Back Numbers : No.12~雑想ノート



最近っちゃんが仕事が忙しく、ほとんど映画を見ていない状態が続いていて、毎月の「よもやま話」のネタを考えるのにも難儀しております。そこで今月からはこのコーナーで、映画に関するエッセイなどを主にお届けしていきます。(でも「よもやま」もたまにはやる予定なのですが。)
てなところで今月のお題は、

もう少し言っておきたい今年の日本映画

今年は「日本映画復活の年」なんて言われ、例年に無くマスコミに日本映画の話題が登場する機会が多かった。まぁ悪くない話である、何の話題にもならず相変わらず日本映画はつまらんつまらん言われ続けているよりは。しかし、マスコミの無知で無責任な煽り文句を真に受けてはいけない。心ある映画ファンならみんな分かっている筈である。日本映画は今年いきなり復活した訳ではないっ。今年のいわゆる“日本映画ブーム”の正体はこういうことである。大手を自称する東宝・東映・松竹なんて映画会社が、黄金期と呼ばれていた50年代以前の旧態依然の方法論にしがみつき続け、その地盤沈下に拍車を掛け続けてきた間隙をぬって、独立系の映画監督やプロダクションがそれぞれの身の丈に合った独自のやり方で自分達の創りたい映画を製作し配給する、その方法論が模索され続けてきた結果が、一部で目に見えやすい形になって現れてきたのだ。今年になっていきなりみんな頑張り始めた訳ではない。今年になって急に面白くなった訳でも全然無い。これは何年も前から(ひょっとすると何十年も前から)、どちらかと言えば個々のレベルで努力され続けてきた流れが顕在化してきたものでしかない。今まで非主流と呼ばれてきたものが、力とノウハウと自信を付けて観客の信頼を少しづつ呼び戻し、今まで主流と自負していたものととって代わろうとしているだけである。しかして、ブームだなんて浮かれていてよさそうな気配は、ほとんどどこにも見当たらないのだ。創る側の条件はまだまだ厳しい、という話ばかりを耳にすることが圧倒的に多いからである。

ただ今年は、ここ近年の流れを象徴するような注目作が特に多く世に出た、ということは事実かもしれない。それらはどれも面白い作品であったのだが、その面白さの質が独特で、私の心に特に残った映画が2本ほどあった。

その内の1本は、どメジャーで申し訳ないのだが、【もののけ姫】である。主人公の声を担当した松田洋治さんが某インタビュー番組で、「おじさんが本気を出すとすごいと思った」と言っていたのを今更ながらに思い出す。ちゃんとキャリアを積んできた海千山千のおじさんおばさん達が、知恵と技術を結集させ総力を注ぎ込んだ結果が、配収100億円。ブームに乗ったという向きはあるにしろ、その乗っかるブーム自体をこしらえ上げたのが、紛れもない実力のなせる業である。私はこの映画のすっきりしないエンディングに特に感銘を受けた。かように現実は、なかなか白黒はっきりと決着を付けづらいものであるから大いに悩んでくれたまえ、と監督からメッセージを送られているかのようであった。しかるに、このエンディングの一般的な評価はどうだったのだろう。周りの反応を聞く限り、はっきりとしたカタルシスが得られないこの終わり方に、うーんと頭を抱えてしまった人も多かったように見受けられる。でもこの映画は、やはりそこの作りが画期的であったように、私には思える。これはAという中心人物がBという対立者との関係の中で何らかの決着を付ける話ではない。この話ではAもBも中心人物であり、どちらも正義でありながらどちらの手も血塗られており、しかも戦っても決着が付かないのだ。ここには全く新しい形のドラマツルギーが呈示されているのではないだろうか。そして、いかにブームに乗っかっているのだとは言え、まがりなりにもこの在り方を受け入れた日本の観客(全く受け入れていなかったとしたらいくら何でも配収100億はムリだと思うのね)ってちょっと将来に向けて期待が持てるかもしれない、と私は勝手に喜んでしまったのだった。ということで、この映画はアメリカでも公開が決定しているとのことなのだが、果たしてこんなドラマが彼の地で受け入れられるのだろうか。どうも難しいような気がするんだけれどもなぁ……。

さてもう1本の作品は、あのカンヌ映画祭で最年少で新人賞を受賞したという、【萌の朱雀】である。この映画が何故印象に残ったのかと言えば、やはりその独特の創り方に起因している部分だろうと思う。この映画の撮影では、キャスト(スタッフも)に合宿生活を行ってもらい、いわば映画の中の家族のような疑似家族の関係を実際に作らせて、そこに立ち現れてきた生の感情をフィルムに収めようとしたとのことである ! 疑似家族を作らせること自体はフィクションでも、そこに生じてきた実際の感情を写し取ろうとするのは、正にドキュメンタリー的な方法論であり、これは、それまでドキュメンタリーに類するものを撮り続けてきた監督の映画の撮り方から必然的に導き出されてきたのだと思われるのである。私は今年山形のドキュメンタリー映画祭に行った際に(そういえば河瀬監督も来てましたね)、ドキュメンタリーとフィクションの境界線はますます曖昧になっているのではないか、との思いを強くしたのだが、ドキュメンタリーにせよフィクションにせよ、これらを物語として理解する仕組みが人間の脳みそにある以上、題材をどこに採るかの違いだけで、両者に映画としての本質的な差異はそれほど無いのではなかろうか、と考えたのであった。河瀬監督が【萌の朱雀】で捉えた世界は、正にフィクション・ドキュメンタリーの境界線を軽々と飛び越え、ただ人間の心が揺り動かされる瞬間 - 現実なのか非現実なのか分からないけれども - をフィルムに定着させてみせたかのようであり、私はそれを、純粋に映画的な何かだと感じたのであった。そして、この本質を、誰に教わることなく多分もともと本能で知っていて、ズバリと形にして突きつけてみせた監督を、天才だと思ったのである。……ただし、この映画の創り方は、いわゆる一般的な劇映画の方法論とは多分全く違っているのだろう。映画の制作状況を取材したTV番組を見る限り、そこにあるものをそのまま捉えればいい、という監督の姿勢は、現場の大きな混乱の一因になっていたようである。また、キャストの生の感情を掘り起こす、という方法も、今回のようなやり方だとどこまで続けられるだろうか。私はその番組を見て、本当に監督は2本目の長編を撮り上げることができるのかどうか、非常に恐くなってしまった。この心配が杞憂で終わりますように。彼女の真の可能性は、長編2作目を創り上げた時にこそ証明されるのではないかと思う。

(ということで今回、話があっちこっち行ってすみませんでした。)

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