組織が決定したことをやり遂げるという意味では、暴力団と会社や趣味団体に違いはない。さて、学校というのは、教育制度を考える組織ではなく、教育方法を検討する組織でもなく、教育を実施する組織である。それは定められた教育制度において、定められた教育計画の下に、定められた教科書を用いて定められた教育を行う。
違いはその目的と取りえる方法であって、組織の機能は変わらない。
ここで、すべての国民あるいは住民が発言する権利を有するか?と問われたら、私は『否』と答える。発言する権利を有するのは『有権者』のみである。民主的な審議結果によって、決定・計画されたことは、緊急時あるいは客観的に見て異常でなければ、粛々と実施することが民主主義の原理原則であり、それを侵すことはできない。
ところで Mado giwa no Tottochan. と書いてあるのを見たことがある。
私はこれを Made give no Tottochan. と読み違え、いったいどんな意味なのか?と悩んだことがある。
本当の話である。
民主主義とは、自分たちのことは自分たちで決めることではない。
みんなで決めたことを、みんなで実行することである。
学校は民主主義で運営するのではなく、民主主義を教えるところだ。
そのために先生は本当の民主主義者でなければならない。
不自然 佐為様のサイトをいつも楽しく拝読しております。佐為様の学校に対する考え方を拝読するにつれてなるほどと考えさせられるところがありました。これまでの学校がおかしな形になったのは何故でしょうか?これを説明している方がおられます。以下大意をお伝えします。 保護者(以下保)「先生の教え方はおかしいです。暑いときには暑いと言わずまだ寒いと言え、寒いときには暑いと言えと若君に教えていますが、これでは不自然なだけではありませんか?」 先生「私はその不自然が教育と思うておる」 保「???」 先生「暑い寒いという人が本来持っている感覚を教えてなんとする。暑いと言えないときでも我慢をしたり、他の物で代償したりして考えながら行動するのが人間ではないか。そもそも弟子が将来人の上に立つ人間になった時に、暑いと言っては水に入り、寒いと言っては家から出ないようで示しが付くと思うのか。自分が我慢することを知らなくては多人数の統率はできぬ物じゃ。」 保「・・・・」←山岡荘八署 伊達政宗より 今の教育で育った生徒さんは本当に多くの人に示しが付く行為をされているでしょうか?自分を振り返っても小さくなるばかりです。日の丸という布きれに敬礼するのは不自然であるという人は自国の国旗に敬意を払わない人は尊敬されないという事を知っているのでしょうか?その前に自分が生徒を教えているのは個人的な権利を守るだけではなくその生徒が人を感心させる人物にするためという認識があれば日教組は来年にでも変わっていくでしょう。 タイガージョー拝 |
タイガージョー様、毎度ありがとうございます。
子供の頃読んだ本で、極地探検に出かけたヨーロッパの探検隊で食べ物などに文句を言うのは一般隊員で、貴族の人は同じものを食べても文句を言わなかったというのがありました。
貴族だからとかというのではなく、ガマンする、耐えるということが価値と思わないといけないと思います。
といっても私は都会に来て、夏の間はエアコンをつけないでは夜眠ることができません。
この程度の贅沢はお許しください。