M78星雲の彼方


ウルトラマンと『二十億の針』

 ウルトラマンはそもそも地球を守ろうと考えてやってきたわけではない。『ウルトラマ
ン』第一話「ウルトラ作戦第一号」は宇宙から飛来した青い玉と赤い玉の追跡劇に始まる
。科学特捜隊のハヤタ隊員はビートル機で竜ケ森付近をパトロール中、青い玉の飛来と湖
への着水を目撃する。そして、その直後、ビートル機は青い玉に衝突してしまった。散乱
する機体、青い玉に吸いよせられ、飲み込まれるハヤタ。

 ハヤタはそこでM78星雲からやってきたという宇宙人と会う。彼は宇宙の凶悪犯ベムラ
ーを護送中、逃げられしまい、それを追跡している最中にハヤタの機と衝突したのだ。彼
は自分の不注意からハヤタの命を奪ったことをわび、代わりに自分の命をハヤタに与える
という。そして、危機に陥った時に使うように、とベータカプセルなる器具を預けていっ
たのである。そのあと、赤い玉は大勢の目撃者の前で爆発四散した。

 ハヤタは科学特捜隊の他の隊員と連絡をとり、ウルトラ作戦第一号(特殊潜航艇S16と
上空のビートルによる両面攻撃) でベムラーを湖底からあぶりだした。ハヤタはベータカ
プセルを使って、巨大なM78星雲人に変身、ベムラーを倒した。ハヤタはその宇宙人が自
分と一身同体であることを隠し、彼が乗り物を失い、地球に止まることを告げた上で「ウ
ルトラマン」と命名する。

 さて、最近、ビデオで発売されたアメリカのSF映画に『ヒドゥン』という作品がある
。日本の特撮ファンは皆、この作品に驚かされたものである。特に内容が斬新だったとい
うわけではない。ただ、そのストーリーが「ウルトラ作戦第一号」の筋立てとほとんど同
じだったからである。

 それには、宇宙からやってきた凶悪犯とそれを追ってきた刑事が登場するばかりではな
く、ラストで、宇宙の刑事は地球で相棒となり、殉職した刑事に自らの命を与えて、第二
の生へと歩み出そうとするのである。

 日本のアニメや特撮モノのアメリカへの浸透を考えれば、『ヒドゥン』のスタッフが『
ウルトラマン』を意識した可能性は高い。しかし、だからといって『ヒドゥン』が「ウル
トラ作戦第一号」のリメイクだなどと短絡するわけにはいかない。実は『ヒドゥン』には
原作となった小説があった。そして、その小説のアイデアはどうやら『ウルトラマン』に
も影響を与えているらしいのである。

『ヒドゥン』の原作、それはハル=クレメントの『二十億の針』だった。この小説は一九
五〇年に書かれ、一九六三年にはすでに井上勇氏により翻訳されて、創元推理文庫に収め
られている。

 南太平洋に墜落した二隻の宇宙船、それは脱走した犯罪者と、それを追ってきた「捕り
手」の船だった。「捕り手」は破損した船を捨て、たまたま出会った十五歳の少年バブに
寄生する。「捕り手」はバブに自分の存在を知らせ、捜査に協力するように頼む。しかし
、脱走者が地球上の誰か、あるいは何かに寄生しているとしても、それをどうやって確か
めればよいのか。地球には人類だけで二十億以上の容疑者がいるのだ・・・

『二十億の針』において、「捕り手」とバブは、いちおう肉体を共有してはいても、探偵
とその相棒として、一つのチームを組んでいる。「捕り手」はバブの助けなしでは移動す
ることさえできない。いきがかり上、「捕り手」に協力することになったバブだが、やが
て二人の間には種族を越えた友情が芽生えていく。いわばバブは、ホームズを体内に寄生
させたワトスンなのである。

 クレメントはこのコンビが気に入ったらしく、第一作から二八年もたった一九七八年に
、ふたたび「捕り手」とバブが活躍する『千億の針』を著している。また、最近話題の劇
画、岩明均『寄生獣』(講談社)の主人公コンビの原形も彼らに求めることができる。

ハヤタとウルトラマンの関係は?

 ウルトラマンとハヤタの関係が『二十億の針』にヒントを受けたものであることはまず
間違いあるまい。しかし、彼らは「捕り手」とバブのように明確なコンビではない。ハヤ
タとウルトラマンが同一人格なのか、肉体を共有するだけのコンビなのかは、どれほど『
ウルトラマン』を見てもわからない。この作品の中では、ハヤタの内面はまったく描かれ
ることがないからである。

 ただ、第十六話でハヤタは「(バルタン星人は)たしかに全滅したんだ」と、ウルトラ
マンより他に知るはずのない事実を思わず口走る場面があり(幸い、他の隊員たちはその
言葉の重要性に気づくことがなかった)、ウルトラマンの記憶がハヤタに共有されている
ことはうかがえる。

『ウルトラマン』でハヤタとウルトラマンの関係が不明確なのに対して、オーストラリア
で作成されたウルトラマンの新シリーズ(邦題『ウルトラマングレート』)やハリウッド
・スタッフによるリメイク版(邦題『ウルトラマンパワード』)では、主人公はウルトラ
マンに体を貸しているとはいっても、あくまで別人格とされており、しばしば体内のウル
トラマンと会話を交わしている点が対照的である。英語圏の発想では、たとえウルトラマ
ンといえども、他の人物の人格まで支配することは許せないということなのだろう。『ウ
ルトラマングレート』『ウルトラマンパワード』を見ていると、ウルトラマンと主人公と
の関係がしばしばホームズ=ワトソンの関係を思わせるものになっているのである。

 また、ベータカプセルを使った際にも、ハヤタの肉体がそのままウルトラマンの肉体に
変形するというわけではないらしい。第三〇話では、ハヤタがスキー場でねんざして横に
なっていたにも関わらず、変身したウルトラマンは足をかばったりなどしなかった。また
、第十四話、第二十話ではハヤタは腕に大ケガをしているが、ウルトラマンの格闘にはそ
の影響は現れていない。

 逆にウルトラマンの受けたダメージがハヤタに残ったような場面もほとんどない。第十
四話の脚本には、ウルトラマンがガマクジラと戦い、腕に傷をおった後、ハヤタの同じ所
が傷ついていることにムラマツが気付くというくだりがあったのだが、その場面は映像化
されることはなかった。

 ただ一つの例外として、ウルトラマンが大技「瞬間移動」を使った後、ハヤタが硬直し
て仮死状態のようになってしまうという場面がある(第十六話)。しかし、これも瞬間移
動が肉体ばかりではなく、精神力そのものを使う技であり、ウルトラマンの精神がハヤタ
に影響を与えているとすれば、肉体のダメージの残存とはいいきれない。

 それどころか、第十二話には、次のような場面さえある。戦い終えたウルトラマンが大
空に帰っていく時、地上に向けて小さな光の輪を放つ。その輪は地上に達すると筒条の光
の渦となり、その中からハヤタが現れる。そして、そのハヤタはウルトラマンの去ってい
く方を見上げているのである(このハヤタの分離シーンは第二七話でも見られる)。

 けっきょくハヤタとウルトラマンの肉体は私たちには未知の物理法則で結びついている
としか言いようがないだろう。また、それゆえにこそウルトラマンは、それまでのヒーロ
ー(たとえば月光仮面や、まぼろし探偵)が持ちえなかったような神秘的な魅力を得たの
である。

『ウルトラマン』最終話「さらばウルトラマン」において、ウルトラマンは最強の敵・宇
宙恐龍ゼットンにカラータイマーを撃たれ、その時、もう一人のウルトラマンが飛来し、
倒れたウルトラマンを赤い玉の中に収納する。その玉の中で、もう一人のウルトラマンは
、M78星雲の宇宙警備隊員ゾフィーを名乗った( 「ウルトラ兄弟」という設定になじんだ
人には意外だろうが、この時、ゾフィーとウルトラマンは初対面だったのだ)。

 ゾフィーはウルトラマンにM78星雲に帰るよう進めるが、ウルトラマンはなかなか聞き
入れようとはしない。

ウルトラマン「ゾフィ、私の体は、私だけのものではない。私が帰ったら、一人の地球人
が死んでしまう」

ゾフィ「ウルトラマン、お前はもう、十分地球のために尽くしたのだ。地球人は許してく
れるだろう」

ウルトラマン「ハヤタは立派な人間だ。犠牲には出来ん。私は地球に残る」

ゾフィ「地球の平和は、人間の手でつかみとることに価値があるのだ。ウルトラマン、い
つまでも地球にいてはいかん」

ウルトラマン「ゾフィ、それならば、私の命をハヤタにあげて、地球を去りたい」

ゾフィ「お前は死んでもいいのか」

ウルトラマン「かまわない。私はもう二万年も生きたのだ。地球人のいのちは非常に短い
。それにハヤタはまだ若い。彼を犠牲には出来ない」

 この会話の中で、意外な二つの事実が判明する。ウルトラマンは、この会話の中で、地
球のため、人間のためなどとは一言も口にしようとはしない。むしろゾフィの方が、地球
人のために、ウルトラマンに去ることをすすめているのだ。

 ウルトラマンはただハヤタのことだけを心配している。彼を地球に止めていたもの、そ
れは地球防衛の使命感などではなく、自分が誤って死なせてしまった一青年ハヤタに対す
る責任感だけだったのである。宇宙人であるウルトラマンにとって、ハヤタという個の尊
厳を守る方が、地球を守ることよりも大切だったのだ。

 そしてもう一つ、重要なこと、それはウルトラマンがすでに老人だったということだ。
『少年マガジン』一九六六年十月十六日号掲載の「ウルトラマンのひみつ50」(大伴昌司
編著)には「ウルトラマンのパパとママ」と題する、次のような項目がある。

「ウルトラマンには両親がいる。パパは、宇宙保安庁の長官で、平和をみだすものは、て
ってい的にこらしめるが、ウルトラマンにはやさしい。ママは、ウルトラ学校の先生をし
ている」

 放映当時、ウルトラマンはやさしい両親に恵まれた青年のイメージで語られていたこと
がうかがえる。スタッフは撮影中、ウルトラマンが実は不良青年で、帰るとママに叱られ
るから地球に止まっているのだという冗談を言い合っていたという。

 ウルトラQシリーズの基本設定を作り、「さらばウルトラマン」の脚本をも書いた金城
哲夫は、視聴者やスタッフの間に定着していた青年ウルトラマンのイメージを、あっさり
と裏切ってのけたのである。

 後年、円谷プロでは、M78星雲の千年は地球の一年にあたる、だからウルトラマンは地
球人でいうと二十歳なのだという新設定を作り、青年ウルトラマンのイメージを守ろうと
した。しかし、二十歳の青年が、「もう二万年も生きた」などという言い方をするはずも
ない。『ウルトラマン』とは、任務に失敗した老刑事が、その罪をつぐなうため、若い同
業者に命を預ける話だったのである。

 ゾフィーは命を二つ持ってきていた。ゾフィーはその一つをハヤタに与えることを約束
し、ウルトラマンとハヤタを分離する。帰っていくゾフィーの赤い玉。地上から見上げる
ハヤタ、かけよる他の科特隊隊員たち。

「キャップ!あの赤い玉ですよ。ぼくが竜ケ森で衝突して・・・衝突してどうなったのか
な?」

 ウルトラマンの命を与えられていた時の記憶はハヤタは失っていた。ハヤタの意識の中
で、竜ケ森で見た赤い玉と、去っていく赤い玉が重なり、『ウルトラマン』の物語はその
円環を閉じるのである。

 ウルトラマンの種族は自らの命を他の個体に与え、また命そのものの持ち運びができる
という神秘的な人々であった。彼らはまた個の尊厳を重んじた。その辺り、同じ神秘的な
種族といってもバルタン星人とは対局の存在だということができる。バルタン星人は「生
命」という言葉を知らず、個の概念も希薄であった。ここからもウルトラマンとバルタン
星人とは表裏の関係だということができる(第五章参照)。

 国家や民族よりも個の尊厳を優先させる。これは冷徹な政治・軍事の論理とは相容れな
いものかも知れない。しかし、個の尊厳の裏付けなくしては、国家も民族も空しい。金城
の生地・沖縄(琉球)は日本、中国、アメリカなど他国のパワーゲームに翻弄され続けた
歴史を有する地である。その痛々しい歴史が金城に、国家を超える価値を見据える目を与
えたのかも知れない(金城の生涯と、沖縄へのこだわりについては、山田輝子『ウルトラ
マン昇天』朝日新聞社、にくわしい)。

M78星雲はどこか

 ウルトラマンの故郷・M78星雲は実はオリオン座の近くに実在する天体である。神話研
究家の北沢正邦は、日本神話を天文神話として読み解き、オリオンの三つ星をスサノオの
剣、あるいはアマテラスの娘で航海神である三姫神のシンボルとみなす(北沢『天と海か
らの使信』朝日出版社、『日本人の神話的思考』講談社、『日本神話のコスモロジー』平
凡社)。スサノオの化身を称した近代日本の予言者・出口王仁三郎もその身にオリオン座
型のホクロが刻まれていたという話もある。

 そういえば、諸星大二郎の劇画『暗黒神話』も、古代の英雄伝説とオリオン座に翻弄さ
れ、運命を歪められた少年の悲劇だった。スサノオのヤマタノオロチ退治が、日本の怪獣
譚の原点であることを思えば、ウルトラマンの故郷がオリオン座の近くというのは、誠に
ふさわしいといえよう。

 しかし、この天体名は脚本上の誤植であり、企画段階では、ウルトラマンの故郷がM87
星雲に設定されていたということも、ファンの間ではよく知られた事実である。

『ウルトラQ』の未使用脚本用プロットに、「M87星雲より!」というタイトルのものが
ある。それは、「地球とはすべてが違う反世界」流星雲M87号からやってきた中性子怪獣
ミクラーのために地球が大混乱に陥る話である。相手が異次元の怪物とあっては、さすが
の一の谷博士もなすすべがなく、庭で盆栽をいじりはじめたり、最後には遊び疲れたミク
ラーが地球を去って、あっさり事件解決と、ユーモア色の強い一編になる予定だった。

 このプロットはそのまま映像化こそされなかったが、異次元怪獣がもたらす混乱ぶりは
『ウルトラマン』第十七話のブルトン、ミクラーの名は『ウルトラセブン』のカプセル怪
獣ミクラス、透明な中性子怪獣というアイデアは『帰ってきたウルトラマン』第十九話の
サータンに引き継がれるなど、後のウルトラ・シリーズに大きな影響を与えている。M87
星雲という名もこのプロットから『ウルトラマン』原案に引き継がれたものである。

 M87星雲は乙女座にあり、天文学上、顕著な特徴があることで知られる星雲である。そ
の中心から、星雲内の物質がもうれつなジェットとなって噴出し続けているのである。そ
のエネルギー源は不明であるが、かつて、それが私たちの世界と反世界との衝突によって
もたらされるという説が話題になったことがある。特に日本でその説を積極的に紹介した
のは、『SFマガジン』初代編集長だった福島正実である。福島は反世界という概念をS
Fにおける異次元テーマの一つとして説明した(福島『SFの世界』三省堂、他)。

反世界との接点・M87星雲

 SFには異次元テーマといわれる小ジャンルがある。私たちの世界とは別の時間や空間
が存在するのではないかというアイデアに基づくストーリー群である。

 福島はそれをさらに大きく三つに分類する。すなわち、数学的四次元テーマ、平行世界
テーマ、反世界テーマである。

 そのうち、数学的四次元テーマというのは、純粋に数学的に想定された四次元以上の空
間が、私たちが日常的に暮らす三次元(たて・よこ・高さの三方向を持つ空間)の世界に
現れるとどうなるかという思考実験的小説である。

 一九九四年、数学を扱うSFばかり集めたアンソロジー『第四次元の小説』(小学館)
が復刊されたが、その中にも数学的四次元テーマの作品は多い。

 コンピューター・グラフィックやバーチャル・リアリティーの世界では、三次元よりも
大きい次元を扱うことが多いので、その種のプログラムに馴染んでいる人には、それほど
理解しにくい概念ではないだろう。身近なところでは、かのドラえもんが使う「四次元ポ
ケット」「どこでもドア」も数学的四次元の応用と思われる。

 平行宇宙テーマは、私たちの世界と平行して別の歴史を歩む世界の存在を扱うもので、
昨今ブームの架空戦記(三国志で蜀漢に天下を統一させたり、第二次世界大戦で日本を連
合国に勝たせたりする類のフィクション)はその典型といえよう。映画『ブレード・ラン
ナー』『トータル・リコール』の原作者として知られるフィリップ=K=ディックはこの
テーマの名手であり、『宇宙の眼』『高い城の男』などの作品において、平行世界の狭間
でアイデンティティをむしばまれていく人々の姿を描き出した。

 さて、他の二つのテーマが思考実験から導き出されたものであるのに対して、反世界テ
ーマは一九三〇年代に入ってからの科学的発見から派生したアイデアに基づいている。

 一九二八年、イギリスの物理学者ディラックは、物質の原子を構成する三大素粒子、陽
子(電荷プラス)、中性子、電子(電荷マイナス)についてそれぞれ対となる素粒子があ
るはずだという説を唱えた。ディラックは空間から素粒子がたたきだされる時、空間の中
にその反作用が必ず現れるはずだと考えたのである。そして、その反素粒子の電荷は一般
の粒子の反対になるはずだった。

 その直後、地球にふりそそぐ宇宙線の中から陽電子(プラスの電荷を持つ電子)が発見
され、ディラックの想定が正しいことが認められた。ディラックはこれにより、一九三二
年のノーベル物理学賞を授与される。やがて、ディラックの予言を裏付けるかのように反
陽子、反中性子などが宇宙線の中から次々と発見される。

 反陽子、反中性子、陽電子があるなら、それによって構成される反原子もあるだろう。
そして、反原子は当然、反物質を形作るはずである。ならば、宇宙のどこかには反物質だ
けでできた反世界というのもあるのではないか。反粒子の物理的性格は電荷以外の点でも
対になる素粒子と微妙に異なっているから、反世界では私たちの世界と異なる物理法則が
支配しているかも知れない。

 また、その反物質なるものが本当に存在するとして、それが私たちの世界の物質と出会
えば、両者の質量は相殺して一瞬に失われてしまうはずである(対消滅)。そして、アイ
ンシュタインの相対性理論によれば、質量はエネルギーに交換できるからそこには膨大な
エネルギーが発生することになる。原爆や原子力発電として実用化された原子核分裂も、
水爆に用いられる原子核融合も燃料の質量のほんの一部をエネルギーに変えたにすぎない
。ところが対消滅では、その質量のすべてがエネルギーに変わるのだから、それを実用化
できれば人類は無限のエネルギーを手にすることができる。もっとも反物質が私たちの世
界でそれほど大きいエネルギーを生み出すとすれば、反世界との接触ほど危険なことはな
かろうが・・・SF作家や科学者の一部には、ここまで夢を膨らませる者が現れた。

 たとえば、『スター・トレック』(邦題『宇宙大作戦』)でおなじみ、宇宙船エンター
プライズ号は、燃料として反物質を積み込んでいる。

 しかし、反粒子の存在は確認されたとしても、そこから一足跳びに反世界の実在を主張
することはできない。そこで反世界実在の傍証として注目されたのが、M87星雲のジェッ
ト噴射である。たまたまその星雲の中に反世界との接点が生じ、そこで起きる爆発が星雲
の中身を押し出し続けているのではないか、というわけだ。

 もっとも一九八〇年代に入ってからの天文学的・物理学的発見はこの反世界への夢を粉
々に打ち砕いてしまった。まず、電波天文学の発達により、銀河系の中心から延びるジェ
ット噴射の存在が確認され、規模の違いこそあれ、M87星雲で見られるような現象が特殊
なものではないとわかってしまった。また、反素粒子の性質が明らかになるにつれ、それ
らは物質を構成するにも不安定にすぎ、したがって反世界としてのまとまりを維持するこ
となど到底できないということが明らかになった。

『ホーキング宇宙を語る』のベストセラーを生んだスティーブン=ホーキング博士は、最
近、M87星雲の中心にはブラックホールがあるのでは、と語っているが、その新しい夢は
あくまで、反世界衝突説という古い夢の否定の上に現れたものなのである。

 M87星雲は、M78星雲と誤植されることによって、反世界衝突説の束縛を逃れ、かえっ
てスサノオにつながる神話的イメージを付与されることになった。偶然とはいえ、ここに
は何か人知を超えたものの意図さえ感じさせるものがある。

思わぬ出典

 反世界衝突説がその後、否定されるにせよ、『ウルトラマン』の企画の時点では、反世
界との関連から、M87星雲がウルトラマンと結びつけられたことは間違いない。また、こ
の星雲が噴き出す強大なエネルギーもまたウルトラマンの故郷たるにふさわしいというこ
とになったのだろう。

 では、M87星雲のことはいかなる経路で、ウルトラQシリーズのスタッフにもたらされ
たのだろうか。まず、考えられるのは、反世界衝突説の日本での主唱者・福島正実自身に
よってだろう。福島は『ウルトラQ』の準備企画『アンバランス』に「マグマ」「宇宙バ
クテリア」のプロット二本を提供している。

 ちなみに『アンバランス』には福島ばかりではなく、もともと円谷プロと縁の深い大伴
昌司の「霊界放送局」、光瀬龍氏の「魔のグランプリ」、半村良氏の「幽霊児童車」(金
城哲夫との共作)など、SF作家によるプロットも多く準備されていたが、いずれも『ウ
ルトラQ』に生かされることはなかった。

 さて、それはさておくとして、いささか気になることがある。福島は『SFの世界』の
他、いくつかの著作で反世界衝突説にふれているが、M87星雲が反世界そのものだといっ
たことは一度もないのである。

 むろん、その星雲内で反世界が私たちの世界と接している(と考える)とすれば、M87
星雲こそ反世界への門だといえなくはないが、今一つ釈然とはしない。「M87星雲より!
」の、M87星雲=反世界というイメージはいったいどこから出てきたのだろうか。

 私はそのイメージの典拠を訪ねる内に、思わぬ書に出会うことになった。

『虚無への供物』

「三河島や鶴見の国鉄惨事、その背後には、また想像を絶した奇怪な非現実的世界がひろ
がっていることだろうが、十年前の洞爺丸沈没事故は確かにそのとおりで、そこには別の
次元の入口がくろぐろと口をあけていた。私はたちまち、その異様な色彩幻覚の世界へ誘
いこまれたのだが、ここに記したのはその世界の滞在記録で、すべて事実には違いないと
いうものの、見たところ、さながら反宇宙界の出来事のように、何もかも裏返しにされた
奇妙な凹凸を示しているため、かりにこの長い、突飛な物語が、健康で正常なこの惑星の
住人に迎えられぬとしても、それも仕方もないことであろう。私は、さしあたって乙女座
のM87星雲−反宇宙が存在するというそのあたりへ旅立って、おずおずとこの本を差し出
すほかない。これは、いわば反地球での反人間のための物語である」

 この文章で語られた、現実の背後の「想像を絶した奇怪な非現実的世界」、これはウル
トラQシリーズのテーマそのままではないか。その文体には、『ウルトラQ』第十九話の
神田博士や、同再放送第二四話の友野健二の文章を思いおこさせるところがある。これが
『ウルトラQ』の一話の中でそのまま朗読されていても、それほど違和感はなかったに違
いない。

 これは実は、中井英夫『虚無への供物』(一九六四年、初版時ペンネームは塔晶夫)の
初版あとがきの一節である。

『虚無への供物』、それは夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事
件』とならぶ三大奇書の一つとして、多くの推理小説ファンが挑み続けた作品である。中
井は一九五五年一月、この一二〇〇枚にも及ぶ大作を「いきなり全篇の結末まで頭に浮か
」べたという。しかし、それから完成までにはさらに九年もの歳月を費やすことになった
。ちなみに、作中で事件の発端として語られる青函連絡船洞爺丸沈没事故は一九五四年秋
の事件である。

 この作品は作者により七年もの間、書き進められた後、ようやく出来上がった序章から
第二章までが、昭和三七年度(第八回)江戸川乱歩賞の応募作として世に出る(『虚無へ
の供物』はこの前半だけでも独立した小説として読むことができる)。

 ちなみにこの時、中井氏が使っていたペンネームは塔晶夫という。『虚無への供物』は
、佐賀潜『華やかな死体』、戸川昌子『大いなる幻影』、天藤真『陽気な容疑者』などと
共に第二次予選まで通過したが、結局、佐賀氏と戸川氏の同時受賞という形で決着がつい
た(受賞二作品はその直後、講談社から刊行)。

 受賞者もさるものながら、中井氏と天藤氏が次点に止まったというあたりに、この年の
乱歩賞争奪レースのレベルの高さをうかがうことができる。佐賀氏と戸川氏のその後の活
躍については、すでに周知の通りである。

 また、天藤氏の『陽気な容疑者たち』も一九六三年、東都書房から、新作推理小説叢書
「東都ミステリー」の一冊として刊行された。天藤氏は農業と短大講師のかたわら地道に
創作を続け、一九七九年の『大誘拐』で日本推理作家協会賞を受賞することになる。

『虚無への供物』が講談社から出版されたのは、一九六四年のことであった。中井氏は、
乱歩賞応募から二年近い歳月をかけて第三〜四章と終章を加筆し、さらに推敲を重ねてい
たのである。なにしろ、この作品は戦後の推理小説としては他に類を見ないほどの迷宮的
構造を持つ代物なのだ。

『虚無への供物』、それは著者自らが初版前書きで「アンチ=ミステリー、反推理小説」
と呼んだ奇矯な作品である。なにしろ、冒頭、事件がまだ起きる前から自称名探偵が登場
し、未来の犯罪を推理し始めるというのだから・・・。

 やがて次々と人が死に、探偵役は殺人事件として推理を始めるのだが、推理小説を読み
過ぎた「探偵」たちの活躍で事態は二転三転し、そもそも何が「事件」だったのかさえ判
らなくなってしまう。読者は次第に、探偵行為そのものがもたらす迷宮へと引きずりこま
れていくのである。洞爺丸遭難という大量死をもってはじまる物語は幾多の惨劇を飲み込
みつつ、最後に翌年の紫雲丸遭難というもう一つの大量死へと収斂し、そして結末では探
偵小説史上、前例のない最も意外な「犯人」が明かされる。

 推理小説をよく読んでいる読者ほど、著者がしかけたワナから抜け出すことはできない
。この作品を「推理小説の最後の墓碑銘」と評した論者さえいたという。三島由紀夫は丸
二日間、『虚無への供物』を読みふけったあげく、著者の下に押し掛けていったというが
、本格推理嫌いだった三島がこの作品に魅きつけられたのもわかるような気がする。

 しかし中井による推理小説の構造そのものへの挑戦は、実作者の間にも多くの再挑戦者
を生み、結果として本格推理というジャンルをさらに豊かにするものとなった。そして、
その流れが現在の新本格派を準備することになった。しかもなお、『虚無への供物』を含
めた三大奇書を超える作品がいまだ生み出されていないということもまた、定評となって
いるのである(『虚無への供物』は現在、講談社文庫に収められている)。

 さて、「M87星雲から!」プロットにみられるM87星雲=反世界というイメージは、『
虚無への供物』初版あとがきの「乙女座のM87星雲−反宇宙が存在するというそのあたり
」というくだりから生じたものではないだろうか。

『虚無への供物』は刊行当時、商業的には必ずしも成功とはいえなかった。しかし、刊行
翌年には『ミステリ・マガジン』が選ぶ戦後推理小説ベストスリーの一つに数えられてお
り、当初から少なくとも推理小説ファンの間で話題になっていたのはたしかである。だと
すれば、SFや推理小説への関心が深かったウルトラQシリーズのスタッフの中に、これ
を読んだ者がいてもおかしくはあるまい。否、むしろ彼らが「反地球での反人間のための
物語」に関心をもたなかったとは、かえって考えにくいのである。

 そして、反世界としてのM87星雲は、神秘の世界として再解釈され『ウルトラマン』の
M78星雲につながっていった。

 中井英夫は一九九三年十二月、この世を離れ、反宇宙へと旅立っていった。彼のこの地
球での置き土産に、ウルトラマンの故郷の名があるとすれば、それもまた故人をしのぶよ
すがの一つになるのではなかろうか。

「ウルトラ兄弟」について

 なお、本章の最後に「ウルトラ兄弟」なる設定について一言しておきたい。ゾフィーを
長兄とし、ウルトラマン、ウルトラセブンらをことごとく兄弟とみなすこの設定は、『帰
ってきたウルトラマン』放映時にはじめて現れたものである。しかもその発案者は円谷プ
ロ関係者ではなく、当時、『小学三年生』の編集部にいた上野明雄氏だという。この設定
は当初、小学館の学習雑誌の中でのみ用いられた。それが本格的に劇中設定に取り入れら
れるのは、一九七二年四月放送開始の『ウルトラマンA』からである。

 当時、雑誌媒体を通したウルトラ・シリーズの広報のほとんどに関わっていた大伴昌司
は、上野氏の発案によるこの新設定に対して、本気で怒り、さんざん苦言を呈したという
(竹内博編『OHの肖像−大伴昌司とその時代』飛鳥新社)。

 たしかに「ウルトラ兄弟」の設定によって、ウルトラ・シリーズに一貫した連続性が生
じ、それが視聴者にも一種の安心感を与えたことは否定できない。しかし、これでウルト
ラマンに擬似家族としての「私生活」が与えられたため、彼がもっていた神秘的雰囲気は
損なわれてしまった。また、「ウルトラ兄弟」という設定がいったん頭に入ってしまうと
、その中では初代ウルトラマンとウルトラセブン以降のウルトラ戦士が「兄弟」として結
びつくため、『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』以降のウルトラ・シリーズの作品世
界の違いが見えにくくなるという問題もあった。こうして「ウルトラ兄弟」の功罪を考え
てみると、大伴が本気で怒ったというのも、うなずけるのである。

追記(『虚無への供物』をすでに読んだ人のために)

 一九九五年三月二〇日、東京の地下鉄五つの路線で「サリン」という有毒ガスが充満し
、死者十名以上、負傷者役五千五百人という惨事を招いた。その直後、以前からサリン所
有を噂されていたカルト教団・オウム真理教に対する警察の強制捜査が開始される。それ
から三カ月ほどの間、あらゆるマスコミはオウム一色に染めあげられ、全国民がサリンの
行方を追う探偵になった感があった。

 通勤ラッシュという日常的な時間に、それを浴びるであろう人々の預かり知らぬ理由に
より撒かれた毒、そしてそれによってもたらされた(本人にとって)あまりにも非現実的
かつ無意味な死・・・私たちは「探偵」になることによって、虚無に何らかの意味を与え
ようとしていたのだろうか。著者自身が「反地球での反人間のための物語」と呼んだ、そ
の物語を現実の世界で追体験してしまったのだろうか。私たちはどうやら恐ろしい時代を
生きているらしいのである。



第五章 侵略者群像