ご両親の活動とその役割
1 はじめに
坂本・大山双方の両親にとっては、正に突如ふってわいた災厄であった。最愛の息子・娘・孫を一夜にして手もとから奪われた肉親の想いは、いかばかりか他人には想像も及ばないものがあろう。
事態をどう認識したいいのか判からない。何から手をつけ、どうしたらいいのか判からない、そんな序盤。
自分が何かやることが救出に何ほどの意味があるのか、と問いたくなる、 展望の見えない中盤。
朝、新聞を開き、テレビのスイッチをひねるといやおうなく飛び込んでくる殺害情報、そして最悪の結果を迎える終盤。
社会通念上の「不幸度」からいえば、これ以上ない荷を背に負いながら、6年間頑張ってこられてご両親にまずもって敬意と感謝の念を表明したい。
2 救出活動に果たしたご両親の活動の役割
(一) 坂本一家救出活動が、これまでの日本の行方不明事件の前例にない6年もの長きにわたって、風化せず、継続し、かつ発展した原因は、2つの柱ががっちり噛み合ってきたことにある。1つは、事件の本質即ち人権擁護と社会正義実現の使命をもつ弁護士がその使命を完うすべく活動したことの故に妻子ともども攻撃の対象になった本件を未解決のまま終らせてはならないという点への理解の浸透であり、2つは、思いもかけない突如の災厄に負けず、これに毅然と立ち向かう両親の姿が心情は共感を呼んだことである。いずれかが欠けていた場合、はたしてこれだけの運動になり得たであろうか。風化防止、世論喚起のうえではたした両親の活動の役割は極めて大きいものがあった。
(二) 両親の活動は、単に風化防止のみならず、現実にその姿に触れた人たちが、傍観者的に応援するだけでなく、自らも救出運動に何らかの形で参加する契機を作り出した。「なにかしてあげたい」という気を起こさせたのである。市民参加型の運動が、長期の闘いを支える基盤となっている。
(三) また、本件が弁護士業務を起因とする拉致事件であるということを理解して貰う上で逆な面から必要だった坂本夫婦の個人的事情では絶対起こり得ないということを一般に納得してもらう観点でも両親の活動は重要な意味をもった。
坂本夫婦の人柄、経歴を身近で育てた親の口から語ってもらうことによって「個人的事情から起きた事件ではない」ことの確信を与え、そして「そんないい人たちなら、早く救出したい」という思いへつながっていった。30年前後の人生を丸裸にされ、プライバシーもあったものではない。両親も本来なら、自分たちだけで胸に閉まっておきたい事柄を、救出のためなら公表もやむを得ないと決断された場面も何回かあった。両親を通して明らかにされた坂本夫婦の人柄や生き方は、多くの人の共感を呼ぶと同時に、本件の本質の理解を深め、犯人に対する怒りを沸きあがらせる原因となった。
(四) 事実確定や現場保存のうえでの役割も重要なものであった。
11月6日、事件発生後最初に洋光台のアパートに足を踏み入れたのは坂本良雄さんであった。施錠の有無、室内の状況についての最初の体験、目撃である。 11月7日には、坂本さちよ、田崎弥生(妹)11月8日には、大山友之、大山やいさんが室内に入る。坂本夫妻の持ち物や日常の生活と比較して、何が消えているのかを確認していく。
オウムのバッジ(プルシャ)の存在、寝室と居間の間の襖や敷居の異常を発見したのもさちよさん。 現場で何が起きたのかを確定するのに、坂本夫妻の日常生活を知る両親の存在は大きい。 又洋光台のアパートを今日まで保存してきた意義は遺体発見後に自宅の現場検証を可能にしたという事実だけからもそういえる。
警察は現場保存については、何らの指示もしていない。「救う会」の費用負担で両親が整理、掃除等をして保存に意を注いできたからこそである。日弁連の役員始め市民まで含め現地調査をした全ての人が、臨場感やリアリティーを感じたと感想を述べているように、真相を広める点でも、現場保存の役割は大きかった。
3 活動の概要と特徴
(一)事件発生当初は、警察や事務所の弁護士による事情聴取を受け、捜査公開を巡る動きのなかでは、公開の同意を取り付けようとする警察と同意せずに非公開で行くべきとする事務所の意見の間で板挟み的苦労もあった。事務所員とも、事件発生をもって初めて会ったもので、現在のような信頼関係が存在しているわけではなかった。警察も、何かというと「横浜法律事務所には、この点は言わないでくれ」「弁護士の言うことを信頼してはいけない」等と、家族と弁護士の中に溝を作るかの如き言動が目立った。 
(二)89年11月15日の公開後は、当日の事務所の記者会見に坂本良雄さん、大山友之さんも同席された。
その後翌90年2月9日、横浜弁護士会主催の「弁護士拉致事件の真相を語る集い」(開港記念会館)には両親4名が初めて参加され記者会見にも同席された。
(三)しかし、未だ自ら訴えに出るというところまでは至らず、初めて良雄さん、さちよさんの両親が訴えのために出掛けられたのが90年5月3日、甲府における憲法集会であった。
27日〜28日には香川県琴平で開かれた自由法曹団五月集会に良雄さん、友之さん。7月4日にの東京での市民集会には、さちよさん、やいさんの母親2人で参加している。
(四) 7月10日、良雄さんが労災で倒れる。以後今日まで坂本家はさちよさんが1人その重責を担わなくてはならなくなり、妹の弥生さんがこれをカバーする形になった。
さちよさんの一つの契機となったのは90年8月30日仙台で開かれた市民集会である。再審無罪となった松山事件の元死刑囚の母親である斉藤ヒデさんはさちよさんにこう言った。「今日、仙台の繁華街の街頭にたって、あなたが訴えると、人が寄ってきて激励してくれる。私が同じ場所にたって息子の無実を訴えても激励はおろか『人殺しの母親だ』と言われ石を投げられた。私と比べれば幸せですよ。自分の子供のことは母親が一番よく知っている。母親こそ先頭にたって息子の正しさを訴えるべきだ』と。さちよさんの以後の行動力の源となった言葉である。
(五) 大山友之、やいご夫妻も要請があれば、これに応えて全国へ出向くようになる。更には、呼ばれて出向くだけでなく自ら企画し、茨城県の観光名所袋田の滝で毎週夫妻2人で署名活動を展開するようになった。夫妻2人のそんな姿を見て、周りから支援の申し出が出て来るようになったのである。
(六) 両親が訴えに出向き、激励されて元気になるのと逆に回りの人を励ますという事態も生まれて来る。 その典型は、北海道の紋別でのある集まりである。集会後のさちよさんを励まそうということカニの夕食を共にしたその中で、国鉄労働組合員の奥さんが何人かいて、夫が国労組合員であるというだけで、国鉄が分割・民営化される時にJRに採用されず挙げ句の果てにその清算事業団からも解雇された人の妻もいた。「なんでうちの夫だけが首を切られたのか」と自らの不幸を嘆く雰囲気が漂う中、さちよさんが「不幸を嘆くだけでは解決しない。その不幸をどうやって自分の中に引きつけて、これにどう立ち向かうかが大切。生きている今を充実させるには、嘆いているだけではダメ」という趣旨の話しをしたところ、自分よりずっと「不幸」なさちよさんからそんな言葉を聞いて、皆が激励されたというのである。人と人との交流の基本をそこに見る。
(七) 坂本関係の集会は、この六年間全国で300回を越える。両親もその3分の1は参加していると思われる。 94年9月〜10月の全国キャラバンは両親には過酷な日程となった。弁護士は途中で交替したが、両親はぶっ通しだったのである。最終日の日比谷集会の後での「もう二度とやりたくない」とのさちよさんの言葉も、本心からだったと思われる。
ちなみにさちよさんが行っていない都道府県は、秋田・徳島・茨城の3県ぐらいしかない。
(八) 地方議会請願・陳情運動については、大山さん御夫妻が茨城県内で、こまめに出向き要請行動を繰り返されたのが、大きな影響を与えた。 茨城の実績は、その後の全国に展開することとなる請願・陳情運動の契機となった。さちよさんも国民救援会の救援美術展とドッキングして要請に出向いた地方自治体も数多い
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