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恋をしていない 沢原 馨
君島直広に恋をしていない。 ![]() 仕事の忙しい君島とはあまり頻繁には会えなかったし、会えない時間が長く続いたからといって会いたくてたまらなくなるということもなかったが、会えばそれなりに楽しい時間を過ごしてきた。君島は真面目で優しい男だった。いつも冷静で穏やかで、感情的になったところを見たことがない。この人もときには何かに激しく怒ったりすることがあるのだろうかと、尚美は思う。 土曜の夕方の幹線道路はひどい渋滞だった。信号が変わってもほとんど車は進まない。夏の浜辺に似合いそうな音楽がカー・オーディオから小さな音量で聞こえている。 「ぜんぜん進まないね」 独り言のように尚美はつぶやいた。 「土曜の夕方だから仕方ないよ」 答えてくれなくてもかまわなかったのに、君島は律儀に返事をする。 つきあいはじめた頃は当然のようにお互いに敬語を使っていたのだが、それをやめたのはいつからだろう。初めて夜を一緒に過ごしてからだったろうか。よく覚えていない。君島と唇を重ねても、その腕の中に抱かれても、やはり何のときめきも感じなかった。手順を踏めば動作する機械のように、身体だけが君島に応えていた。 「裏道とか、ないの?」 「へんに裏道を抜けるより、少しくらい渋滞してても幹線道路を走った方がはやいんだよ」 君島のドイツ製のシルバーのセダンにはナビも付けられているが、それを駆使して裏道を抜けてゆく君島を見たことがない。どんなに渋滞していても、君島はこうして広い幹線道路を走る。君島は運転が下手だというわけではなかった。むしろ上手い方だったろう。慎重で的確でなめらかで、無駄がなく無理がない。そんな彼の運転は、彼の生き方そのものを象徴している気もする。尚美もときどき家の車を運転するが、尚美もまたあまり裏道を抜けたりはしない。でもそれはただ道をよく知らなかったからだし、知らない道に入り込んで迷ってしまうのが嫌だったからだ。だから尚美も渋滞を我慢して幹線道路を走った。それもまた尚美の生き方そのものを象徴しているのではないかと、自分で思うことがある。 君島のセダンの運転席は左側にある。日本の道路事情では左ハンドルは不便なのに、なぜ左ハンドルの外国車に乗っているのかと訊いたことがあった。ずいぶんと高価な車だが、その車を選んだのは基本的な部分がしっかりと造られていて、さらに安全性も国産とは比べものにならないくらい高いからだと、君島は丁寧に説明してくれた。この車には右ハンドル仕様のものもあるのだが、本来左ハンドルとして設計された車なのだから、そのままの形がいちばん良いのだといったことを、君島は言葉を重ねて言っていたような気がする。君島の説明は理路整然としていて納得せざるを得なかったが、なぜか尚美には釈然としない思いが残った。かっこいいからとか見栄が張れるからとか、そんなことを言ってくれたなら、あるいは君島という男のことをもっと好きになれたかもしれない。そんな君島が、はたしてどんな理由で自分のことを気に入ってくれたのだろうかと、尚美はその車の右側の助手席に身を沈めて思うのだ。 大きな交差点を過ぎてようやく車が流れるようになった。 「音楽、とめてもいい?」 夕闇の迫る渋滞の幹線道路で、あまりに不似合いな音楽を聴いているとなぜかわけもなく気が滅入った。君島の返事を待たずに尚美はオーディオに手を伸ばした。 音楽が消えると、車内には沈黙が残った。君島はあまり口数の多い方ではなかったし、尚美もまたそうだった。それでもふたりでいる時間が気まずいものにならなかったのは、君島との会話が弾まないことを気まずいことだとは思っていなかったからだ。君島も同じように思っているのかどうかはわからない。でも、もっと話をしようとか、君のことを聞かせてほしいとか、そんなうんざりするような押しつけがましいことを君島は一度も口にしたことはないし、尚美にしてみればそれがありがたかったのは確かだった。 今夜は横浜で食事をしようと君島が言うので、昼過ぎまでは仕事だという君島を待って、今はこうして横浜へ向かう彼の車の中にいる。 「ねえ、君島さん」 「うん?」 「仕事、楽しい?」 「楽しいっていうか、まあ、やり甲斐はあるよ。好きで選んだ仕事だし」 「そう」 君島は仕事の都合だとかと言って尚美とのデートを当日になってキャンセルしたことが二度ほどあった。そんなとき、何度も謝る君島に「しょうがないわよ、仕事なんだから」と尚美は心にもないことを言ったものだ。結婚するかもしれない相手とのデートをキャンセルしてまで没頭できるような仕事を自分もやってみたいものだと、尚美は皮肉でもなんでもなく思う。 尚美も一年ほど前までは仕事をしていた。勤めていたのは企業や学校などに事務用品を販売する小さな会社だった。そこで事務をやっていたのだが、一年前に辞めた。形としては依願退職だったが、実質的には業績悪化に伴う人員整理だった。たいしてやり甲斐もなく、おもしろみもない職場だったから、辞めるときも悔しいとか淋しいとかといった思いはまるでなかった。歯ブラシを取り替えるみたいに淡々と、ただ日課というものが変わって次の日から会社に行かなくなった。それだけのことだった。 仕事を辞めてからは家にいた。父親は大手商社の管理職で、家はまあまあ裕福な方だった。母親は一週間に一度、自宅でフラワー・アレンジメントの教室を開いていた。年の離れた弟はまだ大学生だ。そんな中で尚美はこれといってすることもなく、家事の手伝いをしたり友だちと会ったりして持て余す時間を費やす日々だった。はやく嫁にゆけ、などと、そんな尚美に向かって父親は言っていたものだが、いざ結婚が目の前で現実味を帯びてくるとさすがに淋しそうな表情を見せるようになった。 自分はこの男と結婚するんだろうかと、隣で車のハンドルを握る男の横顔を、尚美はそっと覗き見る。 車はゆるゆると横浜の市街地へと入ってゆき、何度か交差点を曲がってビル街の谷間のコイン・パーキングに滑り込んだ。目指す中華街へは少しばかり距離があるが、その方が駐車場が空いていてすんなりと車を停められるから便利なのだと君島が言う。 高いビルの建ち並ぶ市街地の中で、駐車場は奇妙に異質な穴のように沈んでいる。車を降りて見上げると、ビルに囲まれて不思議な形に切り取られた空があった。空はそろそろ宵闇に暮れようとしている。美しい宵の空を、ビルのシルエットが不作法に遮っている。尚美はなぜかひどく気が滅入った。 君島に連れられて行った店は、こぢんまりとして目立たない店だったが、中はこぎれいで料理も美味しかった。それほど有名な店というわけでもなさそうなのに、店内には客も多かった。 「なかなかいい店だよね。目立たないから観光客はあまり来ないけど、地元では人気があるらしいんだ」 尚美の思っていることを察してか、君島がそんなふうに言った。そんなことを言うときにも、少しも得意気な口調にならないところが君島のいいところかもしれない。 「中華街、詳しいの?」 「いや、そうでもない。この店はたまたま人に教えてもらったんだ」 「ふうん」 誰に教えてもらったのか訊いてみようかとも思ったが、仕事関係の相手だとか学生時代の友だちだとか、きっとそんなことを君島は答えるのだろうと思って、尚美は黙っていた。 「尚美ちゃんは? 中華街に詳しいの?」 「私も、あんまり詳しくない」 「そう」 二年ほど前につきあっていた男と、よく横浜に来た。男の自宅は東京の東の外れの、少し行けば千葉だというあたりだったが、だからこそ敢えて遠い横浜へ来たのだった。よくふたりで野毛や中華街や元町やらで遊んだものだ。あの頃、ふたりでけっこういろんな店に行ったから、この店にも来たことがあるかもしれない。よく憶えていなかった。君島には何も言わないでおいた。 食事を終えて、君島とふたりで中華街を歩いた。雑貨屋を覗いたりしながらぶらぶらと歩いて小一時間を過ごし、やがてそれにも飽きて、「そろそろ行こうか」と君島が言った。 駐車場へ向かって歩き始める君島の後ろについて尚美は歩いた。君島と知り合って以来、腕を組んで歩いたことはない。なぜだかそんな気分になれなかった。君島も街を歩くときに尚美の肩を抱いたりはしない。微妙な距離を置いて歩く君島と尚美は、やはり恋人同士には見えなかったろう。君島は、自分の後ろから尚美がついてくるものだと何の疑いも持たずにさっさと歩いてゆく。その後ろ姿を見ながら、自分はなぜこの男についてゆくのだろうと思うことがある。君島の目を盗んで姿を隠してしまったら、君島はどうするだろうか。きっと慌てることもなく、尚美の携帯に連絡を入れてきて、「はぐれちゃったみたいだ」なんてことを言うのだろう。今夜もこうして君島について歩き、彼の車の助手席に身を沈め、彼は車をどこかのホテルの駐車場に停めるのだろう。ホテルはすでに部屋の予約もしてあるのだろう。君島はそういう男だった。 駐車場に戻ると、車を停めたはずの場所に君島のシルバーのセダンがなかった。別の駐車場だったかと思って、尚美は空を見上げた。すでにすっかり暗くなった空は、ビルのシルエットに限られて不安定な多角形の輪郭を描いている。間違いなく車を停めた駐車場だった。 「やられちゃったな」 君島がつぶやいた。 「え」 「盗まれたみたいだ、車」 尚美の顔を見て、君島は説明するみたいな言い方をした。 「盗まれたみたいって、え、車を盗まれたの?」 「そうだ。見事に盗まれた。盗難防止装置は付けてたんだけど、やつらの方が一枚上手だったみたいだな」 「どうするの」 「どうするの、って、警察に行って被害届を出して、保険会社にも連絡をして、と、そんなところだな」 君島はまるで慌てる様子もなく、そんなことを尚美に説明する。そんなことを訊いてるんじゃないと尚美は思う。 「車、見つかるかな」 車が盗難に遭うなんて初めての経験だったから、考えがうまくまとまらなくなって尚美はそんなことを口にしていた。 「たぶん、見つからないだろう」 君島は素っ気なくそんなことを答える。尚美と話しながら、君島はすでに携帯を取りだして然るべきところへの連絡を始めようとしている。 「見つからないだろう、って、どうしてそんなに落ち着いてられるの」 「慌てたってどうしようもないだろう。すでに車は盗まれてしまって、とっくにどこかへ運ばれてしまった後だ。こういう盗難は、そこらの阿呆が出来心で盗っていったのとは違うんだ。組織ぐるみの犯罪なんだよ。たぶんもう見つからない」 君島は穏やかに諭すような口調で尚美に言った。落ち着き払った君島の様子が、尚美にはなぜか腹立たしかった。何百万もする自分の車が盗まれてしまったというのに、どうしてこの人はこんなに落ち着いていられるのだろう。もっと驚いて、慌てて、姿の見えない窃盗犯に悪態のひとつくらいついてもいいのじゃないかと、尚美は思う。 「ぼくはこれから警察に行くから、尚美ちゃん、先にひとりで帰ってくれるかな」 君島がすまなそうに言う。 「私も一緒に行く」 「時間がかかるし、警察は、退屈で不愉快なところだよ。ぼくひとりで行くから、尚美ちゃんは帰った方がいいよ。今日はこんなことになってごめんね。また埋め合わせをするから」 君島はそんなふうに言って、穏やかな笑みを浮かべて尚美を見た。 駐車場から夜の街をふたりで歩き、関内駅前で別れた。君島はそのまま警察へ向かい、尚美は駅前の雑踏の中にひとり残った。なんだかひどく疲れたような気分になって、しばらくその場に立ちつくしていた。 駐車場に停めておいた君島の車が盗まれてしまったなんて、本当の出来事なんだろうかと、そんなことを思いながら小さくためいきをついた。君島という男は、どうしてあんなに落ち着いていられるのだろう。まるで他人事のように涼しい顔をして車の盗難について尚美に説明する君島の姿を思う。子どもたちが大騒ぎしているのに「大変なことが起こりました」などと涼しい顔で話をする学校の先生みたいだ。私の身に何かとんでもないことが起こっても、あの男はあんなふうに落ち着いていられるのだろうか。かつてつきあっていた男はそうではなかった。かつての相手は、と思いを巡らそうとして、はっとしてやめた。 頬杖をつく癖をやめようと思っているのに頬杖をついている自分に気づいたときみたいな、そんな気分で尚美は苦笑混じりに深いためいきをついた。 切符売り場へ向かおうとしたところで、誰かに名を呼ばれた気がして尚美はふりかえった。駅前は人の流れが交錯して誰が名を呼んだのかもよくわからない。こんなところで知り合いに出会うはずもないような気がする。気のせいかと思って歩き出そうとしたところで、もう一度、「木崎さん」と名を呼ばれた。尚美はまたふりかえった。 横浜市役所脇の広場で尚美に向かって小さく手を振る人があった。スーツ姿の男性で、片手に鞄を提げている。男性はゆっくりと尚美に歩み寄った。 「ああ、やっぱりそうだ。木崎さんですよね」 男性はにこやかな顔で尚美に話しかけた。尚美は小さくうなずいた。 「ご無沙汰してます。二年ぶりくらいですかね。横山です。憶えてらっしゃいませんか」 横山と名乗った男は礼儀正しかったが、その中に少しだけ親しげな気配があった。 「いえ、憶えてます。お久しぶりです」 尚美も少し笑みを浮かべて横山に答えた。 「奇遇ですね、こんなところで会うなんて。お仕事ですか」 「ええ、まあ、ちょっと用があって。でももう帰るところなんです」 車で来ているから送りましょうかと横山が言うので、少し迷って厚意を受けることにした。駅の近くに路上駐車した国産のバンが横山の車だった。車の横に横山の勤める会社の名が記されている。駐車場に停めた君島の車が盗難に遭ってしまったというのに、路上駐車した横山の車は何事もなくその場にあった。世の中とはそんなものだ。 「木崎さん、お仕事の方はどうですか。輸入家具を取り扱ってらっしゃるんでしたよね。そちらもやっぱり不況ですか。ぼくの方も忙しいばっかりでちっともいい話がなくて」 車を運転しながら横山はそんな話をする。ああ、そんなことになっていたのだっけ、と思いながら、尚美は曖昧に相づちをうった。横山は尚美が輸入家具販売の会社に勤めていると思っている。今さら訂正しても仕方がないから、そのままに思わせておいた。黙っていると気まずくなると思うのか、横山は当たり障りのない世間話を続けながら車を走らせる。尚美も適当に相づちをうたなくてはならなかった。やっぱり電車で帰ればよかったと、少し後悔した。 「そう言えば、木崎さん、高岡さんのこと、ご存じですか」 ふと思い出したように横山が言った。 「何を、ですか」 尚美は訊き返した。 尚美が横山の車に乗ったのは、ひとつにはそのことがあったからだった。横山から高岡の話を聞けるかもしれないと思ったのだ。今さら聞いたところでどうなるものでもないことはわかっていたが、高岡が今はどうしているのだろうかと聞いてみたいような気がした。 「高岡さん、離婚されたらしいですよ」 「え」 驚いて横山の顔を見た。横山は尚美をちらと見て、すぐにまた前を向いて言葉を繋いだ。 「やっぱりご存じなかったんですか。離婚されてそろそろ半年くらいになるらしいですよ」 「そう」 離婚の原因は何だったのだろう。半年ほど前ということは、尚美が高岡に会わなくなって一年ほど経ってからだ。尚美とのことが原因だったのだろうか。直接の原因ではなかったとしても、原因のひとつではあったかもしれない。会わなくなってから、高岡がどんな日々を送っていたのか、尚美は知らなかった。高岡と尚美がそれぞれの日々の些細な一部分を共有していたのは、ほんの一年足らずの期間だった。甘く、苦しく、濃密な一年間だった。もう過去のことになってしまった。 「道、混んでますね。ちょっと裏道抜けますね。変なところへ連れ込もうというわけではないんで、安心してください」 道は車が多く、混んでいた。横山はふいにそう言って小さな交差点を曲がっていった。町中の狭い道をあちらに曲がり、こちらに曲がりながら、横山は車を巧みに走らせた。道をよくご存じですね、と言うと、仕事で運転してますとどうしても覚えてしまいますよね、なんてことを横山は言う。君島はこんな小器用な走り方はしない。車の運転ひとつとっても、いろんなタイプの男がいる。 横山は高岡の大学時代の後輩で、高岡より二つ年下だった。高岡とつきあっていた頃、一度だけ横山に会ったことがある。高岡が事務所として使っているマンションに尚美がいるとき、横山が突然訪ねてきたのだ。高岡はとっさに尚美を取引先の会社の担当者に仕立て上げた。横山は名刺を差し出してビジネスライクな挨拶をした。尚美は「ちょうど名刺を切らしてまして」などと言い訳をして、その場をしのいだ。あの時の横山の名刺はどうしただろう。もう二度と会うこともない人間だからと、捨ててしまったかもしれない。 あれから二年ほど経つ。横山もよく尚美を覚えていたものだと思うが、尚美もまた横山の顔を思い出せたのが不思議な気がした。 横山から、もうそれ以上は高岡の話は聞けなかった。横山と尚美との共通の話題は高岡のことしかないはずだったが、横山はあまり人の噂話をするような人間でもないらしい。世間話の種も尽きかけた頃、横山の運転する車は尚美の案内に導かれて私鉄の駅前に到着した。これから都内の会社に戻るという横山をあまり回り道させるのも気が引けて、近くの駅で降ろしてくれればいいと尚美が言ったのだった。 車を駅前ロータリーの隅に停めて、尚美が降りる時にも横山はわざわざ自分も降りて見送ってくれた。「どなたにもこんなに親切なんですか」と、なかば冗談のように尚美は横山に訊いてみた。「木崎さんがおきれいだからですよ」と横山が言うので驚いたが、すぐに横山は「いやいや、木崎さんがおきれいなのは本当ですけど、だからというわけではありませんよ」と笑い、「これもご縁ですから、大切にしませんとね。仕事のプラスになるかもしれませんし」と真顔で言い添えた。真面目な男なのだ。尚美は笑みを浮かべて頭を下げた。 駅へ向かって歩き去る尚美を、横山が呼び止めた。尚美はふりかえった。 「高岡さんの離婚、原因は別のことですよ。高岡さんのところ、結婚してから間もなく不仲になってほとんど別居状態でしたから。お子さんもいなかったし、離婚も時間の問題だったんです。木崎さんのせいではありませんよ」 尚美は驚いて横山を見た。ひやりと冷たいものが尚美の身体の芯を伝って落ちた。身が凍るように強ばった。横山は、知っていたのだ。 「高岡さんに連絡を取ってみてはいかがですか。今は都内のマンションでひとり暮らしをなさっているはずです」 そう言って横山は軽く会釈をして車に乗り込み、ロータリーを回って走り去った。 横山が関内の駅前で尚美を呼び止めたのは、そのことを言うためだったのだろうか。横山にとっては他人事の色恋沙汰であるはずなのに、いったいどういうつもりなのだろう。先輩である高岡を思ってのことだろうか。何のつもりもなかったのかもしれない。横浜で偶然知り合いの姿を見かけて声をかけ、厚意から車で送ってくれた、それだけのことかもしれない。別れ際に、ちょっとだけ相手のことに深入りした話をしただけのことなのだ。 横山は、いつから高岡と尚美との関係に気づいていたのだろう。きっと最初に出会ったときだろう。取り繕ってみても、高岡と尚美との間に漂う気配に気づいて察していたのに違いない。 あの頃は幸せだった。高岡に会えるのは一週間に一度くらいだったけれど、高岡に会うためにだけ生きていたような気がする。会えば必ず愛し合った。高岡にその気がなさそうなときには尚美からねだった。高岡に抱かれると身体の芯が痺れるような幸福感に満たされて、胸の奥が痛むように疼いた。高岡の身体と自分の身体が溶け合ってひとつの生き物になって、どこまでが自分でどこからが相手なのかわからなくなって、狂おしいほどの至福の瞬間を高岡と分かち合った。あんな恋はもう二度とできないような気がする。 しかし高岡との逢瀬はけっきょくは刹那の幻でしかなかった。会っている時間が濃密なものであればあるほど、その甘く濃い時間を容れておくための瓶を自分が持っていないことに気づかされる。どれほど恋して愛しても、高岡と共有する時間を熟成してゆくことはできないのだ。そんな思いが深く哀しみの影を落として尚美を苛み続けた。 「妻とは別れる」と高岡が言ったことがある。「そんなことを言わないで」と尚美が強い口調で言って、高岡はずいぶんと驚いていた。奥さんと別れて欲しいなどと、尚美は一度も言ったことはない。そんなことを口にすると、何か大切なものが俗気にまみれて汚れてしまう気がした。“結婚”とか“不倫”とか“浮気”とか“愛人”とか“嫉妬”とか、そういった生臭いものからは遙かに隔たった高みに、自分たちの関係はあるのだと思っていた。思いたかった。だから高岡がそれを口にしたときにも、ふたりの関係を侮辱する言葉に思えて腹立たしかった。 高岡との関係がぎくしゃくするようになったのはそれからかもしれない。高岡に最後に会ったのも横浜だった。港を見下ろす高層ホテルで夜を過ごし、尚美の方から別れを切り出した。あれから一年半、高岡のことを忘れようとしながら静かに生きてきた。でも、高岡のことを忘れたことはない。忘れたつもりになっていても、ふとしたきっかけで思い出す。高岡の声、高岡の体温、高岡の重み、そんなものを、尚美の耳が、肌が、身体が憶えている。最後の夜の、まるで人生のすべてを諦めてしまったような高岡の顔を、尚美は今も忘れない。 高岡が離婚したのは半年ほど前だと横山は言っていた。尚美がホテルのロビーで君島と見合いをしている頃、高岡は奥さんと別れたのだ。 妻とは別れる、なんて、本気で別れる気もないくせに、あの頃はふたりの関係を引き延ばすためのずるい言い訳にしか聞こえなかった。口先だけのそんな言葉にしがみつきたくはなかった。今頃は私のことなんてすっかり忘れて平穏な日々を送っていると思っていたのに。まさか、本当に離婚するなんて。 その日の夜遅くになって君島から電話があった。せっかくのデートが後味の悪いことになって申し訳ないと謝る君島に、君島さんのせいじゃないからと、尚美は答えなくてはならなかった。なぜか苛つくような思いがした。 今日のデートのことではなくて、君島のことではなくて、もちろん盗まれてしまった君島の車のことなどではなくて、尚美はただ高岡を思っていた。一年半も前に別れた、かつての恋人の顔を、尚美は今もはっきりと思い出す。燻り続けた想いが再び熱を持ち、胸の奧の封印を焼き焦がしてしまいそうだった。 三日ほど経って、また君島から連絡があった。次の日曜日に映画を見に行かないかというのだが、気乗りがしなかった。友人との予定があるからと言って、断った。君島の誘いを断ったのは、それが初めてだった。 高岡とつきあっていた頃、彼の誘いを断ったことは一度もない。それほど頻繁に逢えるわけではなかったが、高岡からの誘いがあれば何を差し置いても出かけていった。無断欠勤して平日の昼間に逢ったことさえあった。母親は尚美に恋人がいるらしいと勘づいていたようだが、まさか既婚の男だとは思っていなかっただろう。 高岡と別れてから、もともと口数の少ない尚美はさらに無口になって、家族ともあまり喋らなくなった。家族は心配していたようだが、詮索するようなことはなかった。恋人と別れてしまったのだということを、母親はそれとなく察していたのだろう。それから半年ほど経って、職場を辞めざるを得なくなった。仕事を辞めると、尚美はますます口数が少なくなり、ぼんやりと物思いに耽ることが多くなった。家族には、特に母親には、恋人と別れ、仕事も失い、尚美が無気力になって無為に日々を過ごしているように見えていたのかもしれなかった。伯母さんが見合いの話を持ってきたのも、そんな尚美を見かねてのことだったのだろう。母親に頼まれてのことだったのかもしれない。見合い相手の君島と尚美が付き合うようになり、月に一、二度はデートに出かけるようになって、母親もほっとしたようだった。 でも尚美にとっての日々は、何かを必死で抑え込みながら、何かを追い払おうとしながら過ぎる日々だった。抑え込もうとしても、追い払おうとしても、高岡の面影は尚美の胸に居座り続けた。胸の奥に鈍い痛みを感じながら、高岡と別れたことを後悔した。別れなかったらもっと苦しむことになっていただろうと、尚美にもわかってはいたのだが、どうにもならなかった。君島の存在が高岡を忘れさせてくれるということはなかった。何かにつけて君島を高岡と比べてしまう自分に気づいて、尚美は君島にすまなく思ったりもしたものだ。それでも君島の申し出を受け、デートの誘いに応じてきたのは、けっきょくは君島についてゆくことで逃げ道を求めていただけかもしれなかった。 あのとき、駅前で横山に呼び止められたとき、そこそこに挨拶だけを交わして電車に乗っていたなら、そのまま君島の行く道をついていけたのかもしれない。しかし横山の向こうに高岡の面影を探してしまった。高岡の近況を知りたいと思って横山の車に乗ってしまった。かつて痛みの中で背を向けた道の行き先を、見てみたいと思ってしまった。 高岡が、離婚していたなんて。 連絡をとってみてはいかがですかという横山の言葉が尚美の耳に残った。高岡の面影が再び尚美に微笑みかけた。自らの心に貼り付けた封印が、ゆっくりと剥がれた。 ![]() 都内へ向かう電車の中で、自分は何をしようとしているのだろうと思っていた。別れてから一年半も経つというのに、今さら会ってどうなるというのだろう。高岡との関係を取り戻したいと思っているのだろうか。自分の気持ちがよくわからない。何かに憑かれたように高岡に会いにゆく自分がいた。 一度は背を向けた道だった。行き止まりの道だとわかっていたから。あのまま歩いていたなら通り抜けることができたのだろうか。再びその道を行くことができるだろうか。 高岡のマンションの玄関前に立ち、脇道へ逸れるようにして、尚美はドアの横のチャイムを押した。指先が、少し震えた。 「はい」 と、しばらく間があって返答があった。高岡の声だった。 「尚美です」 胸が激しく動悸を打って痛いほどだった。このまま会わずに帰ってしまおうかと思いながらドアの前に立ちつくした。 長い長い数秒間が過ぎてドアが開いた。高岡が立っていた。 高岡は尚美の顔を見て少し驚いたようだった。しばらく尚美の顔を見つめ、「久しぶりだな」と、高岡はそんなふうに言った。昔のままの声だった。 高岡に促されて尚美はマンションの中に入った。室内は以前のままだった。仕事場の机にPCが置かれ、その横にさまざまな本や書類が雑然と置かれている様子なども以前のままだ。仕事場の隅に設けられた応接スペースのテーブルには四人分のコーヒー・カップが置かれたままになっている。客があったのだろう。壁面いっぱいに設けられた書架も、その棚に建築関係の書籍が並んでいるのも変わらない。窓のカーテンも、窓辺に置かれたサボテンの鉢もそのままだ。窓から見える外の景色も、もちろん昔のままだった。 高岡はテーブルのコーヒー・カップを片づけながら、「どうしたんだよ」と尚美をちらと見た。 「離婚、したんだって?」 尚美は前置きもせずに訊いてみた。高岡はじっと尚美を見つめ、「ああ」と答え、コーヒー・カップをトレイに乗せてキッチンへと歩いていった。 高岡は、尚美の知っている高岡とは印象が違って見えた。何が違うのだろう。わからない。でも確かに、以前の高岡とは何かが違っている。 やがて高岡は二人分の新しいコーヒーをトレイに乗せて戻ってきた。 「誰に聞いたのか知らないけど、おれが離婚したって聞いて、それで会いに来たのか。またよりをもどしたいとでも思ったのか」 高岡の口調はのっぺりとしていた。高岡がそんな喋り方をするのを、尚美は初めて聞いた気がする。 あの夜、尚美の方から一方的に別れを切り出した。妻とは別れるから結婚しようと言う高岡に、耳を貸さなかった。もうずいぶん昔のことのような気がする。そんな別れ方をした相手が今頃になってのこのこと会いに来て、高岡は怒るかもしれないとも思っていたのだが、高岡の表情にも声音にも何の感情も浮かんではいなかった。 「そんなわけじゃないけど」 高岡からコーヒー・カップを受け取りながら、尚美はそんなふうに小声で言って高岡を見た。 「ちょっと近くまで来たから寄ってみました、なんて間柄じゃないだろ、おれたち」 辛辣な言い回しだが、高岡の口ぶりは淡々としていて、それがかえって哀しく寂しかった。 高岡を前にして、尚美は言うべき言葉を何も持っていないことに気づいた。心の底の熾き火が弾けるようにここまで来てみたけれど、何を求めていたのだろう。昔のように、あの頃のように高岡が優しい笑みを浮かべて出迎えてくれて、尚美を抱き寄せてくれるとでも思っていたのだろうか。あまりに浅はかな自分を尚美は呪った。 「あのとき、別れようと言い出したのはおまえの方だ、おれじゃない。あれから一年半も経つんだぞ。今さら何しに来たんだよ」 責めるように高岡がそんなことを言ってくれたなら、尚美も少しは救われたかもしれない。憎んでくれていた方がまだよかった。しかし高岡は無表情なままに素っ気ない口調で言い捨てた。読み終わったからもう要らないんだ、と、古い雑誌を投げ捨てるような言い方だった。 尚美の知っている高岡は、感情の起伏の激しい男だった。普段は馬鹿みたいに陽気なのに、気に入らないことがあるとすぐ不機嫌になり、電話の相手に怒鳴り散らす姿を見たことも一度や二度ではなかった。それでも尚美を抱き寄せるときにはこちらが恥ずかしくなるくらいに甘い声を出した。そんな高岡に尚美は振り回されっぱなしだったが、そうした関係を甘受することで尚美も糖蜜のような時間の中に浸っていたはずだった。 しかし、今そこにいるのは尚美の知っている高岡ではなかった。目の前にいる男は、熱い疼きの中で尚美を愛してくれた高岡ではない。高岡の顔をした見知らぬ男が、糖蜜の記憶の中から尚美の高岡を奪ってゆく。 涙も出なかった。哀しいとか、寂しいとか、そんなことではなくて、ただ虚しく、心が空っぽになってゆく気がした。かつて確かに自分を満たしていた甘い液体は気がつけば乾いた砂に姿を変え、音も立てずに零れ去ってゆく。一度は背を向けた道、もう一度辿ろうと思っても、すでに道そのものがなかった。わかっていたはずだった。自分自身を蔑みながら、尚美は途方に暮れて立ちつくした。 ![]() 君島にはあれから二度ほど誘われたが、すべて断った。君島に会う気になれなかった。この話も白紙に戻してもらおうかと思い始めた頃に、君島がこうして連絡もせずに突然訪ねてきたのだ。 「尚美ちゃんの様子が何だかおかしいって、尚美ちゃんのお母さんが言うから、心配で来てみた」 君島が言った。そんなことだろうと思った。さすがに自宅にまで迎えに来られては無下に断るわけにもいかず、君島の新しい車の助手席に収まった。 「何か、あったの?」 君島が訊く。尚美は何も答えなかった。君島もそれ以上は何も訊かなかった。 尚美の自宅から国道246に出て、君島は車を西へ走らせた。青空が広がって良いお天気だった。嫌々ながら出てきたのだったが、外に出るとやはり少し気分も変わる気がした。日曜日の246は車が多い。ところどころの交差点では滞りがちになる。ときおり細い横道へと逸れてゆく車がある。どこへ向かうのだろうかと、尚美はぼんやりとそうした車を眼で追った。 「車、新しいのを買ったんだね」 尚美はダッシュボードのあたりに目をやりながら独り言のようにつぶやいた。 「うん、昨日、納車されたばかりだ」 答えてくれなくてもかまわなかったのに、君島は律儀に返事をする。 「今度は盗まれないようにしなくちゃね」 なかば冗談のように尚美は言ってみた。 「ああ、あんな悔しい思いは二度としたくないな」 そう言って君島は笑う。尚美は君島の横顔を覗き見た。 「悔しそうには見えなかった」 「顔に出ないだけだよ。すごく悔しかった」 「ふうん」 顔に出ないだけ、か。この人も車を盗まれれば悔しい思いをするのだなと、尚美はなぜかほっとする。 「またドイツ製の車なんだね」 「うん」 「今度の車も、やっぱり性能とか安全性とかで選んだの?」 「まぁ、そうだな」 「いつもそういう理由で車を選ぶの?」 「それだけじゃないけど」 「他にはどういう理由があるの?」 「尚美ちゃん」 「え」 君島は尚美の問いには答えず、ちらと尚美の顔を見て名を呼んだ。 「今日の尚美ちゃん、やっぱりちょっと変だ。妙に口数が多いし、何か無理してるみたいに見える」 君島は穏やかな口調でそんなことを言った。尚美は君島の顔をじっと見て、それから前に向き直り、助手席のシートに深く座り直し、口を閉ざして黙りこくった。そのまましばらく、尚美も君島も黙ったままだった。 「私を…」 大きな交差点の信号に停まったとき、尚美はふいに口を開いた。 「うん?」 尚美の言葉を聞きそびれたのか、君島は訊き返した。 「私を、どんな理由で選んだの」 尚美は目を伏せたまま、小声で言った。君島は何も言わなかった。 「おとなしそうでまじめそうだったから? 従順そうだったから? 尽くしてくれそうなタイプに見えた? 私の家がお金がありそうに思ったから? どんな理由で私を選んだのよ」 本気で思っているわけじゃないのに、なぜかそんな言葉が口をついて出た。 「やめなよ、そんなこと言うの」 君島が静かに言った。 尚美は顔を背けるように窓の外に視線を向けた。信号が変わって車は走り出した。 情けなくて仕方なかった。それは君島への八つ当たりだったろう。何もかもが嫌になって、自分自身を持て余して収まるところがなかった。車窓をよぎる景色の向こうに高岡の面影が浮かんでは消えた。あれほどに恋して愛した相手だったはずなのに、何かがすっかり変わってしまってもう手が届かなかった。尚美自身、あの頃からわかってはいたのだ。生臭い俗気を超えた関係だなどと思っているつもりでも、けっきょくは自分の嫉妬心を隠し欺いていただけのことだ。高岡のマンションのベッドに身体を横たえなかったのも、高岡が「妻とは別れる」と言い出して苛立つような思いをしたのも、自身の奥底に潜む卑しさに見て見ぬふりをしていたかっただけなのだ。ほんのちょっとでも気を抜けば綱渡りのバランスが崩れて泥の海に落ち、化けの皮が剥がれて醜い自分をさらけ出す。傷つき汚れて苦しむのが恐くて高岡との関係を捨ててしまったのは尚美自身だったではないか。高岡が離婚したと聞いて、いそいそと捨てたものを拾いに行こうとしたのは誰なのか。ずるいのは高岡ではない。尚美の方なのだ。悔しくて哀しくて寂しくて、そんな自分を抱えたまま、こうして君島の車の助手席に座る自分が許せなかった。 「私、不倫してたのよ」 ぽつりと、尚美は口にした。君島は黙ったまま、前を見ていた。 「君島さんとお見合いする前、奥さんのある男と付き合ってて、その男が離婚したって知り合いに聞いて、この前、会いに行ってきたのよ。とっくに別れた男なのに、どうにもならないってわかってたのに、会いにいってきたのよ。そういう馬鹿な女なんだよ、私。知らなかったでしょ、私がそういう女だって。私、君島さんに選んでもらえるような女じゃないよ。そんな資格ないよ」 言葉にするうちに気持ちが高ぶって、次第に涙声になってしまった。涙ぐんだまま、尚美は君島の視線を避けるように顔を背けていた。 「よかった、話してくれて」 君島はそんなことを言った。 「誰かに話せば気持ちも楽になる。傷ついたままでいてはいけない」 君島の口調は淡々としていたが、暖かな響きだった。木枯らしの冬の日に見つけた日溜まりのベンチのような、ほっとする暖かさだった。 「ぼくは尚美ちゃんを選んだんじゃない。出会ったんだ。出会って、素敵な人だと思った。つきあい始めて、やっぱり素敵な人だと思って、好きになった。好きになってしまったから、尚美ちゃんにどんな過去があっても、ひっくるめて好きだ。そういうことだ。車を選ぶみたいにきみを選んだんじゃない」 何かを説明するような口調になってしまうのは、君島が感情を抑えて平静を保とうとするときの、一種のくせなのだと、このときになって初めて尚美は気づいた。君島は優しい男だ。涙が見えないように、尚美はさらに顔を背けた。 高岡とのことを忘れるにはきっと長い時間がかかるだろう。未練がましく高岡に会いに行った自分を許せるようになるにもさらに時間がかかるだろう。でもやがて、きっと日々は再び流れてゆくだろう。その頃にはもう少し自分のことも好きになれるだろうかと、尚美は思う。 ふたり黙ったまま、車は西へ走った。やがて246は渋滞に差し掛かる。大きな交差点があるのだろうか。もしかするとこの先で事故が起きているのかもしれない。渋滞を避けるように、君島は横道へと逸れた。畑の広がる田園風景の中を細道が辿っている。その細道を、君島は巧みに車を走らせた。 幹線道路を外れてこんな細道を抜けてゆくのは君島にしては珍しいことだった。ただ目の前の渋滞を嫌って道を逸れただけなのだろうか。それともどこか目指すところがあって、そこへの近道なのだろうか。分かれ道に差し掛かっても、君島は迷う気配さえなく道を選んだ。確信に満ちた走り方だった。 「どこに向かってるんだろうって、思ってる?」 君島が、ふいに口を開いた。尚美は君島の横顔をちらりと覗き見て、こくんと小さく頷いた。 「ぼくたちは、未来へ、向かっている」 君島は前を見たまま大真面目にそんなことを答えた。尚美は思わず吹きだした。 「今日、初めて笑ったね」 「バカ」 君島直広に恋をしていない。 でも、せつなく疼く恋心よりもっと大切に慈しむべきものが、あるかもしれない。この真新しい助手席のシートに身を任せても、いいのかもしれない。穏やかで静かな君島の横顔を見ながら、尚美はそんなことを思った。
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