知り合いの会社で環境管理を向上したいという。何か困っていることがあるのかと聞くと、今特別なトラブルがあるわけではないが、現状の体制では目をつぶって歩いているようだという。それに昨今はグリーン調達なんて称して、形だけでもISOとかエコステージなんかの認証をしないと商売に差し支えるおそれがあるという。もっとも現時点まだ取引しないと言われたことはないという。
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「認証していないと取引停止」と断定すると独禁法違反らしい。だから、どこの会社でも「第三者認証もしくは同等のEMSのあること」と表現しているようだ。
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それだけではない、内部統制とか言われる時代である。もし事故や違反があれば、管理体制がしっかりしていたことを対外的に説明できなければならない。
そんなこんなで中小企業といえども法規制の把握とか、環境管理の対象をどう把握するとか、法規制に関わる教育とか、まあそんな環境管理全般に関して包括的に改善して行く必要性を感じているという。

私の頭には、それならISO14001の要求事項そのまんま実現すればいいじゃないかという感じが浮かんだ。とはいえ、そのへんのISOコンサルを頼んで仕組みを整え文書を作り、審査を受けてめでたく認証すれば環境管理が良くなるかといえば、絶対に良くならない。要するにISO認証ということと、環境管理向上ということは無関係とまでは言わないが、直接的に結びついていないのである。
証拠? 私は現実に多々見聞している。
まず、規格要求事項が欠落していても認証を受けている会社はたくさんある。
どんな項目が多いかと言うと、
- 4.3.1環境側面では真の側面を把握するとは思えない方法でOKになっていたり、真の環境側面を認識していなくてもOKになっていたりする。
- 4.3.2法規制云々では、把握する方法が怪しくてもOKしていたり、「どのように適用するかを決定する」が完全に欠落している会社だって認証している。
- 4.3.3目的・目標・実施計画では実施計画の手段と目標値が見合っていない単なる願望であってもOKになっているのがもうゴマン(五万?)とある。
- 4.5.2遵守評価に至っては・・
反面、
- 4.2環境方針では、「規格の言葉が方針に入っていない」なんて不適合はザクザクと・・
- 4.3.1環境側面でも「有益な側面がない」なんて規格要求事項にない不適合も見る。
そんないいかげんというより完ぺきに規格の理解を間違えた審査を受けて認証した企業は、ISO規格を実現していないのは間違いない。
もちろん、企業側から見てもISO14001認証しようと決定すると、その目的である環境管理向上よりも認証そのものが目的化しやすいことも事実だ。
つまりこんなふうだ。
「この文書管理は当社に見合っているか、効果的か?」
→「この文書管理は審査で適合になるか?」
「当社の教育体系は適正か?」
→「審査に合格する教育って何なのよ?」
「当社の内部統制はしっかりしているか?」
→「オイ順守評価をみつくろうぜ」
要するに「ISO規格を実現すれば環境管理は向上する」のは間違いないが、間違ったコンサルを受けて間違った審査による「現実のISO第三者認証では環境管理は向上しない」のも間違いない事実なのだ。
それが現実であり、それこそがISO第三者認証の信頼性を落としている原因であろう。
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しかし世の中にはその現実を認識しても、そういう事態を招致したのは組織の責任であると語る人が多い。私には組織というより認証機関の責任にしか見えない。だって組織がなにをしようと審査員がしっかりしていればよいだけのことではないか。そんなことを私は何年も前から語っている。
しかし「組織の責任である」ということは「組織がしっかりしてくれよ」ということであり、「第三者認証制度の価値はない」ということと同義である。そんな責任逃れの発言は、第三者認証制度を否定するものであり、最終的に自己宣言をしてほしいということになってしまうのではないだろうか?
ともかく第三者認証はISO規格とおりのEMSであることとイコールではない。しかし私はISO規格を実現すれば、事故を起こさず、法違反を起こさず、パフォーマンスを向上すると信じている。
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まあ、そんな話から私の頭に浮かんだのは、毎度ばかばかしい妄想であった。
パスカルは「パスカルの賭け」という有名な思考実験で神を信じることの是非というか損得を論理的に考えた。その後、その考えは多々論評・批判されているが、発想はすばらしい。神を信じるべきか否かはそれこそ信じるものではなく、論理で考えることができるのだ。信じるものは救われると語るより説得性があるのではないか?
| 神を信じる | 神を信じない |
神が存在する場合 | 現世の幸福を得る。 来世の幸福を得る。
| 現世の幸福を得る。 来世を失う。 (裁きを受けるか?)
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神が存在しない場合 | 現世の幸福を得る。
来世はない。 | 現世の幸福を得る。 来世はない。
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総合すると | 損はない | のるか そるか? |
この反論のティピカルなものは、神でなく悪魔を信じれば最悪というころらしい。ISO規格が悪いものであるという可能性は・・・あるかもしれない
それに倣ってISOを認証する損得を考えてみようと思った。
おっと、パスカルとは関係ないので文句を言わないように・・
| 第三者認証する | 第三者認証しない |
ISO準拠のEMSがある | お金がかかる。 対外的に箔が付く? | お金がかからない
名誉もない |
確固としたEMSがない | お金がかかる。
無用な書類・記録の維持 対外的に箔が付く?
| お金がかからない 名誉もない |
総合すると | 損ばかり | 損はしない |
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何度もいうが、EMSというものは全ての組織が具備しているものである。それが完ぺきか、しっかりしているか、プアかの違いがあるだけである。
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上図では時系列的な変化が分からないので切り口を変えてみよう。
スタート | 元々ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSなし |
|  |  |  |  |
審査時 | ありのままのEMSを見せる | バーチャルなEMSを見せる | 規格を満たすEMSを作る | バーチャルなEMSを見せる |
|  |  |  |  |
認証時 | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSができた | ISO14001相当のEMSなし |
|  |  |
認証返上時 | ISO14001相当のEMSあり | ISO14001相当のEMSなし |
まあ、上記フロー図は私の独断、お人によってお考えはいろいろだろうと思います。私と違ったパターンを考えられた方がいらっしゃいましたらぜひともご教示いただきたいと思います。
つまり、ISO14001相当のEMSのない会社において、認証するときにしっかりしたEMSを整備すれば価値がある。そしてしっかりしたEMSがあってもあるいはまっとうなEMSがなくても、審査でバーチャルな仕組みを説明している限り、社内では無駄無用の仕事が発生し、全く意味のないことである。
更に言えばISO14001の仕組みがあってISO第三者認証を受けるということも、全く無駄のように思える。
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お断り
EMS(環境マネジメントシステム)とは何かといえば、ISO規格に基づいたものという意味はない。それは単なる一般語であり、範疇語に過ぎない。ある会社のEMSはISO14001の仕様を満たすものもあろうし、他の会社のEMSはまったくプアであるかもしれない。しかしEMSというものは全ての会社に存在する、いや組織が必然的に備える性質であることに変わりはない。
その意味で、EMS構築という言葉は語義矛盾のように思う。EMS改善とか、EMS再構築ならまだ理解できる。まあ、現実にはISOその他の第三者認証という程度の意味に使われているのが現実ではある。
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私は、いかなるISO規格に基づく第三者認証であっても暫定的なものに過ぎないと考えております。EMSであろうと、QMSであろうと、全ての会社はそういった要素を組織がその特性として本来備えている、もちろんそれは完ぺきではなく継続して改善していかなければならないものだ。そして改善を図っていくときにISO規格は目安となるものだと考えている。しかし成熟した組織は従来からISO規格の要素
(要求事項とは言いたくない)は具備しているはずである。だから、ISO適合の自己宣言でさえ意味のないことだろうと思うのです。
「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど・・」という名セリフもあったが、力量のない人ほど名誉を欲しがる。囲碁の実力がないのに段位免状を欲しがる。能のない奴ほど学位を欲しがる。英語の能力に困っていない人はTOEICなんて受けません。もちろん就職なんてときはしかたがないけど・・
ISO認証なんて実力がない企業ほど認証しているのではないだろうか? 真に実力のある会社は横目で見て笑っているかもしれない。だって環境に限らず管理体制とか手順あるいは運用のノウハウ・ノウホワイは門外不出の知的財産なのだから。
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某社は「従来からの環境管理体制がISO規格以上だから認証しない」と語ったことは有名である。
そういやあ、日経環境経営度で何度もトップになった企業は「卒業しました」なんて語って、それ以降経営度調査に回答しないとも聞く。
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さすれば、ISO第三者認証とは、ISO規格を広く世に知らしめるための一時的な仕組みに過ぎないのではないだろうか?
お間違えないように繰り返しますが、私はISO規格は素晴らしいものだと考えております。そして第三者認証制度も悪くないと思っています。
ただ、ISO規格を理解しない審査員や、私利私欲に走る審査員、礼儀作法を知らない審査員、そしてそういう低レベルの審査員を教育訓練できない認証機関、そして取り締まることのできない認定機関によって信頼性の問題があると考えております。そして私はそのような現実に困り果てているのです。
私は企業において、ISOのおかげで18年の長きにわたり仕事にありつき家族を養ってきましたので、ISOには恩義を感じています。だからこそ今ひとたび、皆が力あわせてISO第三者認証制度を甦らせたいと願っているのです。
とはいえ、過去20年近く改善ができなかったのなら、そもそも無理なのかもしれません。
外資社員様からお便りを頂きました(10.03.29)
佐為さま
いつも興味深い内容を有難うございます。
拝読して、なるほどと思いつつ、ISO信者から迫害を受けるのも当然だと思いました(笑)。
というのも、宗教は信じるから救われるのであって、上の宗教の表では「神を信じる人/神が存在しない」というものはあり得ないからです。
神は必然があり、人間により生み出され、信じられることで存在しています。ですから信者にとって実存の証明は無用なのです。
「神の奇蹟」は信じるから存在するのであり、実存の世界から証明しようとは野暮なこと、この上無いのだと思います。
とは言え、信者にも 疑念を抱き、信仰から離れる人もいますし、形式的を守ろうという人もいますので、これらの人までも「信者」というかは難しい問題なのですが...
同様な考えを、ISOの表に転じれば、信仰とは違うことが判ります。
「ISO 第三者認証をする人 では、確固としたEMSが無い」という事例は、確かに存在します。
この場合には、「取引先から求められて仕方なく」という外部からの必然から、信用になると思ったという消極的内部動機など、様々なものがあるようです。ですから、ISOの場合には、信じるというよりも、効果を期待しているというのが実態なのでしょうね。
実際に効果がある、「ISO14001相当のEMSあり」という国際的にも共通の言葉で説明が出来る状態ならば、対外的な信用にもつながるのだと思います。
さて、第三者認証に話を戻すと、これは教会という「組織」や坊主という「立場」が信者を天国に導けるかという話に近いのだと思います。
結論を先にいえば、それは不可能で、そこで問題になるのは個々の信仰の深さであり、個人のもつ力なのだと思います。
組織や立場というのは、あくまで手段や方便、いいかえれば道具でしかなく、それだけを信じることは金や土で作った偶像を拝めば天国にゆけるという状態を是認するかという話に似ていると思います。
まとめますと、教会は建築として立派なのが価値ではなく組織としての役割で評価されるものであり、坊主は袈裟や経文ゆえに立派なのではなく個人の力量や信仰の深さや真剣さによるのだと思います。 同じ事は、ISOにも転じて言えるのだと思います。
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外資社員様 毎度ありがとうございます。
おっしゃる意味は分かります。すべてに同意とも言えませんが、おおむね賛同します。
現世の問題、いやISOの問題はそう高尚というか形而上の話ではありません。私は、ISO第三者認証制度というものが、認証制度側の金儲けでもよいし、関係者の自己満足でも、老後の趣味でもいいんです。私はとやかく言いません。
ただ認証を受ける組織に迷惑をかけるようなことは困ること、あげくに何か問題があれば企業が虚偽の説明をしているからだなどと八つ当たり、責任転嫁をされては迷惑だということなのです。
捨扶持をもらっていればおとなしくしているというなら勘弁してやるのですが・・
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