三浦譲物語

三浦氏は明治20年(1888年)宮城県仙台に生まれ、20代でセレベス島マカッサル

(現在のスラウェシ島ウジュンバンダン)ニに渡り、雑貨商を営んだが、やがてバリ

島に新天地を求めて移り住み、自転車修理業をしながらデンパサールで暮らした。

日本の落下傘部隊がメナドに進駐した頃、三浦氏は引き揚げ船で帰国していたが、

バリ等攻略部隊の道案内兼通訳として請われ彼は再びバリの地を踏む。1942年三浦

氏53歳の時であった。

同年5月バリ島が日本海軍の軍政担当地域と決まり、堀内大佐率いる海軍部隊がメナ

ドから転進して軍政実施に着手後、全バリの治安は回復し島民は落ち着きを取り戻し

生業に就けるようになった。

これは、堀内大佐が日本の民間人三浦氏を信頼し、住民統治の仕事を彼に委ねたから

と記されている。

軍の要請により缶詰工場を新設し、三浦商会の名でその代表責任者を任されたが、

彼は渉外業務以外の一般業務の運営、経理は一切バリ人に委ねた。また、軍への訴え

を持ってくるバリ人に親身になって相談にのり、次第にバリ人の敬愛と信頼を集める

様になった。

スカルノ氏(初代大統領)による精力的な独立運動が進められ、日本軍も「近くイン

ドネシアの独立を許容する」との声明をだした1944年12月、三浦氏もバリ島の建国

同志会に身を投じ事務総長を努め、忙しい日々を過ごしていたが、同年8月15日、彼

の元に日本敗戦の報が届く。

強い衝撃を受けながらも彼は、あくまでもインドネシアの独立を支持し、島内中を回

りながら「この地を愛し、人を愛するが故に全日本人に代わってインドネシアの独立

を見届ける決意である」と情熱を傾けて説いた。その数、百数十回。

最後に、長年住んだデンパサールの映画館で、600人余りの住民を前にして「自分は

自決して骨をバリに埋め、インドネシア独立の人柱となって、独立達成を見守る」と、

熱い思いを語った。

翌日の1945年9月7日、日本による「インドネシア独立が許容されるはずだった日」

の明け方、島の人々に日本軍が占領した3年間を詫びる遺書を残し、三浦氏は拳銃

自殺を遂げた。

遺書には「この戦争で、我が祖国日本の勝利を念ずるためとは言え、私は愛するバリ

島の皆様に心ならずも真実を歪めて伝え、日本の国策を押し付け、無理な協力をさせ

たことをお詫びします。今まで大きな顔をして威張りかえっていた日本人も明日から

は捕虜として皆様の前に惨めな姿を見せるでしょう。彼等が死なずに屈従するのは、

新しい日本、祖国の再建に尽くそうと思っているからです。死ぬのは一人で良いと思

います。私が日本人皆の責任を負って死にます(戦場への紙稗より)」と記されてお

り、三浦氏の葬儀には彼の死を悲しみ、全島から1万人を越える人々が参列しその列

は途切れることがなかったと言う。

戦後50年以上の歳月が流れた今日、バリを愛し、バリの人々と日本の人々のために

命を捧げた一人の日本人のことを語る人はいないが、日本が侵略した他の国に比べ

バリの人々が日本人に友好的なのは、三浦氏の生涯をかけた努力があったからと言わ

れている。

彼の墓はデンパサールのトゥガル・ベモ・ステーションの直ぐ前にあり、今でも奇麗

に手入れされ花と香が絶えることがないと言う。

三浦譲・・・今日バリを訪れる日本人の心に是非刻み込んで欲しい人の名前である。



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