Kaoru Sawahara Works

Collection of Kaoru Sawahara short stories
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百日紅の咲く頃

沢原 馨

イメージ写真

 定食屋の横から丘へ登る坂道の途中に、大きな百日紅の木があった。毎年、夏になると鮮やかな紅の花を咲かせた。百日紅の木は坂道脇の家の庭に植わっていて、その枝が大きく生け垣を越えて道の上に張り出している。その家はもう長いこと空き家になっていて、坂道に面した門扉はいつも閉ざされたままだった。
 その百日紅の木の下に、花を見上げるように佇む人影があった。いつものように坂道を上ってきて、その姿に気付いて拓也は立ち止まった。百日紅を見上げているのは若い女性だった。ブルーのジーンズに白いシャツというシンプルな服装で、長い髪を肩に垂らし、顔を上に向けている。百日紅の花を見ているのか、その向こうの夏空に視線を向けているのか、横顔からははっきりとはわからなかった。近づいてきた拓也の気配に気付いたらしく、女性は少し驚いたように顔を向けた。美しい顔立ちの女性だったが、なぜか不機嫌そうな表情を浮かべている。拓也は軽く会釈した。女性は無表情な中に不機嫌そうな気配を残したまま、拓也を無視し、横を通り抜けて坂道を下っていった。
 女性の後ろ姿を見送り、拓也は女性のいた場所に立った。青く澄んだ夏空を背景に百日紅が陽射しを浴びて輝いている。拓也はもう一度、坂道を降りてゆく女性の後ろ姿に視線を向けた。すでに坂道を下りきり、旧道へと出て角を曲がろうとしているところだった。
 誰だったかなと、拓也は思った。この坂道は丘向こうへ抜ける近道なのだが、あちら側では急な階段になっていて、車はもちろん自転車でさえ通り抜けることができず、地元の人たちがちらほらと歩いて通るくらいでふだんはあまり人の姿もない。拓也にとってはいつも通る道だから、行き違う人もたいていは見覚えがあった。でもあの女性はその中のひとりではなさそうだった。どこかで見た人のはずなのだが、どこで見たのか思い出せない。それにしてもあの人なんだか不機嫌そうだったなと、拓也は思った。百日紅を見上げてみた。不機嫌になる理由はありそうになかった。
 この坂道は神社の建つ丘の縁を辿っていて、空き家の向かい側には神社の周囲に広がる森が迫っている。その森からうるさいほどの蝉時雨が聞こえていた。まだ朝方だが陽射しはじりじりと肌を灼いた。うんざりするような熱気が路面から立ち上っているが、地形のせいなのか、この坂道にはよく丘越えの風が吹き抜ける。どこかの家の軒先で風鈴がちりんと鳴った。夏の盛りだった。




 丘を越えて階段を降り、住宅街の中へ少し入り込むと、家々の並ぶ中にひっそりと小さな古書店がある。このあたりに住宅が建ち並ぶ以前から、拓也が生まれるずっと前から、同じ場所で商売を続けているらしかった。白髪の穏和そうな店主のおじさんは、拓也が子どもの頃からあまり風貌が変わっていない。いつの頃からその古書店に通うようになったのか、拓也自身もよく憶えていない。小学校の頃には友だちと連れだってその店に行ったものだった。友だちがみんな漫画本を読みあさっている間も、拓也はひとり離れて『恐竜図鑑』とか『宇宙の神秘』とか、そういった類の子ども向けに書かれた本を読んでいた。中学に上がる頃にはひとりで行くことが多くなり、読む本の傾向は同じだったが少しずつ内容が大人向けのものに変わっていった。拓也のそんな姿が店主のおじさんに気に入られたのか、おじさんは店の奧に椅子を用意してくれ、気のすむまで本を読ませてくれたものだ。古びた本が雑然と並ぶ古書店の雰囲気が拓也は好きだった。背丈よりも高い書架を覗き込んで面白そうな本を探すのは、本の好きな拓也にとっては宝探しのような気がしたものだった。
「こんにちは」
 拓也は奧の方に声をかけながら店の中に入っていった。おじさんは滅多に店頭に出ていない。お客さんに二、三度呼ばれてから、ようやく鷹揚に姿を現すのだった。古書店の中は少し薄暗く、かび臭いような独特の匂いがする。この匂いも、拓也は好きだった。
 もう一度、大声で「こんにちは」と繰り返して、やっとおじさんが姿を見せた。「やあ、こめん、ごめん。奧で片付けをしていたものだから」と、おじさんは穏やかな笑みを浮かべて拓也を見た。その手に分厚い画集を持っている。
「そら、これだろう」
 おじさんはそう言って、画集を拓也に手渡した。画集はずんと重かった。まだ新品のようにきれいだった。表紙には美しく輝くリングをまとった土星の姿が描かれている。まるで写真のように見えるそのイラストはアメリカのイラストレーターが描いたものだ。画家志望だったが若い頃に生活のために科学雑誌の挿し絵を描くようになり、それがきっかけですっかりその方面のイラストの専門家になってしまったという人物だ。誰も見たことのない風景をあたかもその場でスケッチしてきたかのように描いた作品に、拓也はすっかり魅せられてしまい、彼のイラストのファンになった。この画集はそのイラストレーターの作品を集めたもので、三年ほど前に出版されたものだった。定価が一万円近くもするので、拓也には手が出なかった。第二集がつい最近出版されたのだが、こちらは一万円を越す値段で、これもまた手が出なかった。「もし手に入ったら他の人に売らないですぐに連絡して欲しい」と頼んでおいたのだが、おじさんはその約束を忘れずにいてくれたらしい。昨日の夕方に電話をもらって、早速やってきたのだった。
「まあ、座ってゆっくり見たらいい」
 おじさんはそう言って拓也に椅子を促し、奧から冷たい麦茶を出してきてくれた。
 一通り目を通して、おじさんに値段を訊いてみると、「お金は要らないから、持っていきなさい」とおじさんは言う。ありがたい話だったが、それではあまりに申し訳ない気がして、拓也は財布の中から千円札を一枚引っぱり出しておじさんに差し出した。それでも本来の値段の一割ほどの金額なのだが、いくらかでも対価を受け取ってもらった方が拓也も気が楽だった。
 いつだったか、「君のような本の好きな子どもが大好きなんだよ」と、おじさんが話してくれたことがあった。目をきらきらと輝かせて書棚を見つめるその姿が、おじさんにとってはこの商売のやり甲斐のようなものなのだと、目を細めて言ってくれたものだ。拓也も十七になって、もう“子ども”ではなくなったが、おじさんにとって拓也は今もあの頃のままなのかもしれない。拓也もおじさんのことが好きだった。本のことならどんなことでも知っていて、拓也が訊くことに何でも答えてくれる。ちょっとぶっきらぼうな物言いをする人だったが、その奧には際限のない知識の海が広がっているようで、拓也は本の世界の師匠のように慕っていたのだった。
 おじさんに丁寧にお礼を言い、拓也は古書店を出た。店の中はひんやりとして涼しかったのだが、外に出るとまた真夏の熱気がまとわりついてうんざりした。階段を上って丘の上へ出ると一気に汗が噴き出した。丘の上では風が吹き渡っていた。拓也は立ち止まって少し休んだ。ここから見下ろすと、古書店は住宅街の家々の中に紛れて目立たない。新しく建てられた住宅が並ぶ中に、取り残されたように古い小さな古書店の瓦屋根が少しだけ見えていた。




 丘を越えて坂道を東へ下ると旧道へ出る。旧道、という呼び名が示しているように、かつてはこの町の中心の通りであったらしかった。親たちが子どもだった頃にはこの道をバス路線が通っていて、ボンネット・バスがのんびりと走っていたという。時代が移って交通事情も変わると、この通りの東側に広くて新しい道路が造られ、今はそちらが目抜き通りになって、こちらは静かな裏通りになってしまった。地元の人たちは新しい道のことを新道と呼び、こちらを旧道と呼ぶ。もちろん正式な名ではないが、地元ではそれで話が通じる。旧道沿いには昔の名残のように古びた構えの商店などが今も残っていて、拓也にもなんとなく昔のことが思い浮かぶ気もする。
 坂道から旧道に出て、定食屋の前から少しばかり南に行くと神社への参道がある。大きな鳥居があって、緩やかな石段が木立の中を丘へ登っている。参道前には“八幡橋”という地名があるが、今は橋はない。丘の麓の湧き水が昔は小さな川になって参道の横を流れていたらしい。今では湧き水はほとんど涸れてしまい、川のあったところには遊歩道が整備され、遊歩道に沿って人工的に小川が造られている。小川は家々の間を縫って流れ、旧道にぶつかるところで暗渠になって姿を消している。“八幡橋”に差し掛かると子どもたちの遊ぶ声が聞こえた。遊歩道の小川で水遊びをしているのだろう。拓也も小さな頃はよくそこで遊んだものだった。
 立ち止まって目をやると、小川で子どもたちが遊んでいて、その横ではお母さんたちが立ち話をしている。その中に瑞恵さんの姿が見えた。保奈美ちゃんは小川の水の中に座り込んでいる。瑞恵さんがこちらに気付き、軽く右手を挙げて挨拶した。拓也は会釈を返し、遊歩道へと歩いた。
「拓也くん、どこか出かけるの?」
 瑞恵さんが訊く。
「いえ、帰ってきたとこです」
 返事をしながら、拓也は瑞恵さんの横に立った。小さな保奈美ちゃんが顔を上げて拓也を見た。それを見下ろして拓也は少しおどけた顔をしてみせる。
「また古本屋さんに行ってたの?」
 拓也が胸に抱える画集を見ながら、瑞恵さんが言った。拓也はこくんと頷いた。拓也がよく古書店に行くことを瑞恵さんも知っている。「また古本屋さんに行ってたの?」は、だから瑞恵さんの拓也への挨拶のようなものだった。保奈美ちゃんは小川の水の中を歩き回り始めた。わざと足を高く上げて歩き、水の飛沫が大きく上がるたびにきゃっきゃっと喜んでいる。
「今日も暑いわね」
 歓声を上げる保奈美ちゃんを見ながら、瑞恵さんが言う。瑞恵さんはそのまま世間話を続け、拓也はそれに「はあ」とか「そうですね」とかと、適当にあいづちをうった。いつものことだが、瑞恵さんはよく喋り、よく笑う。
「あ、そうだ」
 ふと何かに気づいたように瑞恵さんが拓也の顔を見た。
「ねえ、拓也くん、ちょっと保奈美を見ててくれない?」
 拓也は瑞恵さんの顔を見て、それから保奈美ちゃんを見た。保奈美ちゃんは小川の中にべったりと腹這いになっている。
「はあ、いいですよ」
 これといって特にすることもない。これから家に帰って画集をのんびりと見るくらいのことしか考えていなかった。保奈美ちゃんの面倒をみるのもいつものことだったし、彼女の方もすっかり拓也になついている。保奈美ちゃんは水の中にまだ腹這いになったまま、腕をばたばたさせて水飛沫を上げて遊んでいる。
「保奈美、お母さん、ちょっとご用事があるから、お兄ちゃんと遊んでて」
 遊んでいる保奈美ちゃんにそう言って、瑞恵さんはタオルやら何やら保奈美ちゃんのものを拓也に手渡した。保奈美ちゃんは腹這いになったまま母親と拓也の顔を交互に見て、「はーい」と可愛らしい返事をした。
「ごめんね、主婦はいろいろと忙しいのよ」
 瑞恵さんはそう言って笑い、「それじゃお願いね」と言い残して帰っていった。保奈美ちゃんは水の中に座って母親の後ろ姿に手を振っていたが、またすぐに水遊びに戻った。拓也は遊歩道脇に置かれたベンチに腰を下ろし、保奈美ちゃんの遊ぶ姿を眺めた。
 夏空には雲ひとつなかった。青く澄んだ空から光が降っている。その光を浴びて、神社の周りの森が深い緑に輝いていた。あたりには子どもたちの歓声と蝉時雨とせせらぎの音だけが聞こえている。
 瑞恵さんが石坂さんの家に嫁いできたのは四年前のことで、拓也もそのときのことをよく憶えている。挙式は五月だったが、真夏のように暑い日だった。石坂さんのおじさん、すなわち瑞恵さんの義父にあたる人は拓也の父親と同じ会社に勤めている。隣町にある建設会社で、ふたりはそこで同期の同僚なのだった。拓也の父親と石坂のおじさんとはずいぶんと仲がよく、そのために拓也の家と石坂さんの家とは昔から親戚のようなつきあいが続いている。石坂さんの息子さんは拓也よりひとまわり年上だが、子どもの頃から“石坂のにいちゃん”と呼んで親しくしてもらってきた。その“石坂のにいちゃん”が瑞恵さんの夫だ。だから保奈美ちゃんのことも生まれたときから知っている。保奈美ちゃんは今年の春に三歳になったばかりだ。
 ふと気付くと保奈美ちゃんが拓也の前に立っている。どうしたのかと思っていると、拓也の手を取って「おにーちゃんもいっしょにあそぼーよ」と言う。この小川で水遊びをしなくなってずいぶん経つが、水の流れは涼しげにきらめいて誘惑的だった。保奈美ちゃんの相手という理由をつけて、画集と預かった荷物を脇に置き、拓也は立ち上がった。




 保奈美ちゃんと遊んであげたのか、遊んでもらったのか、一緒になって水遊びに夢中になり、いつの間にか太陽は空の頂点近くに達していた。瑞恵さんはなかなか戻ってこなかった。
「お母さん、遅いね。そろそろ帰ろうか」
 遊び続ける保奈美ちゃんにそう言うと、彼女は「えー」と不服そうな顔をした。時計を見るとすでに正午を過ぎていた。一時間以上も一緒に遊んでいたことになる。そろそろ引き上げる頃合いのようだった。保奈美ちゃんはなおも不満そうだが、さすがに相手が拓也だとあまりだだをこねることはない。遊歩道脇の水道まで連れてゆき、身体を洗ってやり、預かったタオルで拭いてやる。
「ほなみ、おおきくなったらおにーちゃんのおよめさんになる」
 水着の上にパイル地のパーカーを着せてもらいながら、保奈美ちゃんはそんなことを言う。拓也はにっこり笑って保奈美ちゃんを見て、「楽しみにしてるよ」などと言う。保奈美ちゃんの一方的なプロポーズはこれが初めてではない。そのたびに拓也がそんなふうに応えると、保奈美ちゃんは満面に笑みを浮かべるのだった。
 保奈美ちゃんの手を引いて、石坂さんの家まで歩いた。保奈美ちゃんは歩きながら何やら歌を唄っているが、何の歌なのか拓也にはさっぱりわからない。家に着くと、瑞恵さんが出迎えてくれた。
「あら、もうこんな時間なんだ。そろそろ迎えに行こうかと思ってたとこなのよ。ごめんね。ありがとう、送ってきてもらって」
 瑞恵さんは保奈美ちゃんを抱き上げ、家の中に連れて行きながら、ふと立ち止まってふりむいた。
「拓也くん、うちでお昼食べてってね。拓也くんの家には電話しといたから」
 瑞恵さんはそう言って、返事を待たずに家の中へ入っていってしまった。仕方がないので拓也もその後に続いて入っていった。瑞恵さんは有無を言わさずさっさと物事を決めてしまうようなところがあって、ときどき閉口することもある。“石坂のにいちゃん”との結婚も、きっと瑞恵さんがそんなふうにさっさと自分で決めてしまったのじゃないかと、拓也は思っている。
 着替えを済ませた保奈美ちゃんの相手をしながら昼食の準備が整えられるのを待った。昼食はそうめんのようだ。
「あれ? 今日はおばさんは?」
 保奈美ちゃんと手遊びをしながら、ふと石坂のおばさんの姿が見えないことに気づき、拓也は訊いてみた。
「ああ、お義母さんは、今日は友だちと出かけたのよ。まったくいい気なもんよ」
 憎まれ口をきいているが、実は瑞恵さんと石坂のおばさんとはとても仲がいい。石坂のおばさんも裏表の無い、竹を割ったような人で、瑞恵さんと気があうのかもしれない。保奈美ちゃんは拓也の手遊びに夢中になって笑っている。
 食卓の準備が整うと、瑞恵さんは階段の下に歩み寄り、二階に向かって声をかけた。
「由梨、あんたも降りてきて、一緒にお昼食べなさい」
 他に誰かいたのかと思って、拓也はちょっと驚いて瑞恵さんを見た。
「ちょうどあたしの妹が来てるのよ」
 瑞恵さんが言った。
「そうなんですか。すいません、知らなくて」
「ああ、いいのよ。そうめんなんて五把茹でるのも十把茹でるのも手間は一緒だから」
 瑞恵さんが笑う。そんなことを言ってるんじゃないんだけどと思いながら、拓也は「はあ」と曖昧に返事をした。瑞恵さんの妹さんには瑞恵さんの結婚式のときにあったきりだ。顔もよく憶えていない。おとなしい感じの目立たない人だったような気がする。
 しばらくして階段を降りてくる足音がして、瑞恵さんの妹さんが姿を見せた。その姿を見て拓也はちょっとびっくりした。ブルーのジーンズに白いシャツ、長い髪、今朝方、坂道の百日紅の下で見た、あの女性だった。彼女の方もそれに気づいたようだったが、拓也に会釈するわけでもなく、むっつりと黙ったままだった。あのときと同じように、表情の中に不機嫌そうな気配が漂っている。
「拓也くん、由梨とは初対面だっけ? そうか、あたしの結婚式のときに会ってるよね」
 瑞恵さんが言った。あの坂道で見かけたとき、どこかで見たような気がしたのも当然のことだった。瑞恵さんの妹さんの、由梨さんだったのだ。今の由梨さんはあの頃よりずっと大人びていて、記憶の中の由梨さんとはずいぶんと印象が違っていて、だからすぐにはわからなかったのだ。
「ええ、まあ、会ったってほどじゃないですけど」
 拓也が答えると、瑞恵さんは改めてふたりを紹介してくれた。拓也が挨拶しても、由梨さんはむすっと黙ったままだった。「ごめんね、無愛想な妹で」と瑞恵さんが小声で拓也に耳打ちすると、由梨さんはじろりと瑞恵さんを見た。
 瑞恵さんと由梨さんはあまり似ていない。どちらかと言えばふっくらとした顔立ちの瑞恵さんにくらべて、由梨さんはかなり細面で、目鼻立ちの印象もずいぶんと違っている。全体の雰囲気も大らかで陽気そうな瑞恵さんとは違っていて、由梨さんはどことなく鋭利で繊細な感じがする。
 「おにーちゃんのとなりがいー」と保奈美ちゃんが言うので、食卓には拓也と保奈美ちゃんが並んで座り、保奈美ちゃんの前に瑞恵さんが、拓也の前には由梨さんが座った。保奈美ちゃんはもう器用に箸を使うが、さすがにそうめんをこぼしたりして、そのたびに瑞恵さんと拓也とで面倒をみてやらなくてはならない。その間も、由梨さんは黙ったまま、ひとりでそうめんを食べている。その食べっぷりがかなり豪快なので拓也はちょっと驚いた。見ていると、由梨さんは「なによ」とでも言いたげに上目遣いでじろりと拓也を睨んだ。拓也は慌てて目を逸らした。
 食べ終わると、由梨さんはさっさと自分の使った食器を流しに片付け、何も言わずに二階へ上がっていった。
「ごめんねえ、ほんっとに愛想のない妹で。あれでけっこう照れ屋でね、その裏返しなのよ、無愛想なのは。不愉快だったでしょうけど、あんまり怒らないでね」
 由梨さんが二階へ行ってしまった後で、瑞恵さんが釈明するように言った。「いえ、ぜんぜん気にしてませんから」と拓也が言うと、瑞恵さんは「ありがとう」と笑った。
「このところよく来るのよ」
 瑞恵さんは保奈美ちゃんのくちもとを拭いてやりながら話を続けた。保奈美ちゃんが口を押さえられて「んー」と言っている。
「近くの会社でバイト始めたらしくてね。バイト帰りなんかにちょくちょく寄ってくれるようになったのよ」
 瑞恵さんが保奈美ちゃんを椅子から降ろしてやる。拓也は椅子を引いて手伝った。保奈美ちゃんが足をばたばたさせて邪魔をする。
「今日もバイトだったらしいんだけど、頭痛がするっていって、行ってすぐに早退してきたらしくて、そのままうちで寝てたのよ」
 瑞恵さんはそう言って呆れたように笑う。つまり由梨さんが普段からの無愛想に輪をかけて不機嫌そうなのは、そういう理由もあるからなのだった。
 昼食の片づけをしながら、瑞恵さんは拓也にいろいろと話してくれた。由梨さんは歳は二十一で、大学の三年生だった。子どもの頃から無口で無愛想で、おまけにちょっと変わり者であるらしかった。瑞恵さんの言葉を借りれば「あれでもけっこうアタマはいい」らしく、理学部の数学科に在籍しているのだそうだ。コンピュータのプログラミングに関して、これも瑞恵さんの言葉を借りれば「人と話をするよりコンピュータと話をする方がうまい」くらい天才的な能力を持っている人であるらしく、よくソフトウェア会社でバイトをしているらしかった。夏前からは丘向こうの住宅街の中にあるソフトウェア開発会社でバイトを始め、それからはこの家へちょくちょく顔を出すようになったらしい。それであの坂道を歩いていたのかと、拓也はようやく気がついた。
 話を聞きながら、拓也は保奈美ちゃんの相手をした。「拓也くん、子どもの相手がうまいわよね」と、瑞恵さんが感心したような呆れたような口調で言う。拓也自身は特に小さな子どもの相手をするのが好きとか得意だとか思ったことはないのだが、保奈美ちゃんの様子を見ていると、どうやら自分が彼女に気に入られているらしいことはわかる。保奈美ちゃんが拓也の指を握ってぐいぐいと動かしている。拓也が大げさに痛がるふりをすると、保奈美ちゃんは喜んできゃっきゃっと笑った。
「保奈美は大人になったら拓也くんと結婚するつもりらしいわよ」
 瑞恵さんが笑いながら言う。
「ええ、そうみたいです。よくプロポーズされますから」
 拓也も笑って応えた。
「よろしくね、拓也くん」
「はあ」
 なんと答えてよいものやら、拓也は苦笑いして保奈美ちゃんを見た。保奈美ちゃんは無邪気に笑っている。




 保奈美ちゃんと遊びながらすっかり長居をして、石坂さんの家を出たのは二時近くになってからだった。午前中は快晴だったのに、お昼を過ぎて少し雲が出てきたようだった。夕立があるかもしれない。
 旧道を歩いて家に近づいた頃、拓也は自分が手ぶらなのに気づいた。石坂さんの家に画集を置いてきてしまったのだった。ちょっと迷ったが、取りに戻ることにした。石坂さんの家の前に着いて拓也は少しためらった。保奈美ちゃんはきっとお昼寝の時間に違いない。チャイムを鳴らすと起こしてしまうかもしれなかった。保奈美ちゃんは寝付きが悪いから、ちょうど寝そうになっているところだと困る。一度だけ、チャイムを鳴らすことにした。返事はなかった。やはり保奈美ちゃんはお昼寝しているのだろう。ちょうど寝付こうとしているところかもしれないし、瑞恵さんのことだから、保奈美ちゃんを寝かしつけようとして添い寝をしているうちに自分も眠ってしまったのかもしれない。出直そうかと思ったとき、玄関のドアががちゃりと開いた。
 由梨さんが立っていた。玄関に立って、黙ったまま拓也を見据えている。
「あ、すいません、ちょっと忘れ物をしちゃったみたいで」
 拓也がそう言っても、由梨さんは表情ひとつ変えない。
「画集なんですけど、きっと居間のテーブルに置きっぱなしになってると思うんですけど」
 やはり由梨さんは無表情のまま、何も答えない。そのまま上がり込むのも、取ってきて欲しいと頼むのも、どちらも厚かましい気がして、拓也がどうしたものかと考えていると、ふいに由梨さんが奧へ歩いていってしまった。取ってきてくれるのか、それとも自分で取ってきなさいという意味なのか、拓也が途方に暮れていると、由梨さんが戻ってきた。手に画集を持って、表紙を眺めながら、由梨さんはゆっくりと歩いて拓也の前に立った。
「あ、それです。ありがとうございました」
「好きなんだ」
 拓也に画集を手渡すとき、由梨さんがぼそりと言った。「え」と、拓也は由梨さんの顔を見た。由梨さんは無表情のままだった。その言葉が、そのイラストレーターの作品が好きなのかと拓也に訊いたものだと理解するのに、少し時間がかかった。
「あ、はい。大好きなんです」
 拓也は由梨さんが話しかけてくれたことがなんだか妙に嬉しくて、笑顔になってそう答えた。
「へえ」
 由梨さんの返事は素っ気なかったが、そのくちもとに微かな笑みが浮かんでいるのに拓也は気づいた。なんだかとても嬉しかった。でも会話はそれっきりだった。由梨さんはまた無表情に戻って腕組みして玄関に突っ立っている。ちょっと戸惑い気味に、拓也は挨拶をして石坂さんの家を後にした。
 初めて聞いた由梨さんの声は顔立ちの印象から想像するより少し低く、落ち着いていて、どこか怜悧な響きがあった。由梨さんの言葉は素っ気ないものだったが、なぜだか拓也の耳に残った。好きなんだ、へえ、好きなんだ、へえ、好きなんだ、由梨さんの声が拓也の胸の中に響き渡った。


 夏休みになってからは、拓也は三日と空けずに古書店に通った。毎年、そうだった。店の奧には拓也のための椅子があり、そこに座って本を読みながら時を過ごした。店の中は風が通ってひんやりと涼しかった。店主のおじさんはほとんど話しかけてこない。店にはあまり客もない。店の前の道路はほとんど車が通ることもなく、夏の静けさの中に神社の森から蝉の声が届いていた。
 その日も午後になって古書店に出かけ、いつもの席でいつものように本を読んでいた。ときおり読み疲れて顔を上げた。少し薄暗い店の中から前の道路を見ると、夏の光が強すぎて目が眩むようだった。その夏の光の中を人影がよぎった。
 拓也は急いで本を閉じて立ち上がった。店の前に出て、人影の行方を追った。由梨さんはすでに交差点を曲がって角の家の生け垣の向こうに姿を消そうとしていた。おじさんに声をかけて慌てて由梨さんを追った。生け垣の角まで来ると、またその先の交差点を曲がろうとする由梨さんの後ろ姿が見えた。走って追いかけた。
 次の交差点を曲がると、由梨さんの後ろ姿が近くなっていた。思わず追いかけてきてみたものの、それからどうするか、まるで考えてはいなかった。由梨さんに声をかけようか迷った。由梨さんは夏の光の中をゆっくりと歩いて遠ざかってゆく。とにかく呼び止めようと、拓也が口を開きかけたとき、ふと由梨さんが立ち止まった。立ち止まり、ふわりとした動作でこちらをふりかえった。長い髪がふわりと揺れた。
 声をかけそびれて、拓也はその場に突っ立っていた。
「何してんの、こんなとこで」
 由梨さんがはっきりとした声で言った。
「あ、いえ、向こうの古本屋に来てたから」
 拓也はもごもごと答えた。
「ああ、あの店ね」
 由梨さんは答えて拓也に歩み寄った。今日の由梨さんは少し短めの紺のスカートに白いブラウスという服装だった。左肩に小さなバッグを提げ、その手で脱いだ上着を持ち、右手には書類鞄を提げている。いかにも仕事中といった雰囲気だった。
「それで、私が通りがかったのを見て、追いかけてきたってわけだ」
 拓也の前に立って、由梨さんは見透かしたようにそんなことを言った。でも表情には何もなく、拓也をおもしろがっているようでも、馬鹿にしているようでもなかった。「いえ、そんなわけじゃ」と、もごもごと答えそうになりながら、けっきょく拓也は小さく頷いただけだった。
 そのままずいぶんと長い時間が過ぎたような気がした。蝉の声と、風に乗って遠くから届く車の音と、どこかの家の子どもの声が聞こえていた。拓也は突っ立ったままだった。
「お茶でも飲もうか。ちょっと待ってて、会社に寄るから」
 由梨さんは無表情のままそう言って、少し先の道脇の建物に目をやった。建物はふつうの住宅のようにも見えたが、よく見ると門柱には会社の名が書かれていた。由梨さんがバイトしている会社のようだった。拓也はまた頷いた。
 由梨さんは会社の建物の中に入ってゆき、しばらくして戻ってきた。さっきと同じ服装だったが、左手に提げていた書類鞄がなかった。
「行こう」
 と、由梨さんが言った。
 夏の住宅街の中を由梨さんは歩き始めた。由梨さんの後ろについて拓也は歩いた。会社の前から今来た方とは逆の方向へ向かい、右手の路地に入り、路地を抜けて左に折れ、再び右手の路地に入り込み、路地脇の家の門の中へ、由梨さんはすっと入っていった。ここも見た目はふつうの住宅のようだったが、門柱に小さく『遠藤珈琲店』と書かれてあった。
 『遠藤珈琲店』は住宅の居間を改造して小さな喫茶店を営んでいるもののようだった。ここにこんな店があることなど、拓也はまるで知らなかった。玄関に入ると上品な物腰の初老の婦人が出迎えてくれて、靴を脱いで中に上がり、かつては居間だった喫茶室に設えられたテーブルについた。冷房は使われていなかったが、開け放たれた窓から風が吹き抜けて涼しかった。四つほどのテーブルの置かれた喫茶室に、他に客はなかった。ふたりの座った席は外側に並んだテーブルのひとつで、横には縁側越しに庭がよく見えた。庭の隅に、夾竹桃が咲いていた。
 由梨さんも拓也も無言のまま歩いてきて、席に着いてからようやく由梨さんが口を開いた。
「いい店だろ、ここ」
 由梨さんは相変わらず無表情のままだった。拓也は小さな声で「はあ」と答えた。
 テーブルに置かれた手書きのメニューには、それぞれ数種類のコーヒーと紅茶と手作りのタルトの名が記されていた。頃合いを見計らってやってきたさっきの婦人に、由梨さんはアイスコーヒーと洋梨のタルトを、拓也は由梨さんに勧められるままにアイスコーヒーを頼んだ。玄関脇の厨房には初老の男性の姿があり、婦人が戻るとすぐにコーヒーを淹れ始めた。きっとご夫婦なのだろう。この店は商売というよりなかば趣味のようなものなのだろうと思いながら、拓也はぼんやりとその様子を見ていた。
 由梨さんは顔を庭に向けている。その美しい横顔に引き寄せられるように、拓也は由梨さんを見た。肩の後ろに長い髪がさらりと流れている。切れ長の眼は少し冷たい印象だが、聡明そうな印象を湛えている。鼻は特に高いというほどではなかったが整った形でバランスよく顔立ちに溶け込んでいる。こうして横から見ると上唇が少しつんと上を向いていて、整いすぎているようにも見える顔立ちのアクセントになっていた。女性の顔立ちの美しさというものの、ほぼ理想形に近いと、拓也は由梨さんの横顔を見ながら思った。無遠慮に由梨さんの顔をじっと見つめる自分に気づいて、拓也は決まり悪そうに視線を外した。由梨さんはまるで気にしていなかった。
「あの、いいんですか、仕事中じゃないんですか」
 拓也はけっきょくそんなつまらないことを口にした。
 拓也は、決して女性と話をするのが苦手だとかということはない。女の子と親しくつきあったこともあった。少し童顔でおっとりとした拓也は、どうやら同世代の女の子たちの目から見ても魅力的であるらしく、自分で思っている以上に女の子たちと話をする機会は多かった。しかし、今、拓也の前に座っている人は、そんな女の子たちとは違うのだった。
 由梨さんは拓也にまっすぐに顔を向けた。
「いいよ。頼み込まれて安い時給で手伝ってるんだから。休憩くらい自由に取らせてもらわないと、やってられない」
 由梨さんは当然のような顔をしてさらりとそんなことを言った。拓也はまた「はあ」と力のない返事をした。そのまま会話は途切れて、由梨さんはまた庭に顔を向けた。自分の方から誘っておいて、少なくとも自分の方が年上であるのに、由梨さんは会話の糸口を探そうとさえしていないようだった。「ごめんね、無愛想な妹で」という瑞恵さんの苦笑いが頭に浮かんだ。
 店の婦人がアイスコーヒーと洋梨のタルトを運んできた。タルトを、由梨さんは手に持って口に運んでかじりついた。あまりに豪快なたべっぷりに拓也は見とれた。由梨さんが食べながら睨んだ。拓也は慌てて目を逸らした。
「名前、なんていったっけ」
 タルトを食べ終えた由梨さんが唐突に言った。拓也は何のことかわからずにあれこれと考えを巡らし、ようやく自分の名を訊かれているのだと気づいた。
「拓也、です」
「拓也、か」
「はい」
「高校生だっけ」
「はい」
「受験は?」
「附属校なので、そのまま無試験の推薦枠で」
「ふうん」
 由梨さんは拓也の顔をまっすぐに見て、それっきり何も言わなかった。
 庭の植木のどこかで蝉が鳴き始めた。蝉を探すようにして拓也は目を逸らした。庭の木々の向こうに入道雲が見えた。じっと見ていると、入道雲は少しずつ形を変えながら高さを増してゆく。入道雲の頂は夏の陽射しを受けて眩しく照り輝いていた。同じものを由梨さんも見ているのか、由梨さんはときどきアイスコーヒーを飲みながら外を眺めている。そんな由梨さんの横顔を拓也は見ていた。吹き抜ける風に由梨さんの髪が揺れるたびに、胸の奥が小さく疼いた。
「そろそろ戻ろうか」
 由梨さんが言って、ふたりは席を立った。拓也が自分の分を支払おうとするのをさり気なく制して、由梨さんが二人分の代金を支払った。「ごちそうさまでした」と拓也が言うと、由梨さんは「うん」とだけ答えた。
 遠藤珈琲店を出て、来た道を戻り、由梨さんのバイト先の会社の前まで来た。戻り道も、ふたりは黙ったままだった。
「じゃあね。私はまだ仕事があるから」
 由梨さんは素っ気なくそう言って、会社の建物に入ってゆこうとする。
「あの」
 拓也は慌てて呼び止めた。由梨さんが立ち止まり、ふりかえった。
「あ、あの、来週の土曜日、八幡様のお祭りなんですけど、よかったら一緒に行きませんか」
 拓也は一息で言った。そんな拓也を由梨さんはじっと見ていた。無表情のまま、何を考えているのかさっぱりわからない。そのまましばらく由梨さんは拓也の顔を見据えていた。拓也は決まり悪く居心地の悪い思いで突っ立っていた。言ってしまったことを少し後悔した。
「ふうん、デートの誘いか」
 由梨さんは拓也を見据えたまま、素っ気なく言った。「いえ、そんなわけじゃ」と、拓也は口ごもった。
「子どものくせに」
 由梨さんは無表情のまま、その言葉にも表情がない。
「すいません」
 拓也は力のない声で答えた。
「私とお祭りに行きたいのか」
 拓也は小さく頷いた。
「こんな年上の無愛想な女でいいのか」
 拓也はまた小さく頷いた。
 そのまま、また間が空いた。拓也は由梨さんの視線に射すくめられるようにして立っていた。
「わかった」
 由梨さんが言った。
「一緒に行こう、お祭り。石坂の家で待ち合わせでいいかな」
 由梨さんは相変わらず無表情のままだったが、その口調にほんの少し優しげな響きがあるような気がした。
「はい」
 思わず大声になってしまって少し気恥ずかしかったが、由梨さんが微かに笑みを浮かべたのに拓也は気づいた。
「それじゃ、今日はありがとうございました」
 拓也が言うと、由梨さんはまた「うん」とだけ言った。その場を後にして少し歩いて、拓也はふりかえった。由梨さんの姿はもうなかった。
 夏の盛り、午後の日の落とす影はさっきより少し長くなった。浮き足立つような気分で、拓也は住宅街の道を歩いた。顔を上げると、並ぶ家々の屋根の向こうに入道雲が見えた。入道雲はさっきよりずっと大きくなっていた。午後の陽射しを照り返してますます白く輝いている。目を細めて眺めながら、拓也は由梨さんを想った。あの美しい横顔が忘れられなかった。

 町の東側を片側二車線の広い道路がまっすぐに抜けている。国道ではないが南北を繋ぐ主要道路で交通量も多かった。交通事情の変化に応じて二十年ほど前に造られたバイパスだった。地元ではこれを新道と呼ぶ。バス路線もこの新道を通っていて、駅周辺の繁華街へ行くには拓也の家から五分ほど歩いて新道に出て、さらに三十分ほどバスに揺られなくてはならなかった。
 新道は大きく育った楠の並木になっていて、その木陰の中に“八幡東町”のバス停がある。バスを待っているのは拓也だけだった。車道にはひっきりなしに車が走り抜けているが、正午をわずかに過ぎた時刻では歩道にはあまり人の姿もない。夏の街路は熱気を溜めて暑苦しく、うるさく埃っぽくて不快だった。
 やがてようやくバスが来た。バスの中は冷房が効いていてひんやりと涼しかった。バスの座席に座り、拓也はぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。新道沿いにはファミリーレストランやカーディーラーや大型の園芸店やパチンコ店や家電店などが並んでいる。それらの店の大きな駐車場に、ときおり車が入ってゆき、別の車が出てゆく。そんな様子を眺めながら、拓也は由梨さんのことを思っていた。八幡様のお祭りは明日だった。思わず誘ってはみたものの、お祭りの晩をどんなふうに由梨さんと過ごせばいいのか、拓也は少し戸惑っていた。
 由梨さんの前ではなぜだか妙に緊張してしまってどうにもならない。由梨さんは拓也より四つ年上で、すでに大人と言っていいが、それをあまりに意識しすぎているんだろうか。それとも由梨さんのいつもどことなく不機嫌そうで無愛想な態度のせいだろうか。いや、敢えて言うなら、あの眼だ。拓也の心の内を見透かしたような、由梨さんのあの眼に見つめられるとわけもなく萎縮してしまう。その由梨さんと、お祭りに行く。同級生の女の子を誘ってお祭りに行くのとは、明らかに違う。
 バスはゆっくりと新道を走り、いくつかのバス停を経由してやがて楠並木が途切れると大見川へさしかかる。新蓬莱橋で川を渡ると隣町だ。川を渡るとき、右手に旧道が川を越える蓬莱橋が見える。蓬莱橋のさらに右には、町並みの中にこんもりと小高く八幡様の森が見えた。
 川向こうの町は鉄道の駅を中心に広がっており、拓也の住む町より歴史は浅いが遙かに人口は多く、このあたりの商業の中心と言ってよかった。拓也の父親と石坂さんのおじさんが勤める建設会社もこの町にあった。
 駅前ロータリーでバスを降りると、駅から放射状に延びる商店街へと向かった。何か、由梨さんへのプレゼントを用意しておこう、というのが拓也の精一杯のアイデアだった。高校生の男の子が用意するプレゼントなどたかが知れているが、それでも想いを伝える手段としてそれくらいのことしか思いつかなかった。あまりに子どもっぽいものでも困るし、かと言って高価なものは買えず、あちらこちらの店を見て回ってようやく見つけたのは三千円ほどのイルカを象った銀のピアスだった。にこやかな店員に「贈り物ですか」と問われて、由梨さんの顔を思いながら「はい」と答えた。贈答用に包装してもらって、リボンを付けてもらった。胸のポケットに入りそうな小さな箱だったが、店員は大仰なほどの紙袋に入れて手渡してくれた。受け取って箱を開ける時の由梨さんの反応を思ってみた。無表情なまま、「ふうん」などと言って、また射すくめるような眼で自分を見るだろうか。
 駅前ロータリーのバス停で帰りのバスを待つ頃にはすでに午後も遅い時刻だった。バスを待つ間に、偶然同級生と出会った。彼は女の子を連れていた。見たことのない女の子だったから、きっと別の高校の子なのだろう。挨拶もそこそこに、彼らは街の雑踏の中へと消えていった。その後ろ姿に、拓也は自分と由梨さんの姿を重ね合わせてみた。やっぱり不釣り合いなような気がした。
 やがて拓也の住む町へと向かうバスが来た。宝飾店のロゴの入った紙袋を抱えるようにして持って、バスに乗った。
 拓也の乗ったバスが駅前のロータリーから新道に出ようと信号待ちをしているとき、逆方向のバスが駅前に入ってきた。停まったバスから、由梨さんが降りてきた。「あっ」と思って拓也は由梨さんを眼で追った。由梨さんはバスを降りると駅とは反対側へと歩いてゆき、ロータリーの片隅に停車していた乗用車の脇に立ち、その車の助手席のドアを開けて乗り込んだ。由梨さんを乗せた乗用車は発進し、ロータリーをゆっくり回って拓也の乗るバスの隣、拓也の座る席のちょうど斜め後ろに停車した。運転席に座っているのは男性だった。スーツにネクタイ姿で、歳は二十代後半から三十代前半といったところだろうか。隣に座っているのは、間違いなく由梨さんだった。男性は由梨さんに何か話しかけているらしく、口が動いているのが見える。何を喋っているのか、もちろん拓也にはまったくわからない。由梨さんは車の助手席に身を沈め、胸元で腕を組んでいる。いつものように無表情だったが、それがかえってその状況に慣れていることを示しているようだった。由梨さんは男性の言葉に短く返事をしている。斜め前に停まるバスの中に拓也が乗っていることなど、まったく気づいてはいない。
 信号が変わった。バスはロータリーを出て新道へ左折し、由梨さんを乗せた乗用車は右折していった。その車の行方を追うように、拓也はバスの車内で大きくふりかえった。後ろの席の乗客が怪訝な顔で拓也を見た。由梨さんの乗った車は見えなかった。
 考えてみれば予想できないことではなかったのに、なぜかそういうことには思いが及ばなかった。あんなにきれいな人なら恋人くらいいても不思議ではない。すいぶんと身の程知らずな片思いだった。悔しく切ない痛みを感じながら、拓也は由梨さんの言葉を思い出していた。一緒に行こう、お祭り。あの約束が色褪せて遠ざかってゆくような気がした。膝に抱えた紙袋が虚しかった。

 その日、町は朝からすっかりお祭り気分でそわそわと落ち着かなかった。旧道沿いの商店街から参道にかけて提灯が提げられ、その脇を祭装束の男衆や浴衣姿の女の子たちが行き交っていた。神社の境内にはすでに多くの夜店が並んでいるに違いない。拓也の父親もすでに半纏をまとって出かけていった。石坂さんのおじさんも“石坂のにいちゃん”も、同じように出かけていっただろう。母親も朝から町内会の雑事に追われている。お昼過ぎには子供会の御神輿が拓也の家の前を通っていった。拓也も子どもの頃に御神輿を担いだものだった。
 八幡様の例大祭は古い由緒があり、町を挙げての大きなお祭りだった。夕方になると旧道は車の通行が止められ、八幡様の宮神輿が繰り出す。神社を出発した宮神輿は参道から八幡橋へと出て、ゆっくりと時間をかけて旧道を抜け、蓬莱橋下の河原へ降りて禊ぎをする。それが終わると再び旧道へ戻って八幡橋へと辿り、参道を上がって神社に奉納される。故事に由来するという神輿の渡御で、神輿が最後に勇壮に参道を駆け上がるときにお祭りも最高潮となるのだった。八幡様の宮神輿は、これも故事に倣って数え年で二十四歳に達した男性でなくては担ぐことができない。拓也のような年齢では担ぐことが許されず、といって子ども神輿を担ぐ年齢でもなく、少しばかり部外者のような立場になってしまう。しかしそれに不平を言う者はあまりいない。その年頃には神輿より他に関心事があったからだ。
 中学三年の夏、拓也は「お祭りに行こう」と同級生の女の子を誘った。思えばあれが女の子との初めてのデートだった。高校一年の夏には新しい友人たちと女の子たちの数人のグループでお祭りに行った。そのグループの中の女の子と親しくなり、高校二年の夏はその子とふたりでお祭りに行った。次の年にも一緒に行く約束をしたのだが、その子は三年に上がる年の春に親の都合で遠くの街へ引っ越していってしまった。どこからか聞こえる祭囃子を聞きながら、拓也は一年半ほどつきあった、その女の子をことを思い出していた。丸顔の可愛らしい、天真爛漫な女の子だった。引っ越していってしばらくは手紙が来たのだが、やがてそれも途絶えた。あの子のことを本当に好きだったのかどうか、よくわからない。でもこうして祭囃子を聞いていると、少し切ない気持ちになる。
 家の二階の自分の部屋でベッドに寝ころんで、拓也は机の上に置かれた宝飾店の紙袋を眺めていた。どうしたものかと、拓也は迷っていた。何か理由を見つけて約束を反故にしたい気にもなった。でも自分から誘ったのだからという気持ちもあったし、やはり由梨さんに会いたいという想いもあった。由梨さんのために買った銀のピアスはどうしようか。渡した方がいいだろうか、かえって困らせてしまうだろうか。受け取ってもらえないかもしれない、などと思っていると、玄関のチャイムが鳴った。
 チャイムは二度、三度と鳴った。どうやら母親はまた外出していて留守らしい。仕方なく拓也が応対に出た。訪ねてきたのは瑞恵さんと保奈美ちゃんだった。保奈美ちゃんは小さな浴衣を着せてもらってご満悦の様子だ。「保奈美が拓也くんに見せに行くって言うもんだから」と瑞恵さんが苦笑いする。「よく似合ってるよ、かわいいよ」と拓也が言うと、保奈美ちゃんの笑顔がますます輝いた。
「おにーちゃんは後でうちに来ることになってるから、その時でいいでしょって言っても、すぐに見せに行くって言ってきかないのよ」
 瑞恵さんが笑う。保奈美ちゃんは「おまちゅりー」と言いながら手に持った団扇を振り回している。踊っているつもりらしい。拓也は瑞恵さんの「後でうちに来ることになってる」という言葉を聞き逃さなかった。由梨さんとの約束のことは瑞恵さんには言っていなかったから、きっと由梨さんが話したのだろう。
「拓也くん、由梨を誘ってくれたんだってね。ありがとう。喜んでたわよ、あのこ」
 瑞恵さんは真顔でそんなことを言った。予期していなかった言葉に、拓也はちょっと驚いて瑞恵さんの顔を見た。
「まぁ、もちろん顔には出さないけどね」
 瑞恵さんは注釈を付けるようにそう言ってくすっと笑った。拓也は「はぁ」と生返事をした。
「でも、楽しみにしてたみたい。今日もお昼前からうちに来て、拓也くんと約束があるんだって言うから、私もちょっとびっくりしちゃって。なんか、久しぶりなのよ、由梨のそんな様子を見るのって」
 瑞恵さんはまた真顔に戻って言った。その言葉には何か含むところがあるようだったが、拓也にはよくわからなかった。
「いつものようにジーパンはいてきてるから、そんな格好で行くのかって訊いたら、そうだって言うから、仕方ないから私の浴衣を貸してやったのよ。一緒に拓也くんを迎えに行こうかって言ったんだけど、恥ずかしいらしくって、うちで待ってるのよ」
 瑞恵さんはよく喋る。
 「あら、瑞恵ちゃん、いらっしゃい」と、拓也の母親が帰ってきた。町内会の人と一緒だ。母親はまたすぐに出かけるというので、拓也もこのまま瑞恵さんと一緒に石坂さんの家へ行くことにした。「拓也くんの夕飯はうちで用意しますから」と瑞恵さんが言うと、母親は「いつも悪いわね」などと言いながら、そそくさとまた出かけていった。家の戸締まりをしながら、拓也は少し迷って紙袋の中の小箱をそっとポケットに忍ばせた。




 瑞恵さんが保奈美ちゃんの右手を引き、拓也が左手を引き、三人並んで石坂さんの家まで歩いた。まだ明るい時刻だがすでに旧道の交通規制が始まり、車の通行のない旧道を人々が行き交っている。保奈美ちゃんは上機嫌で歌を唄っている。何の歌なのか、やっぱり拓也にはわからない。石坂さんの家でもおじさんと“にいちゃん”はすでに神社へ出かけていて、おばさんは町内会館で催される盆踊り大会の踊り手なのでやはり出かけているらしかった。旧道沿いに並ぶ古くからの家々はどこも似たようなものだった。「この町の人はほんとにお祭りが好きよね」と、瑞恵さんは笑う。
 家に着くと浴衣姿の由梨さんが出迎えてくれた。長い髪をまとめて上げていて、そのせいかいつもと少し印象が違っている。朝顔の柄の浴衣は、以前瑞恵さんが着ていたのを見たことがある。藍を基調にして派手さを抑えた色彩が由梨さんにもよく似合っているようだった。
「似合わないかな」
 じっと見つめる拓也の視線に気づいて、由梨さんが言った。相変わらず無表情なままで抑揚のない口調だが、由梨さんなりに照れているのかもしれない。
「いえ、似合います。とってもきれいです」
 拓也は慌てて言った。由梨さんは「そうかな」と言っただけだった。
 瑞恵さんと由梨さんと保奈美ちゃんと拓也の四人で、いつかのお昼のように座って早めの夕飯を食べた。夕飯を食べ終わる頃にはようやく暗くなり始めて、みんなで家の前に出てお神輿を待った。しばらくすると威勢のいいかけ声が聞こえてきて、男衆に担がれた宮神輿がやってくる。締め込みに半纏をまとっただけの男たちが競うように神輿を担いで蓬莱橋下の河原を目指す。旧道沿いの家々の前では女たちがそれを見守り、通りかかる神輿に勢い水をかける。勢い水は担ぎ手の熱気のために湯気になって立ち上る。神社を出た神輿が河原での禊ぎを済ませて再び戻ってくるまで二時間ほどもかかるが、町の男たちは入れ替わりながらこれこそが誇りであるかのように神輿を担ぐのだった。
 往路の神輿が行ってしまうと、旧道にはそぞろ歩きを楽しむ人の姿が戻ってくる。道沿いに軒を並べる商店ではかき氷やたこ焼きやビールなどを売って、あちらこちらに買い求める人だかりがある。瑞恵さんと由梨さんと保奈美ちゃんと拓也の四人で、お祭りで賑わう通りへと出かけた。保奈美ちゃんがどうしてもと言うので、保奈美ちゃんを真ん中に瑞恵さんと拓也の三人で手を繋いで並んで歩き、由梨さんだけがひとり離れて歩いた。途中で町内会館に寄って石坂のおばさんに挨拶をした。もうすぐ盆踊りが始まるから踊っていきなさいとおばさんは言うのだが、瑞恵さんも拓也もそれを丁重に断って盆踊り会場を後にした。保奈美ちゃんは綿菓子を買ってもらってご機嫌だ。青果店の横の空き地では獅子舞が行われていて、見物の人垣が取り巻いている。保奈美ちゃんが「みえなーい」と言うので拓也が肩車をしてやった。やがて町内会館で盆踊りが始まったらしく、風に乗って音が聞こえてきた。玩具店の店先にはさまざまな花火が並べられている。花屋の店先ではなぜか鈴虫を売っている。洋食店は店先でクレープを売っていて、若い女の子たちが買い求めている。その中に拓也の同級生がいたが、声もかけずに行き過ぎた。お祭りの風情を楽しみながらのんびりと歩き、八幡橋のあたりまで来たとき、保奈美ちゃんが「つかれたー」と言い出した。「おにーちゃん、おんぶしてー」と言うので、仕方なく拓也がおんぶした。「ごめんねえ」と瑞恵さんが苦笑いする。由梨さんはそんな三人と一緒に歩いているが、楽しんでいるのか退屈なのか、表情からはさっぱりわからない。拓也の方からお祭りに一緒に行こうと誘っておきながら、今夜はまだ由梨さんとまともに話もしていない。浴衣姿の由梨さんはとてもきれいだった。お祭りの賑わいの中でひとり静かな由梨さんの姿はなんだか儚い幻のようだった。
 参道横の遊歩道では子どもたちが花火で遊んでいる。その様子を眺めていると、背中の保奈美ちゃんが静かになっているのに気づいた。「あ、寝ちゃったわ」と瑞恵さんが言った。保奈美ちゃんは拓也の背中におぶさったまま眠ってしまっていた。起こさないようにゆっくりと拓也の背中から降ろし、瑞恵さんが保奈美ちゃんを抱きかかえた。ぐっすりと眠っていて起きる気配はない。
「それじゃ、私は家に帰って保奈美を寝かせるから、あとは拓也くんと由梨とふたりで楽しんできなさい」
 瑞恵さんは言って、にっこり笑って来た道を帰っていった。参道の入口に拓也と由梨さんのふたりが残った。由梨さんの顔を見たが、無表情のままだった。
「行こうか」
 と、由梨さんが言った。拓也は頷き、ふたりで参道へ歩いた。参道はお参りの人たちが行き交っていて、その中をかき分けるように歩かなくてはならなかった。
 丘の上の八幡様の境内はお祭りの実行委員会の本部も置かれていて賑わっている。お祭りの晩にお参りすると大願成就や無病息災の御利益があるというので参拝客が絶えない。お参りを済ませた人たちは境内を囲むように並ぶ夜店を見てまわっている。広い境内が狭く感じるほどだ。拓也と由梨さんも参拝を済ませ、人の流れに沿って夜店を見てまわった。
 金魚すくいの夜店の前で、由梨さんが立ち止まった。店では小学生くらいの男の子や小さな子ども連れのお父さんが金魚すくいに挑戦している。男の子は三匹ほどすくっているが、お父さんの方はあまり上手ではないらしく、すぐにポイが破れてしまった。そんな様子をしばらく由梨さんは見ていたが、急に拓也の顔を見て「やろうか」と言った。意外な気がして拓也が由梨さんの顔を見ていると、もう一度「やろう、金魚すくい」と言って、子ども連れのお父さんの横にしゃがみ込んだ。「お、おねえちゃん、やってみるかい」などと言いながら、店のおじさんが由梨さんにポイを手渡す。
「がんばってください」
 拓也は由梨さんの後ろに立って屈み込むようにして前を覗き込みながら言った。
「まかせとけ」
 ぼそりと由梨さんが言った。
 由梨さんの金魚すくいの腕前は凄まじかった。ポイを手に持ってしばらく金魚の泳ぐ様子を見ていたと思ったら、ほんの一瞬の動作で最初の一匹をすくい上げた。同じようにして次の一匹、さらに一匹、次々に由梨さんは金魚をすくい上げた。ポイを水に浸けている時間は一回の動作で一秒にも満たないほどで、その動きがあまりに巧みなのでまったく破れる気配がない。わずかな時間で十匹ほどの金魚をすくい上げ、その頃には由梨さんのあまりの腕前に見物の人だかりができはじめた。最初は「おねえちゃん、うまいねえ」などと言っていた店のおじさんもやがて無言になった。由梨さんはさらに金魚をすくい続けた。すくい上がるたびに見物の人たちから「おぉ」という声が起こった。数分のうちに成果は二十匹ほどになった。由梨さんはふいに手を止めてふりかえり、まだまだ破れそうにないポイを拓也に差し出して、「やってみるか」と言う。促されるままに拓也もやってみたが、一匹もすくえないままにポイは破れてしまった。由梨さんがすくった二十匹ほどの金魚の中から数匹を隣に座っていた子ども連れのお父さんに分けてやった。お父さんはお礼を述べながら「お上手なんですね」などと言っていたが、由梨さんは無表情なまま何も答えなかった。
 金魚すくいの店を後にして、また境内の夜店を見て回った。由梨さんの手には金魚の入ったビニール袋が提げられている。
「由梨さん、金魚すくい、うまいんですね」
 拓也がさっきのお父さんと同じようなことを言うと、由梨さんは「うん」と答えて拓也を見た。由梨さんは微かに笑みを浮かべていた。由梨さんの笑みが嬉しくて拓也も笑みを返した。
「保奈美に、お土産にしよう」
 金魚の袋を胸元まで持ち上げて、由梨さんが言う。拓也は「そうですね」と頷いた。
「焼き鳥、食べよう」
 由梨さんが言う。ついさっき夕食を済ませたばかりのような気もするのだが、香ばしい匂いが食欲をそそって、焼き鳥を買ってふたりで食べた。由梨さんはやっぱり豪快な食べっぷりだ。拓也が見ていると、また由梨さんに睨まれた。でもなんだかとても幸せな気分だった。
 お祭りの実行委員会本部の拡声器から宮神輿が戻ってくるという放送があった。もうすぐ八幡橋まで来るから、境内の場所を空けてくれという。参道も神輿が過ぎるまでは通行止めだ。係りの人たちが境内の人混みを脇の方へ誘導し、ロープを張る。境内の中央に大きく場所が空いた。やがて怒声のようなかけ声が参道から聞こえてきた。神輿は帰路の八幡橋まではゆっくりと移動するのだが、最後に参道を上がるときだけは勇壮に駆け上がるのだ。勾配が緩いとはいえ、参道は石段だから、神輿を担いで駆け上がるのはかなり危険でもあり、見ている方にもその緊張感が伝わって迫力があった。張り巡らされたロープの外側で見物客が待っていると、やがて神輿が現れた。勢いに乗って参道から飛び出すように境内に入ってくる。担ぎ手の中に“石坂のにいちゃん”の姿がちらりと見えた。このときばかりは担ぎ手のほとんどが若い衆だ。境内になだれ込むようにやってきた神輿はそのまま境内の中央でぐるぐると回り、周囲から勢い水がかけられ、見物客からは歓声が上がり、お祭りは最高潮に達するのだ。
 しばらくして神輿は鎮まり、担ぎ手の男衆が整列し、奉納の神事が始まる。古式ゆかしい神事に見物客も静かに見入っている。お祭りの喧噪がひととき遠のき、境内には祝詞と柏手の音だけが響く。神事が終わると、後は無礼講だった。年に一度の大祭を終えて、氏子衆もほっとして酒宴に興じる。再びお祭りの賑わいが戻ってくる。境内に張られていたロープも取り去られ、見守っていた見物客もまた思い思いの方向へと散ってゆく。
 動き出した人の流れに押されて、拓也は何かにつまずいて転びそうになった。危ういところで転ばずにすんだが、その拍子にシャツの胸ポケットに忍ばせておいた小箱が飛び出してしまった。「だいじょうぶか」と無表情のままに拓也を気遣う由梨さんが、その小箱に気づいて拾い上げた。贈答用にリボンの付けられた小箱にちらりと視線を走らせ、由梨さんはそれを拓也に差し出した。拓也はそれをじっと見つめた。どうしようかと、拓也は思った。
「どうしたんだ、拓也のだろ、これ」
 由梨さんが素っ気ない口調で言う。自分のことを「拓也」と由梨さんが呼ぶのはこの時が初めてなのだと拓也も気づいたが、今はそれどころではなかった。
「あ、あの、それ、由梨さんにプレゼントしようと思って」
 由梨さんがどのように応えるのか予想もできないまま、拓也は言った。昨日、駅前で見た由梨さんの姿がふとよぎった。
「私に?」
 由梨さんは少し戸惑ったような表情を見せた。拓也は頷いた。
「私にくれるのか」
 差し出したままだった手を引っ込めて、小箱を見つめながら由梨さんが訊いた。拓也はまた頷いた。
 由梨さんはしばらくじっと拓也の顔を見ていたが、やがて何かを決めたように小箱の包装を解き始めた。包装紙を外し、小箱を開けると、小さなイルカの銀のピアスが現れた。それを見て、由梨さんはまた拓也の顔を見た。いらない、と、由梨さんが言うのではないかと、拓也は気構えた。
「もらっていいのか」
「はい」
 拓也が頷いて答えると、由梨さんはピアスを箱から取りだし、指先に挟んで灯りにかざすようにして角度を変えながら眺めていた。銀のピアスがきらりと光った。
「ありがとう」
 由梨さんが言った。少し戸惑ったような、少し照れたような、今までに見たことのない由梨さんの表情だった。由梨さんはその場で付けていたピアスを外し、代わりに拓也のくれたイルカのピアスを付けた。
「似合うかな」
 由梨さんが拓也の顔を見て言った。拓也は「はい」と答えて大きく頷いた。
「よかった」
 由梨さんはそう言って、空になった小箱にそれまで付けていたピアスを入れて浴衣の袖口に放り込んだ。そんな由梨さんを見つめる拓也に気づいて、由梨さんが「どうした」と訊く。
「いえ、受け取ってもらえないんじゃないかと思ってたから」
 予期していなかった由梨さんの対応に気が緩んで、拓也はついそんなことを言った。
「どうして」
 由梨さんがまたあの射すくめるような眼で拓也を見据えた。拓也は口をつぐんでいたが、やがて由梨さんの視線に耐えられなくなった。
「昨日の夕方、由梨さんを見ました。駅前で」
 拓也は尋問されて白状するような気分でそう言った。
「見たのか」
 静かに由梨さんが言った。
「由梨さんの彼氏、ですよね」
 認めたくない事実を絞り出すように拓也は口にした。由梨さんは拓也の顔を一瞬だけ見据えて眼を逸らし、「彼氏、か」と独り言のようにつぶやいた。冷笑するような響きがあって、拓也はいたたまれなかった。
「彼氏持ちの女だから、自分のプレゼントなんか受け取ってもらえないと思ったのか」
 由梨さんが言う。拓也は小さく頷いた。
「純粋なんだな」
 そう言って由梨さんはゆっくりと歩き始めた。仕方なく拓也はその後をついていった。しばらく黙ったまま歩き続けた。境内はまだお祭りを楽しむ人たちで賑わっている。雑踏を避けるように境内の隅に行き、由梨さんはベンチに腰を下ろした。由梨さんに促されて拓也も隣に座った。
「あれは」
 と、由梨さんが言った。どこか別のところを、由梨さんは見ていた。
「あの男は、妻子持ちなんだ」
 由梨さんが吐き捨てるように言った。拓也は驚いて由梨さんを見た。由梨さんの横顔は美しく無表情のままだった。
「私がまだ世間のせの字もわかってなかった頃、知り合って、口説かれて、舞い上がってしまってそういう関係になって、そのままずるずると続いてるんだ」
 由梨さんにしては長いその台詞は、淡々とした中に少しばかり自嘲するような響きがあった。拓也は何も言えずに黙っていた。
「もう二年になるかな」
 しばらく黙っていた後で、由梨さんは何かを諦めるような口調でそんなふうに言った。拓也はいたたまれなくなって口を開いた。
「よくないですよ、そういうの」
 言ってはみたものの、拓也は由梨さんの顔を見ることができなかった。
「よくないですよ、か。わかってるよ、そんなこと」
 由梨さんがつぶやいた。
「子どものくせに、わかったふうなことを言うなよ」
 由梨さんの言葉はひどく痛々しかった。二年の間に心の奥底に溜め込んできたものが、ほんの少しその言葉の上に零れたようだった。拓也には答える言葉が見つからなかった。由梨さんはいつも無表情で無愛想で、言葉少なに射すくめるような眼で人を見る。人を寄せ付けない、鋭利な刃物のような印象があって、どこか世間を達観しているようなところがあった。そんな由梨さんが好きだった。でも今、となりに座る由梨さんは、何か不条理なものを抱え込んで生々しく弱々しかった。由梨さんが抱え込んでいるものが何なのか、拓也にはわからなかった。ただ自分があんなことを口にしてしまったせいで、由梨さんがそんな姿を見せることになってしまったことが、拓也は悲しく悔しかった。
「すいません」
 拓也は消え入るような声で言った。
「いいよ」
 答えた由梨さんの声もまた小さかった。
 そのまま、何も喋らずにベンチに座っていた。やがて少しずつ潮が引くように境内から人の姿が減っていった。お祭りの終了を告げる放送があり、夜店は撤収を始め、ざわざわとした中でゆっくりとお祭りの熱気が冷めていった。
「帰ろうか」
 由梨さんがそう言って立ち上がった。拓也も「はい」と答えて立ち上がった。ふたり並んで、何も話さないまま、参道を降りた。
 旧道はすでに交通規制が解除されていて、人の波の引いた道をときおり車が通り抜けた。気まずい空気を抱えたまま、ふたり黙って旧道を歩いた。やがて石坂さんの家の前まで来て、ふたりは立ち止まった。
「拓也」
 名を呼んで、由梨さんが拓也に向き直った。
「はい」
「今日は、ありがとう。楽しかったよ。誘ってくれて、嬉しかった」
 言葉の意味とは違って、由梨さんの口調は無愛想に素っ気なかった。その愛想の無さが、なぜだか拓也は嬉しかった。また会って欲しいと言ったなら、由梨さんは応じてくれるだろうか。拓也が口を開く前に、由梨さんはそれを制するかのようにくちもとに小さな笑みを浮かべた。
「じゃあね。おやすみ」
 由梨さんはそう言って、さっさと家の玄関へと入っていった。拓也が「おやすみなさい」と言ったのは、すでに由梨さんが玄関のドアを閉めた後だった。

 八幡様のお祭りが終わっても、夏の暑さは衰えなかった。暑さの中を、拓也は坂道を辿る。百日紅の花を眺めながら、丘向こうの住宅街へ行く。ほとんど毎日のように、拓也は古書店に通った。しかし、古書店の店先を由梨さんが通りかかることはなく、坂道で出会うこともなかった。由梨さんの働く会社は知っているから訪ねてゆくこともできるのだが、やはりそれは憚られるような気がした。
 あれから、由梨さんのことがますます忘れられない。はじめはずいぶんととっつきにくい人だと思ったが、ぶっきらぼうなほどの素っ気ない物言いが今はとても魅力的に思えてくる。ふだんは無表情で無愛想だが、その美しい顔立ちは笑みを浮かべると別人のように華やかになった。浴衣姿の由梨さんは優しげで女らしくて素敵だった。超人的な金魚すくいの腕前も、豪快にものを食べる様子も、どれもが由梨さんの魅力だった。
 また由梨さんに会いたいという想いを抱えながら、でももう会えないような気もする。お祭りの前の日、駅前で見かけた由梨さんの姿が目に焼き付いている。あの男の車の助手席に馴染んだ様子で身を沈める由梨さんの姿が、拓也の胸に鈍い痛みを刻んで離れない。あの男は妻子持ちなんだ。由梨さんの言葉と悲しげな横顔がその光景に重なって、痛みはさらに深くなった。楽しかったよ。誘ってくれて、嬉しかった。由梨さんの別の言葉がさらに重なって、由梨さんの向けてくれた笑みが重なり、痛みは切なさを増して拓也の胸を焦がした。自分への情けなさなのか、あの男への憤りなのか、由梨さんへの恋しさなのか、よくわからなかった。
 そんなことを思いながらお祭りから一週間ほどが過ぎ、拓也は意を決して石坂さんの家を訪ねた。
「瑞恵さんの実家の住所を教えていただけませんか」
 応対に出てくれた瑞恵さんに、なるべくさり気ない口調になるように気をつけて、拓也は言った。
「私の実家の住所?」
「はい。由梨さんに、お祭りのときのお礼をちゃんと言ってなかったから、残暑お見舞いでも出そうと思って」
 頭の中で何度も練習してきて、何とか言葉通りの意味に聞こえるように言ったつもりだったのだが、瑞恵さんには見抜かれてしまったようだった。瑞恵さんはすべてを合点したとでもいうような顔をして、ははあ、とにんまりうなずいた。
「由梨、お祭りの前にあの会社のバイトをやめちゃったから、会社の前で待ってても会えなかったでしょ」
 拓也の表情を窺うようにして瑞恵さんが言う。
「待ったりしてませんよ」
「そう? まあ、そういうことにしとこうか」
 まったく瑞恵さんにはそういうところがある。やっぱり“石坂のにいちゃん”との結婚も瑞恵さんがこんなふうにさっさと決めてしまったに違いない。
「保奈美は今寝てるから、ちょっと外で話そうか」
 急に真顔になって、瑞恵さんが言った。
「いいんですか」
「だいじょうぶよ、お義母さんもいるし」
 瑞恵さんは家の奧に「ちょっと三十分ほど出てきます」と声をかけ、そのまま拓也と一緒に家を後にした。
 石坂さんの家から旧道を歩いて八幡橋へ、そこからお祭りの余韻も消えた参道へと歩きながら、瑞恵さんは「八月ももうすぐ終わりだっていうのに、まだまだ暑いわねえ」などと言う。瑞恵さんがなぜわざわざ「外で話そうか」などと言ったのか、その意味がつかめなくて拓也は少し戸惑っていた。参道は両脇に茂る木々の陰になって涼しく、その中に蝉時雨が降っている。
「拓也くん、この前はありがとう、由梨を誘ってくれて。あのこ、喜んでたわよ」
 瑞恵さんが天候の話題の続きみたいにそう言った。
「あ、いえ、こちらこそありがとうございました」
 社交辞令のような返事をしながら、浴衣姿で微かな笑みを浮かべる由梨さんを拓也は思い出していた。
「拓也くん」
 瑞恵さんの口調が急に改まった。
「はい」
 どうしたんだろうかと思いながら拓也は瑞恵さんの顔を見た。
「由梨、アメリカに行くわよ」
 唐突で短い言葉の意味をつかみそこねて、拓也は瑞恵さんの顔を見ていた。
「前から留学の話があって、あのこ、あんな性格だからひとりで慣れないところに行くのが苦手で、ずっと迷ってたみたいなんだけど、やっぱり行くことにしたみたいなのよ」
 瑞恵さんは何か諭すような口ぶりで拓也に言った。瑞恵さんの真意がわからないまま、拓也は「はあ」と曖昧に返事をした。
「向こうに行ったら、少なくとも四年は帰ってこないわよ」
 瑞恵さんが念を押すように言う。拓也はまた「はあ」と返事をした。
「拓也くん、あのこが行っちゃう前に、由梨に会ってきなさい」
 瑞恵さんが真顔で言った。「え」と、拓也の戸惑いが思わず声に出た。どうして、と訊こうとするのを先制するみたいに、瑞恵さんは言葉を繋ぐ。
「拓也くん、由梨のこと、好きなんでしょ」
 急に蝉時雨が大きくなった気がした。黙ったままの拓也に「座ろうか」と促して、瑞恵さんは参道の石段に腰を下ろした。拓也も隣に座った。参道を包む木々の隙間に、旧道沿いに並ぶ家並みが見えた。
「由梨もね」
 静かに瑞恵さんは話を続けた。
「いろんなものを抱え込んじゃったから、今度のアメリカ留学がそれを精算するチャンスだって自分でもわかってるんだと思う。拓也くん、知ってるんでしょ、あのこのつきあってる相手のこと」
 瑞恵さんも知っていたのかと思いながら拓也は小さく頷いた。
「あのこ、ああ見えてけっこう弱いところがあるから、ずるずると状況に流されてしまって、まわりで何とかしてやらなくちゃなかなか自分を変えられないところがあるのよ。特にね、今の由梨には、拓也くんみたいなまっすぐに自分を見てくれる相手がいるってことが大事なんだと思う。ああ、ごめんね、由梨のために拓也くんを利用しようっていうつもりじゃないのよ。でも、見てて思ったのよ、由梨には拓也くんが必要なのかもしれないって」
 瑞恵さんの話は淡々としていて、まるで思い出話のようだった。
「拓也くん、由梨に会ってきなさい。会って、きちんと自分の気持ちを伝えてきなさい」
 瑞恵さんに背中を押された気がした。
 八月ももうすぐ終わりだった。厳しい残暑が続いてはいるが、すでに夏も終わりに近い。ほんの半月ほど前、丘越えの坂道の百日紅の下で見た由梨さんの姿を、拓也は思い出していた。まるで夏の光が形を持ったような、強烈な印象があった。あの時、由梨さんが何を見て、何を思っていたのか、聞いてみたい気もする。

 拓也の住む町からバスに乗って隣町の駅へ行き、そこからさらに東へ向かう電車に一時間近く揺られると、やがて海沿いの町に着く。そこが瑞恵さんと由梨さんが生まれ育った町だった。かつては街道の宿場として栄えていたところで、町中には今も古い建物が残っている。拓也はこの町に一度だけ来たことがある。小学校二年生の頃に親に連れられて来たのだったが、何の目的で訪れたのか、今ではまるで憶えていない。春先のことで、潮の匂いのする風はずいぶんと冷たくて寒かった。町中の商店街でうどん屋に入り、家族で鍋焼きうどんを食べた。そのうどん屋の店内に大きな招き猫が置かれていたことを妙に鮮明に憶えている。あの店は今もあるだろうかと、拓也はふと思った。
 電車を降りて駅前に立つと、見知らぬ街の匂いがした。駅前の様子は昔来た時とは変わってしまったのか、拓也には見覚えのない風景だった。拓也はポケットから道順を記したメモを取りだした。瑞恵さんが用意してくれたものだった。左手には、これも瑞恵さんから渡された荷物を提げている。文庫本ほどの大きさの小箱をひとつと、封筒に入れられた手紙を一通、小さな紙袋に入れて、瑞恵さんは拓也に手渡した。小箱は丁寧に包装されていて、少し重い。送ってもいいのだが大切なものだから届けて欲しいのだと、瑞恵さんは言っていた。それが本当のことなのか、それとも拓也が由梨さんに会うための口実を与えてくれただけなのか、拓也にはわからなかった。
 道順のメモには駅前から乗るべきバス路線とその乗り場と降りるバス停の名が記されている。メモに従ってバス乗り場に行き、“相生町”行きのバスに乗った。バスは駅前を離れてビルの建ち並ぶ国道を辿り、やがて大きな川を渡って右折した。国道を離れると道は狭くなり、周囲の町並みの様子が変わり、道脇には古い建物が目立つようになった。“並木町”という名のバス停でバスを降りた。バス停の近くに大きな金物屋があると、メモに記されている。バスが走り去って周囲を見回すと、道の向かいに大きな看板を掲げた金物屋があった。その横の路地を入ってゆく。建物に挟まれた路地を抜けると、ふいに視界が開けた。川べりへ出たのだった。風の中には潮の匂いがあった。駅前からバスに乗ってどちらへどれほど進んだのか、土地勘がなくてわからなかったが、きっと海に近づいたのに違いない。
 川べりに沿った道の脇に、目指す家があった。二階建ての家は大きくも小さくもなく、新しくもなく古くもなく、周囲に馴染んで目立たなかった。瑞恵さんと由梨さんが生まれ育った家だった。家の前に立って、拓也はふと子どもの頃の由梨さんを思ってみた。赤いランドセルを背負ってこの家から小学校へ通っていた頃の由梨さんの姿は、しかし拓也には実感が湧かなかった。
 由梨さんは家にいるだろうか。門柱の表札に書かれた“川島”の文字を見つめながら、拓也は少し緊張していた。会って、まず何と言えばいいだろうか。お祭りの晩の浴衣姿の由梨さんや、スーツ姿で仕事中の由梨さんや、男の車の助手席に座る由梨さんや、百日紅の下に佇む由梨さんの姿が、胸の中で次々に現れては消えて焦点が定まらなかった。
 表札の横の呼び鈴を押そうとした時、ふいに玄関のドアが開いて由梨さんが現れた。拓也が訪ねてくることを、由梨さんはすでに瑞恵さんから聞いていたのだろう。拓也が歩いてくるのを、二階の窓から見ていたかもしれない。拓也は反射的に頭を下げて「こんにちは」と言った。由梨さんは「うん」と言っただけだった。
「あの、これ、瑞恵さんから預かってきました」
 拓也はそう言って由梨さんに紙袋を手渡した。受け取った由梨さんは紙袋から小箱を取りだして、すぐにまた戻した。何が入っているのか、由梨さんにはわかっているのだろう。次に手紙を取りだし、由梨さんはその場で封を切って読み始めた。拓也は所在無くその場に突っ立っていた。途中まで読んで由梨さんはふと顔を上げて拓也の顔を見た。手紙に拓也のことが書かれてあるのかもしれなかった。拓也にはわからなかった。読み終えると由梨さんは便箋を封筒に入れて紙袋に戻し、拓也の顔をちらりと見てから紙袋を玄関口に置いてドアを閉じた。
「この先に、いい店があるんだ」
 由梨さんはそう言って歩き始めた。拓也はついていった。川べりの道から堤防へ上がり、川を見下ろす遊歩道を歩いた。広い川はゆったりとした水を湛えて、日の光を弾いてきらめいていた。一段高くなった堤防道からは川の両岸の町並みがよく見えた。対岸の家々の向こうに高いビルの並ぶ一角があるのは駅前のあたりだろうか。そのさらに向こうには遠い山並みの稜線が少し霞んで見えている。川の近くには高い建物はあまりなく、特徴のない住宅街がのっぺりと広がっていた。川は緩やかに曲がって延びている。空は晴れて、陽射しは強かったが、今日は空気の中にどことなく秋の気配があった。由梨さんは浅葱色のワンピースを着ていた。風が吹くたびにワンピースの裾が揺れた。川を渡る風は潮の匂いがした。その中に微かに由梨さんの匂いを感じた気がした。
 川べりを離れて商店街へと入り込み、古そうな店構えの洋食屋に由梨さんは入っていった。小さな店で、店内は少し薄暗い。店はお昼時で混んでいた。奥の方に空いたテーブルを見つけて席に着いた。「シチューが美味しいぞ」と由梨さんが言うので、促されるままに拓也もビーフシチューのランチセットを注文して、ふたりで遅いお昼ご飯を食べた。由梨さんはシチューのソースをライスにかけて、それをスプーンで豪快に口に運んだ。拓也も真似をした。由梨さんが拓也の顔を見てにやりとした。拓也もにやりと笑みを返した。シチューは美味しかった。
「創業四十年だそうだ」
 食後のコーヒーを口に運びながら、由梨さんが唐突に言った。この洋食屋のことを言っているのだと、拓也はすぐに気づいた。
「子どもの頃、ときどき親に連れられて来たんだ。昔からビーフシチューが好きだったな」
 食べ終えて空になったシチューの皿にちらりと視線を向けて、由梨さんが言う。由梨さんは無表情なままだったが、拓也は由梨さんがそんな話をしてくれるのが嬉しかった。
「子どもの頃から、ソースをご飯にかけて食べてたんですか」
 拓也が訊くと、由梨さんは「うん」と言ってにやりと笑った。拓也もにやりとした。無表情な由梨さんはひどく冷徹な印象があって近寄りがたい雰囲気だが、こうやって笑みを浮かべると茶目っ気のある陽気な表情に一変した。その印象の落差が拓也は好きだった。特に話が弾むわけではなかったが、そうやって顔を見合わせて笑みを交わすだけで、なぜだかとても幸せだった。
 創業四十年の洋食屋はまるで飾り気のない店で、店内には一枚の絵すら飾られてはおらず、殺風景と言えるほどだった。そう言えば、あの日ふたりで行った『遠藤珈琲店』も同じように装飾のない室内だった。由梨さんはそうした店が好きなのかもしれない。
 食事を終えて洋食屋を出て、また堤防道を歩いた。家には戻らず、さらに下流側へ向かって歩いた。しばらく行くと河川敷に小さな公園のような一角があった。広場の脇に大きな欅の木が二本並んでいて、その木陰にベンチが置かれている。そのベンチに並んで腰を下ろした。
 そのまましばらく、ふたり黙って座っていた。広場では母親に連れられた小さな女の子が遊んでいる。川向こうには何かの工場らしい建物が見えていた。隣に座る由梨さんは何を見ているのか、ベンチの背もたれに身体を預けてぼんやりとしている。話のきっかけをつかめないまま、拓也は風に揺れる由梨さんの長い髪を見ていた。
 言いたいことは山ほどあった。あれもこれも、由梨さんに伝えたかった。ここへ来る道すがら、何を言おうか、どんなふうに言おうかと思い巡らして、しかし由梨さんの顔を見ているとけっきょくどれも言葉にならなかった。
「もう、会えなくなるな」
 ぽつりと由梨さんが言った。由梨さんは顔を川の方に向けたまま、無表情な横顔だけが見えていた。
「帰ってくるんでしょ」
 拓也は言った。問いかけというより、願うような言葉だった。
「ああ、何年かしたら、たぶん」
 由梨さんは前を向いたままだった。
「ぼく、待ってます」
 拓也も由梨さんと同じように前を向いて、つぶやくようにそう言った。
「待ってなくていいよ」
 由梨さんが言った。
「待ってます。由梨さんが帰ってくるの、ぼく、ずっと待ってます」
 思わず声が大きくなった。そんなふうに言ってみたものの、拓也は自分が待っているのはもっと別のことのような気がした。由梨さんが拓也に顔を向けた。
「ぼく、由梨さんのこと、好きです」
 拓也は前を向いたまま、静かに言った。視線の先で女の子と母親が遊んでいる。由梨さんはしばらく拓也を見ていたが、やがて視線を逸らして「ふう」と小さなためいきをついた。
「ストレートな告白だな」
 由梨さんはそう言って少し笑った。
「私は、拓也より四つも年上だぞ」
 由梨さんは笑いながらそう言ったが、拓也は何も答えなかった。
「愛想がなくて可愛くなくて、妻子のある男とずるずると関係を続けているようなダメな女だぞ。そんな女が好きなのか」
 自嘲するような口調で、由梨さんはそんなことを言った。いつもいつも自分のことをそんなふうに言わないで、と、拓也は心の中で叫んだ。でも言葉にできず、ただ由梨さんの横顔をじっと見ていた。やがて由梨さんがゆっくりと拓也に顔を向けた。その瞬間をつかまえて、拓也は由梨さんを見つめてもう一度きっぱりと言った。
「由梨さんが好きです」
 由梨さんはじっと拓也の顔を見つめていた。人を射すくめるような鋭い視線だった。その眼を、拓也は見つめ返した。胸の鼓動はひっくりかえりそうなほどに速かったが、眼を逸らしてはいけない気がして、拓也は由梨さんの眼の、その奧を見つめ続けた。長い長い時間が過ぎて、ようやく由梨さんが顔を伏せた。
「由梨さん」
 由梨さんの顔がなぜか悲しそうに見えて、拓也は小さな声で名を呼んだ。それに応えるように顔を上げた由梨さんは、ひどく情けない表情をしていた。その眼からすっとひとすじ涙がこぼれ落ちた。驚いて見ている拓也に、由梨さんはゆっくりと身を寄せ、顔を近づけた。それからほんの少しためらうような表情を見せて、そのまま自分の唇を拓也の唇に重ね合わせた。由梨さんの唇は柔らかく、暖かく、甘く、儚く、切なかった。由梨さんの匂いがした。やがて由梨さんは静かに身を離し、ベンチに座り直して前を向いた。どこか遠くを見ているようだった。
「子どものくせに、大人の女を泣かすなよ」
 少し涙声で、由梨さんは小さくつぶやいた。拓也には答える言葉もなくて、ただじっと由梨さんを見ていた。唇にはまだ由梨さんの唇の感触が残っていた。川を渡る風が由梨さんの髪を揺らすたびに、拓也の胸が切なく疼いた。広場で遊んでいた母娘はいつの間にかいなくなって、欅の木陰は少し長くなった。夏の終わりの午後が、ゆっくりと過ぎた。

 丘越えの風がすっかり秋めいて、神社の参道脇に彼岸花が咲き始めた頃、拓也宛に由梨さんから荷物が届いた。届けられたのは、あのイラストレーターの画集の第二集の原書版だった。表紙には荒涼とした風景の中に立って巨大な木星の姿を見上げる宇宙飛行士の姿が描かれている。その表紙を見つめながら、あの日不機嫌そうな顔で石坂さんの家の玄関に立っていた由梨さんの姿を、拓也は想った。由梨さんが覚えていてくれたことが、嬉しくもあり、少し驚きでもあった。荷物には画集が入れられていただけで、由梨さんからのメッセージは何も添えられていなかった。それが由梨さんらしい気がして、巨大な木星を見つめながら拓也は少し笑った。
 古書店に行こうと家を出たところで、誰かに呼び止められた。ふりかえると少し離れて瑞恵さんと保奈美ちゃんが立っている。保奈美ちゃんが「おにーちゃーん」と呼びながら懸命に手を振っている。拓也はそのままふたりがやってくるのを待った。
 買い物帰りなのだろう、瑞恵さんは片手にスーパーの袋を提げている。「また古本屋さん?」と瑞恵さんが訊く。「ええ、まあ」と拓也は曖昧な返事をする。瑞恵さんが拓也の背後の神社の森を見やりながら「もうすっかり秋ねぇ」などと言う。「そうですね」と拓也は返事をする。保奈美ちゃんは拓也の左腕にぶらさがっている。
 「さ、おうちに帰ろう」と瑞恵さんが保奈美ちゃんに言って、三人で並んで旧道を歩いた。保奈美ちゃんは瑞恵さんと拓也のふたりに手を繋がれてご機嫌だ。保奈美ちゃんはときどきふたりの手にぶら下がりながら、さっきから何やら歌を唄っている。何の歌なのか、拓也にはやっぱりよくわからない。「何の歌なんですか」と、拓也は瑞恵さんに訊いてみた。瑞恵さんは「さあ」と言って笑った。拓也もつられて笑った。保奈美ちゃんが唄うのをやめて、「なにがおかしーの?」と、瑞恵さんと拓也の顔を交互に見る。その様子が可愛くて、瑞恵さんと拓也はまた笑う。すでに午後も遅く、旧道沿いの家々の陰が路面に長く伸びている。空には秋の雲が浮かんでいた。
「由梨から連絡あった?」
 歩きながら、瑞恵さんが唐突に訊いた。
「ええ、まあ、あったような、ないような」
 拓也は苦笑いしながら歯切れの悪い返事をした。瑞恵さんは拓也の顔を見て穏やかに笑っている。
「だいじょうぶよ」
 笑みを浮かべたまま、瑞恵さんがそんなことを言った。何がどう“だいじょうぶ”なのか、瑞恵さんの言葉の意味はよくわからなかった。でもわけもなくほっとして、拓也はうなずいた。
 石坂さんの家の前でふたりと別れ、拓也はそのまま八幡橋まで歩いて神社の参道を登った。神社の森ではまだ蝉が鳴いているが、足元の草むらからは虫の声が聞こえていた。初秋の境内には人の姿はなかった。お祭りの夜の賑わいが嘘のように静まりかえって、ただ記憶だけが残っていた。境内をゆっくりと歩き、社殿の裏手の小径を辿って森を抜け、丘向こうの住宅街へ降りた。住宅街の中の道を少し歩いて古書店の前に出た。古書店の店先で、珍しくおじさんが掃除をしていた。声をかけると、おじさんは目を細めて「やあ、拓也くんか」と言って、店の中に招いてくれた。店の奧のいつもの席に座って、少しぼんやりとしていた。おじさんがお茶を出してくれた。画集の第二集の原書版を貰ったことをおじさんに話すと、おじさんはなぜか嬉しそうな顔で「それはよかったね」と言ってくれた。小一時間を古書店で過ごして、小学生らしい男の子たちが店に入ってきたのと入れ替わるように店を出た。古書店を出て、何度か角を曲がると、由梨さんがバイトをしていた会社の建物の前を通りかかった。そのまま行き過ぎ、記憶を頼りに路地を抜けた。遠藤珈琲店の戸口で、珈琲店の老婦人が植木に水をやっていた。老婦人は拓也に気づいて穏やかに会釈した。婦人は拓也のことを憶えているだろうか。きっと憶えてはいないだろう。会釈を返して通り過ぎた。住宅街の中の道をゆっくりと巡って、丘越えの坂道へ続く階段へと戻り、丘に上った。眼下に広がる住宅街の、家々の屋根が初秋の陽射しを浴びて光っている。住宅街の向こうに孤を描くのは大見川だ。よく晴れた空の下、丘を越えて吹き渡る風はすっかり秋の匂いだった。
 夏の名残のような蝉の声を聴きながら坂道を降りた。空き家の庭の百日紅はもうすっかり花の盛りの時期を過ぎて、いくつかの枝の先にわずかに紅の色を残しているだけだった。あの日、由梨さんは百日紅の花を見上げながら何を想っていたのだろう。けっきょく訊きそびれてしまった。もし訊いたとしても、「忘れちゃったな」などと、由梨さんは無表情なまま、そんなふうに答えるかもしれない。遠い街の書店で拓也のために画集を買い求める由梨さんの姿を、拓也は思い描いてみた。待ってます、という拓也の言葉を、由梨さんは覚えていてくれるだろうか。由梨さんが帰ってきたら、百日紅の咲く頃にこの坂道をふたりで歩いてみたいと、拓也は思っている。百日紅の木の下に立って空を見上げ、拓也は由梨さんの美しい横顔を想った。百日紅の枝をさわさわと揺らして、丘越えの風が吹いた。子どものくせに、と、由梨さんが笑った気がした。

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