震災から一年

12.03.10
2011年3月11日の東日本大震災から1年がたった。私自身と家族(と言っても、家内だけだが)にとっては大きな被害はなかったが、まったくなかったわけではない。田舎にある我が家の墓も少し壊れた。また私は田舎に少しの土地を持っている。元々たいして値打ちのある所でもなかったが、今となれば放射能汚染地帯だから価値はゼロだ。現在その土地を売ろうとしても、値段がつくとは思えない。値段以前に誰も欲しがらないだろう。もちろん私だって欲しくない。だから我が家でも経済的被害を受けたわけだ。
1990年前は、どんなところでも土地を持っているということは動かざる財産(だから不動産なのだが)という認識だったが、現在は土地を保有しても場合によってはマイナスの財産になることに驚く。
以前は、会社を辞めたら田舎に帰ろうかという気もあったが、地震以降はそんなことは考えもしない。
最近、引退したら都会から引っ越して田舎暮らしというのが流行だが、大震災とその後の放射能汚染で、福島を候補地からはずした人は多いだろうと思う。
福島県や宮城県の親戚には、家屋が倒壊した人も、放射能汚染で農業ができなくなった人もいる。地震と津波によって、直接死傷した身内はいないが、叔父は地震で自宅が損壊して避難していたが、疲れがたまったのか昨夏亡くなった。80を過ぎての避難所暮らしは大変だっただろう。

地震が起きてから、私自身変わったと思うし、家内も変わったと思う。
まず、意識が変わった。一年前までは、明日は今日の続きであることが当たり前という意識があった。明日は雨かもしれないし、暑いかもしれない。しかし必ず安穏な明日があるだろうという思い込みがあった。
災害に備えて避難訓練も帰宅訓練もした。しかし、現実にはそんなことをするようなことはない、災害なんてこないものだと決めてかかっていたことは間違いない。もし昨年の地震が来ると知っていたら、まじめに帰宅ルートを検討したし、会社に食料や水を備蓄していた。そして年に何度も帰宅訓練を自主的にしていただろうと思う。
地震当日、私の職場の10数人中、数人が会社に泊まったが、早い時間にコンビニで食料を買ってきた人がそのうち一人しかいなかったのだから、緊急時の対応が不足していることにあきれる。私自身、食べ物の確保に気が回らなかった。無人島に流れ着いたら一番初めに死ぬのは私だろう。

それから緊急時に必要なものに気がついた。地震後の停電になってはじめて、我が家には、ラジオもなければ、懐中電灯もないし、それを動かす乾電池もないということに気がついた。電気店を歩いて、やっとの思いで電池のラジオを買ったが、そのときには100Vが来るようになり、それ以来、一度もラジオを使ったことはない。家内は炊事とか読書のとき、BGMとしてテレビをつけているが、ラジオで音楽を聞くことは一度もない。緊急時に備えても、そういうものは、平常時には決して使われることもないということも改めて感じた。
地震後にはトイレットペーパーも品切れになったが、あれはいったいなんだったのだろうか。身近な日用品がなくなることに恐怖を感じたのだろうか。
また生きていくのに基本的な体力がいることを思い知らされた。私は本線ではなく支線沿いに住んでいるので、電車のダイヤが復旧するまでの1週間ほど、電車が走っている総武線の駅までの数キロを歩かねばならなかった。そしてつくづく歩くことは人間が生きていく基本的な条件だと感じた。
昔の人はとにかく歩いた。家内の祖母は80過ぎまで、8キロの道を歩いて家内の実家(つまり娘の嫁に行った家)まで遊びに来た。そして娘(私の義母)と話をして食べてまた歩いて帰った。私は今60を過ぎたところだが、そんなことをする元気も体力もない。生き残る術としていろいろ言われているが、最低限はやはり歩くこと、歩けることだろう。それは早く歩くとかではなく、ガマンして長時間歩けることだろうと思う。そして申し訳ないが、体力のない人、車椅子の人などは、社会インフラが機能しない状況では生き残ることは困難だろう。
それからなんでも食べられること、食品アレルギーとか、好き嫌いとか、胃腸の弱い人も生き残れないだろうと思う。災害があれば、とたんに衛生状態が悪化する。ばい菌で汚染された水も飲むしかない。そういうとき疫痢や食中毒になるようではやはり生き延びることは難しい。
じゃあ、どうするのと言われても、解決策はそれに対応することしかないだろうと思う。

また世の中も変わった。
変な意味に取られると困るが、良い方向に変わったこともある。
まず、日の丸に悪いイメージをもたなくなった人が多い。地震前にウェブサイトに日の丸を掲げておくと、右翼だとか、古いとか思われたのが事実である。今は堂々と日の丸を掲げている。
考えてみれば当たり前のことじゃないか。日本の国で日本の国旗を揚げて何が悪いのだ。日の丸を掲げて、なぜ犯罪者か変質者のように見られなくちゃいけないのか?
国難にあったとき、日本人が頼りにするものは国家であり、国家のシンボルは国旗ではないか。

日の丸

また本日(3/10)のニュースで伝えていたが、国民の自衛隊に対する意識が好転している。
内閣府が10日発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で、自衛隊に良い印象を持っていると回答した人が91・7%に上り、1969年の調査開始以来、最高となった。
東日本大震災での自衛隊の活動は97・7%が「評価する」と回答しており、震災対応が自衛隊への好感度を押し上げたとみられる。
自衛隊に良い印象を持っている人の内訳は、「良い」が37・5%、「どちらかと言えば良い」が54・2%。2009年の前回調査より合計で10・8ポイント増加し、初めて90%台に載った。「どちらかと言えば悪い」は4・5%、「悪い」は0・8%だった。
米軍の震災支援活動「トモダチ作戦」は79・2%が「成果を挙げた」と評価。日米安全保障条約が役立っていると考えている人は81・2%(前回比4・8ポイント増)と過去最高を記録した。
(2012年3月10日 読売新聞)
これも当たり前のことだが、当たり前の考えが日本人に広まることはうれしいことだ。

私が、この大震災から学んだことは多い。
まず、明日は来ないかもしれない。だから明日はどうなっても良いのではなく、明日がどうなっても生き残るために備えておかなければならないこと。
あるいは今日一日を精一杯生きることが自分にできる最善かもしれない。
また、明日はどうなるかもしれない。だから、明日、何があっても驚くよりも対応策を考えられるようにならねばならない。
明日、北朝鮮が攻め入って来るかもしれない。中国人民解放軍が上陸してくるかもしれない。そういうときいかに抵抗するのか、抵抗しないのか、そういうことを考えておくべきだ。
あるいは鉄道や道路が寸断されて、食料がないとき、とりあえず救援があるまでどう生き延びるかということもある。今回の地震のときインスタントラーメンが売り切れになった。しかしお湯もないときはどうすべきか。
オール電化は便利だが、石油ストーブかガスボンベのコンロをひとつ確保しておいたほうがよいかもしれない。しかしガスボンベも寿命というか使用期限があるだろう。じゃあ、ときどきガスコンロで鍋をつつきボンベを使いつつ補充しておくことが良いのか。ラジオの電池も同じことで、放っておけば自己放電で使えなくなる。
そんな生活をしていることが生存性を高めるかもしれない。
お金もある。銀行振り込み、クレジットカードだけで生活しているのは便利で安全だが、万が一の場合は、現金がなければ購買活動はできない。
衣類も作業用とか、防寒用とか、多用途に使えるものを考えておくべきだろう。靴もしかり、帽子もしかり
大震災を悲しむだけでなく、自分の立場にそれが起きたとき、最善を尽くせるようにしたいと思う。

ちょっと違うが
なぜ私がブログではなく、なぜhtmでウェブサイトを書いているのかというと実は理由がある。ブログのほとんどは無料だ。MIXIをはじめとするSNSも無料である。よってそこに書いた自分の記録や意見は、ブログを運営している企業の事情によって、すべて無に帰す恐れがある。ブログ開設者はそれに文句を言えない。だって無料なんだから。
他方、このウェブサイトはわずかな額とはいえ私がお金を支払って開設している。だから公序良俗に反しない限り、私の意見は世に対して発信を続けることができる。当然ウェブサイト提供者はバックアップも確保しているだろう。古風なウェブサイトを継続しているのも、私の考えや主張を災害があっても残すための策のひとつだと考えている。



那須山のアオバズク様からお便りを頂きました(2012.03.12)
運命の日から
大変ご無沙汰しております。運命の日から一年が経ちました。各地において追悼式があったようです。
私も個人的にですが2時46分に半旗(実際は竿球に黒布を巻いた)を揚げました。

そう、仰せのとおりここ数年で日章旗を揚げるという行為は特別なことではなくごく当たり前(元々当たり前であり「右だの」の罵倒する奴が変なのだが)になりました。

当方は親が年寄りのせいか練炭コンロや一つ餡か(豆炭を入れて湯たんぽのようにして使う)があったりまたろうそくがいっぱいあったので、それほど不便は感じませんでした。が田舎ゆえ移動用に自動車を使うので燃料不足には閉口しましたが。

それから自衛隊、残念ですが震災以前までは「自衛隊なんて税金無駄食い」と考えていた人が意外と多かったように思われます。でも震災では国家の機関で一番頼りになった存在になりました。はたして彼、彼女らの日頃の訓練鍛錬は見事発揮されたのです。「嚢中の錐」であることを思い知った人も多かったのではないでしょぅか。

まだまだ寒く、時折余震も発生します。御身お大切にお過ごしください。

那須山のアオバズク様 毎度ありがとうございます。
文化生活といえば聞こえはいいですが、私たちの暮らしはいかに脆弱かということを思い知らされました。
テレビが観られないとか、エアコンが・・というのはまだしも、明かりがないということは非常にみじめといいますか、ダメージが大きく感じました。
私の家には仏壇の小さなろうそくが数本あっただけで、家内が翌日あちこちを探しましたが見つからず、アロマとかいうろうそくもどきを買ってきました。まあ、それでも計画停電中はありがたかったです。
アオバズク様がおっしゃるように、余震なのか、大震災前には驚くようなゆれがけっこうあります。お互いに緊急事態に備えておきましょう。
まだ大震災を忘れてませんが、あと数年すればきっと忘れてしまうでしょうね。
それが怖い

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