*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但し引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
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1917年の伊丹家のお正月は、旅行にも行かずひっそりとしたものだ。いやこれが昔は普通だった。 |
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元日は近くの神社に夫婦で参拝した。靖国神社か日比谷大神宮に行くことも考えたが、混雑の中、同行する警護の憲兵も大変だろうと、歩いていける近場の金王八幡宮にした | ![]() |
二日には米山中佐、石原大尉たち20名近くが約束通りやって来た。幸子は昔ながらのお節では楽しみがないだろと、21世紀の料理を並べた。オードブルのようなものが酒の肴にいいだろう。とはいえ幸子が作るわけはなく、幸子の指導で女中たちが作ったわけだけど。 当初からいる女中のスイとテツは今では伊丹夫婦の世話と家事の監督で、炊事・洗濯・掃除は新人の3人がやっていた。夫婦二人暮らしで女中5人とはと思われるかもしれないが、警護の憲兵も常駐しているし、家電製品がない時代はお金持ちならそれが普通だった。 ![]() ともかく年始というか宴会というか酒盛りは盛況に終わった。 ![]() 三日は伊丹も幸子も休み明けからの仕事の準備をして、夕飯に三日とろろを食べて終わり。 ![]() この時代のお正月休みは三が日だけで、4日からお仕事である。虚礼廃止なんていうけど、虚礼になったのはたかだかこの半世紀である。私が子供だった昭和30年頃は、いや昭和40年頃まではお正月は今ほど大々的な行事ではなかった。私の父母の時代、大正期は商店の休みは盆と正月くらいだった。言い換えるとお正月はお店が開いていない。 ![]() ![]() 年中行事が増えるほど、それぞれの行事の重みが減り、かえって楽しみが減ったのではないだろうか。織姫と彦星は年に一度しか会えないからいいのであって、毎日会っていたらすぐ倦怠期だろう。 ![]() 4日出社すると客先を分担して挨拶回りをする。実際の仕事は明日からだ。 松の内が明けた頃、半蔵時計店の宇佐美氏が相談にやって来た。 内容が現場的でなく管理に関することだから、藤原よりも上野の方が適任かと思い、伊丹は上野を同席させた。 ![]() | |
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「昨年、伊丹さんに伺った品質保証のことです。お正月お屠蘇を飲みながらいろいろと考えましたが、どうもすっきりしないのです。それでお話をおきかせいただきたいとおもいまして」
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「確かに品質保証とは分かりにくい概念かもしれませんね」
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「ええとまず、私は不具合が出ない仕組みを作りたいのが目的です。伊丹さんが教えてくれた品質保証とは、製造体制がしっかりしているということですよね。とするとそもそも狙いが違うのではないかと思ったのです」
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「不具合の出ない仕組みというと、そもそもありえるのかという話になってしまうのではないですかね。これからどんな不具合が発生するか誰も分からない。先日宇佐美さんが問題が起きたらしっかりと是正処置しているから、同じ問題は二度と起きないとおっしゃいました。それは理想ですが完璧はむずかしいでしょうね。 更に今まで起きたことのない問題を未然に防ぐというのは神様の領域かなと思います」 |
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「じゃあ、伊丹さんがおっしゃった品質保証とは結局是正処置のレベルということですか」
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「不具合の出ない仕組みとはどんなものを考えていますか?」
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「うーん、問題が起きないようにすることでしょうね」
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「でもその対応が取れる範囲というか対象は、人が発生するかもしれないと思い付いたものだけではないでしょうか?」
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「うーん、そう言われるとそうでしょうね〜、当たり前ですが想像できないことは想像するわけありません」
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「普通、是正処置と対になる語に予防処置があります。是正処置つまり再発防止と予防処置の違いは、問題が起きて対策するか問題になる前に対策するかの違いです。予防処置とは全く予想もしていないことではありません。予想もつかないものへの対策は不可能じゃないですかね」
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「そうか、先日、藤原さんが、純粋な予防処置があるはずがないとおっしゃったのはそういう意味か・・」
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「とはいえ、起きた問題について再発防止だけするのでは予防処置になりませんよね」
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「なるほど、であればどんな問題が起きそうかと考えて対策すれば予防処置になる。しかし全く思いもよらない問題を、未然防止するにはどうしたらいいのだろう」
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「そのようなことができるものでしょうか? ところで予防処置とは具体的にどのようなことでしょうか?」 |
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「一番簡単なものは水平展開と呼ばれる、実際に起きた問題を別部門とか類似なことに起きないようにすることですね」
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「なるほど、でもそれをすることでも大変な費用が掛かるでしょうね。もちろん実施の決定は費用対効果で決めるのでしょうけど」
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「まさか予防処置が水平展開だけというわけではないでしょう。いや水平展開は既に問題が起きているのだから予防処置でなく是正処置の範疇ではないのでしょうか」
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「予防処置にはいろいろあります。傾向管理といいますが、日々の管理状況をみていて、管理限界を外れそうだというとき手を打つこともある」
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「伊丹さん、それはQC7つ道具の管理図ですね」
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「製品などで数値管理できるものは管理図になるだろうね。ただ設備管理などで日常点検などの異常には数値化できないものもある。その他、予め耐用年数を定めて機械を更新するのも予防処置だ。現実にどこの会社でも過去の経験をいかした予防処置をしている。だがいずれも過去の情報の蓄積の上にあるわけだ」
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![]() そのとき会議室のドアを開けて米山中佐と石原大尉が入ってきた。 ![]() | |
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「工藤社長に、会議室にいるから行っていいよと言われましたんで」
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「宇佐美さん、お話の内容は御社特有のことでもありませんし、コンサルを依頼されたわけでもないですから同席してよろしいですね」
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「ああ、もちろんです。ええと、こちらの方は・・」
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「政策研究所の米山中佐と石原大尉です。実を言いましてこのお二人からも、昨年暮れに品質保証の相談を受けていたんです」
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「ほう、どんな?」
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「いや、こちらの方は軍機に関わるものです」
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「ああ、そうですか。そいじゃあと少し一般論を聞かせていただいてお暇します。 話を戻しますと、伊丹さんは保証とは大丈夫とうけあうこととおっしゃった」 |
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「そうです」
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「しかし大丈夫と請け合うことと、不良を出さないことは全然違いますよね」
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「大丈夫と請け合うと申しましたが、それは誰に請け合うのでしょうか?」
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「えっ、誰にって? こちらこそ聞きたいですね」
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「アハハハハ、いろいろな人に請け合うことがあると思います。まあ真っ先に思いつくのはお客様ですね」
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「お客様に、ウチの製品は大丈夫ですよというわけですか? しかし例えば私のところで時計とかダイヤルゲージを販売する時、もし不良品だったら一定期間内にお持ちいただけたら現品交換をします。ということはわざわざウチの製品は大丈夫ですということを立証することもありません。大きな問題にならなければ現品交換でお客様は納得します」 |
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「一個の取引ならそういうことは普通だと思います。だけど大きな仕事、例えば発電所の工事とか、継続して大量の購入をしているとかであれば、しっかり作っていることを説明することは重要になるでしょう」
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「発電所などですと完成してから工事の内容が分からないことがありますね。それは住宅建築でも同じか、ホゾとか壁の中のことは完成してからでは破壊して調べるしかないから、まあ分からないですね」
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「お宅が個人のお客様に売るときは、現品交換でもいいかもしれません。しかし輸出とかの場合は、半蔵時計店の製品はこのように生産しているからご安心くださいという説明は大きな説得力があるでしょうね。もちろん不良品は交換するとしても」
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「確かに、実際に経験したのはその逆でしたけど、継続して大量に購入する納入先には、こちらが受入検査するよりもしっかりした出荷検査をしてもらい、その検査記録を確認したことがありますね」
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「その場合、取引先を変えることができるか否かも、考慮しなければならない。というかそれによって検査の考えも変わるでしょう」
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「と言いますと?」
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「もし不良が多ければ転注、つまり発注先を変えることができるなら、あまり五月蠅いことを言わなくて問題あれば変えてしまうのが一番いい。しかし発注先を変えることができない、あるいは社内で製造しているなら転注できませんから、指導しても使わざるを得ない」
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「なるほど、なるほど。今の話にそれをつなぐと、売り手がしっかり作っているぞと請け合うのでなくて、買い手がしっかり作っていると約束しろというわけですね。つまり相手に品質保証を要求するという」
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「そういうケースもあるということです。話を戻しますが、半蔵時計店での品質保証とはお客さんに対してだけではないはずです」
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「また難しいことを言いますね。お客様以外にしっかり作っていますと誰に言うのでしょう。もちろん一般社会に、つまり潜在的顧客に対してウチはしっかりした製造体制ですという宣伝広告にはなると思いますが」
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「お忘れと思いますが、天知る地知る己知るといいますが・・・」
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「すみません、割り込ませてください。しっかり作っていると一番知りたい人はここにいるええと、あなたではないのですか。そしてお宅の社長さんも知りたいでしょう」
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「おお、石原大尉、さすがですね。そうです、しっかり作っていることを知りたいのは社長も経営幹部も管理者も現場で作っている人たちも入るでしょう。 営業の人が売ってこいと言われたとき、当社の製品は不良がないと確信が持てるように説明し納得させなければ営業に熱が入らないでしょうね」 |
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「おお、分かります。とはいえ、やはりそれと不具合が出ない体制とは違いますね」
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「まあ、意味的には違いますね。ただ現実問題としてはニヤリイコールになるでしょう。いや同じになるかもしれない。それは後で説明するとして、社長や宇佐美さんのように社内の人にしっかり作っていると請け合うことを内部品質保証といいます。そしてお客様にしっかり作っていると請け合うことを外部品質保証といいます」
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「なるほど、ふたつの意味があるのは分かりました。でも、やることは同じわけですね?」
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「同じと言えば同じですが違うこともあるでしょう。というのは社長が考えるしっかりやってほしいことと、お客様が考えるしっかりやってほしいことは違うかもしれない。いや、違うでしょう」
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「はあ? どんな?」
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「社長は企業としてのリスクやコストを考えます。お客様は自分が買うものが良い製品であることを望みます。ですから期待する範囲もレベルも違います」
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「なるほど」
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「同様に、宇佐美さんがおっしゃった不良を出さない生産体制も人によって望むことが変わるでしょうね」
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「今のお話を聞いたから、それは推察できます」
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「それじゃ宇佐美さんが求める不良を出さない生産体制と、品質保証体制が結果としてほとんど同じだろうということの説明ですが、」
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「あのう、脇から口をはさんでよろしいですか?」
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「はい、なんでしょう?」
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「伊丹さんに代わって私に言わせてもらえませんか」
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「先が読めてしまいましたか。どうぞ、どうぞ」
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「まず、不良を出さない体制というのはあり得ないように思えます」
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「えっ!」
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「ちょっと待ってください。一段落するところまで話せてください。 不良を出さない生産体制というのを考えるといろいろ想定できます。まったく完璧で不良が出ない仕組み。でもそういうものを考えると、決まった設備で決まったものを作るという形態しか思い浮かびません。 そうではなく不良がでそうになったら、仕組み、それには人も入りますが、その仕組みに異常を発見する仕掛けというか工程があり、異常に対応する仕組みがあり、その是正や予防を内部化していくという仕掛けがあるというものではないかと思います。そういう体制であれば、製品が変わろうと生産構造が変わろうと、仕組み自身が自己変革して正しい方向に導いていくのかなと思います」 |
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「なるほど、伊丹さんそういうことでよろしいのですか?」
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「ここまで異議はありません。石原大尉、それで終わらずさらに続くのでしょう?」
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「伊丹さんとそちらの方が今までどんな話をしていたのかわかりませんが・・ 先ほど伊丹さんは品質保証体制と不良を出さない生産体制はニヤリイコールになるだろうとおっしゃった。ということはそういう最終形態の品質保証体制は不良を出さないとは言えないけど、不良が出たら自動修復するような働きを内蔵しているのではないかと思いました。もちろんその仕組みとは機械だけではなく人間も含めたものですが」 |
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「私もそう考えています。とはいえ品質保証という概念は今だ成長途上にあり、最終的にどういう形になるのか私にもわかりません」
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「なるほど、先日、伊丹さんは二つのアプローチがあるとおっしゃったが、どちらから進めても到達点は同じように思えます。なにかいろいろ迷うことなく、どの方からでも改善を進めていけば到達してしまうように思えてきました」
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「うーん、私はまだそこはわかりません。ただ気を付けてほしいことは、誰にしっかりやっているかを受け合うかによって、やることもルールも記録も違うだろうと思います。外部品質保証なら形だけというのもありでしょう。しかし内部品質保証、特に自分自身に対してであれば嘘は付けません」
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「天知る地知る己知るでしたね」
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「アハハハハ、参りましたね。石原さん、政策研究所を辞めてウチに来ませんか。あなたならきっとすごい能率技師、いや経営コンサルタントになれます。 もっとも師団とか軍団の参謀になる人ならば当然かな」 |
![]() 宇佐美は難しい顔をして立ち上がった。 ![]() | |
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「いやいや、どうもありがとうございました。今日お聞かせいただいたことを少し反芻して考えたいと思います。またお邪魔します。 ええと、石原大尉さんでしたね。私は半蔵時計店の宇佐美と申します。お互いに品質問題を考えているようですね。なにかあったら協議させてください」 |
![]() 宇佐美は米山中佐と石原大尉と名刺交換して去って行った。 ![]() | |
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「伊丹さん、あの宇佐美さんはなんですかね、自分の言いたいことを言い、知りたいことを聞くと消えちゃいましたよ」
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「まあ商売上手なんだろう。おっと、上野君、忙しいところ付き合ってもらってありがとう。 こちらはちょっと軍機に関わることなので」 |
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「いやいや、三人寄れば文殊の知恵といいますから、よろしければぜひ参加していただけますか」
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「それじゃ、先日の話の続きと言いますか、問題点の検討をされたと思いますが、そのあたりから、」
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注1 |
「品質保証の国際規格 ISO規格の対訳と解説」久米均、日本規格協会、1988、ISBN4542402034 ![]() | |
注2 |
欧州統合は1993年であった。統合されたEU域内は、自由に人も物も行き来することになる。EU内の先進国ドイツやフランスは域内の後進国から安いものが流れてくることを恐れ、ISO認証をうけたものだけとした。当然EU域外からのものにもISO認証を義務付けた。まさにISO規格に書いてある非関税障壁そのものである。ということで1991年頃から日本の輸出企業の間にISO認証ブームが起きた。まあ、こういった規制対応は日本が得意だったから日本企業はこれによって逆に差をつけることができたようだ。 ![]() | |
注3 |
明治の御代になって伊勢神宮の遥拝殿として日比谷に日比谷大神宮が置かれた。遥拝殿とは本来なら伊勢神宮に行って参拝すべきところ、遠いために便法に同様の効果のある神社を作ってこれを参拝すること。その後関東大震災のために飯田橋に移し飯田橋大神宮と呼ばれたが、戦後は東京大神宮と改称した。 金王八幡宮は平安時代に渋谷城の城主河崎家によって創建された。江戸時代は徳川将軍家の保護を受けていた。 ![]() |