*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
伊丹が夜、自室で白熱電球の下で本を読んでいると、スマホが鳴る。 21世紀の日本と異世界の間には、なぜかスマホが通じる。いや普通のガラケーでも通じる。基地局もなくWIFIもないのに、なぜ電話が通じるのか定かではない。
伊丹は自分と幸子の電話番号を義兄と息子に教えているが、スマホを使っているところを見られるとまずいので、伊丹か家内が家にいるのが間違いない夕方から明け方にかけて電話するようにと言ってある。そんなわけでこの世界に来てからスマホに電話がかかってきたのは初めてのことだ。 驚いてスマホをとり発信者をみると、「息子」と表示されている。なにごとかと伊丹は通話をONにした。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「ああ、俺だよ、なんだ?」
| ||||||||||
![]() |
「突然なんだけどさ、今付き合っている人がいる。お父さんに会ってほしいんだ」
| ||||||||||
![]() |
「幸子は良いのか?」
| ||||||||||
![]() |
「もちろんお母さんにも来てほしい。お母さんは一度会っているけどね」
| ||||||||||
![]() |
「わかった、いつがいいだろう? 」
| ||||||||||
![]() |
「早い方がいいなあ、今度の週末どうかな?」
| ||||||||||
![]() |
「こちらは土曜日は休みじゃないんだ。日曜日なら大丈夫だ。 場所はどうする? 俺たちのところに来てもらうわけにはいかないから、お前が住んでいるマンションで会うか、それともレストランにでもしようか?」 | ||||||||||
![]() |
「じゃあレストランにしたいなあ、彼女に余計な手間をかけさせたくない」
| ||||||||||
![]() |
「そいじゃ俺たちにとっては都内がいい。すまんがレストランを予約してくれんか。個室がいいだろう。もちろん費用は俺が出す」
| ||||||||||
●
21世紀の日本と1900年代初頭の扶桑国の通路は、工藤が伊丹の最寄り駅である渋谷駅にも作ってくれていた。だから自宅から元の世界に戻るときは渋谷駅、会社からのときは新橋駅を使っている。● ● 扶桑国から21世紀の日本に行くときもその逆も、一番問題になるのは服装である。女性なら和服はどちらも共通であるが、これも現代ではちょっと悪目立ちする。伊丹の場合、ネクタイなしの作業服姿ならどちらでも目立たないが、それじゃ人に会うにはちょっと向かない。 結局、どちらかの駅のトイレで着替えることが多い。これも現代のトイレならまだしも、扶桑国の汲み取りトイレで着替えるのもあまりうれしくない。 日曜日の昼過ぎ、伊丹は妻の幸子と二人でまずは綱島の義兄、つまり幸子の兄で伊丹の元上司の家に挨拶に行く。伊丹夫婦が異世界に行ってからもう10か月になる。その間、伊丹は二度ほど顔を出したが、幸子はこれが初めてだ。
| |||||||||||
![]() |
「ずいぶんとご無沙汰じゃないか、伊丹はともかく幸子は1年ぶりだろう」
| ||||||||||
![]() |
「そんな子離れしないような言い方しちゃいけないよ、兄さん」
| ||||||||||
![]() |
「どうもすみません。向こうの仕事もなんとか目鼻がついて、暮らしもやっと落ち着いてきたところです」
| ||||||||||
![]() |
「お前もこちらで審査員をしていた方が楽だったろうに。幸子だってそうだろう」
| ||||||||||
![]() |
「うーん、でもさ今は出張がめったにないから毎晩家に帰ってきてくれるし、そういう意味ではよかったなと思ってますよ」
| ||||||||||
![]() |
「でもどうなんだ、電化製品もない暮らしは辛いだろう。洗濯とか炊飯とか全部手仕事だろう。暖房も冷房もなければ夏は暑く冬は寒いだろうし」
| ||||||||||
![]() |
「暑さ寒さはともかく、家事は女中さんが全部してくれますから、私はなにもしないんです。お大尽っていう暮らしをしているのよ、アハハハハ」 注:「 | ||||||||||
![]() |
「実は今日は報告とお願いに上がりました」
| ||||||||||
![]() |
「報告ってたって向こうでちゃんと暮らしているから安心してくださいってことだろう」
| ||||||||||
![]() |
「いえ実は息子が結婚相手を紹介するとのことで、今日は嫁候補と夕食会なんです」
| ||||||||||
![]() |
「ほう、洋介も結婚を考える年になったか。いくつになったんだ?」
| ||||||||||
![]() |
「24です。彼女は26とかいってましたど」
| ||||||||||
![]() |
「オイオイ、年上なんて知らなかったぞ」
| ||||||||||
![]() |
「あら器が小さいのね」
| ||||||||||
![]() |
「今時二つ三つ年上でもどうこうないだろう」
| ||||||||||
![]() |
「いや年上が悪いわけではなく、単に知らなかっただけですよ。 実はね義兄さん、お願いってのはその嫁さん候補とご実家の身辺調査をお願いしたいのです。 弟さんが興信所してたでしょう。私、彼の連絡先を知らないんですよ。これが嫁候補のご芳名と住所です」 | ||||||||||
![]() |
「ああ、わかった。伝えておく。特段難しくなければ1週間くらいだろう」
| ||||||||||
●
食事会は楽しかった。息子、洋介の嫁候補は、ご芳名 藤原ふみ(27)という。● ● 美人かどうかは主観の問題だろうが、今風で明るく悪人ではないようだ。
伊丹は異世界での仕事が順調になればこちらに帰ってくる気はないし、いずれにしても老後は夫婦ともに施設に入るつもりで子供に頼る気はない。 いつまでも稲毛のマンションに住んでていいよと幸子が言う。そんなに古くないし、90平米あるから子供が生まれても大丈夫だろう。 伊丹夫婦はその日のうちに扶桑国に戻った。渋谷駅から自宅まで1キロ歩く。街灯もなく途中住居も少ないのでとても暗いが、この世界は犯罪が少ないから不安はない。 ●
翌週木曜日のこと、夜スマホの電話が鳴った。また何事かと伊丹はすぐにスマホをとる。● ● 発信者をみると番号だけ表示されている。要するに登録されていない方からというわけだ。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「はい、伊丹です」
| ||||||||||
![]() |
「あ、夜遅くすみません。私、藤原と申します」
| ||||||||||
![]() 電話の向こうで朴訥な感じの声がする。 藤原と聞いても伊丹は思い当たる人がいない。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「藤原様ですか、ええと・・」
| ||||||||||
![]() |
「お宅の洋介様とお付き合いいただいているふみの父親です」
| ||||||||||
![]() |
「ああ、失礼いたしました。お名前を思い出せずに・・」
| ||||||||||
![]() |
「娘が伊丹様と会ったと聞きました。それで伊丹様とお話がしたいと思いまして」
| ||||||||||
![]() |
「それはぜひともお会いして一献傾けたいですね。実を言いまして私は都内に住んでいないのです。そんなに遠くはないのですが、できたら土曜日の夕方か日曜日がよろしいですね」
| ||||||||||
![]() |
「分かりました。それじゃ明後日の土曜日の夕方ということでいかがでしょうか? 私の住まいは荒川区の町屋近くですんで、上野あたりどうでしょう」 | ||||||||||
![]() 上野駅で待ち合わせて、そこから近くの居酒屋に行くことにした。 電話を切って時計を見る。まだ9時だ。電話するのに非常識な時間でもないだろう。 伊丹は義兄に電話する。 | |||||||||||
![]() |
「あーもしもし」
| ||||||||||
![]() |
「伊丹です。夜分遅くに申し訳ありません」
| ||||||||||
![]() |
「なんだ?」
| ||||||||||
![]() |
「先日お願いした身元調査どうでしょう、頼んでいただけましたか?」
| ||||||||||
![]() |
「ああ、あの翌日に弟に頼んだ。明日でも、いや今夜聞いてみるわ。一旦切る、かけなおす」
| ||||||||||
![]() 10分後に伊丹に電話が来て調査書はできている、義兄が預かっておくから認証機関にとりに来いということだった。 ●
土曜日は工藤に断って昼過ぎに退社した。伊丹は役員でないし役職があるわけでもない。どういう扱いになっているのか工藤と話したこともない。遅刻、早退すると賃金がひかれるのかどうかも聞いたことがない。● ● 21世紀に現れた伊丹は、数か月ぶりに認証機関に顔を出す。もう社員ではないから無人の受付から義兄に内線電話する。 義兄はすぐに調査書を持って現れた。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「これだ。俺はもちろん見ていない。もしここで読むなら空いている応接室を使ってくれ。申し訳ないが俺はいろいろあるので失礼する」
| ||||||||||
![]() ![]() 伊丹はお礼を述べ料金を聞くと、義兄は手をパタパタ振って中に消えた。 勝手知ったる旧職場だ。伊丹は応接室が並んでいる通路の奥の給茶機でコーヒーを紙コップに注いで、開いている応接室のドアの表示板を空室から使用中に変えて中に入った。 伊丹は調査書を広げる。 一枚目は表紙、二枚目は目次、3ページから報告である。 | |||||||||||
![]()
そんなことが何ページか書き連ねてある。どこまで信用できるかわからないが、これだけ調査して報告書をまとめる労は大変だろうと伊丹は思う。30万くらいかかったのか。まあそれだけの価値はあるだろう。伊丹だって1日コンサルすれば10万くらいもらわないと割に合わない。義兄にはあとで埋め合わせをしておかねばと伊丹は思った。 読んだ限りでは問題ない女の子のようだ。娘が大学に行かなかったのは、ちょうど進学時期に父親がリストラされたさなかで進学を諦めたのだろうと推察した。 歳がいっているから恋愛や同棲のひとつやふたつありそうだが、ないというならないのだろう。 読み終わった後、またコーヒーを注いで半時間くらいいろいろと考えた。それから時計を見て約束の時間まで1時間切ったのに気が付いて認証機関を出た。 約束より10分ほど前に上野駅入谷改札に着いて藤原氏を待つ。この改札口は小さいからすれ違いはないだろう。
約束5分前に改札口の内側からジャンパーに綿ズボンを履いた初老の男性が現れた。伊丹は声をかけた。藤原氏であった。 藤原氏は知っている居酒屋があるといい、入谷口を出て5・6分歩いてチェーン店でない店に案内する。 低い衝立で仕切られた座敷に上がって、とりあえずビールを頼む。 | |||||||||||
![]() |
「それじゃ健康を祝して乾杯」
| ||||||||||
![]() 一口飲んでから話が始まる。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「今日はお会いしていただきありがとうございます」
| ||||||||||
![]() |
「いえいえ、私こそ有難く思っております。私は息子と離れて暮らしておりまして、お宅の娘さんと同棲しているとは存じませんでした」
| ||||||||||
![]() |
「うちの娘がお宅の息子さんと結婚したいと聞き、正直言って悩んでおります」
| ||||||||||
![]() |
「何を悩むんでいるのですか? 可愛くて結婚させたくないとか」 | ||||||||||
![]() |
「はっきり言いまして、我が娘は条件が悪すぎます。それでお宅との付き合いもうまくいかないのではないかと考えております。結婚というのは本人同士じゃなくて家族も姻族も含めた付き合いですから、同じような生活レベルでないとうまくいきません」
| ||||||||||
![]() 藤原が言うのは経済的に苦しいこと、自分の仕事の見通しが暗いことなど、だいぶ悲観的だ。伊丹はそれを否定する言葉をかけても意味がないと思った。確かに一人でやっている機械加工なんて、今の時代に存在しているのかと驚いたくらいだ。 ![]() | |||||||||||
![]() |
「私は高校を出てから旋盤とかフライスをいじってきました。1980年頃からどこもNC機械を導入してきましたが、変に腕に自信というかありましてNC機械のオペレーターになるのを嫌ったのですよ。1980年代はまだ試作とか高精度の一品ものでは、NCでなく手作業を重宝するところがあったのですが、時代遅れになるのは必然でした。 1980年代末から私のような従来からのマニュアルといいますかNCでない工作機械の技能者の中には早期退職して、タイとか中国などに技術指導、正確に言えば技能指導ですが、向こうに行って大金を稼ぐ先輩が何人もいました。 私にも声がかかりましたが、どうもそういうのは個人的には金儲けになっても日本のためにならないと思いまして、誘いには乗りませんでした。 その後、会社が海外展開を進める代わりに国内生産の縮小を図り、現代の工作機械に疎い私はリストラです。8年前です。 食っていくためには働かねばならず、自分ができるのは最新の機械ではなく手で操作する機械だけです。それで小さな会社に入りましたが、休日も少ないし福利厚生なんてなきがごとし。 その頃になると海外に行った人たちも、向こうのレベルが上がったのと、向こうでもNC機械や自動機が当たり前になって見切りをつけたのかお払い箱になったのかほとんどが戻ってきましたね。でもまあその間、10年間だいぶため込んだでしょう。 そんないろいろありまして一人でやってみようかと、今のところを居ぬきで買いました。もう5年やってきましたが目が出ません。廃業しても、今更私ができる仕事となれば工事現場の交通警備くらいですからねえ〜」 | ||||||||||
話を聞いていると積極性がないようにも聞こえるが、この8年間で疲れ果てたという様子がみえる。 ![]() 伊丹は息子たちの結婚は本人たちが考えることで、親が悩んでもしょうがありません、また飲みましょうと言って別れた。 洋介の彼女はオヤジさんも大変そうだが、それが娘夫婦にどんな影響を及ぼすか、お金のことばかりでなく精神的にも蝕まれるとまずいなあと思う。 ひるがえって、伊丹も5年前、認証機関に出向を言われたとき、それを拒否して別の道を選んだらどうなっていたのか、異世界の事業を拒否したらどうなっていただろう、異世界の事業撤退のとき素直に元の世界に戻っていたらどうだったかと思い巡らした。 |
<<前の話 | 次の話>> | 目次 |