ISOの窓口だって、品質保証業務の一環だろうと言われるかもしれない。確かにそう言われるとそうなのだが・・ お金を払ってくれる顧客の立ち入り検査とか品質監査は、ISO審査よりも真剣さが違い相手も目の色を変えてくるから命まではかけないが真剣勝負である。 それに対してISO審査はピクニックのようなもので、同一には論じられない。 |
![]() ものの本によると 同様にダビデの歌というのもある。石を投げつけてゴリアテを斃したダビデに、投手としての才能があることは間違いないが、仮に音楽の才能もあったとしても、彼自ら作詞作曲したとは思えない。たぶん雇っていた楽師たちに命じて作らせたのだろう。しかしできたものに歌を作れと命じたダビデの名をつけることはおかしくない。(旧約聖書「サムエル記」参照) ちなみにアベノミクスとは、ウィキペディアでは2006年に中川幹事長が名を付けたことになっている。しかし実際は2012年12月に朝日新聞が安倍総理の政策を揶揄してその蔑称として使い始めたというのが真相らしい。名付け親の理屈からいえばアサヒノミクスでなければならないようだ。(ソースは、2ちゃんねるや三橋貴明などによる) |
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図面ではないが、大学の論文などでは指導教員の名前が必ず併記される。連名になることも多い。ああいったことは当たり前のことなのだろうか? ちょっと私には納得できない。 そう考えるのは私だけではないようで、ネットには教授の名を併記することに同意しなかったので研究室から追い出されたなんてこぼしている方の話が見つかる。 なお、発明に関しては最近ではどの会社でもそれに貢献した人のみであるとして、単なる上長が名を連ねることを禁じるようになっている。良いことだと思う。(これについては上長であるだけでは発明者ではないというのが通説である) |
a. One who directs a business or other enterprise. 事業や企業を指揮する人 b. One who controls resources and expenditures. リソースと実行を管理する人 |
ニールセン大佐は、壁に貼ってある編成表を示した。 「これを見たまえ・・」 大佐は、かれ自身の名前に水平の線で結ばれている枠を指さした。そこには「司令官補佐、ミス・ケンドリックス」と書いてあった。 ![]() この図はおばQ作成
大佐は続けた。 「諸君、ミス・ケンドリックスがいなかったら、ここを動かしていくわしの仕事は多大の支障をきたしてしまうだろう。彼女の頭脳は、ここで起こるすべてのことを迅速に処理する能力を持っている。ミス・ケンドリックスが頭文字を記したものなら、わしはなんでもサインをする。いや、彼女がどれくらいたびたびわしのサインをしたか、わしはそれを確認したことさえない。 ミスター・バード、もしわしがいま、突然死んでしまったら、ミス・ケンドリックスは、仕事をしていけるだろうか?」 バードは応えた。 「ええと、それは・・・決まりきった仕事で、必要なことはするでしょう」 大佐の雷のような声が響いた。 「彼女は、たったひとつだって仕事はせんのだ。すなわち彼女は命令系統に入っておらず、従って何の権力もないということだ」 「宇宙の戦士」(1967)、早川書房、pp236-237 注:一部要約した。
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だがそれが適切かと考えると、ちょっと違うように思う。 英英辞典を引くと assistant manager という語句はなかったが、英語版ウィキペディアでは An assistant manager is an employee of an organization that assists managers on an operational level. とある。つまり「アシスタントマネージャーは、管理職を支援する従業員」であって、一定範囲の権限を持つ係長の意味ではない。係長が職制の長であり一定の権限を有するなら、アシスタントマネージャーではなく、サブセクションマネージャーとかグループマネージャーでもよいがアシスタントではないと思う。 権限を持つ人はマネージャーでありアシスタントではない。 2013.07.04追記 思い出したのだが、2007年に学校教育法が改正されて、助教授が准教授に変わった。 助教授だと文字通りに訳すと「Assistant Professor」となり、外国の「Assistant Professor」=「助手」と解釈されるので、准教授「Associate Professor」にしたと聞く。 |
「私は、このうち何人かはきっとこの他愛のない教訓劇を分ってくれると信じる」 「宇宙の戦士」、p.120
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事務局とはなんぞやといいながら、事務局については何も書いていないじゃないか! 申し訳ありません。私は初めから事務局なんて論じる意味がないと考えておりましたので・・ |
エミール・ガレにしても高村光雲にしても、その作品は「工房」で作られるので実際には名義人ではなくお抱えの職人や弟子が制作しているのですが。だからといって弟子が偉いワケではありません。まして、世間に通用するような実力が(以下略
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名護屋鶏様 毎度ありがとうございます。 小説でもデュマの小説工場がありますね。 まあ、よいものだけが残るという自然の掟から考えれば名などどうでもよいのかもしれません。 どっちにしてもうそ800なんて明日にも風化してしまう・・泣き |
事務局とは によせて 本文:おばQさま 暑い日が続いておりますが、お元気でしょうか。 組織論としても興味深い問題ですね。 というのは、責任と権限がはっきりした欧米の組織では、あまりこうした例を聞かないからです。 事務局の問題がおきる事は、つまるところスタッフが本来の権限を越えてラインへの指揮権があるかの如く振舞う事でしょうか? もしそうならば、太平洋戦争の大本営参謀の弊害に似たようなものでしょうか? 辻政信の例では、スタッフがラインに対して、実質的な命令を出しました。 但し、陸軍も官僚機構ですから、書類上はライン指揮官の別人の承認になっています。 なぜこうした事が出来るかと言えば、ラインのトップに対して進言の形をとりながら、更に大きな権威:ISO認証や、陛下を 引っ張り出して、あたかもその意を受けて行動しているように振舞うからと思います。 任せる側にも多少問題があり、それは更なる権威による命令なのか、進言なのかを確認せず、自身の責任をあやふやにしているのだと思います。 とは言え、こうした権限を越えた暴走参謀や事務局を、のさばらせないには、進言と指揮権を明確に区別させるしかないと思います。 過去 陸軍では、暴走参謀による無責任な作戦による戦死、餓死があり、捕虜虐待という不名誉が発生しました。 もっと大きな問題は、それを引き起こした人間は、書類上は無責任なので、シランプリして参議院議員になれる点です。 ですから、ラインとスタッフの区別は、はっきりとあるべきですし、スタッフには事務局としてのサポート業務しか出来ない点は、関係者は理解すべきですね。 |
外資社員様 毎度ありがとうございます。 暑さ厳しいおり、水分と睡眠をしっかりととってください。なにぶん、素浪人の私と違い、日本経済を背負っている第一線の経営者が倒れては困ります。 まず日本のISO認証している企業のほとんどにISO事務局があり、その一部の方が「我々わあ〜、会社のシステムを構築して、会社のあるべき姿を掲げ、会社が進むべき方向を示し、我々があ〜会社を動かしているのだあ〜」と勘違いしているということです。 ではそういうISO事務局が彼らの会社を実際に動かしているかと言えば、そんなことはないだろうと確信します。彼らは勘違い、いやおかしな考えにとらわれているのだけれど、企業の中で力を持っているとは思えません。彼らの力はバーチャルな組織でのみ有効だろうと考えています。万が一、企業の経営に影響を及ぼすほどの力があるなら、その会社はお先き真っ暗です。 じゃあ、おばQはなぜそんな無力なISO事務局を批判攻撃しているのか? となりますが、そういう人たちが雑誌や講演会あるいはインターネットで誤った考えを発信しているということ、現実に大手月刊誌がそんなコラムを毎月連載していますし、その他雑誌や書籍にISO事務局は大権があると書いてあるものがたくさんあります。 外資社員様からみれば当たり前の組織論とか企業の管理ということを、理解していない人が大勢いるというのが事実であり、そういう独りよがりの考えを広めようとしている人が多いというのが現実です。 もちろん「どうせそんな事務局担当者は企業の実際のお仕事で使えないからそんなところに配置されているんだよね」とあわれんで放っておくというお考えもあるでしょう。しかし彼らの考えに染まってしまう人が多く出るだろうと思います。 そして彼らを諌めるといいますか、それはおかしいよと発信している人は皆無に近いのです。世の中のISO関係者が、たくさん発信されているそういう考えを正しいと受け取り、そういう考え方動き方をするのを、私は恐れます。 いずれにしてもまったく無駄なお仕事をすることは、大げさに言えば企業の競争力をそぐことになるでしょう。無用なお仕事を生み出すISO事務局などは百害あるだけです。 そういうことを考えると、彼らの主張に対してカウンターを出すということも必要だろうと考えます。 正直言いまして、今、日本のISO認証制度はどんどん劣化し先細りであることは間違いないです。しかしそれはISO規格が悪かったのか、認証制度が悪かったのか、企業側の担当者が悪かったのか、審査サイドの関係者が悪かったのかと考えると、やはり人の問題、それも企業側、審査側双方にちゃんとした人がいなかったからだろうと思います。 なにが問題かと言えば、ISO規格も理解していない人も多いのは事実ですが、それ以上に会社の論理とか世の中の常識を持たない企業の担当者やISO審査員が問題だと考えます。 ISO9001が顧客満足、ISO14001が遵法と事故防止を目的とするのに、現実の審査は規格の文言の有無のチェックとか、枝葉末節のテクニックとかにこだわっていた、いや今でもそのレベルにあるということが原因でしょう。 結局、そういうおかしな審査が存在することを是認してそれに対応すること自体が、ISO認証制度を悪くしてきたということですね。だから私は、裸の王様の子供ように、「おかしいぞ!」と声を上げなければならないと考えました。 効果はあるのかと問われると、あるとは言えませんが、こんなウェブサイトにトータルアクセスで毎日1000件、ユニークアクセスで400件あるということは、いくばくかの影響はあるのではないかと期待するのですが。 真の経営者である外資社員様から見ればコップの中の嵐でしょうけど、私は日本のISO認証制度、いや日本経済に少しでも寄与しようと思っているのです。 笑わないでくださいよ。 |
おばQさま 海外(台湾)での事例をご紹介します。 台湾のISO審査機関は、ITRIという半官の政府系会社で非常に権威があります。 ですから、審査では、かなり細かい指摘もあるし、杓子定規と思われる指摘もあるようです。 但し、会社側のISO審査担当者や、事務局の立場は、会社の目的が認証を、出来るだけ小さな費用で取得できる事を理解しています。 ですから、社内のISO関係者は、認証機関に対して非合理な要求には納得するまで説明を求めますし、出来るだけ追加業務が無いように努力します。 その結果、どうしても必要な部分のみ、文書の追加、修正が行われます。 社内の関係者も、事務局が努力した結果 必要な事なので、当然のように受け止めて関連文書の修正を行います。 いうまでもない事ですが、既存の会社のマネジメントを、それをISOでどのように説明するかを調整するのが事務局や認証担当者の役割である事は明確であり、論じるまでもない事です。 審査会社も、当然ですが、マネジメントの問題は会社側の職掌ですから、それに対して どうしろと直接言う事は有り得ません。 ISO規格上の問題を指摘して、それが社内マネジメントで、どのように管理されるかを問いかけるだけです。 それを会社側のマネジメントと話し合い結論を出して下さいと申請するのが事務局の役割であり、結論をだすのがマネジメントの役割です。 ですから、事務局が職分を越えて、マネジメントやライン業務に関わる決定や、あたかもそれが必須であるような言い方をした場合には、大きな問題になります。 それを関係者が見過ごす事は、方向を誤る原因になると思います。 |
外資社員様 毎度ありがとうございます。 拝読しまして感じたこと、 その1 審査側と会社側が議論するというプロセスがあるようですが、日本の審査ではまず見かけません。 まず現実の審査では、審査員と会社側が対等であるという感覚が双方にないと思います。そこからおかしいのですが・・ それに審査員が不適合を提示するとき、根拠のshallを明記すること自体めったにないでしょう。(もちろんそれはISO17021に反していますが)そしてなぜ不適合かを論理的に説明できる審査員は少ないと思います。「俺が言うんだから間違いないんだあ」というタイプが多いでしょうね。規格要求にないことを語る審査員も多いですし。 そんなことが私が見聞きしている審査と違うと思いました。 その2 企業側の担当者が対応するための費用や手間を考慮するということ 「規格にあるから」なんて語る担当者が多いですから。規格にあっても、手間ひまをかけないのを考えるのが担当者だろうと言いたいですね。 日本ではISO事務局が仕事を増やそうとしているのではないかと思います。自己の仕事を重要に見せることが目的化しているのかもしれません。日経エコロジーの「ISO14000事務局10年目の本音」という連載をみると面白いですよ。別に日経エコロジーをお買い求めにならなくても、私のブログで毎月、その棚卸をしておりますからご笑覧ください。 その3 審査員がどうしろということはないということ 日本でも「どのようにするかは企業が考えることです」と審査員はのたまわくのは同じです。しかしその1で述べたように、何が悪いのか、どの根拠で悪いのかがはっきりしていないのが多いのですから、対応しようがないのが多いです。私が引退して1年以上になりますが、現役時代不適合の是正の相談を受けた時、何が悪いのかがわからないような所見が多く、是正しようないというものが多かったです。審査員自身、何が悪いのか分らないのか、説明する力量がないのか、そもそも悪くないのかが私には分りませんでした。 その4 日本における審査や審査の考えがなぜ台湾と違うのか、それが非常に興味があります。それを明らかにすればドクター論文くらいになると思いますし、その結果は日本のISO認証制度に大きな貢献すると思います。 ただ私は台湾語も英語もできないので、それを研究するのはちょっと無理ですね。それにもう日本の第三者認証制度を甦らせることなど考えることもないのかもしれません。 いや、今だからこそ太平洋戦争(この呼び名がお嫌なら大東亜戦争と言います)の敗因を究めて今後に反映するのが大事なことと同じく、第三者認証制度がだめになった要因を究めることも大事ですね。 もっとも現在、日本の認定機関も認証機関もそんなことを考えず、当面の金稼ぎに必死のようです。そのへんも70年前の大本営と同じようです。 |
日本では、組織の権限や、役割が柔軟で、裏返せば 不明確なのだと思います。 判り易いのは、レストランです。 米国では、担当テーブルが決まっているので、自分のテーブル担当で無い人はいくら頼んでも仕事をしてくれません。それはチップにも連動しており、役割と報酬の関係が明白なのです。 日本の場合には、担当テーブルがあろうが他の店員が補う事は当然になっています。 その一方で、とても人気がある人がいようが、時給が同じなのです。 新幹線の売り子には、一日で30万円以上売る人もいれば、1万円も売れない人もいるようです。 それでも、時給は、殆ど違わないようです。 このような組織は、良い点もあり、組織が上手く回っている場合には、下のものが上の仕事を補ったり他部門の仕事も助け合い、効率が良いのです。 ところが、中国戦線では現地が暴走して戦争を始める事が、統帥権の干犯として問題になりません。 暴走参謀が、私設命令を出しまくっても、全く問題にならなかったのです。 そして現代では、福島原発の事故で、結局 誰が責任を負っているのかは、全く不明になっています。 あのような設備で良いのだと承認した人は責任を取るべきですが、想定外の一言でごまかされています。 ならば、その前提条件で良しとした人の責任はどうなるかと、徹底的な原因究明をしないのです。 ISOが、妙な具合になったのも、スタッフであるべき事務局が、マネジメントへの干渉をしても問題にできなかった所から始まったように思います。 その結果 無駄な仕事が増えても、ISOで決まっていると、更に上の権威に責任を転嫁しています。 無駄な仕事がなぜ必要かという掘り下げは、ISO権威により停止して、それ以上は掘り下げません。 これは、旧軍の問題が、結局は天皇陛下の名の元に帰してしまうのと同じなのです。 それでも、企業は利益を追求しますから、不利益が目立つようになれば、いきなりISOを辞めるという選択になります。 その時にも、なぜ無駄な仕事をしたのかは、問題にされません。 ですから、海外のISOを調べずとも、歴史をひもとけば、そして福島原発の問題を掘り下げれば、責任が追及されない、組織の役割の不明確さは、とても良く判ると思います。 |
外資社員様 おばQです、ありがとうございます。 私はそう大きな問題ではないように思うのです。 実を言いまして、ISO審査での問題はISO9001よりISO14001の方がはるかに多いのです。 思うにISO9001認証が始まった91年頃は日本には審査する認証機関もなく審査員もいませんでした。それでイギリスから審査員が来て審査するというのが普通でした。 その後すぐに日本人の有資格者が生まれて審査するようになりました。しかし今までの審査と全く違う審査が行われるということはありませんでした。 昨年までイギリス人が審査していたのと、今年の日本人が行う審査がまったく違うのでは、誰でも気が付き苦情を言われることになるでしょう。ですから日本人が審査を行う場合でもイギリス人が行う方法に倣っていたということがあります。 ところがISO14001が現れた1997年頃になると、初めから日本人が審査をしました。イギリス人ならISO14001をどんな方法で審査するのかという手本(見本かな?)がなかったので、日本人が開拓した方法で始めたということですね。 もうひとつ企業側に違いがありました。品質保証というのは大手企業や大手企業に納めている会社には必ずあった機能です。お客様が要求事項を提示し、メーカーがそれに対応するというのは従来からありました。ですからISO9001が始まったとき、企業が決めた品質保証規格ではなくISOが決めた品質保証規格だという認識があり、どんなことをすればよいのかというのが担当者に分かったのです。 ところが、環境においてはそんな仕組みは以前はありません。どこの会社も環境担当、その頃はまだ公害防止といった部門ですが、そこの担当者や管理者は要求事項をみてそれにどのように対応するかという予備知識というものがなかったのです。 ですからISO14001の審査で、審査員も審査とはどんなものか、規格の解釈とはどうあるべきかというのを全く知らないで始まったという恐るべきというか、面白い現象が起きたのです。何もわからない人が何もわからない人を審査する。その結果は、言いがかりと思えるような不適合をドンドンとだし、それをありがたき幸せと受け取って、その後右往左往することになったのです。 その頃、認証機関は雨後の竹の子のように設立されましたが、当時から品質の審査と環境の審査においては規格の理解が異なり、片や文字解釈、片やいい加減な拡大解釈というのが当たり前のことでした。 私の想像ですが、業界団体が作った認証機関は傘下企業の環境部門の管理者をかき集めて教育したと思います。(一部証拠あり)だけどそんな人たちは品質保証の意味を理解せず、審査をしたという重大な欠陥を持っていたのだろうと思います。 企業サイドの弁護になりますが、企業は金を出して審査を受けるのですから、レベルが低いことを責められることはありませんが、批判する、評価するというフィードバックがないために審査側を増長させたということはありますね。だいたい批判しているのは日本広しと言えど、私くらいですから。 ISO14001は経営の規格ですなんていうのは許すとしても、そんなことを語っている審査員が実際の審査で規格要求事項をみずに、社長がかっこいいことをいえば結構けっこうなんて言うのを見ていると、審査じゃないなあと嘆くばかりです。 しかしそんな現実を是正するという働きが認証機関にも認定機関にもなかったということは、ある意味おもしろいことです。 つまり自分の飯のタネをしっかりと維持しないで、今が良ければ明日はどうでもいいという発想としか思えません。 まあそんな状況を是としていたという意味では企業にも責任はあるのですが、どうせそんなのは税金だと企業側の経営者は見通していたのでしょうか? そうであれば認証制度は一巡して終末を迎えたというだけのことですね。 深刻に考えることはないのかもしれません。 私が書いた本文よりも、外資社員様とのやりとりのほうが、価値があると思います。 |
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