*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。
伊丹洋司は52歳、ISO審査員である。元々は電気機械メーカーの技術部で設計開発を担当していたが、40過ぎて第一線を退いた後は技術管理課の課長をしていた。技術管理課とは早い話がJIS規格の整備とか特許の手続きとか図面をはじめとする文書管理などを担当する、まあ第一線ではない裏方である。当然所属する人たちは管理者も担当者も、第一線を退いたとか二線級の人たちである。
3年ほど前、伊丹が50になる直前のこと、人事からISO認証機関に出向しないかと声がかかった。早い話肩叩きである。自分の仕事も会社も先行き暗いと感じてた伊丹は二つ返事で了解した。 伊丹は並みの技術者であったし、新しい仕事に前向きな性格であったこともあり、今はISO9001とISO14001の中堅審査員として働いている。それは伊丹が如才ないだけでなく努力家であるからだ。 しかし問題はどんな仕事にもどんな会社にもある。ISO認証という事業というかビジネスは、先細りである。ISOの登録件数は毎年3%ほど減少しており、さらに需要低減に伴い各認証機関は値下げの圧力を受けて時間とともにそれは安くなっている。そんなわけでここ数年間売り上げは年率5%くらいずつ下がってきている。伊丹が認証機関の定年の63歳まで働くとして、今のままならの定年のときには総売り上げは半減していることは間違いない。いやそうなる前に認証機関は清算するとか身売りするのが流れだろう。 とはいえ伊丹一人がどうこうしてもこの流れは変えられそうない。さてどうしたものか? 伊丹はそんなことを考えながら日々審査している。 ●
三日間の出張から戻り会社に顔を出すと、朝一に大橋部長から来週から異動してもらうということ、そして9時半から吉本取締役から新しい職務について話があるという。大橋部長は今までお疲れさん、業務の引継ぎだけはしっかりしてくれと言う。もう縁が切れたような口ぶりだ。● ● まあ普通の会社と違い50前後の出向者を受け入れ60で退職という会社だから、普通の終身雇用の会社と違い、人間関係が希薄なのだろう。とはいえいささかそっけないというか他人行儀ではないかと思う。 9時半に指定された会議室に行くと吉本取締役と石田マネジャーがいた。 ![]()
![]() マネジャーといっても特段管理者というわけではない。伊丹と同じ審査員である。認証機関では取締役兼務である部長以外は総務部門や営業部門を除いてみな審査員であり、はっきり言えば直接作業者である。とはいえ元の会社で部長をしていたりこの会社に来てから売上とか実績を積めば肩書なしではいけないということなのだろう、マネジャーとか参事とか主席とか肩書がつく。とはいえいずれも部下がいるわけでもなく仕事が変わるわけでもない。そしてマネジャーと参事の違いは本人でもわからない。実際には名刺に書かれるだけで権限も賃金とも無関係である。せいぜいのところ肩書のない伊丹よりマネジャーである石田が格上であるということを内外に示すだけの意味しかない。 伊丹が入り口近くの椅子に座ると吉本が口を開いた。 ●
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「諸君、お集まりいただきありがとう。端的に言って当社、いや当社だけでなくISO認証機関は市場がシュリンクしてきて先行きが暗い。新しいMS規格は雨後の筍のように現れてはいるが、タケノコが大きな竹に育つとは思えない。今時点認証規格は両手近くあるものの、稼ぎ頭はISO9001とISO14001だけというのが現実だ」
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石田と伊丹は黙って吉本の話を聞いている。
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「そういう状況を踏まえて当社は新事業を開拓することにした。いろいろ検討した。そしていくつかの新ビジネスを始めることになった。我々3名はその一つのプロジェクトを担うことになった。 石田マネジャーは環境管理と品質管理をしてきた経験があり、伊丹さんは設計業務と文書管理の経験があると聞いている。そういった経験を生かして、認証という仕事を別の切り口で新しいビジネスをしようと考えている」 吉本が一旦話を止めたので、石田が質問する。 | ||||||||
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「吉本取締役、すみません、お話を聞いても具体的なイメージがもてません。端的にはどのようなビジネスなのでしょうか?」
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「実を言ってまだどういうビジネスを始めようと形が決まったわけではないのだ。まったく新しい環境というか状況において、我々が持つリソースでどんなビジネスができるかを考えて、それを始めようという段階なのだよ」
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「うーん、話が見えませんが」
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「実はその背景としてもうひとつ申し上げておかねばならないことがある。当社はある人の力を受けてまったく違う時代の世界とつながることができた」
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「はあ?」
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「なんというか・・・・10数年前東南アジアとか中国にISO認証機関として進出したことがあった。しかしそれもほんのいっとき、すぐに現地の認証機関に仕事は取られてしまった。初めのころは日系企業のISO認証をゲットできたのだが、やはりグローバルスタンダードということ、まあ人件費ということが一番大きかったがね」
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「取締役、あのうまったく話が見えないのですが・・・」
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「ええと、ちょっと考えてみてほしい。我々は今21世紀に生きている。我々は小中高大学と勉強していろいろなことを知っている。それは100年前、200年前の人たちに比べてものすごい知識レベルだろうと思う。エネルギーと同様に知識の差、技術の差はものすごい仕事をなしとげ利益を生み出すだろう」
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石田と伊丹は黙って吉本の話を聞いていた。
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「信じられないだろう。しかし信じてほしい。我々はある人の力によって現在と別の世界をつなげることができたんだ」
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「取締役、それは・・・」
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「伊丹さん、確かにまともな精神状態なら信じられないだろう。だがそういう状況にできたと仮定してくれ。我々は今当社が、このチームの3名が持っている知識と知恵を提供して何かビジネスができないかと考えると無限のことができるような気がしないか?」
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石田と伊丹は顔を見合わせた。 信じられないという以前に、吉本取締役が大丈夫かという気がしてならない。 | |||||||||
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「お二人とも、その顔は私が狂っていると思っているようだね。そういうことはない。 ただ、今我々が持っている知識では、100年遅れている世界でもビジネスになるかといえばそれはわからない。我々は現代の最先端の技術、技能といってものを包括的に持っていけるわけではない。もちろんそういうビジネスモデルを考えることもできるが、それは当社の損益に貢献しないであろうと思う。我々は当社の持つリソースだけでなんとかしたいのだ」 伊丹は初めて口を開いた。 | ||||||||
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「吉本取締役のお話を伺うと、新規ビジネスはISO認証の延長にあるように受け取りますが・・」
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「うん、当たらずとも遠からずというところだな。我々は技術技能を提供できるほど現実に即したものを持っていない。だからISOMS規格である管理技術、マネジメントシステムといったものを認証なりコンサルするなりするビジネスはどうかと考えている」
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「吉本取締役、私は全くついていけません。そんな妄想といいますか、ありえませんよ」
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「おっしゃる通りだ。私も初めてこの話を聞いたときは石田マネジャーと同じだった。ありえないと思うのがまっとうだよ。だけどとりあえず、それはおいておいてだ・・ 21世紀の知識があれば100年前に戻ればものすごいことができると思わないか?」 | ||||||||
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「仮定の話ですね」
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「仮定じゃない、現実だよ。 おっと、私を精神病院に連れて行くなんてのはやめてほしい。これからその商売をしようとしている世界に一緒に行って考えてもらいたいのだよ」 | ||||||||
伊丹はばかばかしいと思う。確かに認証ビジネスは苦しい事業環境にある。だけど吉本取締役の語ることは現実離れしている。伊丹が石田にそう言おうとしたとき石田が発言した。
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「吉本取締役、とりあえずその世界を見せてもらえませんか」
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伊丹はアレエという顔をして石田を見る。
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「伊丹さん、ばかばかしいと思うかもしれないけど、仮にそんな状況ならどういったビジネスができるかを考えることも面白いじゃないか。いずれにしても損になることはないだろう」
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まあ、たしかにそうだ。
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「石田さん、わかりました。 吉本取締役、とりあえずおっしゃったことがほんとうなのか、なにか証拠を見せてもらえませんか」 | ||||||||
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「もちろんだ。そんな難しいことじゃない。一緒に現地確認と行こうか」
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吉本は椅子の背もたれにかけてあった上着を羽織って二人に一緒に出掛けるぞとゼスチャーをした。 石田と伊丹は立ち上がって吉本の後をついていく。 新世界認証機関が入っている雑居ビルを出て、吉本は足を止めた。 | |||||||||
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「約束してほいいことがある。我々は全く別の世界に行くわけだが、向こうの人たちの関心を引きたくない。だからぎょっとしたり、大声を出したりしてほしくない。何かに驚いても静かにおとなしい対応をしてほしい」
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「わかりました」
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「よろしい、それとお金は現代のお金は使えない。必要なときは私が渡すからドギマギするようなことのないように」
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「わかりました」
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「そいじゃ行こうか」
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三人は都営三田線に乗って数駅行く。
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「次の内幸町で降りる」
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三人は内幸町で降り、改札を出る。
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「ええっと、出口がA8だったはずだ」
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伊丹は変な気がした。内幸町は何度か利用したことがある。そのときジョルダンで時刻や出口を調べたがA7までしかなかったと思う。 吉本はA8、A8と声を出して表示を探す。もちろんない。 しかし吉本はあきらめずに壁に沿って歩いて行く。 | |||||||||
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「あった、あった。おーい、ここから出るぞ」
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確かにA8という表示があり、薄ら汚れた通路が続いている。 吉本を先頭に石田、伊丹が続く。三人のほかには誰も歩いていない。 階段を登りきると表に出た。 石田と伊丹はぞっとして足を止めた。 内幸町は日比谷公園の傍で繁華街ではないが、官公庁やオフィスビルが立ち並んでいたはずだ。だが地下鉄の出口の周りは草ぼうぼうの野原で、高いビルはない。遠くに国会議事堂が見える。 ![]() そして頭の上には伊丹が子供のころ四国高知で見た、真っ青な青空が広がっている。今の東京では絶対に見られない紺碧である。 |
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