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妖精のダンス 沢原 馨
そろそろ長袖のシャツを出しておいた方がいいかもしれない。 ![]() 雑貨屋の店長は若い頃にひとりで世界各地を巡り歩いたという女性で、その頃の経験と持ち前のセンスを駆使して世界各地のさまざまな雑貨を仕入れて売り、成功した。亜希子は学生時代にたまたま開業して間もない店の前を通りかかり、店先に並べられた雑貨に心惹かれて、なかば運命的なものを感じてバイトさせてくれと頼み込んだ。その頃にはまだ始めたばかりの商売で利益もそれほどではなく、バイト料も満足に払えないかもしれないと店長が言うのに、それでもかまわないからと頼み込んで始めたバイトだった。以来、店長と亜希子のふたりで店をもりたててきた。亜希子が大学を卒業して本格的に店の仕事に取り組むようになると、店長はすっかり亜希子を信頼して店を任せるようになり、留守を亜希子に預けて海外に商品の買い付けに出かけることが多くなった。店の業績が急激に伸び始めたのはその頃だった。若い女の子たちの間に口コミで広がり、やがてファッション雑誌に紹介され、テレビ番組でも紹介されて、店と店長は業界ではよく知られるところとなった。店は従業員を増やし、駅ビルに支店を出した。そろそろ会社組織にしてはどうかと亜希子は言うのだが、店長はあまり乗り気ではないらしい。 「個人でやってる方が気が楽だし、小回りが利いていいじゃない」 その日も本店を閉めた後で支店に顔を出した店長が、その話題に触れてそんなことを言った。 「でも、都心の駅ビルにも出しませんかって話が来てるでしょ。もう一店舗ってことになったら、やっぱり会社組織にした方がいいんじゃありませんか」 亜希子は伝票を整理する手を休めて店長に言ってみた。ひと月ほど前、大手私鉄のターミナルビルに店を出しませんかという話が打診されてきた。若い女の子で賑わう街だから、そこへ店を出せれば売上げはさらに伸びるだろう。 「うーん、あの話は断ろうよ。今のままで充分よ」 店長は先月東南アジアで買い付けてきた木彫りのアクセサリーを手に取りながら面倒くさそうに答えた。そう決めたというより、亜希子の了解を求めたという口調だ。亜希子は乗り気なのだが、店長が嫌だというのなら仕方がない。 「欲がないですよね、智美さんって」 亜希子はそう言って笑った。それに応えるように店長も亜希子を見てにんまりと笑った。店長は名を智美という。店長のもとで働き始めて間もなく、店長って呼ばれると堅苦しいから智美さんって呼んでよと、店長がすいぶんむきになって言うので、それ以来“店長”ではなく“智美さん”と亜希子は呼んでいる。智美さんは今年三十三になる。独身だった。本来の雇用関係はすでに希薄になってしまって、今では共同経営者のようでもあり、それ以上に二十六の亜希子にとって智美さんは姉のようでもあり、年の離れた友人のようでもあった。 「いつも言ってるでしょ。自分の気に入ったものを仕入れてきて、それを気に入った人が買っていってくれれば、あたしはそれでいいの。あんまり商売の規模を大きくしようとは思ってないのよ」 今の駅ビル支店を出したのも、乗り気だったのは亜希子の方だった。品物は卸してあげるから独立して駅ビルの店をやってみれば、と言われたこともある。それを断ったのは、自分一人でやってゆける自信がなかったからということもあったが、智美さんと一緒に仕事をするということが好きだったからだった。いつまでも彼女の片腕としてこの店をやってゆくのが自分にはいちばん向いているような気がする。何より、亜希子は智美さんの人柄が好きだった。 人はね、自分が受け入れられる幸福の量ってそれぞれ決まってると思うのよ。と、ある時、智美さんが言っていたことがある。あたしの受け入れられる幸福の量は、この小さな店で自分の好きな品物を売って、生活できるだけの収入を得ること、それ以上を求めると、きっと溢れちゃって溺れちゃうわよ。彼女はそんなことを言っていた。亜希子はそんなふうに考えたことはなかったから、ずいぶんと新鮮な考え方に聞こえたものだった。でも六年も一緒に仕事をしていると、彼女のそんな考え方がわかる気がする。どんなにがんばってみても、自分が吐き出した息の量以上にはお日様の匂いは吸い込めないのだ。 だから一時期の流行のように若い女の子にもてはやされ、マスコミに取り上げられるような状況は、智美さんにとっては少しばかり途方に暮れるような思いのすることだったらしかった。 「わかりました。これからも一緒にこぢんまりとやっていきましょう」 亜希子はまた伝票整理に戻って、そんなふうに言って笑った。 智美さんと一緒にこの仕事をするようになって六年、初めの頃は本当に売上げがなくてバイト料が滞った。それどころか、店舗の賃料の支払いさえ苦労した時期があった。やがてようやく何とか軌道に乗ったと思ったら、急に脚光を浴びて客が殺到し、とんでもなく忙しい日々が続いた。その爆発的なブームの時期も過ぎて、やっと自分たちのペースをつかんでやってゆけるようになったのは、この一年ほどのことだ。 慎司と知り合ったのは、店が急激に知名度を高めていた頃だった。雑誌の取材に訪れたスタッフの中に、慎司がいた。慎司はフリーのカメラマンだった。取材スタッフと一緒にやってきたときには特に気になる相手ではなかった。それからしばらくして、慎司がひとりで撮影機材を抱えてふらりとやってきた。先日撮影した写真がどうにも納得できない仕上がりだったので、もう一度撮らせてはもらえないかと言うのだ。突然やって来られても、こちらにも都合があるのだし、無理だと言うと、閉店まで待つから何とかしてもらえないかと言う。その熱意に押されて、店を閉めてからの三時間、慎司のために時間を作った。そのために亜希子も余計な時間をとられてしまったのだったが、考えてみればあれがそもそものふたりの関係の始まりだった。 納得できなかったからという理由でもう一度撮影にくるなんてずいぶん熱心な人だと思ったものだった。雑誌社からOKがもらえずに撮り直す羽目になったのだということは結婚した後で知ったことだった。それより何より、ふたりだけの店内で慎司の撮影に立ち会う亜希子が心惹かれたのは、慎司のカメラのケーブルレリーズを扱う、その指だった。男性の指とは思えないほどの白く細く長い指が、まさに優雅と言えるような動作でケーブルレリーズのボタンを押す。何か小さな妖精がダンスを踊っているようにも思えて、亜希子はずっとその指の動きに見とれていた。あれから三年近くが経つ。 「亜希ちゃん、そろそろ上がりましょ」 智美さんの声ではっとした。仕事をしながらつい昔のことを思い出して、伝票の整理も終わっていなかった。 「伝票の整理、まだ終わってませんから」 「そんなもの、明日でいいわよ」 商売のことなんてどうでもいいというふうに、智美さんはうふふと笑う。彼女は本当に“商売”というものに執着がない。亜希子が店の仕事に本格的に取り組むようになってからというもの、店の経理は亜希子が一手に引き受けてきた。亜希ちゃんがいてくれてほんとに助かるわ、あたし、金勘定って苦手だから、と智美さんは笑う。 「そんなんでよくお店をやろうと思い立ちましたね」 店を閉めた後、久しぶりに智美さんとふたりで近くの居酒屋に出かけ、話題が彼女の“金勘定嫌い”に及んで、亜希子はそんなことを言って笑った。 「やる前はねえ、何とかなるだろうと思ったのよ。それが始めてみるとあれやこれやと面倒でね。亜希ちゃんに任せるようになってほんとに楽になったわ」 「私がいなかったらどうしたんです」 「やめてたかもね」 智美さんはこともなげにさらりとそんなことを言う。おっとりしているというのか、楽天的というのか、成り行き任せというのか、彼女にはそんなところがある。智美さんのそんな性格も、亜希子は好きだった。そんな彼女の補佐役として仕事をするのが楽しくて、今まできた。 「亜希ちゃんがあたしのところへ来たのも、何かの巡り合わせなのよ」 智美さんは開業した頃のことを思い出しているのかもしれない。 「ずいぶんと強引な女の子だと思ったけど、今思えば、神様が引き合わせてくれたのね」 冗談なのか、本気なのか、智美さんは真顔でそんなことを言う。 「神様、ですか」 「そうよ、神様」 彼女は亜希子の顔を見て、真顔で繰り返した。 「いるわよ、神様って。例えばね、砂漠の真ん中みたいなところで、それこそ降るような星空を見上げてごらんなさい。いるって思うから、神様」 「はあ」 どこかの冒険家がそんなことを言っていたような気がしたけれど、ただの受け売りでもなさそうだった。きっと智美さんは若い頃に、本当に砂漠の真ん中みたいなところで、それこそ降るような星空を見上げて、神様というものを実感したことがあるのだろう。彼女はあまり詳しい話を聞かせてはくれないが、死線を彷徨うような経験をしたこともあるらしい。そんな体験をすれば、確かにちまちまとした金勘定などどうでもよくなってしまうかもしれない。 「亜希ちゃん、商売の才能があるわよ」 智美さんは少し酔ったのか、ぼんやりとどこかあらぬところを見つめている。 「はあ、ありがとうございます」 いつものことで、その台詞も彼女が酔う度に聞かされているから、亜希子も適当に相づちをうった。 「あら、ほんとよ。うちの店が今までやってこれたのは、ぜんぶ亜希ちゃんのおかげ。苦しいときになんとかのりきれたのも、人気が出たのも、支店を出せたのも、ぜーんぶ、亜希ちゃんのおかげよ。あたしはだめ、あたし、商売って嫌い」 今夜の智美さんは少ししつこい。妙に口数も多かった。 「智美さん、酔ったんじゃないですか。そろそろ帰りましょうか」 「あたしは、酔ってない。亜希ちゃん、まじめに聞きなさい」 「はいはい」 智美さんはそのまま黙ってしまった。見ると目を閉じている。放っておくとこのまま眠ってしまうだろう。 代金を放り出すようにして居酒屋の支払いを済ませ、智美さんの肩を抱いて外へ出た。足元のおぼつかない智美さんを支えながらタクシーを拾い、彼女を座席に押し込み、自分もその横へ滑り込んだ。 こうして酔った智美さんをタクシーで送り届けるのは珍しいことではなかった。酔ってしまって無防備な彼女の姿は、亜希子の目から見ても、なんだかかわいい。そもそも智美さんは体つきが小柄で、顔も童顔なので実年齢より下に見られることも多かった。こうしているとどちらが年上なのかわからない。タクシーの後部座席で智美さんの身体を支えていると、彼女の身体の細さがよくわかる。こんな華奢な身で、世界各地を巡り歩き、砂漠の真ん中で星空を見上げ、死線を彷徨うような経験をしてきたというのだろうか。この六年、彼女と一緒に仕事をしてきたのは、店長についてきたというより、どちらかと言えば危なっかしい智美さんを放っておけなかった、というのが正しいかもしれない。 雑貨屋の店長のくせに商売というものが嫌いで、何だか夢を見ているように生きていて、どこか浮世離れした智美さんのことを、亜希子はときどき羨ましく思うこともあった。こんなふうに日々を過ごして行けたら幸せかもしれない。彼女の幸福の受け皿はきっと智美さんが思っている以上に大きいのだ。でもそれは、確かに彼女自身が言うように、商売で成功することではないのかもしれない。 人間一人が受け入れることのできる幸福の大きさは、どうやったらわかるのだろう。 車窓をよぎる夜の街の景色をぼんやりと眺めながら、亜希子は思っていた。 きっと、不相応の幸福を手に入れようとして、何か大切なものを失ってから、ようやくわかるんだろう。 知り合ってから一年後に、亜希子は慎司と結婚した。駅ビルに支店を出した直後のことで、店が人気も売上げも絶頂期にある頃だった。亜希子にとって、もっとも満ち足りた日々であったかもしれない。学生時代から暮らしたアパートを引き払い、今のアパートで慎司とふたりでの新生活を始めた。自分は毎日決まった“通勤”というものがないから亜希ちゃんのお店の近くに住もうよ、と慎司が言うので、雑貨屋のある駅の隣の駅の近くにアパートを見つけて借りた。 慎司はあまり仕事がなかった。ふたりの生活は基本的に亜希子の収入によって成り立った。仕事のない日の慎司は家事のいっさいを引き受け、非凡な料理の才能を披露してくれたものだった。慎司は亜希子よりふたつ年上だったが、無邪気で屈託のない彼の性格のせいか、傍目にはふたりは仲の良い姉弟のようにも見えたらしかった。世間一般の尺度で言えば、慎司は“経済力のある男”ではなかったが、亜希子は幸せだった。彼の細く白く長い指は、洗濯物をたたむときにも、料理をするときにも、亜希子の肌に触れるときにも、やはり小さな妖精のように踊るのだった。その小さな妖精のダンスが、亜希子の幸福の象徴だったかもしれない。 その日、亜希子は支店の閉店までの三十分ほどをバイトの女の子に任せて、同じ駅ビルに入っているジーンズ・ショップに顔を出した。 手早く品物を選んで、慎司のサイズはすべてわかっているから、顔馴染みの店長にそれを告げて裾丈を詰めてもらった。本来ならやはり試着した方がいいのだが、本人が来られないのだから仕方がなかった。 「慎司くん、喜ぶよ、きっと」 仕上がったジーンズを亜希子に手渡しながら、ジーンズ・ショップの店長がそんなことを言った。 「ありがとう」 亜希子は笑顔で答えた。店長があまり多くを語らないのが嬉しかった。 週末近くになって、智美さんが深刻な声で「話があるのよ」と電話してきた。智美さんがお休みの日だった。亜希子と智美さんは交替で無理にでもお休みをとることにしている。そうでもしなければ休みなしで働いてしまうことになるからだ。 「どうしたんですか」 亜希子が訊いても、智美さんは「うーん」と言ったきり、話を続けようとしない。そろそろ閉店の時刻に近かったから、智美さんの家でゆっくりと腰を落ち着けて話を聞くことにした。 智美さんが深刻な顔をして話があると言ってきても、たいしたことではないのが常だった。どこかの雑誌が企画広告を載せませんかと言ってきたけどどうしようかとか、店内のレイアウトを変えようと思うんだけどどうしようかとか、たいていはそんなことだった。 六年も経つと、まったくどちらが経営者なのかわからないような状況になってしまっていた。店の経営に関するほとんどの事柄の決定は、実質的には亜希子によって行われていた。しかし亜希子はそんな智美さんを頼りないとかと思ったことはない。智美さんと智美さんが仕入れてくる雑貨あっての、この店だったからだ。亜希子がどれほど経営の手腕に長けていても、智美さんがいなければ店は成り立たない。そして亜希子は智美さんと一緒でなければ経営の手腕を発揮するつもりはない。亜希ちゃんと智美さんっていいコンビだよねと、慎司が言っていたことがある。確かに“いいコンビ”なのかもしれないと亜希子も思う。 「で、今日はどんな話なんですか」 智美さんの家で、簡単な夕食を済ませた後にコーヒーを飲みながら、亜希子はあらためて智美さんに訊いた。 「あたしね、亜希ちゃん、また日本を離れようと思うのよ」 智美さんは夢を見るような表情をしてそんなことを言った。 なんだ、そんなことか、と亜希子は思った。それならいつものことだ。智美さんは一年に四、五回は海外へ行く。新しい商品を見つけて買い付けてくるためだ。今回は北イタリア、次にはトルコ、あるいは中南米といったふうに、智美さんはひとりでふらりと出かけては、さまざまな商品を見つけてくる。サンプルを少し持ち帰り、向こうの業者から後でまとまった数を送ってもらう手配を済ませてくる。いったいどこでどうやって見つけてくるのか、智美さんが探してくる品々は見るからに日本の若い女の子の人気を呼びそうなものばかりだった。それがきっと智美さんの天性のセンスというものなのだろう。品物があたしを呼ぶのよ、と、智美さんは言う。智美さんらしい言い方のような気がする。 「いいですよ。いつからですか。今度はどこへ」 いつもの調子で亜希子は言う。智美さんは少し困ったような表情をした。 「そうじゃないのよ、亜希ちゃん、いつものとは違うの」 「違う、って、何がですか」 「いつもみたいにちょっと行って来るんじゃないの。ずーっと行くの」 そう言った途端、智美さんの顔が急に晴れやかになった。 「ずーっと、って」 「そう、ずーっと」 智美さんはにこにこと笑っている。 「お店はどうするんです」 「お店は亜希ちゃんがやるのよ」 その言葉で、亜希子は智美さんの話の全容を理解して愕然となった。 「だめですよ、そんなの。店長がいなくなっちゃってどうするんですか。だめったらだめです。だって、そんなの」 亜希子が何を言っても智美さんはにこやかに笑い続けるばかりだった。 店を亜希子に任せて、というより譲り渡して、自分はまた世界を巡り歩く日々に戻りたい。それが智美さんの言い分だった。やっぱりあたしにはそれが似合ってる、と智美さんは言う。世界各地を巡りながら、今までのように気に入った品々を見つけたら日本に送り、それを亜希子が店で売る。その利益の中から自分の旅費を捻出してくれればそれでいいと智美さんは言うのだった。言い換えれば、今の店を亜希子に譲り、自分はその店の専属のバイヤーとして世界を巡るという形にしたいということだ。店はどのようにしてくれてもいい、今のまま続けてくれても、会社組織にして規模を大きくしても、亜希ちゃんの気の済むようにやってくれればいい。そんなふうに智美さんは言う。 「あたし、商売って嫌い。退屈だから」 自分の思っていることを洗いざらいぶちまけた後で、智美さんはぽつりとそんなことを言った。 「でも、だって、智美さん、私、ひとりじゃやっていけない」 智美さんと一緒に仕事をしてきた六年間が、亜希子の頭の中でぐるぐると回った。“智美さんと一緒に”というのが、これまでの亜希子の仕事のキーワードだった。雑貨屋の経営が好きなわけじゃない。ビジネスの成功を目指しているわけじゃない。ただ智美さんと一緒にやっていきたかっただけだった。 「だいじょうぶよ、亜希ちゃん、ひとりでやってける。亜希ちゃん、商売の才能あるから」 智美さんの言葉に亜希子はただ小さく首を振った。自分でも気づかないうちに亜希子は涙ぐんでいた。優しく諭すような智美さんの口調が、なぜだか亜希子の気持ちを逆撫でするように響いて、心の中に熱いものがこみ上げてくる。 今まで一緒にやってきたじゃないですか。苦しいときもあったけど、ふたりでやってきて、これからもやっていこうと思ってたのに。店を私一人に押しつけていなくなっちゃうなんて、ずるいですよ。私、ひとりじゃやっていけない。ひとりじゃだめ。ひとりは、いや。 思ったことは何一つ言葉にならなかった。なぜだか妙に気持ちがたかぶって涙が零れた。智美さんに裏切られたような気がして悲しかった。 週が明けてすぐ、亜希子は慎司の実家に行った。その日も秋晴れのよいお天気だった。 慎司の実家は海沿いの小さな町の外れにあった。新幹線とローカル線の電車とバスとを乗り継ぎ、さらにバス停から十五分ほど歩いて慎司の実家に着く。家は農家で、畑の広がる丘を背負って建っている。 早起きして出てきたおかげで慎司の実家には案外早い時刻に着いた。慎司の両親と、まだ独身の弟さんと、少し耳の遠くなったおばあちゃんに挨拶をして、そのまますぐに両親と一緒に家の裏手の丘へ続く小径を上った。畑の中の小径を辿って家の屋根が下に見えるあたりまで上ったところに、墓地があった。墓地からは海がよく見えた。 線香と花を供え、携えてきた荷物の中から先日買ったばかりのジーンズを取りだしてそれも一緒に供え、両親と並んで手を合わせた。 「早いねえ、もう半年も経つんだねえ」 慎司の母親がつぶやくように言った。亜希子に言っているのか、慎司に言っているのか、よくわからなかった。 「ええ」 亜希子は小さく返事をした。正確には五ヶ月と十三日だった。 「亜希子さん、遠いのにわざわざ来てくれて、ありがとう。慎司も喜んでるでしょう」 母親はそんなことを言う。 来ないわけがないではないか。 亜希子は小さな笑みを向けただけで何も答えなかった。 そろそろ戻りましょうか、という父親の言葉に促されて、墓地を後にした。小径を下りながらふりかえり、亜希子は心の中で小さく慎司の名を呼んだ。 慎司の実家に親戚が集まり、ささやかなお彼岸の法要が営まれた。親戚の人たちのほとんどは、会うのはこれで四度目だった。結婚式のときには輝くばかりの笑顔の中で会った。葬儀のときは涙の中で会った。初盆の頃にはようやく悲しみにも慣れて、そして今はただ静かに過ぎてゆく月日だけが横たわっている。 慎司が死んだのは桜の花が盛りを過ぎた頃だった。結婚して一年半ほどが過ぎていた。今日は久しぶりに仕事なんだ、帰りが遅くなると思うよ、と、出がけに笑っていた慎司は、そのまま帰ってこなかった。交通事故だった。バスを降りて道路を横断していた慎司を、バスを追い越してゆく車がはねた。たいした事故ではなかったのに、打ち所が悪かった。慎司にはほとんど外傷もなくて、顔だけを見ていると眠っているのか死んでいるのかさえわからなかった。駆けつけた亜希子は「死んでるの」と慎司に訊いた。慎司は何も答えなかった。 人が受け入れられる幸福の大きさは決まっている。もしそうなら、自分は少し大きすぎるものを手に入れてしまったのかもしれない。亜希子はそんなふうに思ってみることがある。きっと手に入れた幸福が大きすぎて、溢れてしまって、零れてしまったのだ。零れてしまった幸福は、悲しみに姿を変えて流れ去り、もう元に戻らない。でもどうして、自分から奪われてゆくものが慎司でなくてはならなかったのだろう。仕事の成功とか自分の健康とか、そんなものでもよかったはずなのに、なぜいちばんかけがえのない、いちばん大切なものが、決定的な形で奪われていってしまったのだろう。 慎司がいなくなってからの日々を支えてくれたのは、智美さんだった。慎司のいなくなったアパートに帰るのが辛くて、智美さんの部屋に泊めてもらう日々がしばらく続いた。夜になると智美さんはよく慎司の思い出話をした。初めの頃は「そんな話はやめて」と智美さんに言ったものだが、智美さんはやめなかった。耐えきれずに亜希子が泣いてしまうと、智美さんも一緒に泣いた。やがて不思議なもので、亜希子も一緒になって慎司の思い出話をするようになった。慎司は寝相が悪いとか、実は慎司の指に惚れてしまったんだとか、慎司が水を流しっぱなしにして歯を磨くのが気に入らないとか、慎司の風呂は烏の行水だとか、慎司はカメラマンではなく料理人になるべきだったと思うとか、そんなたわいもないことを話題にして、智美さんとふたりで笑ったりするようになった。ひとりきりのアパートに帰ることができるようになったのは、それからだった。 おっとりとしていて夢見がちで、行き当たりばったりで成り行き任せで、小柄で華奢で童顔で、金勘定が嫌いで商売の苦手な智美さんだったけれど、強く大きく暖かく優しい人だった。智美さんがいなかったら自分はどうなってしまっただろうと亜希子は思う。悲しみに押し流されて、きっと溺れてしまっていたに違いない。智美さんがいなくなっても、自分ひとりで店をやってゆけるだろうか。自分ひとりで、生きてゆけるだろうか。 ![]() そんなふうに思って、仕事帰りに駅前の商店街で買い物をした。 栗は皮を剥くのが面倒だから、ビニル袋に入れて売られていたむき栗を買った。むき栗なんてだめだよ、味がぜんぜん違うんだから、と言いながら丁寧に栗の皮を剥いていた慎司を思い出して、亜希子は少し苦笑いした。なにしろ慎司は、秋刀魚はやっぱり炭火で焼いた方がうまいと言って、どこからか七輪と木炭を仕入れてきたほどだった。その七輪は今でもベランダの隅に置かれたままになっている。そんなことも思い出しながら亜希子はガスのグリルで秋刀魚を焼く。 ごめんね、これで許してね、私、料理ってあんまり得意じゃないから。 心の中で言い訳しながら、夕食の準備をした。 今日の夕食は栗ご飯と秋刀魚、豆腐のみそ汁にほうれん草のお浸しだ。一時間ほどで準備は整ったが、やはり慎司ほどにはうまくできなかった。ふたりぶんの栗ご飯とみそ汁、二尾の秋刀魚をテーブルに並べてゆく。秋刀魚は鮮魚店のおじさんが選んでくれたものだが、大きさが揃っていなかった。大きいのを慎司の方へ、小さいのを自分の前に置いた。 慎司がいなくなってからは、夕食は簡単に外食で済ませたり、智美さんと一緒に食べたりすることも多かったが、こうして自分で作って食べることもないわけではなかった。そんなとき、亜希子は必ずふたりぶんを用意した。そして必ず慎司の好きなものを作った。亜希子の作る料理はどう見ても慎司の料理に劣っているが、慎司はいつも美味しいと言って食べてくれたものだった。慎司は焼き魚が、特に秋刀魚が好きだった。慎司の箸さばきは、まさに妖精のダンスのようだった。小さな妖精が二本の杖に乗って踊っているような箸さばきで、慎司は焼き魚をきれいに食べた。しかし慎司はもういない。ひととき亜希子の傍で祝福のダンスを踊ってくれた気まぐれな妖精は、慎司を連れてどこかへ行ってしまった。慎司のために用意されたご飯とみそ汁と秋刀魚が、食卓の上でゆっくりと冷めてゆく。 智美さんは、やはり決心を変えないつもりだ。店を亜希子に任せて、ひとり気ままな旅に戻るつもりのようだ。亜希子がどんなにとめても、智美さんは行ってしまうだろう。亜希子はひとり日本に残って店を守り、智美さんの信頼に応えなくてはならない。亜希子にもわかっている。智美さんもわかっている。それが智美さんと亜希子との、新しい関係の始まりなのだ。互いにもたれあうように支え合った日々は甘く楽しかったけれど、やがていつか、そんな関係に慣れて疲れて互いに傷つけてしまう日がやってくるだろう。その前に新しい道を歩き始めなくてはならない。 慎司のために食事を用意するのは終わりにしよう。 亜希子は思った。 慎司はもういない。いなくなった人の服を洗濯するのも、もうやめよう。慎司の服はすべて処分して、自分のために新しい服を買おう。 智美さん、神様はいますか。砂漠の真ん中の星空の下に、神様はいますか。食べてくれる人のない秋刀魚が載せられたテーブルの上に、神様はいますか。小さな妖精が踊ることのなくなったアパートの部屋にも、神様はいますか。 答はない。 遠ざかってゆく日々の中で、慎司が穏やかに笑っている。
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