定の力量を発揮できるわけではない。

風邪を引けば寝込んでしまうし、家族が病気になれば心配で注意力は低下する。息子の受験日なら心ここにあらずである。 これ冗談ではない。特殊工程の管理者は、作業者の環境変化や精神状況も把握していると聞いた。いや管理者はだれしも、部下の心配事、健康状態、部下が若ければ恋愛事情も把握しないといけないのは常識だ。
そして部下が失恋💔したら、飲まして愚痴を聞くのも管理者のお仕事

このように力量は周囲環境によって変動があるし、普段でもゆらぎがある。
というとISO規格要求の力量を確実にするとは、どうとらえたら良いのか?
所属メンバーには一定レベルまで教育訓練をしておき、いざというときは調子の良いのを充てるということなのだろうか?
ピンチヒッター おっと調子が良い者といってもお調子者うえきひとしではない。

いや仮定の話ではない。限界に挑戦しなければならないとき、俗な言葉で言えば一か八かとなればそれは常套手段だ。
野球でリリーフやピンチヒッターに誰を出すかというとき、顔色を見て決めるのはおかしくない。
もっともそれはISOMS規格で論じている標準化できる仕事・レベルでなく天才レベルの話かもしれない。


もうひとつ、重大な疑義だが、力量というのは教育で付加できるのだろうか?
ISO19011:2019では力量は、@個人の行動、Aマネジメントシステム監査員の共通的な知識及び技能、B分野及び業種に固有の監査員の力量からなると記述している。
最新版ではなくなったが、過去の版には下記の図が添付されていた。


力量の図
ISO19011:2002より引用

床屋 個人的特質というものは、文字通り属人的だから教育で付加できないと思われるのだがいかがだろう。LMJも語っていたが、2割の人は審査員に不適らしい。
もっともそれは審査員に限らず、どんな仕事でも同じだろう。床屋に向かない人も、看護師に向かない人もそれぞれ2割はいるだろう。となるとLMJの言葉も至言ではなかったようだ。


といろいろ考えると、規格に「あるべし(shall)」とあるご宣託は真理なのだろうか?
ISOMS規格は仕様書であり方法を述べないと前述した。だが、仕様書で述べていることも実現可能かどうか定かではない。
いや、実現可能以前に、「あるべし」と記述していることが真理であるか検証しなければならない。

ISOMS規格が述べていることが理論的に真でなく、統計的に有意であるというなら、その信頼性を明示しなければならないだろう。
そして確率であらわされるもなら、常に計画策定時に費用対効果で採否が判断される。

人を殺してはいけないということはなんとなく理解できる。だがスピード違反は状況下において許容されるだろう。現実に急病人を運ぶときなど緊急避難は認められる。
つきまう車から逃げるためにスピード違反したときに無罪判決も出ている。

注:実際には緊急避難の際は、他人を救うことをせずとも罪にならない。
(刑法37条1項)
「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」

殺人という重大なことさえ、種々の条件によって無罪から有罪の間に分布することを考えれば、たかがISOMS規格の要求事項など、絶対的ではなく相対的なものとみなすべきだ。

いろいろ考えると、ISOMS規格で述べることは、実現性、有効性に大きな疑問符が付く。ISOMS規格は、適用条件をもっと細かくするか、あるいは例外規定を追加しなければならないように思う。


いや、私の書いていることはいちゃもんではないです。素直に考えた疑問です。
スペースシャトル 世の中にミスったことのないものはない。品質保証や品質管理の最高峰である宇宙関連でも、アポロ13号、チャレンジャー号、コロンビア号の事故など枚挙にいとまがない。

ISO規格解釈においても、某認定機関が誤っていたこともあり、認証機関ならこれまた…、今でも有益な環境側面をウェブサイトに書いているところだってある。
審査において企業側が大事にしないだけで、審査員に対する不平不満は溜まりまくっているだろう。
その原因はいろいろあるが、携わる人の力量によるものは多い。前述したが偉大なるLMJは、ISO審査員に向かない人は2割いると語った。それは審査員の力量の要素として一般知識・専門知識のほかに個人的特質があり、それは教育では付加できないからではないのか?
そして審査員研修と審査員登録で、LMJのいう2割をリジェクトしているかといえば、絶対にしていない。私は審査員研修で再試験を受けた人に会ったことはあるが、再試験でも合格しなかった人に会ったことがない。そして審査員登録機関に申請してダメだった人にも会ったことがない。

企業不祥事で認証停止とか辞退というのはしばしば聞くが、認証機関への異議申し立てとか苦情の実態など闇の中だ。まさかゼロではないだろう。私の経験からそういえる。
となると、ISOMS規格で「決定する」「確実にする」「評価する」ということに意味がないではないか。

評論家の故三宅久之氏だったと思うが「憲法に『戦争を放棄する』とあれば戦争にならないなら、『台風を放棄する』と憲法に書けば台風が来ないのか?」と語った。
ISO規格に書けば実現できるわけではない。そして己が実現してないことを他人にせよと語るのはおかしい。


現実問題として、組織が要求事項とそれを達成するためのコストを比較検討して、経済的に実行可能で技術的可能なもので適切で妥当と定めたところを基準として運用しなければならないだろう。
実はこれ、ISO14001の1996年版序文なのだ。幸せは探し求めるものではなく、気付くものなんて言葉があるが、ISO14001初版が最高の出来であり、第三者認証ではなくWMS規格を活用することがあるべき姿だったのが、いつのまにか頭で考えた理想を追い求め、まだ青い鳥を見つけていないようだ。


うそ800 本日の意見

お前の恨みはそれほど深いのか? 怨讐を捨てよ、人の振り見て我が振り直せと言われそうだ。
確かに列車内にゴミを捨てる人を見れば自分はしないぞと思うが、列車内のテロを見て自分はしないぞと思う人はいないだろう。
あっ、意味わかりますか?
それほどひどい人ばかりに当たってましたから……


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