第7講 ご挨拶はいらない!
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みなさんに何回か課題を提出していただきました。それぞれ「批評」をつけてお返ししました。Mailで「批評」を送ってますが、課題を提出した人で、まだ届いていない……という人いますか? そういう人がいたら、申し出てください。インターネットのメールはときどき行方不明になるときがあるらしいからね。 「批評」をみてもらったら判ると思いますが、「良い点」をクロースアップして誉めてあります。なぜだか判る? 誰か判りますか? いつも一番前で寝ているアナタ、新井さんでしたよね。どうです? わかりますか? 〈ここがダメだか、ここがマズいとか言われると、みんな落ち込んじゃうから……〉 はい、半分は当たってます。 私は別に「よいしょ」するために誉めているんではありませんよ。私が誉めた「良い点」を、もっと、どんどん伸ばしてほしいと思うからです。親心……、いや親じゃないから、そう、教師心というところかな。 けれども、ぼくが誉めたみなさんの文章は、みんなパーフェクトなものではありません。まだまだ改善すべきところがたくさんあります。そこで今日はね、みなさんがたの書いた文章の一部を引用して、そこらあたりを具体的にお話したいと思います。出席している誰かさんの作品の一部を使いますがね。その人だけにお話するわけではありません。みなさん全体の問題として、お話するつもりです。そのときに、たまたま誰かの文章を使わせてもらうというわけですから、誤解がないように……。みんさん一人ひとり、自分の問題として聞いてください。 静かにしてください。はい。最初に重箱のスミをつつくようなコセコセしたことをやらない……と言ったじゃないか? そう言いたいのでしょう。はい、もちろん憶えてますよ。でもね、みなさんの誰かを非難したり、陥れてやろうという意図でやろうというのではありません。あくまで親心、いや教師心からなのですから、いいでしょう。なに? 作品の引用は著作権法違反じゃないか……って? あのね、そういうこと言うのは10年以上早いの。いいですか。あなたがたの作品はね、いまのところ、ほとんどカミクズ同然です。お金のとれる文章ではありません。それに全文の引用ではない。部分引用で、そのうえ教育目的ですから、著作権にはひっかかりません。引用目的もはっきりしていますから、ご懸念にはおよびません。 ★ごあいさつはいらない!
【例文01】をみてください。文章というものを、あまり書き慣れていない人に、テーマを提示して「さあ、書いてください!」と言いますと、こういう〈書き出し〉で始めるんですね。 これはみんな〈前置き〉というか、つまり〈ごあいさつ〉でしょう。それに〈言い訳〉する心理がはたらいています。どういう言い訳かというと、だいたい次のような内容でしょうね。 「私は文章なんて下手なんです。けれどもあなたは〈書け〉とおっしゃるわけです。ごていねいにテーマまでくださいました。先生にそこまでされると、書かないと評点が悪くなるかもしれません。単位がとれなければ、私こまるんです。だから書きます。書けばいいんでしょう。書けば……。でも、なんども言っておきますけど、私、文章、下手なんですからね。」 ひどいのはね、2枚=40行の作品なのに、12行もこんな調子でごあいさつする人がいるんです。あらかじめ「テーマ」「課題」が与えられていないときでも、こんな「ごあいさつ」はいりません。いきなり本題にきりこんでゆく。これが原則です。第1にご挨拶するスペースなんて、もったいないでしょう。だから、もっぱら内容を充実させることを考えましょう。 社交辞令をはぶいたところから出発する。それが文章を書くときの原則です。 ★紋切り型にたよらないこと
【例文02】は、なかなか見どころのある文章なのです。けれども、ちょっと大きな欠点があります。どこが問題か判りますか。名文じゃないかって……。そう、名文なのです。名文であるところがヤバイのです。 犯人は「ぬけるような青い空」「走馬燈のように」「スローモーションのように」という表現です。なぜ、コイツがいけないのか。コイツらは「決まり文句」でしょう。「慣用句」「紋切り型」の表現です。もう昔から、多くの人によって、さんざん使われてきた表現です。手垢にまみれた陳腐な表現というべきでしょう。こういう言葉や表現をつかっていると、文章そのものが、ありふれた陳腐なものになってしまいます。 紋切り型の表現、ほかにどんなものがあるか。思いつくまま、挙げておきましょう。「抜けるような青い空」「白魚のような白い手」「手の切れるような札」「雲一つない青空」「手に汗にぎる」「しみじみ思う、今日この頃」「その場に泣き崩れた」などなど……。 こういう言葉は、昔、誰かが発明して、長年にわたり繰り返して使われてきた表現なのです。最初は新鮮な表現だったけれど、今ではもう腐っている。こういう表現を使うと、文章がいちおうサマになるように思う。それで、ついつい使いたくなってしまう。でも、サマになるというのは大きな錯覚なのですよ。 文章を書くとき、ますこの「決まり文句」「紋切り型」「慣用句」を追放しなければなりません。これは自分のことばではありません。他人のことばなのです。いいですか。よく聞いてください。自分の目で見て、考えた表現ではないということです。だから「紋切り型」を使うということは、自分の言葉でなくて、他人の言葉でつくった文章になるということなのです。もっと言い方を変えれば、「決まり文句」「紋切り型」を使うということは、他人の決めてくれた人生を生きているようなもの……というわけなのです。 「紋切り型」「決まり文句」を使って、「スイスイ」とモノを言わないこと。文章を書くということは、コイツらと訣別することだと思ってください。いいですか。ここのところは大事ですよ。 ★適当に改行する
【例文03】を見て、どう思いますか? まったく空白がなくて、ぎっしりつまってるでしょう。文章を書き慣れていない人の原稿をみると、400字詰の原稿用紙に文字が隙間もなくぎっしり詰まっている場合がよくあります。みなさんの中にも、何人もいますよ。 この例文は会話体があるのに改行が、まったくありません。句読点はあるのですが、改行というものがひとつもない。だから非常に風通しが悪い文章になっています。 改行って何だろうね。改行というのは、文章を読みやすくするためのテクニックだと思ってください。文章を書くときに、改行もしないで原稿用紙を埋めるという必然性はほとんどありません。400字詰めの原稿用紙なら、だいたい2〜3か所は改行するといいでしょう。そうすることによって風通しがよくなって、はるかに読みやすくなります。 改行して書き直したのが次の文章です。読み比べてください。かなり感じがちがっているはずです。
こういうふうに改行すると、センテンスとセンテンスとの間に、適当な間合いができます。文章の流れに「時間的な経過」が読みとれるようにもなります。そう言う意味でも、読みやすく、わかりやすくするテクニックなのです。 もちろん文章には改行しないで、独特の効果を狙うケースもありますよ。たとえば野坂昭如の小説なんかがそうです。「火垂るの墓」という小説をよんだことのある人なら解るでしょう。あれはほとんど改行というものがありません。それは意識的に改行しないで、独特の雰囲気を出そうという作者の意図によるものです。 けれども、みなさんは真似したらダメですよ。そういう方法は、きわめて高い文章技術をもった一部の作家によって、はじめて出来ることだと思ってください。ど素人は無理ですから、適当に改行するようこころがけなければなりません。 ★文脈はスムーズに……。
見てください。この【例文04】の文章。これだけで1センテンスですよ。すごいですねえ。みなさん、一読して、理解できますか? すんなりと頭にはいってくるかどうかを訊いてます。頭がこんがらがってしまいませんか? ねえ……。 長いというほかに、ほとんど混乱状態になってます。それでも、よく読んでみると、言わんとするところはわからないでもありません。でも、非常にわかりづらいんです。そうじゃないですか。それでは、どこが解りにくいのか、ちょっと、考えてみましょうか。 「米国イコール自由というイメージは、我々日本人にはぬぐいきれないモノがあるような気がしていたが……」 ここまではまるっきり問題がないわけではありませんが、まあ筋を追うことができますよね。けれども問題はその後です。 「自分の目で、都市の中心である大通りをさっそうと歩く様々な人種の人々の明るさとは裏腹に、一歩路地に入ると、そこにはホームレスの人々、コカインを吸う無気力な人々であふれているという「現実」を目の当たりにした時に、この国の叫んでいる「自由」の本質とは何なのだろうと考えてしまった。」 まず〈自分の目で〉というのが、どこにかかってゆくのか、さっぱりわかりません。しかも「自分の目で」と言っておきながら、「目の当たりにして」とくる。そうすると「自分の目で」という部分が浮きくあがってしまう。この「自分の目で」という一言をカットしたら、かなり理解できるようになりますが、それでもゴチャゴゴチャして、ストレートに頭にはいってこない。こういうのを「文脈がたどれない文章」というんだよな。 分かりやすさという点では最悪ですね。もっと水が流れるように、スーッと頭にはいってくるように工夫する必要があります。書き直した文章を次にかかげておきます。文章全体を5つに分けて改行、3つの段落にしてあります。どちらが読みやすいか、比べてください。
★舌足らずはダメ!
さて、この【例文05】だけど、どこかヘンだと思いませんか? 後半の部分はなんとなく言わんとするところが解ります。けれども前半はどうですか? 「健常者だからとか、障害者だからとかいった考え方ではなく……」この部分が後のどの部分に、どのようにつながってゆくのか、よく分かりません。筆者は、それなりに意味があると考えているんだろうが、読者のぼくたちは、まったく分からない。だから、この部分が完全に浮きあがっているんですよ。 つまり書いた本人だけが分かっている。独り合点の文です。文章にはかならず読者がいるんだ……という前提を完全に忘れちゃってる。どこか言葉が足りないんです。だから「舌足らずの文」だと言うわけです。自分の頭のなかでは、書きたいことがはっきりしているんだけれど、実際に書いた文章は、そのようになっていない。それが例文5です。 「健常者だからとか、障害者だからとかいった考え方ではなく……」というのは、結局のところ〈障害者であるとか、健常者であるとか、そういうことに関わりなしに、困っている人に接してゆかなければならない……〉という意味がこめられているのでしょうね。障害者であるとか、健常者であるとか意識するのは、おかしいんじゃないの……ということを言いたかったのではないかと思います。だったら、そのように書けばいいのです。 なかなか、いいことを書いているんだけれども、肝心かなめのところに言葉がつくされていないから、相手にストレートに伝わらないのです。これも書き直してみました。文章自体が長いから、二つに分けてあります。読み比べてください。
はい、今日はこれでおしまいですが、御法度の紋切り型の表現をつかって言えば「脱兎のごとく」突っ走って帰ることにします。後ろから石がとんできそうだからね。今日は5人を血祭りにあげたわけから、石は5つとんできそうだ。それじゃ、命あればまた会おう。
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(C)Takehisa Fukumoto 2001 |