*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
引用文献や書籍名はすべて実在のものです。民明書房からの引用はありません。
![]() 写真は東京タワー
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![]() 朝日新聞本社前、大江戸線 築地市場前駅入口の表示 |
帝都防災訓練から2週間ほど過ぎた。ここは政策研究所である。後藤閣下以下、中野部長、米山、幸子が会議室にいる。 だいぶ遅いと思われるかもしれないが、2週間を無為に過ごしたわけではない。プロジェクトのメンバーは防災訓練参加者にヒアリングをしたり、実施結果を集計したり分析したりしていた。 ![]() | |
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「先日の防災訓練はどうであったか、みなの意見交換したい」
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「では私から、後藤閣下とか中野部長にも話が来ているとは思いますが、神奈川県、千葉県などの近隣県の知事から、東京府だけでなくそれらの地域での防災訓練の実施と支援を要請されました」
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「ワシもその要請を受けている。関東大震災では確かに東京は火災がひどかったが、神奈川県でも火災はもちろん、地震による崩壊もあり、また津波の被害もあった」
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「津波と言えば湘南でも静岡県でも被害がありましたね」
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「海軍大臣からは、横須賀の基地と工廠の防災体制をどうするかと相談を受けました」
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「ちょっと東京に重きを置きすぎたか・・・」
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「いえ、虻蜂取らずになるよりも、東京だけでも安全を確保したいという気はあります。なにしろ死者の3分の2が東京ですから |
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「とはいえ消防車や消火体制だけでも」
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「火災の被害が大きかった横浜・川崎にはそうだろう。しかし南房総とか静岡は津波の被害が主だ。それぞれ状況が異なるから防災と言っても地域によって違うんだなあ〜」
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「それについては各県と個々に対策を講じるということでいかがですか。問題はどこまで情報を開示するかです。津波の被害が主であった地域でも東京の訓練をみれば火災が問題と認識してしまったでしょう」
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「向こうの世界の情報開示はダメだ。そこはうまくやってくれ」
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「了解しました」
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「横須賀の軍港や追浜の被災を考えると、震災前に飛行機だけでも下総基地に移動したいですね。機体の損害がなくても、追浜飛行場がつかえるまで時間がかかりました。早く海軍の飛行機を消火や偵察に活用したいですから」
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「それと消防ポンプを搭載した海軍の舟艇をどうするかだな。地震発生後に横須賀から移動するのは実際不可能だろう」
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「すべての舟艇を東京に移動してはまずいのではないか。横須賀も横浜も大火災になるわけで」
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「数が限られていますからどう配分するかですね。まあその前に伊丹さんが言ったように飛行機や舟艇を含めて、防災設備の安全確保を考えないといかんな。あからさまにもできないから、うまい理由付けが必要だ」
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「ところで津波対策なんてあるのかね?」
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「さあどうでしょう、伊丹さんなにか策があるのですか?」
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「津波を止めることはできませんので、逃げるしかありません。避難の基本は遠くよりも高くで、高台に登るしかありません。高台がないところでは昔から命山(いのちやま)とか避難やぐらを作るなどしてきました。 その他、低いところには建物を造らないとか、地震があったら山に逃げろという意識付けと避難訓練でしょうか」 |
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「命山とは?」
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「平らな土地では逃げるところがありません。それで常時人のいる近くに土を盛って高台を作るのです。高さは予想される津波より高く、広さは付近の住民が逃げ込めるくらい。1000人なら数十メートル四方ですか」
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「効果はありますか?」
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「もちろんです。命山のおかげで助かった例は多々あります」
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「関東大震災の津波の高さは、どれくらいだったのですか?」
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「千葉県館山の洲崎で8.1m、大島で12m、鎌倉で6m、熱海や伊東で9mとあります |
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「うわー、それじゃ命山を造るにも簡単ではないね」
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「関東大震災の死因のデータがありますが、それによると圧死11%、焼死87%、津波1%、工場などが1.5%となっています 東京府の焼死を防ぐだけで6割以上、東京・横浜の焼死を防げば86%を救えることになります」 ![]() ![]() |
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「重点管理という考え方からは、津波には手を打たないということになるのかな」
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「津波の死者は1%といっても1000人です。少なくはありません」
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「一般論として、地震があったら高台に逃げるという意識付けと訓練をさせましょう。それだけは最低しなければ・・・」
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「その他、反省事項はどうですか」
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「避難誘導をしていた警視庁巡査から、華族が自動車で避難してきて対応に困ったという報告がありました」
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「それでどうしたのかな?」
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「華族の自動車の運転手が制止する巡査を追い払おうとしたそうです。たまたまそこに上位の華族が徒歩で避難して通りかかり、車内の華族様を諫めて一緒に歩いて避難したそうです」
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「やれやれ、ノブレスオブリージュの正反対ではないか」
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「確かに平巡査では扱いに困るでしょうね。その他、戒厳令ではないので交通規制や避難指示にあたった兵士から、避難者から軍にはそういう権限がないと言われて困ったと報告がありました」 ![]() * これは史実でも同じことが記録されている。当初は軍隊の出動は災害支援であり戒厳令でなかったので、交通規制や治安維持などの法的な根拠が明確でなかった。諸事情を受けて一部に戒厳令が発令されたのは翌二日、東京府と神奈川県全域に戒厳令が敷かれたのは三日であった。 ![]() |
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「うーん、災害派遣では軍隊にできることとできないことがあるな。 分かった、それは政策研究所の範疇ではない。内務大臣と陸軍大臣、海軍大臣で協議してもらう。ワシが調整する。 他には」 |
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「まだ誰も言ってないものですが大きな問題があるのです」
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「なんだろう?」
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「避難場所です。普通に考えればこの地区の人はこの学校に避難せよと言えば、そこに逃げ込めばとりあえずは安全と考えるでしょう」
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「うむ?」
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「しかし今回の避難訓練ではそうではない。例えば両国の住民なら錦糸町方面に逃げろと言われ、錦糸町まで行けば亀戸に逃げろと言われた」
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![]() 皆は黙っている。 ![]() | |
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「確かに関東大震災では錦糸町あたりまで全焼しました。それを考えると東側なら亀戸より東に行かなくちゃならない、両国から4キロはあるでしょう。 西側に逃げるなら、といってわざわざ隅田川を渡って西に逃げるのはないだろうけど、西なら四谷か信濃町まで行かなくちゃならない。6キロはあります。 北なら川を渡って上野のお山までで4キロ、但しこの方角は時刻によっては火災に飛び込む方角になる これはどう考えても目的地が定まった計画的な避難ではなく、ただ逃げまどっているだけです」 ![]() ![]() |
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「そう言われるとそうなんですが・・・・現実に発生する火災の地域が広すぎます ![]() 注:両国から江戸川まで13キロ、草加までは16キロである。 ![]() |
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「そこまで避難するとなると、訓練ではできないね。そもそも一般人は歩けないのではないか。軍隊の行軍でも半日の工程だ」 ![]() 注:旧日本陸軍の一日の行軍距離は24kmだったらしい。もちろん背嚢を背負い歩兵銃を持ってだが。 ![]() |
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「異世界の関東大震災では大火災になりましたが、こちらでは実際どうなるのか見当もつきません。向こうと同じなら確かに王子とか荒川の向こうということになるでしょうけど、我々の対策によって延焼面積が少なければ避難距離も短くなります。 消防ポンプは向こうより確実に強化されていますし、破壊部隊は人力ではなく戦車もブルドーザーもあります。ですがどこまで火災を押さえられるかまったく分かりません」 |
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「うーん、確かにそうではある」
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「先ほどの巡査の報告に、避難場所を聞かれても何と言ってよいか分からないというのがありました。巡査レベルにはもちろん関東大震災の話をしていません。そしてどこに避難すればよいというのも政策研究所としては広報していません。しかしこれではまた別の混乱を生じさせるだけかなと思います」
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「大勢を避難させるには現状の道路だけでなく、避難道を作らなければなりませんね。とはいえその場で作れるものでもない」
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「今まで道路には手を入れなかったが、消防設備と体制だけでは足らなかったか」
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「もしこのプロジェクトの目的が死者をゼロにするのなら、目的を果たさないのは明白です。いやそのような目的は達成不可能でしょう。 しかし目的はそうではないはずです。具体的な数字は示されていません。どこまでするかですね。今までの対策で10万人の焼死者を半分以下には減らせるでしょう。更にその半分に減らすとなると更なる投資が必要で、収穫逓減の法則で次の半減には今までの費用の倍とか数倍になるでしょうね。そして時間はどんどん無くなっています」 |
![]() 中野は目をつぶって沈黙した。 後藤も黙って口を閉じてしまう。 ![]() | |
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「冷たいようですが、後藤閣下は為政者として現実を踏まえてどこかで妥協する決断をしなければなりません。全員を救うというのはかっこいいですが、下手をすると皆殺しになる恐れもあります。戦いでは先鋒も殿(しんがり)も必要で、犠牲になる人も必要です」
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「だが戦闘と災害は違う。ここは防災を十分にし、ここは手を打たないということができるのか?」
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「堤防は一方の岸を低くするのは常識です。すべてがダメになるのを防ぐために、一方を犠牲にするのはまっとうな策で悪意とか卑怯ではありません。 為政者ならそれを割り切るのが仕事です。そしてその責任は後藤閣下が負うのも当然です」 |
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「うっ、」
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「それが責任というものでしょう。誰も閣下に命を捨てろとはいいません。ただ名誉も恥辱もあなたが負うのです」
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「分かりました。吾輩が未熟でありました。 その他なにか・・・」 |
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「向こうの世界では関東大震災の際に、朝鮮人虐殺とか言われていますね。ここではどういう対策をとるのでしょうか?」
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「朝鮮人虐殺があったと言われているが真実は分からないね。人数も二百数十人から6600人まで諸説さまざまで」
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「これから地震が起きるわけですから発生防止もできるでしょうし、正確な人数も分かりますよね」
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「いや向こうの世界と違って、我が国は朝鮮を併合していない。だから扶桑国に合法的に住んでいる朝鮮人は、外交官とかビジネスマンなど少数だ。それ以外は不法入国者ということになる。当時は東京に1万数千人の朝鮮人がいたそうで、震災での死者は人口の2.5%だから朝鮮人の死者が400人いて当然だ」
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「この世界では防災準備して死者を半減させるつもりですから、まあ200人というところでしょうか」
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「言ったように住んでいる人数が大違いだ。この世界では東京に住んでいる朝鮮人はせいぜい数千人だろうから、その1.25%として50人というところか」
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「いずれにしても後世問題になることはないな」
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「問題になる可能性は限りなく低いでしょうね」
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「別件、発言します」
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「どうぞ」
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「先ほど華族が避難するときの問題がありましたが、華族会などでノブレスオブリージュの徹底というか指導を願います」
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「向こうの世界の関東大震災の本をいろいろ読んでいるのだが、消防車を何台も呼び集めて自宅が燃えるのを防いだ皇族もいたそうだ。まったく皇族の面汚しだ」
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「わかりもした。貴族への徹底と、軍と警察そして消防には四民平等である旨を徹底してもらおう。いずれもワシがやる」
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「大きな声では言えませんが、後藤閣下は将来の都市計画と震災対策を関連させているのでしょう」
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「正直言えばそうだな」
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「破壊消火は将来の幹線道路に合わせて行うように、戦車隊長や例の纏持ちに通知しておかなければならないでしょう」
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「実はそれを気にはしているのだ。あまり表立っては言えないことであるし」
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「纏持ちってのは、そのときの風向きとか守るべき建屋などで壊す方向を判断するのか?」
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「そいうことは存じませんが、どちらにしても話を付けておかないと後々困りますね」
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「将来的に帝都をめぐる環状線を二重にして、東・北・西・南西の四つの大通りを作りたい。道幅100mくらいのをな。破壊消火はその基になるようにしたい」
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「まさに大風呂敷ですね」
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「いやいや、自動車社会になればそれくらいでないとだめだろう。もちろん100mといってもすべてが通行部分ではなく、中央に緑地、左右には幅広い歩道を設ける。緑地のある道路は防災にも憩いの場にもなる」
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「100mの空地(くうち)があれば、まず延焼はしないでしょう」
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「今そういう道路があれば破壊消火の出番はないのだが」
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「後藤閣下、その話の詳細を教えてください。私が戦車隊と内々で調整しましょう。戦車隊だけでなく複数のブルドーザー隊も出動するでしょうし」
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「米山君が戦車隊長と話して決めるなど越権行為というか不正にとられる。 そういうことは内々ではなく、最上位者の決裁事項としていただきたい。ただその経過を対外に公表しないとしましょう」 |
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「分かりもした。政策研究所内で案をまとめて内務省と軍とで検討する。 さて、では反省事項を反映して来年の防災訓練に向けて頑張ろう」 |
![]() 会議の後、後藤と米山は将来の道路網について打ち合わせをする。 ![]() ![]() ![]() | |
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「この大小の環状線と東へ2本、南北と西へ各1本の線が100m道路だ。そして震災のとき黒部分だけでも破壊消火で作ってしまいたいのだ。 この黒い部分があれば震災時に延焼は防げるだろう」 |
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「でも赤い点が発火場所で、それぞれの区域内に多数あります。ですから区域を分けてもどの部分も火災になることに変わりはありません」
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「良く図を見てほしい。出火はするがそれぞれにタイムラグがある。そしてまた一度火災になり消火されたのちに、一回りした火が回って来て再び火事になったところも多数ある。だから防火帯で止めることができれば状況はかなり違う」
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「なるほど、しかしこの黒線の部分だけでもそうとうな長さですね。目算で20キロ以上ですか」
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「なんとかしたい。地震発生後すぐに破壊消火できれば犠牲者は1割2割になるぞ」
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「分かりました。ただ、こうなりますと戦車中隊だけでは力不足です。工兵隊も土建屋も引き込んで作戦を立てなければなりません」
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「わかった、それではまず陸軍大臣と師団長クラスの会合を設ける。それで話は通しておくから、具体的作戦レベルは米山君が立案してくれ」
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「かしこまりました」
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注1 | ||
注2 | ||
注3 |
「江戸・東京の大地震」野中和夫、同成社、2013 実際に測定されたものではなく、推定した人や機関によって差がある。本文ではそれらのMAXをとった。 ![]() | |
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注5 |
内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月」 「1923 関東大震災 第5章火災被害の実態と特徴」pp.186-187時刻別延焼状況 「関東大震災対策」太平洋戦争研究会編、河出書房、2003 ![]() | |
注6 |