Kaoru Sawahara Works

Collection of Kaoru Sawahara short stories
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八月の水平線

沢原 馨

イメージ写真

 緩やかな孤を描く水平線の上に、夏の雲が湧き起ころうとしている。
 背後の山々からは尾根が連なってそのまま岬となって海へ張り出し、夏雲を乗せた水平線の北と南を限る。岬は照葉樹に覆われ、真夏の陽射しを浴びて深い緑に輝いていた。
 北の岬の突端には小さな灯台があり、重なる木々の中にその頂上部分がわずかに見えている。岬を回り込んだ北には小さな漁港を抱える町があり、この浜辺からも沖合いを行く漁船の姿を見ることがあった。南の岬はさらに連なる山々の端となった地形で、急峻な山肌がそのまま断崖となって海に落ちている。南の岬の沖には岩塊の上にわずかに樹木を置いたような小島が浮かんでいるのだが、この浜辺からは岬に隠れて見えなかった。そのふたつの岬の間に、砂浜と松林があるだけの、この小さな入り江がある。
 松林と砂浜とを仕切るコンクリートの防波堤の上に座って、浩一はぼんやりと海を見ていた。潮を含んだ海風が汗ばんだ肌を撫でて吹きすぎてゆく。波の音に混じって、蝉の声が聞こえてくる。浜辺に人の姿はない。ついさっきまで北側の磯辺で家族連れが遊んでいたのだが、もう帰ってしまったのか、今は姿が見えなかった。
 傍らに置いたスケッチブックを拾い上げ、浩一は防波堤の上に立ち上がった。スケッチブックには今日は何も描かれていない。大きく息を吸い込み、空を見上げた。太陽はほぼ真上にある。強い陽射しに浩一は目を細めた。時刻はそろそろお昼に近い。防波堤から松林へと降りて、浜を背にしてゆっくりと歩き始めた。ふいに風が強く吹き、松の葉がざわざわと騒いだ。立ち止まり、ふりかえった。水平線の上で積乱雲がさらに高さを増そうとしていた。




 松の林を抜け出ると、目の前を国道が通っている。国道は北の港町から尾根を切り通しで越えて、大きくカーブを描きながら降りてきて、まっすぐに松林の横を抜け、南では小さな川を越えてから海沿いを離れて山間へと辿り、やがて峠を越えて二十キロほど先の大きな町へと繋いでいる。国道の脇に立って浩一は左右を確かめた。車は通らない。車が通ることはあまりなかった。十数年前に山間を抜ける別の国道が立派なトンネルと橋梁とによって整備されて以来、海岸沿いのこの国道の交通量はめっきり減った。視線の先で、夏の熱気を蓄えたアスファルトの上に逃げ水がゆらゆらと揺れていた。
 松林の向こう側には山々に囲まれたわずかな平地に水田が横たわっている。早期作の田はもうすべて稲刈りを終えていた。北側の山裾には数件の農家が寄り添うように建っている。いちばん奧の農家は今は住む人がない。他の農家も年老いた夫婦で細々と田や畑を続けていたり、町での仕事との兼業で営んでいる。休耕田となっている田も多かった。昔はぜんぶ稲を植えていて、ヘリコプターで農薬散布をやったもんだよ、と、おばさんが話してくれることがあった。その光景はなかなか想像できなかった。
 浩一の立つ場所から少し南、松林の反対側の国道沿いに一件の商店が建っている。その商店に向かって、浩一は国道を斜めに横切っていった。商店の国道に面した屋根の上に大きく“浜川商店”と書かれた看板が取り付けられている。看板は色褪せて、ところどころ傷んでいる。商店の横の道脇にバス停を示す標識が立っている。標識には“小浦”と、このあたりの地名が記されている。バス停は昔はもっと北の、農家の前の道が国道に出てくるあたりにあったらしいのだが、この商店の前にある方が便利だというので、いつの間にか移動してしまったものらしかった。しかし今ではバスは一日に三往復しか通わない。商店は奧の部分が住まいになっていて、その広い敷地は照葉樹の木立によって背後の水田から隔てられていた。その木々で蝉がうるさいほどに鳴いている。国道に面した店先には大きく張り出した軒があり、軒下は夏の陽射しを遮られて強いコントラストでそこだけ暗く沈んでいるように見えた。その中に浩一は入っていった。
「ただいま」
 浩一は奧に向かって声をかけた。おかえり、とおばさんの声がした。エプロンで手を拭きながら出てきたおばさんは浩一を見て微笑み、壁に掛けられた時計を見て、「あら、もうこんな時間だね」と独り言のように言ってまた奧へと戻っていった。
 「お昼はそうめんにしようかね」と、おばさんの声が聞こえた。「うん」と、浩一は返事をする。
 開け放した窓から風が抜けてゆき、店の中は案外と涼しい。店は日用品や乾物類を商っているが、客はあまりない。夏場は国道を通るレジャー客のためにアイスクリームや冷たい飲み物を用意しているのだが、これも今ではほとんど客はなかった。こんな客の少ない店でもおばさんが何とか暮らして行けるのは、三年前に仕事中の事故で亡くなったおじさん、つまりおばさんの夫の生命保険などの蓄えが残っているかららしかった。しかしそんな暮らしもいつまで続くのか、浩一でさえ心配になることがある。
 おばさんは浩一の母親の姉にあたる人だった。おばさんと浩一の母親の姉妹はこの家に生まれ育った。昔はこの家も米や薬も商う大きな店だったらしく、山間の集落からも客が来ていたというのだが、時代の移り変わりとともに客足は落ち、商売の規模は小さくなっていった。おじさんは町の工場に勤める人だったが、おばさんと結婚するときに請われて浜川の姓を継いでこの家に入り、その後も工場勤めを続けて、店では足りない家の生計を支えたのだった。浩一の母親は大学に進むときに東京に出て、それ以来戻ることはなかった。そのまま東京で結婚して、浩一が生まれて、老いた両親に孫の顔を見せるために帰ってきたのがおよそ十年ぶりの帰郷だったと、いつだったか母親が話していたのを覚えている。母親はあまり多くを語らないが、この家のことも自分の郷里のこともあまり好いてはいないようだった。浩一が三歳の頃、祖父が亡くなり、その翌年に後を追うように祖母も亡くなった。祖父母の顔を、浩一はあまり覚えていない。奥の部屋に掛けられた写真の祖父母の顔が、記憶の中の祖父母と置き換わってしまっているようにも思う。
 毎年、夏になると浩一はこの家にやってきた。幼い頃は両親とともに数日間をこの家で過ごしたものだったが、それぞれに仕事を持つ両親はやがて要職について忙しくなり、夏に長い休暇をとることもままならなくなった。小学四年の夏からは浩一はひとりでこの家に来るようになり、夏休みのほとんどをこの家で過ごすようになった。おばさん夫婦には子どもがなく、夏になるとやってくる甥の浩一をひとときの息子のように思っていたかもしれない。そうして浩一が中学二年になった春、おじさんが亡くなった。工場の事故は全国紙の新聞にも載った大きなもので、おじさんの他にもうひとりの従業員が亡くなったらしかった。執り行われた葬儀の席で、虚ろな表情のおばさんを見ながら、浩一は生まれて初めて人生の不条理のようなものを感じた気がする。その年の夏も、浩一はこの家に来た。あれから三年が過ぎた。浩一はこの夏が過ぎると十七になる。




 南に面した縁側に座って、おばさんとふたりでそうめんを食べた。庭の木立で蝉が鳴いている。ときおり吹きすぎる風に軒下の風鈴が涼しげな音を立てた。
「また浜に行ってたのかい」
 そうめんをすすりながらおばさんがきく。浩一は「うん」と短く返事をする。
「浩ちゃんは浜が好きだねぇ」
 浩一が小学校に上がる前の頃、行方がわからなくなって大騒ぎになりかけたことがあった。よくよく探してみると浜でひとりで遊んでいる浩一が見つかった。あのときのことをおばさんは思い出しているのかもしれない。浩一はよく覚えていない。
 そうめんを少しだけ食べて、おばさんは立ち上がり、台所から西瓜を乗せたお盆を持って戻ってきた。
「川本さんから貰った西瓜だよ。畑で採れたからってわざわざ持ってきてくれてね。甘そうだねぇ」
 おばさんが浩一の横に西瓜の盆を置く。川本さんは山裾の農家のいちばん手前の家の人だ。川本さんのご主人は市役所に勤めているのだが、奥さんとご主人の両親が米の他にもこまめにいろいろな野菜を手がけている。川本さんの奥さんはおばさんと仲がいい。よく用もないのに子どもを連れて店にやってきてはひとしきり世間話をして、子どものために駄菓子をひとつ買って帰ってゆく。川本さんの家の子どもはまだ四歳で、二人目が今川本さんの奥さんのお腹の中にいる。
 西瓜は甘かった。口に含むと夏の味がした。種をぷぷっと庭先に吐き出す。乾いて白っぽい夏の庭に黒い西瓜の種が点々と広がった。おばさんは西瓜をひときれ食べるとまた立ち上がった。
「さてと、ちょっと買い物に行ってくるから、浩ちゃん、留守番頼むよ」
 浩一は西瓜を頬張りながらおばさんの顔を見上げてうなずいた。
 おばさんはいつまでたっても浩一のことを「浩ちゃん」と呼ぶ。赤ん坊だったころから、小学生になっても、中学生になっても、高校生になっても、相変わらず「浩ちゃん」と呼ぶのだった。中学生になった頃、その呼び方が子どもっぽい気がしておばさんに言ったことがあった。おばさんは「それじゃ、浩一って呼ぶことにするよ」と請け負ってくれたのだが、その直後からまた「浩ちゃん」に戻ってしまった。きっと自分が大人になっても変わらないだろうと、浩一は思う。
 しばらくしておばさんの軽自動車のエンジン音が聞こえてきた。軽自動車は家の横の車庫に置かれていて縁側からは見えなかったが、音の響き方が変わったことで車庫から出ていったのがわかる。エンジンの音が次第に小さくなり、やがて聞こえなくなると、あたりにはまた蝉時雨だけが満ちた。西瓜を食べ終え、皮を載せたお盆を持って台所へゆき、片づけてから読みかけの文庫本を手に持って店先に出た。
 留守番と言っても訪ねてくる人もなく、店にはほとんど客もなく、店先に置かれたベンチで本を読みながらおばさんの帰りを待つだけのことだった。店先のベンチはバスを待つ人のために置かれたものだったが、今では本来の目的に使われることはほとんどなく、ふだんは世間話にやってきた川本さんの奥さんの指定席だった。深い軒に陽射しを遮られ、うまく風が吹き抜ける店先のベンチは留守番をしながらの読書には最適の席だった。このベンチで、浩一は夏の間に数冊の本を読む。




 静かに夏の日が過ぎる。庭の木立と周囲の山々から蝉時雨が降り注ぐ。松の林を越えて海風が吹き渡り、ときおり潮騒の音が届いた。たまに思い出したように国道を車が走り抜けてゆく。軒の日陰がゆっくりと伸びてゆき、その先端が国道に届こうとしている。浩一は本を読み、ときどき顔を上げてまっすぐに延びる国道の先に視線を投げた。やがて読み疲れて、浩一は眠気を感じてベンチに横になった。開いたままの文庫本を顔に乗せ、目を閉じた。
 そのまま眠ってしまって、一時間ほどは過ぎただろうか。目を覚ますとあたりは妙に薄暗かった。空を見ると厚い雲に覆われている。空気の中に雨の匂いがある。水平線の上に見えていた積乱雲が夕立を運んできたのに違いなかった。眠気の覚めやらぬままに外を見ていると、やがて雨粒が落ち始めた。ぽつりぽつりと大粒の雨が乾いた舗装路に黒い染みの模様を描く。
 あ、洗濯物! 浩一はふいに気付いた。おばさんはまだ帰ってきた様子はない。今朝方庭に干した洗濯物はそのままになっているはずだった。急いで庭にまわり、物干し竿から慌てて洗濯物を取り込んだ。すべて取り込み終わったとき、タイミングを見計らったように雨足は急に強くなった。大きな雨粒が庭の土を打ち、はねが上がる。あたりはまたたくまに白く煙り、木立の向こうに見える山々の稜線もかすかにシルエットが浮かぶだけになった。屋根や地面や木々の葉を雨が激しく打ちつけ、その音があらゆるものを包み込んだ。埃っぽいような雨の匂いが立ちこめ、家の中は暗く沈んだ。縁側に座り、浩一は雨を見ていた。ついさっきまで夏の陽射しに灼かれていたすべてが雨に冷やされ、熱を失ってゆき、空気がひんやりと澱んだ。半ズボンから覗く脚に雨の飛沫が降りかかり、浩一は肌寒さを感じて立ち上がった。奧の部屋の、浩一のために用意されている箪笥からコットンのパーカーを取り出し、Tシャツの上に羽織り、店へと戻っていった。
 店の外に見える国道も松の林も土砂降りの雨に白く霞んでいる。部屋から店の土間に降りようとして、浩一は立ち止まった。店先の軒下、左脇に人影があるのに気付いたからだった。雨宿りをしているのだろう。人影は若い女性のようだった。重く雲の垂れ込めた空を見上げているようだったが、その表情は浩一からは見えなかった。
「中に入れば?」
 浩一は店の中から女性に声をかけた。女性は浩一に気付いていなかったらしく、驚いたようにふりかえった。それからゆっくりと笑みを浮かべ、うなずいた。
「ありがとう。歩いてたら急に降ってきちゃって。もう全身びしょぬれ」
 女性はそう言って笑いながら店の中に入ってきた。女性は浩一より少しばかり年上のように見えた。女性の長い髪がすっかり濡れてしまっているのに気付いた浩一は、奧に戻ってタオルを持って戻ってきた。
「これ、使っていいよ」
 そう言ってタオルを女性に差し出した。女性はほんの少し戸惑ったような表情を浮かべ、しかしすぐに笑みを取り戻してタオルを受け取った。
「きみ、このお店の人?」
 タオルで髪を拭きながら、女性が浩一にきく。浩一はうなずく。浩一は背は高いが童顔で、実際より年下に見られることが多かった。この女性もそう思っているのに違いない。ちょっと悔しい気がして、浩一は女性の顔を見返した。
 そのときになって初めて、浩一は女性がTシャツの下に下着を付けていないことに気付いた。雨に濡れた白いTシャツは肌に張り付いて、ほっそりとした女性の身体の輪郭を露わに見せている。浩一はどぎまぎして視線を下ろしたが、次にはデニムのショートパンツからすらりと伸びた女性の脚をその視線が捉えることになってしまった。浩一は慌てて横を向いた。女性はそんな浩一に気付いていないのか、まるで気にしているふうではない。
「きみ、高校生?」
 女性がきく。浩一はうなずき、「二年」とぶっきらぼうに答えてその場を離れた。
「ふうん、じゃ、やっぱ私の方がおねえさんだ」
 背中に女性の声が聞こえた。子ども扱いされているようで浩一はちょっとおもしろくない。奧の部屋に行き、箪笥からTシャツを取り出した。今年の夏前、ここに来る直前に買ったものだ。また袖を通していない。そのTシャツを持って浩一は店に戻った。雨はまだ強く降り続いている。女性は髪を拭きながら外を眺めていた。
「ほら、これ。着替えたら?」
 浩一はそう言いながらTシャツを差し出した。女性はふりかえり、浩一の顔を見て、Tシャツを見て、それからまた浩一の顔に視線を戻した。
「いいの?」
 女性が遠慮がちにきく。
「いいさ。オレのだからちょっと大きいかもしれないけど。まだいっぺんも着てないヤツだからさ。奧で着替えるといいよ」
「ありがとう。じゃ、借りようかな」
 女性はそう言ってTシャツを受け取り、店の奧へ歩いていった。浩一は店先に出て、軒で雨を避けながら外を見た。雨はさっきより少し勢いを増しているようにも思えた。国道は雨に煙り、通る車もなかった。
「どこから来たの?」
 浩一は外を眺めながらきいてみた。女性は明らかに地元の人ではないように見えた。「え?」と問い返す女性の声が聞こえた。雨の音に消されて聞こえなかったのかもしれない。思わず浩一はふりむいた。濡れたTシャツを剥ぎ取るように脱いで露わになった女性の白い背中が見えた。浩一は慌ててまた外を見た。
「どこから来たの?」
 もう一度、今度は少し大きな声で浩一はきいた。
「北の方から」
 と、女性は言った。はぐらかされた気もしたが、答えたくないだけのことかもしれなかったし、本気でそんなふうに答えたのかもしれなかった。よくわからなかった。
 しばらくして着替え終わった女性が浩一のそばにやってきた。浩一のTシャツは女性の華奢な身体にはすいぶんと大きかった。「やっぱおっきいね」と女性は笑う。まだ濡れている髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。「これ、ありがとう」とタオルを浩一に返し、脱いだTシャツを店先の端で絞り、小さな布の塊になったTシャツを無造作にパンツの後ろのポケットに押し込んだ。女性はとてもきれいな顔立ちをしていた。雨はようやくピークを過ぎたらしく、いくぶん小降りになったようだった。
「もうすぐ止むかな」
 そう言いながら女性は浩一の横に立った。女性の背は浩一の肩までしかなかった。
「止むだろ。いつものにわか雨だから」
 空は南東の方から明るさを取り戻そうとしていた。軒下から少し顔を出して見てみると、北の山並みの方角がまだ暗かった。雨が北西の方角へ移動していっているのだ。そのとき、少し静かになった雨音の中に聞き慣れた軽自動車のエンジン音が聞こえてきた。音の方に視線を向けると雨の国道を南から走ってくるおばさんの軽自動車が見えた。車は店の斜め前で止まり、うまくバックして車庫に入って見えなくなった。エンジン音が止み、すぐに裏の勝手口の開く音がした。「ただいま」とおばさんの声がした。「おかえり」と浩一が応える。
 買い物の荷物を台所に運びながら、おばさんが「お客さんかい?」ときく。おばさんは急いで店に出てこようとしたが、様子を見て立ち止まった。
「あら、浩ちゃん、お友だちかい」
 おばさんは何か勘違いしたらしく、そう言って笑いながらまた台所へ戻っていってしまった。
「ふうん、浩ちゃんっていうんだ」
 女性がそう言って浩一を見て、にこりと笑う。
「浩一」
 浩一は少しむっとして応えた。
「浩一くん、か」
 女性は確かめるように口にして、笑みを浮かべたまま顔を外に向けた。雨はすっかり小降りになり、もうじき止みそうな気配だった。空はますます明るくなり、すでに海の方には青空が覗いている。
「私、みらい」
 彼女が唐突に言った。
「え?」
 浩一は言葉の意味をつかみそこねて彼女の横顔を見た。
「私の名前、みらいっていうんだ。ホントは“未来”って書いて“みき”って読むんだけど、“みらい”の方が好きだから、いつもは、みらい」
 彼女は空を見上げたまま言った。その横顔に微かな笑みが浮かんでいる。
「雨、上がったね」
 彼女はそう言って、軒下から国道に出た。ちょうど雲間から午後の陽射しが戻り、雨上がりの風景を照らした。濡れた路面や松林や、そして山々の緑が陽射しを浴びてきらきらと輝いた。蝉がまたいっせいに鳴き始めている。軽トラックが一台、北から南へゆっくりと走りすぎてゆく。
「私、帰るね」
 遠ざかる軽トラックを見送った後、彼女は国道の脇で浩一にふりむいた。
「バスはまだ来ないよ」
 店先の軒下から、浩一が答える。夕方のバスの時刻にはまだ一時間以上はある。
「いい。歩いて帰るから」
 彼女が笑う。
「これ、ありがとう。洗って返すね」
 彼女はそう言って、浩一から借りたTシャツの胸元をつまんでみせた。あげるつもりで差し出したTシャツだった。でもここで「返さなくてもいい」と言ってしまうと、もう二度と彼女に会えなくなるような気もして、浩一は曖昧にうなずいた。
「じゃあね、いろいろとありがとう。楽しかった」
 みらいはそう言って微笑んだ。その笑みが雨上がりにきらめく陽射しのように眩しかった。浩一は何も言わなかった。ただ小さく「うん」とうなずいただけだった。みらいは胸元で小さく手を振り、それから雨上がりの国道を北に向かって歩き始めた。夏の午後の陽射しを背中に受けながら、大きなTシャツを着たみらいの後ろ姿が次第に小さくなってゆく。岬の切り通しを越えて北の港町まで歩くと一時間ほどかかるというのに、彼女はどこまで歩くのだろう。「また会えるかな」ときけばよかったと、浩一は少し後悔した。
 その姿がずいぶんと小さくなってから、彼女はふとふりかえり、後ろ向きに歩きながら左手を大きく上に伸ばした。手を振っているのかと思ったが、そうではないようだった。しきりに空を指し示すように左手を動かしている。その手に導かれて、浩一は店の前に出て空を見た。
「あ」
 みらいが指し示す空の下、北の岬の尾根を包むように大きく虹が架かっていた。視線を下ろすと、みらいは両手を大きく頭上で振っていた。浩一は右手を軽く挙げてそれに応えた。彼女は満足したように手を下ろし、北へ向かってまた歩き始めた。その姿がゆっくりと遠ざかってゆくのを浩一はずっと見ていた。やがて国道のカーブに差し掛かり、彼女の姿が松林の向こうに見えなくなってから、浩一はようやく店の中へと戻った。店先のベンチの傍らに読みかけだった文庫本が落ちていた。国道から流れ込んだ雨水に濡れてしまっていた。水を含んで表紙の縒れた文庫本を拾い上げ、浩一はまた空を見た。虹はさっきより少し鮮やかになっているように見えた。


 庭の隅に百日紅が咲いている。朝から陽射しは強く、紅色の花はいっそう色濃く見えた。気温はじりじりと上がり続けている。風はなく、軒の風鈴はぴくりとも動かない。庭に面した南向きの縁側で、浩一はスケッチブックを膝に抱えていた。
 朝、いつものように起きて、おばさんとふたりで朝食を済ませ、朝の北行きのバスが店の前を行き過ぎ、川本さんのご主人が乗用車で出勤してゆき、しばらくして南行きのバスも通り過ぎると、あたりには夏の日の静けさが戻ってくる。それから、浩一はスケッチブックを手に、縁側に腰を下ろした。ふだんなら風が通り抜けて涼しい縁側も、今朝は風がなく、じっとりと暑さを含んだ空気が澱んでいる。
 スケッチブックには女性の顔の輪郭が描かれている。昨日会った、みらいと名乗った女性の顔を、浩一は描こうとしていた。美術系の大学を出て、今もデザイン関係の仕事に就く母親の影響なのか、浩一は子どもの頃から絵がうまかった。高校を出たらそっちの方面に進んでもいいと、母親も父親も言ってくれるのだが、浩一はあまり乗り気ではない。絵は嫌いではなかったが、それを生業として生きてゆこうなどという思いにはまるで結びつかない。というより、自分のいわゆる“進路”というものに、浩一は未だに無頓着といってよかった。
 絵はあまり描き進むことができなかった。考えてみれば、浩一はあの女性の顔をあまりよく覚えていない。屈託のない笑顔だけが妙に印象に残って、顔立ちの細かな造作などはほとんど覚えていないのだった。浩一は軽くためいきをついてスケッチブックを傍らに置いた。立ち上がり、店で片付けものをするおばさんに「浜に行ってくるよ」と声をかけて勝手口から家を出た。
 空は青く澄み渡っている。南の岬の上あたりに小さな雲がひとつ浮かんでいた。国道のアスファルトが陽射しに灼かれてゆらゆらと熱気を放っている。南から乗用車が一台走ってきて、浩一の前を行き過ぎていった。車をやり過ごし、浩一は国道を横切って松の林に足を踏み入れた。子どもだった頃には、水着姿で浮き輪を片手に松林を抜けて浜へ行ったものだった。今は空き家になっている農家に、その頃はひとつ下の“タカちゃん”という男の子がいて、よく一緒に遊んだ。彼が水着姿で誘いに来て、一緒に国道を渡って浜へゆき、お昼まで遊んだものだった。浩一が中学に上がる年の早春、その一家は遠い町へ越していってしまった。以来、浩一は水着姿で国道を渡ることはない。
 松の林を抜け、ところどころに設けてある階段から防波堤の上へ登った。浜に打ち寄せる波は昨日より少しだけ荒れているように見える。防波堤から浜へ降り、波打ち際を歩いた。ビーチサンダルの足が波で洗われ、波は足の下の砂をすくって逃げてゆく。
 夏は、毎年少しずつ退屈になってゆくような気がする。子どもの頃はここで過ごす夏の日々が楽しくてたまらなかった。タカちゃんと一緒に、浜で遊び、山へカブトムシを捕りにゆき、川エビの捕り方を教えてもらい、タカちゃんの家の稲刈りを手伝い、稲刈りの終わった田圃の畦で西瓜を食べた。真っ黒に日焼けした顔がくしゃっと笑う、あの友だちのことは決して忘れない。でも、今はもういない。
 タカちゃんがいなくなって、夏の日はどこかが変わってしまった。そしておじさんが亡くなってから、おばさんがひとりで暮らすこの家にやって来るようになってから、夏の日々はさらに昔とは大きく違ってしまった気がする。今でも夏が近づくとあの頃の日々を思い出す。あの頃と同じ夏が待っている気がしてここへやってくる。でも、楽しかったあの頃と同じ夏の日々は、もうやってはこない。もう昔とは違うのだとわかってはいるのに、夏が来るたびに胸の奥の記憶があの頃の日々を待っている。待っているうちに、やがて夏は過ぎる。




 浜から戻って、庭の隅の水道で足を洗っていると、店の方からおばさんの声が聞こえた。
「浩ちゃんかい?」
「うん」
 浩一は少し大きな声で返事をする。
「ちょっと頼まれてくれるかい?」
 店に出ると、おばさんはダンボール箱を浩一に手渡した。箱には洗剤やら醤油やらといった品々が入っていて、片隅に子どものための駄菓子がいくつか入れられている。
「これを川本さんの家まで届けてくれるかい」
 「うん」と答えて、浩一は箱を抱え直した。箱はけっこう重い。日用品の買い物なら町で済ませればいいはずだったが、昔からのつきあいからか、川本さんの家は今もおばさんの店から買ってくれている。今は奥さんが身重なので荷物をおばさんが届けることが多かった。わざわざ車で届けるほどの距離でもなく、この家に浩一が居るときには当たり前のように荷物を届けるのは浩一の役目になった。
 箱を抱えて国道の脇を少し北へ歩き、途中から水田の中を辿る農道へと進む。陽射しに灼かれて汗が噴き出してくる。川本さんの家の木戸へ差し掛かると、おばあちゃんが裏の畑から戻ってきたところだった。朝の涼しいうちに畑仕事を済ませて、暑くなる時刻には戻ってくるのだ。挨拶を交わしておばあちゃんと木戸を入り、荷物を勝手口の横に置く。川本さんの家の様子も浩一はすっかり知り尽くしている。奥さんが大きくなり始めたお腹を抱えて顔を出し、浩一に礼を言って、冷たい飲み物を出してくれる。家の奥から四歳の子どもが浩一の姿を見つけて走り寄ってきた。少し遊んでやらなくてはならない。川本さんの家に荷物を届けたときの、これが日課と言ってもいい。
「浜川さんのおばちゃんも浩ちゃんが来るとなんだか楽しそうだね」
 庭の隅の日陰で遊ぶ浩一と我が子を眺めながら、川本さんの奥さんが言う。浩一は子どもの相手をしながら奥さんの顔を見た。
「おばちゃん、子どもがいないから、浩ちゃんのことを自分の子どもみたいに思ってるんじゃないかな」
 浩一は曖昧な笑みを返し、また子どもの相手をする。
「浩ちゃん、こっちに引っ越してきたら?」
 奥さんが笑いながら言う。
「え?」
 浩一は少し真顔で奥さんの顔を見た。奥さんは「冗談よ」と笑うが、それも悪くないと浩一は思う。都会の生活はあまり自分に向いていないようにも浩一は思っている。いっそのこと、ここで暮らして行けるなら、それも案外いい考えかもしれない。
 奥さんととりとめのない話をしながら子どもの相手をしてやり、そうして小一時間が過ぎて、お昼も近くなってようやく浩一は川本さんの家を後にした。木戸を出て、農道を歩いていると、国道を北から南に向かうバスの姿が見えた。南行きのバスがお昼前に通り、お昼を過ぎて今度は北行きのバスが通る。バスは夏の熱気の中でゆらゆらと輪郭がぼやけているように見えた。バスはゆっくりと国道を走り、やがて店の前のバス停で停まった。ふだんは乗る人も降りる人もなく行き過ぎる。停車するのは珍しかった。やがてバスが発進し、重そうに加速してゆくと、バス停には女性がひとり立っていた。
 まだ距離があって顔まではよくわからないが、あの女性が誰なのか、すぐにわかった。浩一は駆けだした。未舗装の農道はビーチサンダルでは思うように走れなかった。もどかしいような思いで、浩一は走った。なぜ走るのか、自分でもよくわからなかった。
 バス停の女性が浩一の姿に気付いたらしく、こちらを見ながら国道をゆっくりと渡ってくる。よくやく国道に戻り、浩一は女性の前に立った。はあはあと息を切らし、全身に汗が噴き出していた。
「走らなくてもいいのに」
 彼女が笑った。
「そんなに急がなくても逃げないよ」
 そう言って彼女はまた笑う。深く息をしながら、浩一は彼女の顔を見た。
 逃げるさ。浩一は思った。急がないと、いなくなってしまうかもしれないじゃないか。タカちゃんもおじさんも、楽しかった子どもの頃の夏の日々も、みんないなくなってしまった。いつの間にか、大切なものはみんなどこかに行ってしまう。急いで走ってこなければ、その笑顔もすぐにどこかへ行ってしまう。そんな気がした。
 彼女はつばの広い、白くて丸い帽子を目深にかぶっていて、目元が日陰になっている。薄いパステルグリーンのワンピースを着た姿は昨日とはずいぶんと印象が違っている。ワンピースの裾には鮮やかなハイビスカスが咲いている。微かな風にハイビスカスが揺れ、彼女の長い髪が揺れる。両手は腰の後ろにまわし、その手に小さなバッグを提げている。脚を揃えて立ち、首を少し傾げて帽子の陰から上目遣いで浩一を見る。その姿は夏の光に溶けて幻のように儚く美しかった。
「どうかした?」
 彼女はまた笑う。
「どうもしない」
 浩一はおばさんの家へ向かって歩き始めた。その後を彼女がついてゆく。
「でも、ちょっと嬉しかったな、走ってきてくれて」
 浩一の後ろから彼女が言う。
「私だってわかって、走ってきてくれたんでしょ」
 浩一は何も答えない。なんだか自分の気持ちをすべて見透かされているような気がして、うまく言葉を選べない。
「Tシャツ、返しにきてくれたのか」
 どうでもいいようなことを、浩一は口にする。本当はまた会えたことが嬉しかったのに、素直に言えない自分が悔しく情けない。
「うん、まあね。でもホントは、もう一度会いたいなと思ってね、浩一くんに」
 そう言って彼女は笑う。浩一はふりむいた。彼女は笑っている。悪戯に夢中の子どもみたいな表情だった。本気なのかどうか、さっぱりわからない。
 店に着くと、ちょうどおばさんが出てきて迎えてくれた。「おかえり、ご苦労さん」と浩一に言い、後ろの彼女を見て「あら、いらっしゃい」とにっこり笑う。彼女は「こんにちは」と答えて、ぺこりと頭を下げる。浩一はなぜかわけもなくほっとした。
「川本さんの奥さんが、お金は月末にまとめて払うって言ってた」
 浩一はおばさんに言いながら店の中に入ってゆく。おばさんは「そうかい」と答えて、彼女に目配せして店の中に招き入れている。
「もうお昼だね。何もないけど、一緒に食べてってね」
 おばさんが彼女に言い、彼女はお礼を言いながら中に入ってくる。浩一は所在なく店の隅に立っている。彼女が笑う。浩一はちょっとむっとする。昨日出会ったばかりの年上の女性への憧れにも似た淡い想いを、自分でも持て余してしまってどうしていいのかわからなかった。




 浩一とおばさんと、そしてみらいと名乗った女性の三人で、昼食を食べた。焼き魚と冷や奴と漬け物とご飯という簡素な食事で、おばさんは「田舎で何もなくて、ごめんなさいね」と言いながら彼女の分も用意して、彼女は「美味しいです」と言いながら、そんな食事が楽しいというふうに食べている。おばさんと自分と、そして昨日出会ったばかりの女性との三人とで食卓を囲むのは、なんだかひどく不思議な気がした。きれいな箸さばきで美味しそうに焼き魚を食べる彼女を見ながら、浩一はこんな昼食の光景が昔にもあったような気もした。食卓でのおばさんの話題はいつものように川本さんのことや町でのちょっとした出来事に終始した。ふだんならいるはずのない女性は、そんな食卓にすんなりと溶け込んでしまっているように見えた。おばさんは彼女にも浩一にも何もきかない。おばさんは昔からあまり詮索好きな方ではない。細かなことをあれこれときくことは決してないが、しかし肝心な部分はすべて知っているような、そんな人だった。
 食事が終わると、手伝うと申し出た彼女をやんわりと断り、おばさんはひとりでさっさと片づけを始めてしまった。「散歩でも行っておいで」というおばさんの言葉に促されてふたりは家を出た。
 家を出て、国道脇を少し南へ歩き、農道を辿って南の山裾を流れる小さな川の堤防を歩いた。歩きながら、彼女は「お魚が美味しかった」とか「古くて居心地の良さそうな家だった」とか、そんなことをひとりで喋っていた。浩一は「うん」とか「ああ」とか、気のない返事をして歩き続けた。何か気の利いたことを話したいとも思うのだが、何を口にしても陳腐な言葉になってしまいそうで恐かった。夏空の下を、蝉時雨と夏草の匂いに包まれてふたりは歩いた。
「浩一くんって、いつもそんなに無口なの?」
 川伝いに歩いて国道の橋に差し掛かったとき、ふいに彼女がきいた。
「そんなことないけどさ」
 浩一は答える。
「何か、怒ってる?」
 彼女が浩一の顔を覗き込んで言う。
「そんなことないよ」
 慌てて答えた浩一の言葉は、ちょっとむきになっているような口調だったかもしれない。
「ふうん」
 そう言って彼女は微笑み、また前を向いて歩き始めた。国道を越え、河口の端を回り込んで浜へ出た。水平線の上に積乱雲が伸び上がっている。今日もまた夕立が来るかもしれない。
「あの、さ」
 と、浩一は彼女に呼びかけた。
「みらい」
 彼女は前を向いたまま、ひとこと言った。
「みらい、って、呼んで」
 戸惑う浩一に向かって、さらに彼女が言った。
「みらい、さん」
 促されて「みらい」と口にして、ちょっとためらって「さん」を付け足した。
「さん、は、いらないから」
 彼女が笑う。彼女は本当によく笑う。笑っていないときでも、その涼しげな目元にはいつも微かな笑みが浮かんでいるように見える。その笑みが眩しくて、浩一はどうしていいのかわからなくなるのだった。
「みらい」
 促されて、というより無理強いされたように、浩一はその名を口にした。
「はい、なんでしょう」
 みらいは浩一に向き直り、真っ直ぐに顔を見た。表情には優しげな笑みが浮かんでいる。
「Tシャツ、返してくれなくてもいいよ」
 浩一がそう言うと、みらいは一瞬きょとんとして、それから大声で笑い出した。ひとしきり笑ってから、まだおさまらない笑いをこらえるようにして、浩一を見た。
「ああ、ごめん、ごめん、笑ったりして。返さなくてもいいの? Tシャツ」
 浩一は笑われたことにちょっとむっとしながらうなずいた。
「そっか。私もね、返すのやめようと思ってたんだ。実は今日もTシャツ持ってきてない」
 そう言って、みらいはくすっと笑う。
「でも、もらっちゃうわけにもいかないかなぁ」
 何を考えているのか、みらいはそう言って海を見た。
「浩一くんって、あの家の人じゃなかったんだね。おばさんの家なんだ。夏の間だけ来てるの?」
 唐突に話題を変えて、みらいが浩一を見た。お昼の食卓の話題で察したのかもしれない。そう言えばおばさんの話の端々にそういったことが含まれていたような気もする。
「そう、母親の実家なんだ」
「ふうん、そうなんだ。夏になると毎年来てるの?」
「うん、子どものころからずっと」
 浩一が答えると、みらいはまた海を見た。
「来年も来る?」
 視線を海に向けたまま、みらいがきく。
「ああ」
 来年は受験を控えている。高校を卒業した後にどんな道に進むにしても、何らかの“受験”が待っているだろう。今までのようなのんびりとした夏を過ごすわけにはいかないかもしれない。でも、たぶん来年の夏もここに来るだろう。みらいの横顔に誘われるようにして、浩一も海を見た。蒼い海の向こうにはぼんやりと曖昧な水平線が横たわっている。
「じゃあ、Tシャツは来年返す。それまで借りとく。私、来年の夏にまたここに来るから、そのとき、返す」
 みらいは顔を海に向けたままだ。帽子の下の長い髪が海風に吹かれて揺れている。みらいの言葉は、浩一の返事を求めてはいないように思えた。ただ自分の決めたことを口にしただけのようだった。
「来年の夏、またここで会おうね」
 みらいはそう言って浩一を見た。真顔の中に微かに笑みが浮かぶ。浩一はただうなずくだけだった。
「約束だよ」
 そう言ってみらいはまた笑い、「これ持ってて」と帽子とバッグを浩一に押しつけ、サンダルをその場で脱いで波打ち際へ歩いていった。膝のあたりまで水に浸かり、寄せる波を避けては追いかけ、小さな子どもみたいにはしゃいでいる。波を避けてみらいが跳ねるたびに、ワンピースの裾が大きく風に煽られる。彼女はまるで気にしない。浩一は彼女の帽子とバッグを膝元に抱えて砂の上に座り、波打ち際で遊ぶみらいを見ていた。その姿は美しく儚く、夏の日の午睡の夢のようだった。
 しばらくして戻ってきて、彼女は浩一の横に腰を下ろした。ワンピースが砂に汚れるのもまるでお構いなしだ。
「私、明日帰るんだ」
 浩一の横で浩一と同じように膝を抱えて座り、みらいが言った。
「帰る、って、どこへ」
 浩一がきく。
「だから、北の方」
 どうしてそんなことをきくのか、というふうに、みらいが答えて、そのまま会話は途切れてしまった。白い砂浜に夏の陽射しが降り注ぎ、海風は強く、みらいの髪はますます強く煽られる。
「私、両親が離婚するんだ。だから、夏が過ぎたら一人暮らし始めるんだ」
 ふいに、みらいが言った。不意をつく言葉にはっとして、浩一は彼女を見た。その横顔に笑みはなく、少し伏し目がちの真顔が哀しく翳っている。浩一は言葉もなく彼女の横顔を見つめ、やがて波の向こうへ視線を戻した。そのままふたり、黙ったまま並んで座り、海を見ていた。波の音が妙に遠い。水平線の上を小さな白い船が横切ってゆく。その船がやがて北の岬の向こうに見えなくなるのを、浩一はずっと見ていた。
 夕方の、北に向かうバスに乗って、みらいは帰っていった。おばさんに丁寧にお礼を言って、バスに乗り込む直前、みらいは浩一の耳元で「約束、忘れないでね」とささやいたのだった。夏の夕方の陽射しを反射しながらバスが国道を遠ざかってゆく。バスがやがて松の林の向こうへ見えなくなるまで、浩一はバス停の横に立って見送っていた。
「浩ちゃんのそんな楽しそうな顔、久しぶりに見るねぇ」
 店に戻った浩一におばさんがぽつりと言った。おばさんを見ると、今自分の言った言葉ももう忘れてしまったように夕食の準備に取りかかろうとしている。もしかしておばさんとみらいは知り合いなのじゃないかと、わけもなくそんな気がした。そんなはずもなかった。夏の夕暮れが近づいている。店の建物の陰が国道に長く伸びていた。

 お盆も過ぎて、浩一の夏休みももうすぐ終わろうとする頃、浩一の母親がやってきた。仕事の忙しさを理由にあまり実家を訪ねようとしない母親にしてはずいぶんと珍しいことだった。一泊してすぐに帰るという。会えばにこやかに近況を語りあう母親とおばさんは、実は仲があまりよくないのじゃないかと浩一は思うことがある。母親もおばさんも、この家で姉妹として暮らした日々のことをあまり話さない。昔話に話題が及ぶことがあっても、互いのことをあまり話さないのだった。どちらかにきいてみるのも憚られ、浩一はなんとなくそんな気がするだけで、確かめることもなく今まできた。確かめてみても仕方のないことだとも思う。
「浩ちゃん、おばさんね、この店を閉めて、家も引き払うことにしたよ」
 その日の夕食も終わった食卓で、おばさんは唐突に切り出した。西瓜を食べながら見るともなくテレビの画面に目を向けていた浩一は驚いておばさんの顔を見た。おばさんは哀しげな笑みを浮かべて浩一にうなずいた。母親は視線を下に向けて黙ったまま、食卓の上で両手を湯飲みに添えている。すでにおばさんから聞いていたのだろう。母親が珍しくこの家にやってきたのは、このことがあったからに違いなかった。
「そう、なんだ」
 おばさんの言葉はいわば“通告”なのであって、浩一の意見を聞こうとしたものではなかった。それはわかっていた。だからそんなふうな返事しかできなかった。
「遅くても十月くらいまでには引き払うから、浩ちゃんがここに来るのも今年が最後になるねぇ」
 おばさんは申し訳なさそうに言う。浩一は黙ったまま視線を食卓に落とした。母親が冷めてしまったお茶をひとくちすすった。テレビではくだらないバラエティ番組をやっている。視線を上げて、浩一は部屋の中を見渡した。子どもの頃から夏の日々を過ごした家だった。この家にやってくるのも今年が最後だと、理屈ではわかっても、あまり実感がなかった。
「寂しくなるけどねぇ」
 おばさんのその言葉は、おそらくおばさん自身に向けられたものだったろう。しかし浩一は「うん」と答えておばさんの顔を見た。夏の間のひとときだけだったが、浩一にとっておばさんはもうひとりの母親のようだった。この家ももうひとつの浩一の家だった。でも仕方がなかった。
 けっきょくほとんど客もない店を続けてこの先どうなるものでもなく、どこかで見切りを付けなくてはいけないということだった。ここを引き払った後は隣の市に引っ越すという。かつておじさんが工場に勤めていたときの同僚だった人が、今はその町で会社を興して成功し、そこで働かせてもらうことになっているという。生前とてもお世話になったからと、おじさんが亡くなった後も残されたおばさんのことを気にかけてくれていたのだった。
 やむを得ない事情があるにしても、生まれ育ち、親から受け継いだ家を引き払うのはつらい選択に違いなかった。それはおそらく浩一の母親にとっても、同じだったろう。母親は黙ったままだったが、その心中にはさまざまなものがあったように浩一は思う。そんなことを思いながら、浩一はふとみらいのことを思い出していた。
 来年の夏、またここで会おうね、約束だよ。
 彼女の言葉が、あのときの彼女の笑顔が、頭の中でぐるぐると回っていた。




 次の日の朝方のうちに、おばさんと母親が今後のことを話し合い、浩一は聞いていても仕方がないからとスケッチブックを持って浜へ行った。スケッチブックにはすでに何枚か、みらいの姿が描いてある。屈託のないあの笑顔、波打ち際で遊ぶワンピース姿のみらい、そして哀しみを湛えた横顔。それがここで過ごす最後の夏を描いたものになるだろう。防波堤に座って海を眺めながら、しかしスケッチブックを開くことはなかった。
 午後になって日が傾き始める時刻に、母親は帰っていった。おばさんが軽自動車で南の町の駅まで送ってゆき、その間は浩一がいつものように留守番をした。店先のベンチに座って本を読みながら、ときおり国道の先へ視線を投げた。夕立もバスも、みらいも、やっては来なかった。
 それからの数日間もそれまでと同じように夏の日が過ぎた。ただ、この家に置きっぱなしになっている浩一の数々のものを整理する作業が待っていた。いつもならまた来年の夏に使うからと置いておくものも、今回はすべて整理しなくてはならなかった。箪笥を整理すると、すでに小さくなって着られなくなってしまった服も少なくなかった。子どもの頃に買ってもらったおもちゃもなぜかそのまま残っていたりした。要らないものはすべて処分してもらうことにして、必要なものだけをダンボール箱に詰めた。黙々と、浩一は荷物を片付けた。片付け終わると、東京の家に送る荷物はダンボール箱ふたつにしかならなかった。そのことがなぜか寂しかった。
 夏休みも終わりに近づき、浩一の帰る日がやってきた。おばさんが南の町の駅へ送ってくれることになっている。この家で過ごす最後の夏の、最後の朝だった。浩一はゆっくりと家の中を見て回った。南向きの縁側や、縁側の前の広い庭、その隅で咲いている百日紅。少し薄暗い奧の部屋、その壁に掛けられている祖父母の写真。夏休みの宿題をやるために使った小さな折り畳み式のテーブルが部屋の隅に立てかけられている。その部屋の柱には昔おじさんが浩一の背丈を測ってくれた跡がある。その印は今ではずいぶんと下の方になってしまった。広い台所は北に面していてちょっと薄暗い。その横手に食卓に使う大きなテーブルが置かれている。土間になった店は今日は臨時休業で戸が閉まっている。普段なら風が通り抜けて涼しいのに、締め切った店は空気が澱んで息苦しいような気がした。改めて店の中を見ると、扱う商品は意外に少なかった。浩一が子どもの頃にはもっとたくさんの商品が並べられていたような気がする。商品の中の駄菓子を少し貰って食べたりしたものだった。
「お菓子、貰っていいかな」
 浩一は出かける支度のおばさんに声をかけた。
「好きなだけ持っていっていいよ」
 子どもの頃に好きだった飴玉を、いくつか手に取った。
「さ、そろそろ行こうかね」
 おばさんに促されて、浩一は勝手口から家を出た。勝手口の戸におばさんが鍵をかけるのを、浩一はじっと見ていた。もうこれで、この家に入ることはない。よく晴れた夏の朝だった。陽射しは相変わらず強く、あたりは蝉の声に包まれているが、吹き渡る風にはすでにどことなく秋の気配があった。
 車庫にまわり、横に立っておばさんが車を出すのを待った。軽自動車のエンジンがかかり、ゆっくりと車庫から出てきて停車した。荷物を抱えて後ろの座席に乗り込んだ。後ろの右側の座席の方が、景色がよく見えるからだった。
 軽自動車は発進し、車の通らない国道を南に向かって少しずつ加速してゆく。浩一は後ろを向いて車窓の中に小さくなって行く家を見ていた。おばさんは黙ったままハンドルを握っている。やがて山裾の川を越えて国道は山肌に沿って緩やかに曲がって坂を登ってゆく。坂を登るにつれて視界が開けて、この小さな入り江のほぼ全景が見渡せるようになる。その眺めが浩一は好きだった。
 眼下には稲刈りが終わって少し殺風景な水田が広がっている。農道と畦によって区切られ、幾何学的な模様を描く水田の向こう、北の山裾には数件の農家が建っている。いちばん右手の家は川本さんの家だ。おばあちゃんが孫を連れて歩いている姿が木戸の前に小さく見えている。いちばん左手の家には、かつてタカちゃんが住んでいた。よくあの家の庭で遊んだものだった。裏の山の一角にカブトムシがたくさんいる木があって、夜明けの頃がいちばん捕れるとタカちゃんが言うので、早起きして出かけたものだった。今は住む人もなく、ただ朽ちてゆくのに任せてある。農家の前の細道は山裾に沿って国道へと繋がっている。途中から農道が水田の中を突っ切るように伸びている。その農道が国道にぶつかるあたりから少し南、木立に囲まれた広い敷地に建つ家がおばさんの家だ。ずいぶんと大きな家なのに、こうして見ると箱庭の中の模型のようだった。その家の前を、国道が南北にまっすぐに延びている。グレーの舗装路はのどかな風景の中でひどく異質な感じがする。国道の東に松林が沿っている。昔は松の林の横をくねくねと細道が抜けていたらしいのだが、浩一が生まれるずっと以前に今のような真っ直ぐな国道に整備されたものらしかった。国道が北の岬の尾根へ向かって坂となるあたり、松林の横のわずかな空き地に乗用車が一台停まっている。珍しく磯遊びの人が来ているのだろう。松林の右手には砂浜が優美な曲線を描いて延びている。その曲線に沿って、白い波頭が幾重にも現れては消える。鮮やかな碧の海は、沖合いで深い青へ色を変えている。深さのせいなのか、潮の流れのせいなのか、浩一にはよくわからない。浜の北側は磯辺になっている。ちょうど潮の引いた磯辺に、今は数人の人影があった。磯辺の上は照葉樹の茂った山肌で、その尾根がそのまま岬となって海へ張り出している。岬の突端の灯台が陽射しを受けて白く光っていた。その岬の向こうに、夏の水平線がぼんやりと霞んで横たわっている。水平線の上に、夏の雲が湧き起ころうとしていた。
 軽自動車はさらに坂を登り、やがて道脇の木立に遮られて眼下の風景も見えなくなってしまう。開け放した窓から乗り出すようにして、浩一は遠ざかってゆく風景を追いかけた。あの田圃も、あの砂浜も、こんなに小さかったのかと、浩一は思う。
 夏が過ぎてゆく。夏の中に何かを置き去りにして、別の新しい何かを浩一はつかみ取らなくてはならないだろう。自分でもそれはよくわかっているのだった。
 来年の夏、またここで会おうね。
 あのときの約束も、遠ざかる夏の中に置いてきてしまった。あの日、雨上がりの国道をゆっくりと遠ざかっていった、小さな後ろ姿を、浩一は想った。

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