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八月の水平線 沢原 馨
緩やかな孤を描く水平線の上に、夏の雲が湧き起ころうとしている。 ![]() 朝、いつものように起きて、おばさんとふたりで朝食を済ませ、朝の北行きのバスが店の前を行き過ぎ、川本さんのご主人が乗用車で出勤してゆき、しばらくして南行きのバスも通り過ぎると、あたりには夏の日の静けさが戻ってくる。それから、浩一はスケッチブックを手に、縁側に腰を下ろした。ふだんなら風が通り抜けて涼しい縁側も、今朝は風がなく、じっとりと暑さを含んだ空気が澱んでいる。 スケッチブックには女性の顔の輪郭が描かれている。昨日会った、みらいと名乗った女性の顔を、浩一は描こうとしていた。美術系の大学を出て、今もデザイン関係の仕事に就く母親の影響なのか、浩一は子どもの頃から絵がうまかった。高校を出たらそっちの方面に進んでもいいと、母親も父親も言ってくれるのだが、浩一はあまり乗り気ではない。絵は嫌いではなかったが、それを生業として生きてゆこうなどという思いにはまるで結びつかない。というより、自分のいわゆる“進路”というものに、浩一は未だに無頓着といってよかった。 絵はあまり描き進むことができなかった。考えてみれば、浩一はあの女性の顔をあまりよく覚えていない。屈託のない笑顔だけが妙に印象に残って、顔立ちの細かな造作などはほとんど覚えていないのだった。浩一は軽くためいきをついてスケッチブックを傍らに置いた。立ち上がり、店で片付けものをするおばさんに「浜に行ってくるよ」と声をかけて勝手口から家を出た。 空は青く澄み渡っている。南の岬の上あたりに小さな雲がひとつ浮かんでいた。国道のアスファルトが陽射しに灼かれてゆらゆらと熱気を放っている。南から乗用車が一台走ってきて、浩一の前を行き過ぎていった。車をやり過ごし、浩一は国道を横切って松の林に足を踏み入れた。子どもだった頃には、水着姿で浮き輪を片手に松林を抜けて浜へ行ったものだった。今は空き家になっている農家に、その頃はひとつ下の“タカちゃん”という男の子がいて、よく一緒に遊んだ。彼が水着姿で誘いに来て、一緒に国道を渡って浜へゆき、お昼まで遊んだものだった。浩一が中学に上がる年の早春、その一家は遠い町へ越していってしまった。以来、浩一は水着姿で国道を渡ることはない。 松の林を抜け、ところどころに設けてある階段から防波堤の上へ登った。浜に打ち寄せる波は昨日より少しだけ荒れているように見える。防波堤から浜へ降り、波打ち際を歩いた。ビーチサンダルの足が波で洗われ、波は足の下の砂をすくって逃げてゆく。 夏は、毎年少しずつ退屈になってゆくような気がする。子どもの頃はここで過ごす夏の日々が楽しくてたまらなかった。タカちゃんと一緒に、浜で遊び、山へカブトムシを捕りにゆき、川エビの捕り方を教えてもらい、タカちゃんの家の稲刈りを手伝い、稲刈りの終わった田圃の畦で西瓜を食べた。真っ黒に日焼けした顔がくしゃっと笑う、あの友だちのことは決して忘れない。でも、今はもういない。 タカちゃんがいなくなって、夏の日はどこかが変わってしまった。そしておじさんが亡くなってから、おばさんがひとりで暮らすこの家にやって来るようになってから、夏の日々はさらに昔とは大きく違ってしまった気がする。今でも夏が近づくとあの頃の日々を思い出す。あの頃と同じ夏が待っている気がしてここへやってくる。でも、楽しかったあの頃と同じ夏の日々は、もうやってはこない。もう昔とは違うのだとわかってはいるのに、夏が来るたびに胸の奥の記憶があの頃の日々を待っている。待っているうちに、やがて夏は過ぎる。 浜から戻って、庭の隅の水道で足を洗っていると、店の方からおばさんの声が聞こえた。 「浩ちゃんかい?」 「うん」 浩一は少し大きな声で返事をする。 「ちょっと頼まれてくれるかい?」 店に出ると、おばさんはダンボール箱を浩一に手渡した。箱には洗剤やら醤油やらといった品々が入っていて、片隅に子どものための駄菓子がいくつか入れられている。 「これを川本さんの家まで届けてくれるかい」 「うん」と答えて、浩一は箱を抱え直した。箱はけっこう重い。日用品の買い物なら町で済ませればいいはずだったが、昔からのつきあいからか、川本さんの家は今もおばさんの店から買ってくれている。今は奥さんが身重なので荷物をおばさんが届けることが多かった。わざわざ車で届けるほどの距離でもなく、この家に浩一が居るときには当たり前のように荷物を届けるのは浩一の役目になった。 箱を抱えて国道の脇を少し北へ歩き、途中から水田の中を辿る農道へと進む。陽射しに灼かれて汗が噴き出してくる。川本さんの家の木戸へ差し掛かると、おばあちゃんが裏の畑から戻ってきたところだった。朝の涼しいうちに畑仕事を済ませて、暑くなる時刻には戻ってくるのだ。挨拶を交わしておばあちゃんと木戸を入り、荷物を勝手口の横に置く。川本さんの家の様子も浩一はすっかり知り尽くしている。奥さんが大きくなり始めたお腹を抱えて顔を出し、浩一に礼を言って、冷たい飲み物を出してくれる。家の奥から四歳の子どもが浩一の姿を見つけて走り寄ってきた。少し遊んでやらなくてはならない。川本さんの家に荷物を届けたときの、これが日課と言ってもいい。 「浜川さんのおばちゃんも浩ちゃんが来るとなんだか楽しそうだね」 庭の隅の日陰で遊ぶ浩一と我が子を眺めながら、川本さんの奥さんが言う。浩一は子どもの相手をしながら奥さんの顔を見た。 「おばちゃん、子どもがいないから、浩ちゃんのことを自分の子どもみたいに思ってるんじゃないかな」 浩一は曖昧な笑みを返し、また子どもの相手をする。 「浩ちゃん、こっちに引っ越してきたら?」 奥さんが笑いながら言う。 「え?」 浩一は少し真顔で奥さんの顔を見た。奥さんは「冗談よ」と笑うが、それも悪くないと浩一は思う。都会の生活はあまり自分に向いていないようにも浩一は思っている。いっそのこと、ここで暮らして行けるなら、それも案外いい考えかもしれない。 奥さんととりとめのない話をしながら子どもの相手をしてやり、そうして小一時間が過ぎて、お昼も近くなってようやく浩一は川本さんの家を後にした。木戸を出て、農道を歩いていると、国道を北から南に向かうバスの姿が見えた。南行きのバスがお昼前に通り、お昼を過ぎて今度は北行きのバスが通る。バスは夏の熱気の中でゆらゆらと輪郭がぼやけているように見えた。バスはゆっくりと国道を走り、やがて店の前のバス停で停まった。ふだんは乗る人も降りる人もなく行き過ぎる。停車するのは珍しかった。やがてバスが発進し、重そうに加速してゆくと、バス停には女性がひとり立っていた。 まだ距離があって顔まではよくわからないが、あの女性が誰なのか、すぐにわかった。浩一は駆けだした。未舗装の農道はビーチサンダルでは思うように走れなかった。もどかしいような思いで、浩一は走った。なぜ走るのか、自分でもよくわからなかった。 バス停の女性が浩一の姿に気付いたらしく、こちらを見ながら国道をゆっくりと渡ってくる。よくやく国道に戻り、浩一は女性の前に立った。はあはあと息を切らし、全身に汗が噴き出していた。 「走らなくてもいいのに」 彼女が笑った。 「そんなに急がなくても逃げないよ」 そう言って彼女はまた笑う。深く息をしながら、浩一は彼女の顔を見た。 逃げるさ。浩一は思った。急がないと、いなくなってしまうかもしれないじゃないか。タカちゃんもおじさんも、楽しかった子どもの頃の夏の日々も、みんないなくなってしまった。いつの間にか、大切なものはみんなどこかに行ってしまう。急いで走ってこなければ、その笑顔もすぐにどこかへ行ってしまう。そんな気がした。 彼女はつばの広い、白くて丸い帽子を目深にかぶっていて、目元が日陰になっている。薄いパステルグリーンのワンピースを着た姿は昨日とはずいぶんと印象が違っている。ワンピースの裾には鮮やかなハイビスカスが咲いている。微かな風にハイビスカスが揺れ、彼女の長い髪が揺れる。両手は腰の後ろにまわし、その手に小さなバッグを提げている。脚を揃えて立ち、首を少し傾げて帽子の陰から上目遣いで浩一を見る。その姿は夏の光に溶けて幻のように儚く美しかった。 「どうかした?」 彼女はまた笑う。 「どうもしない」 浩一はおばさんの家へ向かって歩き始めた。その後を彼女がついてゆく。 「でも、ちょっと嬉しかったな、走ってきてくれて」 浩一の後ろから彼女が言う。 「私だってわかって、走ってきてくれたんでしょ」 浩一は何も答えない。なんだか自分の気持ちをすべて見透かされているような気がして、うまく言葉を選べない。 「Tシャツ、返しにきてくれたのか」 どうでもいいようなことを、浩一は口にする。本当はまた会えたことが嬉しかったのに、素直に言えない自分が悔しく情けない。 「うん、まあね。でもホントは、もう一度会いたいなと思ってね、浩一くんに」 そう言って彼女は笑う。浩一はふりむいた。彼女は笑っている。悪戯に夢中の子どもみたいな表情だった。本気なのかどうか、さっぱりわからない。 店に着くと、ちょうどおばさんが出てきて迎えてくれた。「おかえり、ご苦労さん」と浩一に言い、後ろの彼女を見て「あら、いらっしゃい」とにっこり笑う。彼女は「こんにちは」と答えて、ぺこりと頭を下げる。浩一はなぜかわけもなくほっとした。 「川本さんの奥さんが、お金は月末にまとめて払うって言ってた」 浩一はおばさんに言いながら店の中に入ってゆく。おばさんは「そうかい」と答えて、彼女に目配せして店の中に招き入れている。 「もうお昼だね。何もないけど、一緒に食べてってね」 おばさんが彼女に言い、彼女はお礼を言いながら中に入ってくる。浩一は所在なく店の隅に立っている。彼女が笑う。浩一はちょっとむっとする。昨日出会ったばかりの年上の女性への憧れにも似た淡い想いを、自分でも持て余してしまってどうしていいのかわからなかった。 浩一とおばさんと、そしてみらいと名乗った女性の三人で、昼食を食べた。焼き魚と冷や奴と漬け物とご飯という簡素な食事で、おばさんは「田舎で何もなくて、ごめんなさいね」と言いながら彼女の分も用意して、彼女は「美味しいです」と言いながら、そんな食事が楽しいというふうに食べている。おばさんと自分と、そして昨日出会ったばかりの女性との三人とで食卓を囲むのは、なんだかひどく不思議な気がした。きれいな箸さばきで美味しそうに焼き魚を食べる彼女を見ながら、浩一はこんな昼食の光景が昔にもあったような気もした。食卓でのおばさんの話題はいつものように川本さんのことや町でのちょっとした出来事に終始した。ふだんならいるはずのない女性は、そんな食卓にすんなりと溶け込んでしまっているように見えた。おばさんは彼女にも浩一にも何もきかない。おばさんは昔からあまり詮索好きな方ではない。細かなことをあれこれときくことは決してないが、しかし肝心な部分はすべて知っているような、そんな人だった。 食事が終わると、手伝うと申し出た彼女をやんわりと断り、おばさんはひとりでさっさと片づけを始めてしまった。「散歩でも行っておいで」というおばさんの言葉に促されてふたりは家を出た。 家を出て、国道脇を少し南へ歩き、農道を辿って南の山裾を流れる小さな川の堤防を歩いた。歩きながら、彼女は「お魚が美味しかった」とか「古くて居心地の良さそうな家だった」とか、そんなことをひとりで喋っていた。浩一は「うん」とか「ああ」とか、気のない返事をして歩き続けた。何か気の利いたことを話したいとも思うのだが、何を口にしても陳腐な言葉になってしまいそうで恐かった。夏空の下を、蝉時雨と夏草の匂いに包まれてふたりは歩いた。 「浩一くんって、いつもそんなに無口なの?」 川伝いに歩いて国道の橋に差し掛かったとき、ふいに彼女がきいた。 「そんなことないけどさ」 浩一は答える。 「何か、怒ってる?」 彼女が浩一の顔を覗き込んで言う。 「そんなことないよ」 慌てて答えた浩一の言葉は、ちょっとむきになっているような口調だったかもしれない。 「ふうん」 そう言って彼女は微笑み、また前を向いて歩き始めた。国道を越え、河口の端を回り込んで浜へ出た。水平線の上に積乱雲が伸び上がっている。今日もまた夕立が来るかもしれない。 「あの、さ」 と、浩一は彼女に呼びかけた。 「みらい」 彼女は前を向いたまま、ひとこと言った。 「みらい、って、呼んで」 戸惑う浩一に向かって、さらに彼女が言った。 「みらい、さん」 促されて「みらい」と口にして、ちょっとためらって「さん」を付け足した。 「さん、は、いらないから」 彼女が笑う。彼女は本当によく笑う。笑っていないときでも、その涼しげな目元にはいつも微かな笑みが浮かんでいるように見える。その笑みが眩しくて、浩一はどうしていいのかわからなくなるのだった。 「みらい」 促されて、というより無理強いされたように、浩一はその名を口にした。 「はい、なんでしょう」 みらいは浩一に向き直り、真っ直ぐに顔を見た。表情には優しげな笑みが浮かんでいる。 「Tシャツ、返してくれなくてもいいよ」 浩一がそう言うと、みらいは一瞬きょとんとして、それから大声で笑い出した。ひとしきり笑ってから、まだおさまらない笑いをこらえるようにして、浩一を見た。 「ああ、ごめん、ごめん、笑ったりして。返さなくてもいいの? Tシャツ」 浩一は笑われたことにちょっとむっとしながらうなずいた。 「そっか。私もね、返すのやめようと思ってたんだ。実は今日もTシャツ持ってきてない」 そう言って、みらいはくすっと笑う。 「でも、もらっちゃうわけにもいかないかなぁ」 何を考えているのか、みらいはそう言って海を見た。 「浩一くんって、あの家の人じゃなかったんだね。おばさんの家なんだ。夏の間だけ来てるの?」 唐突に話題を変えて、みらいが浩一を見た。お昼の食卓の話題で察したのかもしれない。そう言えばおばさんの話の端々にそういったことが含まれていたような気もする。 「そう、母親の実家なんだ」 「ふうん、そうなんだ。夏になると毎年来てるの?」 「うん、子どものころからずっと」 浩一が答えると、みらいはまた海を見た。 「来年も来る?」 視線を海に向けたまま、みらいがきく。 「ああ」 来年は受験を控えている。高校を卒業した後にどんな道に進むにしても、何らかの“受験”が待っているだろう。今までのようなのんびりとした夏を過ごすわけにはいかないかもしれない。でも、たぶん来年の夏もここに来るだろう。みらいの横顔に誘われるようにして、浩一も海を見た。蒼い海の向こうにはぼんやりと曖昧な水平線が横たわっている。 「じゃあ、Tシャツは来年返す。それまで借りとく。私、来年の夏にまたここに来るから、そのとき、返す」 みらいは顔を海に向けたままだ。帽子の下の長い髪が海風に吹かれて揺れている。みらいの言葉は、浩一の返事を求めてはいないように思えた。ただ自分の決めたことを口にしただけのようだった。 「来年の夏、またここで会おうね」 みらいはそう言って浩一を見た。真顔の中に微かに笑みが浮かぶ。浩一はただうなずくだけだった。 「約束だよ」 そう言ってみらいはまた笑い、「これ持ってて」と帽子とバッグを浩一に押しつけ、サンダルをその場で脱いで波打ち際へ歩いていった。膝のあたりまで水に浸かり、寄せる波を避けては追いかけ、小さな子どもみたいにはしゃいでいる。波を避けてみらいが跳ねるたびに、ワンピースの裾が大きく風に煽られる。彼女はまるで気にしない。浩一は彼女の帽子とバッグを膝元に抱えて砂の上に座り、波打ち際で遊ぶみらいを見ていた。その姿は美しく儚く、夏の日の午睡の夢のようだった。 しばらくして戻ってきて、彼女は浩一の横に腰を下ろした。ワンピースが砂に汚れるのもまるでお構いなしだ。 「私、明日帰るんだ」 浩一の横で浩一と同じように膝を抱えて座り、みらいが言った。 「帰る、って、どこへ」 浩一がきく。 「だから、北の方」 どうしてそんなことをきくのか、というふうに、みらいが答えて、そのまま会話は途切れてしまった。白い砂浜に夏の陽射しが降り注ぎ、海風は強く、みらいの髪はますます強く煽られる。 「私、両親が離婚するんだ。だから、夏が過ぎたら一人暮らし始めるんだ」 ふいに、みらいが言った。不意をつく言葉にはっとして、浩一は彼女を見た。その横顔に笑みはなく、少し伏し目がちの真顔が哀しく翳っている。浩一は言葉もなく彼女の横顔を見つめ、やがて波の向こうへ視線を戻した。そのままふたり、黙ったまま並んで座り、海を見ていた。波の音が妙に遠い。水平線の上を小さな白い船が横切ってゆく。その船がやがて北の岬の向こうに見えなくなるのを、浩一はずっと見ていた。 夕方の、北に向かうバスに乗って、みらいは帰っていった。おばさんに丁寧にお礼を言って、バスに乗り込む直前、みらいは浩一の耳元で「約束、忘れないでね」とささやいたのだった。夏の夕方の陽射しを反射しながらバスが国道を遠ざかってゆく。バスがやがて松の林の向こうへ見えなくなるまで、浩一はバス停の横に立って見送っていた。 「浩ちゃんのそんな楽しそうな顔、久しぶりに見るねぇ」 店に戻った浩一におばさんがぽつりと言った。おばさんを見ると、今自分の言った言葉ももう忘れてしまったように夕食の準備に取りかかろうとしている。もしかしておばさんとみらいは知り合いなのじゃないかと、わけもなくそんな気がした。そんなはずもなかった。夏の夕暮れが近づいている。店の建物の陰が国道に長く伸びていた。 ![]() 「浩ちゃん、おばさんね、この店を閉めて、家も引き払うことにしたよ」 その日の夕食も終わった食卓で、おばさんは唐突に切り出した。西瓜を食べながら見るともなくテレビの画面に目を向けていた浩一は驚いておばさんの顔を見た。おばさんは哀しげな笑みを浮かべて浩一にうなずいた。母親は視線を下に向けて黙ったまま、食卓の上で両手を湯飲みに添えている。すでにおばさんから聞いていたのだろう。母親が珍しくこの家にやってきたのは、このことがあったからに違いなかった。 「そう、なんだ」 おばさんの言葉はいわば“通告”なのであって、浩一の意見を聞こうとしたものではなかった。それはわかっていた。だからそんなふうな返事しかできなかった。 「遅くても十月くらいまでには引き払うから、浩ちゃんがここに来るのも今年が最後になるねぇ」 おばさんは申し訳なさそうに言う。浩一は黙ったまま視線を食卓に落とした。母親が冷めてしまったお茶をひとくちすすった。テレビではくだらないバラエティ番組をやっている。視線を上げて、浩一は部屋の中を見渡した。子どもの頃から夏の日々を過ごした家だった。この家にやってくるのも今年が最後だと、理屈ではわかっても、あまり実感がなかった。 「寂しくなるけどねぇ」 おばさんのその言葉は、おそらくおばさん自身に向けられたものだったろう。しかし浩一は「うん」と答えておばさんの顔を見た。夏の間のひとときだけだったが、浩一にとっておばさんはもうひとりの母親のようだった。この家ももうひとつの浩一の家だった。でも仕方がなかった。 けっきょくほとんど客もない店を続けてこの先どうなるものでもなく、どこかで見切りを付けなくてはいけないということだった。ここを引き払った後は隣の市に引っ越すという。かつておじさんが工場に勤めていたときの同僚だった人が、今はその町で会社を興して成功し、そこで働かせてもらうことになっているという。生前とてもお世話になったからと、おじさんが亡くなった後も残されたおばさんのことを気にかけてくれていたのだった。 やむを得ない事情があるにしても、生まれ育ち、親から受け継いだ家を引き払うのはつらい選択に違いなかった。それはおそらく浩一の母親にとっても、同じだったろう。母親は黙ったままだったが、その心中にはさまざまなものがあったように浩一は思う。そんなことを思いながら、浩一はふとみらいのことを思い出していた。 来年の夏、またここで会おうね、約束だよ。 彼女の言葉が、あのときの彼女の笑顔が、頭の中でぐるぐると回っていた。 次の日の朝方のうちに、おばさんと母親が今後のことを話し合い、浩一は聞いていても仕方がないからとスケッチブックを持って浜へ行った。スケッチブックにはすでに何枚か、みらいの姿が描いてある。屈託のないあの笑顔、波打ち際で遊ぶワンピース姿のみらい、そして哀しみを湛えた横顔。それがここで過ごす最後の夏を描いたものになるだろう。防波堤に座って海を眺めながら、しかしスケッチブックを開くことはなかった。 午後になって日が傾き始める時刻に、母親は帰っていった。おばさんが軽自動車で南の町の駅まで送ってゆき、その間は浩一がいつものように留守番をした。店先のベンチに座って本を読みながら、ときおり国道の先へ視線を投げた。夕立もバスも、みらいも、やっては来なかった。 それからの数日間もそれまでと同じように夏の日が過ぎた。ただ、この家に置きっぱなしになっている浩一の数々のものを整理する作業が待っていた。いつもならまた来年の夏に使うからと置いておくものも、今回はすべて整理しなくてはならなかった。箪笥を整理すると、すでに小さくなって着られなくなってしまった服も少なくなかった。子どもの頃に買ってもらったおもちゃもなぜかそのまま残っていたりした。要らないものはすべて処分してもらうことにして、必要なものだけをダンボール箱に詰めた。黙々と、浩一は荷物を片付けた。片付け終わると、東京の家に送る荷物はダンボール箱ふたつにしかならなかった。そのことがなぜか寂しかった。 夏休みも終わりに近づき、浩一の帰る日がやってきた。おばさんが南の町の駅へ送ってくれることになっている。この家で過ごす最後の夏の、最後の朝だった。浩一はゆっくりと家の中を見て回った。南向きの縁側や、縁側の前の広い庭、その隅で咲いている百日紅。少し薄暗い奧の部屋、その壁に掛けられている祖父母の写真。夏休みの宿題をやるために使った小さな折り畳み式のテーブルが部屋の隅に立てかけられている。その部屋の柱には昔おじさんが浩一の背丈を測ってくれた跡がある。その印は今ではずいぶんと下の方になってしまった。広い台所は北に面していてちょっと薄暗い。その横手に食卓に使う大きなテーブルが置かれている。土間になった店は今日は臨時休業で戸が閉まっている。普段なら風が通り抜けて涼しいのに、締め切った店は空気が澱んで息苦しいような気がした。改めて店の中を見ると、扱う商品は意外に少なかった。浩一が子どもの頃にはもっとたくさんの商品が並べられていたような気がする。商品の中の駄菓子を少し貰って食べたりしたものだった。 「お菓子、貰っていいかな」 浩一は出かける支度のおばさんに声をかけた。 「好きなだけ持っていっていいよ」 子どもの頃に好きだった飴玉を、いくつか手に取った。 「さ、そろそろ行こうかね」 おばさんに促されて、浩一は勝手口から家を出た。勝手口の戸におばさんが鍵をかけるのを、浩一はじっと見ていた。もうこれで、この家に入ることはない。よく晴れた夏の朝だった。陽射しは相変わらず強く、あたりは蝉の声に包まれているが、吹き渡る風にはすでにどことなく秋の気配があった。 車庫にまわり、横に立っておばさんが車を出すのを待った。軽自動車のエンジンがかかり、ゆっくりと車庫から出てきて停車した。荷物を抱えて後ろの座席に乗り込んだ。後ろの右側の座席の方が、景色がよく見えるからだった。 軽自動車は発進し、車の通らない国道を南に向かって少しずつ加速してゆく。浩一は後ろを向いて車窓の中に小さくなって行く家を見ていた。おばさんは黙ったままハンドルを握っている。やがて山裾の川を越えて国道は山肌に沿って緩やかに曲がって坂を登ってゆく。坂を登るにつれて視界が開けて、この小さな入り江のほぼ全景が見渡せるようになる。その眺めが浩一は好きだった。 眼下には稲刈りが終わって少し殺風景な水田が広がっている。農道と畦によって区切られ、幾何学的な模様を描く水田の向こう、北の山裾には数件の農家が建っている。いちばん右手の家は川本さんの家だ。おばあちゃんが孫を連れて歩いている姿が木戸の前に小さく見えている。いちばん左手の家には、かつてタカちゃんが住んでいた。よくあの家の庭で遊んだものだった。裏の山の一角にカブトムシがたくさんいる木があって、夜明けの頃がいちばん捕れるとタカちゃんが言うので、早起きして出かけたものだった。今は住む人もなく、ただ朽ちてゆくのに任せてある。農家の前の細道は山裾に沿って国道へと繋がっている。途中から農道が水田の中を突っ切るように伸びている。その農道が国道にぶつかるあたりから少し南、木立に囲まれた広い敷地に建つ家がおばさんの家だ。ずいぶんと大きな家なのに、こうして見ると箱庭の中の模型のようだった。その家の前を、国道が南北にまっすぐに延びている。グレーの舗装路はのどかな風景の中でひどく異質な感じがする。国道の東に松林が沿っている。昔は松の林の横をくねくねと細道が抜けていたらしいのだが、浩一が生まれるずっと以前に今のような真っ直ぐな国道に整備されたものらしかった。国道が北の岬の尾根へ向かって坂となるあたり、松林の横のわずかな空き地に乗用車が一台停まっている。珍しく磯遊びの人が来ているのだろう。松林の右手には砂浜が優美な曲線を描いて延びている。その曲線に沿って、白い波頭が幾重にも現れては消える。鮮やかな碧の海は、沖合いで深い青へ色を変えている。深さのせいなのか、潮の流れのせいなのか、浩一にはよくわからない。浜の北側は磯辺になっている。ちょうど潮の引いた磯辺に、今は数人の人影があった。磯辺の上は照葉樹の茂った山肌で、その尾根がそのまま岬となって海へ張り出している。岬の突端の灯台が陽射しを受けて白く光っていた。その岬の向こうに、夏の水平線がぼんやりと霞んで横たわっている。水平線の上に、夏の雲が湧き起ころうとしていた。 軽自動車はさらに坂を登り、やがて道脇の木立に遮られて眼下の風景も見えなくなってしまう。開け放した窓から乗り出すようにして、浩一は遠ざかってゆく風景を追いかけた。あの田圃も、あの砂浜も、こんなに小さかったのかと、浩一は思う。 夏が過ぎてゆく。夏の中に何かを置き去りにして、別の新しい何かを浩一はつかみ取らなくてはならないだろう。自分でもそれはよくわかっているのだった。 来年の夏、またここで会おうね。 あのときの約束も、遠ざかる夏の中に置いてきてしまった。あの日、雨上がりの国道をゆっくりと遠ざかっていった、小さな後ろ姿を、浩一は想った。
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