坂本弁護士一家事件の捜査の問題点
二 89年11月15日から89年末まで−事件性の認識の遅れと対象の散漫
この間、坂本弁護士一家を良く知る人達が、「坂本弁護士一家がこのような形で家出・失踪などするはずがない、何らかの事件に巻き込まれたに違いない」という共通の思いのもと、一家の救出運動に立ち上がった。坂本弁護士の同僚・同期・横浜の弁護士らを中心に、11月21日には「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」(略称「救う会」)が発足した。
その4日前には、坂本弁護士が熱心に取り組んだ労働事件関係の組合員らを中心に、「坂本弁護士と家族を捜す会」(略称「捜す会」)も発足し、それぞれ精力的に救出活動を開始した。
そのほかにも、横浜弁護士会、日弁連が正面から組織的に取り組み、さらには国会議員が超党派の会を作って本件を問題にするようになりった。
これらの動きをマスコミが取り上げることによって、世間では、坂本弁護士事件は「単なる家出ではない、何らかの事件ではないか」という意識が急速に高まっていった。
これら世論に押され、神奈川県警は、それまでの事件性を薄めようという対応だけでは立ち行かなくなり、徐々にではあるがその捜査は事件性を認めざるを得ない方向に動いていった。
しかしながら、オウム真理教に対する捜査は依然立ち後れていた。
つまり、この時期は、坂本弁護士一家が任意に失踪したのではなく何らかの事件に巻き込まれたのだという認識は徐々に警察に形成されていったものの、それが弁護士業務関連であるとか、いわんやオウム真理教による犯行であるとかいう認識はほとんど形成されなかった。
さらにオウム真理教に照準を合わせる手前で消去法という誤った捜査方法を採ることにより、肝心のオウム真理教に対する捜査が著しく立ち遅れた結果になったのである。
1.捜査強化を求める動きが急速に盛り上がったこと
公開捜査直後から、市民の捜査強化を求める動きは急速に高まった。その経過は別表の年表記載のとおりであるが、救う会・捜す会の活動を中心に、その救出運動は全国に広がりはじめた。マスコミがこの事件に注目することにより国民の目が本件とその捜査の行方に向けられることになった。
このような幅広い坂本弁護士一家の救出と捜査強化を求める動きに対して、県警はそれに引きずられるように、徐々に対応が変化していった。
89年11月17日に諫山参議院議員が国会で質問することが15日の時点で県警の知るところとなり、17日には「横浜市磯子区弁護士一家事件捜査本部」が設置された。
また、89年12月8日の国会議員要請に対して、警察庁長官は、事件性の認識はあるし熱意を持っているという答弁を行った。同席した警察庁捜査一課課長補佐も事件解決への意欲を示している。但し、この時の表現も、警察庁としては憂慮はしていても実際の捜査管轄は神奈川県警であって、それ以上に全国の警察を挙げて捜査を行うよう現実に指示したり指揮したりするという体制には言及していなかった。
これらの動きは、警察庁・県警の主体的動きというよりは、世論に後押しされ、消極的ながらも事件性を認めて捜査方針を転換せざるを得ないという受動的なものであった。そのため、個々の動きの中には多少の成果も見られるものの、全体としては極めて不十分な捜査に止まっていたと批判せざるを得ない。
2.オウム真理教に対する捜査がほとんど行われなかったこと
上記のような変化がありつつも、依然としてオウム真理教に対しては捜査の目は向いて行かなかった。
この最大の理由は、宗教の壁、宗教法人の壁と言われるものであったと思われる。もともと行政機関は憲法上「政教分離原則」が課せられている訳であるが、これを逆手にとり、むしろ宗教団体(宗教法人)に対しては野放しに近い状況があったことは間違いない。しかも、行政は、オウム真理教のような、好戦的で、行政に対しても食ってかかり、すぐに人の揚げ足を取って攻撃してくるような宗教団体に対しては手を出そうとしない傾向が顕著である。本件は、まさにその典型的な場合と言えるであろう。
それに加えて、県警が横浜法律事務所に偏見を持っていた、あるいは少なくとも好意は持っていなかったことも相俟って、横浜法律事務所が「オウム真理教が疑わしい」と言っても敢えてそれを横に置き、オウム真理教以外を当たってみるという県警の態度が明らかに窺えた。
11月18日、松本智津夫は記者会見で警察の事情聴取には応じると答え、これに対し翌19日には、県警がオウム真理教関係者に事情聴取を要請したが、修行を理由に拒否されると、その後何一つ強い手を打っていない。
また、11月19日の「捜す会」等の富士宮における聞込み活動の結果、驚くべきことに、警察は富士宮周辺の聞き込みなどを全く行っていなかったことが判明した。このようなオウム真理教周辺での警察の聞込みの遅れはその後も随所で聞かれた。
そして、最も問題視されるのは、オウム真理教の幹部らの出国チェックさえ行っていなかったということである。11月21日、松本智津夫他幹部らが成田空港から西ドイツのボンに向けて出国した際、たまたま空港に居合わせたマスコミ関係者を通じて知らされた横浜法律事務所から県警に連絡し、はじめて県警が彼らの出国を知るというお粗末さであった。
さらに、松本智津夫らは、西ドイツ(当時)のボンにおいて記者会見し、本件への関与を全面否定すると共に身内犯行説を言い立てた。これに対し県警は、松本智津夫が帰国するのを待って12月4日に2時間だけ事情聴取を行ったが、見るべき成果は全く挙げられないまま、その後の対応も特には行っていない。
それどころか、この時、逆に県警から松本智津夫に対し、プルシャの発見が遅れたことなど、本来秘密にすべきことを安易に伝えていることが判明した。
その他、早川紀代秀の帰国予定さえ把握していないなど、およそオウム真理教に対する疑念を持って捜査しているとは思えない状況がこの後も続いていた。
この時期のオウム真理教の動きを何ら捜査対象にしていなかったことは、大きな捜査ミスである。何故なら、村井・早川らは、本件の実行犯として現場に指紋を残したのではないかと心配し、ボンに渡って指紋を消したのである。しかも、みすみすとオウム真理教の一行を海外に脱出させたことにより、彼らの内部で心置きなくアリバイ工作・捜査撹乱の相談を可能ならしめ、揚げ句には異国の地において釈明会見まで行うチャンスを与えてしまったのである。
3.オウム真理教以外の可能性ばかりを追い続ける消去法的捜査
そして、このようにオウム真理教を捜査対象から外したままの状態でいる一方、警察は、オウム真理教以外をひたすら捜査し続けた。その対象は坂本弁護士のオウム真理教以外の事件関係者、坂本夫婦の知人・友人関係に向けられた。救う会会員の中でも坂本と個人的に親しかった弁護士の多くはこの時期に聞込みを受けている。
12月中旬になっても県警担当捜査官が、さちよに、坂本堤の交友関係や性格などについて再度詳しく聞きに来たり、12月20日頃にも県警担当捜査官がさちよに、坂本の蔵書や大学時代のクラス名簿の提出要求をしている。
他方、坂本が収集したオウム真理教関係の資料についての提出依頼はこの時期にも行われなかった。
これらの捜査は、まさに「オウム真理教以外の可能性をまず潰す」ための消去法と言うべき捜査方法である。もちろん、捜査の手法としてそのような捜査方法が採られるケースもあるであろう。
しかし、本件は「拉致」事件であり、坂本弁護士一家安否が憂慮されるということは、警察庁・県警自身が繰り返し述べていたとおりである。まさに当時の認識としては、この事件は坂本弁護士一家3人の人命にかかわる事件であり、1分1秒でも捜査が遅れることによりその生存の可能性が薄れて行く事件であった。そのような事件において「失踪」事件であるということを前提にして消去法を採るということは通常考えられない。
そのことは、松橋忠光元警視官が、1991年11月6日に開催された日本弁護士連合会、関東弁護士会連合会、横浜弁護士会主催の「生きてかえれ!坂本弁護士と家族の救出をめざす第2回全国集会」において、「坂本弁護士ご一家の場合には、失踪ではなくして、明瞭に、刑法31条以降の犯罪として取り組むべきものであります。・・・私は、なぜ、捜査本部の看板をぴしっと『拉致事件』、または『誘拐事件』とされないのか。」と述べているとおりである。
このような明らかに誤った捜査方法をとったのは、上述のとおり、オウム真理教という宗教法人、それも度々行政ともトラブルを起こし警察にとってはやっかいな相手である宗教法人が対象となることを嫌うという姿勢の現れであろう。そしてそれは、オウム真理教に対する捜査が失敗に終わったときに県警が責められることを恐れたとしか考えられないのであり、このような捜査方法にこだわった当時の古賀県警刑事部長の責任は重大と言わざるを得ない。
4.県警による弁護士に対する誹謗中傷
公開捜査前後における横浜法律事務所への中傷は前述したが、その後も弁護士らへの誹謗中傷は相変わらず続いた。
富士宮周辺で聞込みをすると、「警察の人が来て、弁護士が来るだろうが事件のことについて話をするな、と言われた。」という話は度々出てきたし、12月25日に、弁護士有志が本件を被疑者不詳の逮捕監禁罪で告発した時も、「告発状添付の間取り図面は捜査妨害だ。」などと露骨に不快感を表明している。
さらには、武井が坂本弁護士の通帳を預かったことに対し、県警がさちよに「弁護士に渡して公表されたらどうするんだ。」と非難がましく抗議するなど、弁護士らの活動への不快感は随所で露にされた。
5.捜査本部の消極性
県警は、11月16日、円海山周辺を山狩りしたが、これはマスコミ向けパフォーマンスに過ぎなかったように思える。また、11月17日には「横浜市磯子区弁護士一家失踪事件捜査本部」を磯子署内に設置し、本部長(古賀県警刑事部長)、副本部長(県警捜査一課長及び磯子署長)以下120名体制と公表されたが、県警の捜査は未だ消極的であって、情報提供を求める活動さえ市民団体の行動の後追いという謗りを免れない。
「捜す会」は、89年11月17日の結成時、2万枚のビラ作成を発表したが、県警はその翌日に10万枚の捜索ビラを作成して全国に配布した。
その後、このビラの増刷はなされなかったが、12月15日に救う会が全国で13万枚のビラをまき、捜す会が写真入りポスター1万3千枚を作成し、さらに12月17日に捜す会が写真入り棄て看板800本を作成し、全国11地区に送ると、これに対抗するかのように12月18日になってようやく県警は新しいビラ20万枚を増刷した。
このように、この頃の県警の対応は、捜す会、救う会がビラを作るとこれに対抗して作る、立看板を立てるとこれに対抗して立てるとしか思えないような後追い作業であった。
6.近県警察の非協力と広域捜査指定をしなかったこと
神奈川県警は、警視庁とも静岡県警とも関係が悪く、全く協力関係はなかったようである。
事実、89年11月11日頃、神奈川県警は静岡県警富士宮署に赴きオウム真理教に関する資料の提供を要請したが断られている。1升瓶を手みやげにしたが、それすら受け取ってもらえなかったと聞いている。
同年12月3日には、三木らが杉並区宮前のオウム所有建物の前で都子を見たという目撃情報を得、目撃者に面会したところ、数日前に杉並署に連絡し警視庁の刑事が調書を作成したと聞いたので翌日神奈川県警に連絡したところ、県警は警視庁からこの件を知らされていなかった。
近県警察が主体的に動くことはおろか、神奈川県警に協力することも断る状況では、本件のような全国にまたがって捜査する必要のある事件では自ずと捜査に限界が生じて当然である。それにもかかわらず、警察庁は度々我々が要請したにもかかわらず、とうとう最後まで広域捜査指定を行わなかった。このことは、警察庁がその都度「実質的には広域捜査と変わらない状況だ」と説明していたが、特に初期における近県警察の非協力を思うとき、最初の時点で広域捜査指定を行わなかった問題は、事件性の認識の欠如と同じく大きいと考えざるを得ない。