坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会
組織
坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会(「救う会」)は、坂本弁護士一家救出をめざす弁護士有志の団体として、1989年11月21日に結成された。
当初、全国の弁護士に参加を呼びかけ、同年12月26日までに会員数は2,500名を越え、翌90年6月29日には会員数3,000名を越えたが、その後特段の入会呼
びかけもあまりしなかったため、92年6月に会員数3,257名となって以降、正式な会員数は最後までこの数字で増減しなかった。
顧問として、横浜弁護士会の日下部長作先生(元日弁連副会長)を代表世話人とし、他に4人の世話人をお願いした。また、全国48地域(全都道府県)に、地域責任者を置き、全国的規模の運動を展開した。約半年に1度のペースでこの地域責任者を集めた全国代表者会議を開催し、「救う会」の当面の活動方針を確定した。
この活動方針にもとづき、より細かな活動内容は、横浜に設置された事務局会議で決定されていった。事務局メンバーは、54名で構成した(神奈川32.東京20.埼玉2)。 横浜合同法律事務所を連絡事務所とし、ここにスペースを借りて机を置き、専用電話を確保し、常時2人程度の専従事務局をアルバイトで雇用して、全国との連絡や事務処理にあたった。約6年間で、在籍した専従事務局の人数は11名に及ぶ。
このほか、東京の運動を支えるため、「東京救う会」のメンバーが、ほぼ全期間を通じ、定期的に会議を開き、必要な活動を展開した。日弁連や東京の三弁護士会との連絡、警察庁・警視庁対策、マスコミ対策、東京での集会等の企画・実行などにおいて、「東京救う会」の活動は、「救う会」全体の運動を支える大きな力となった。
また、一家救出・真相究明に向けた具体的な活動を展開するため、事実調査班を設置し、ほぼ全期間を通じて地道な調査活動を行なった。このような弁護士による調査活動は過去に例がなく、捜査当局や犯行グループに少なからぬ影響を与えたものと確信している。
活動
「救う会」は、坂本弁護士一家を救出するためには、できることは何でもやろうと意思統一して活動を展開した。
しかし、弁護士有志の団体である「救う会」が実際に有力な情報を収集・探索したり、具体的な一家救出を実行したりすることには限界があり、実際の捜査・救出は警察などの捜査機関に大きく頼らざるを得なかった。むしろ、警察の有効で強力な捜査を維持・強化させるために、世論換起、風化防止などをめざして、その時々に必要な活動を「救う会」は展開した。
その結果、捜査強化を求める署名(最終的な到達数は、1,749,795名)、ビラ、ポスター、パンフレット「真相」、リーフレット「市民の暮らしと弁護士」、書籍出版(仔山羊の歌もう一度、横浜弁護士一家拉致事件)、集会(約6年間で300を越える)、ステッカー、テレホンカード、カセットテープ、日フィルビデオ、のぼり旗、風せん、電車中吊り広告、新聞広告、全国行脚、月間運動、全国統一行動(ほぼ年2回のペース)、パネル展、地方議会の請願・陳情(全国3,304自治体中836で決議採択)、国会議員要請、警察庁要請、全国キャラバン等多彩な取り組みを実施した。 

これら風化防止の活動の成果として、実に多くの情報が私たちにもよせられた。これらの情報は警察に提供するとともに、私たち自身の手で確認する必要もあった。全ての捜査・救出を警察まかせにすることは私たちにはできなかった。
このため、可能な限りの事実調査活動は、警察と連絡をとりつつも、地道に継続した。
これらの活動は、その全てを、弁護士および市民からのカンパとパンフレットなどの収益でまかなった。6年間のカンパ総額は1億4590万円を越え、その他の収益も2,268万円を越えた。
カンパは、当初「救う会」会員に対して適宜要請したが、後半では、「救う会ニュース」の発送(年一回くらい)とともに、全国の全弁護士に要請した。カンパ要請に対する反応は、毎回かなりよく、「救う会」は常に安定した財政基盤のもとに活動を続けることができた。
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