*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。
熊本工場で起きた漏洩事故のために出張した、山内、上西、磯原は二泊して帰ってきた。
武藤氏はやることがあるからと、もう一日残るという。たぶん岡田の処分について、工場長や事業本部と話し合うのだろう。
帰りの飛行機の中で、考えることは三人それぞれだった。
山内参与である。
山内はこの件で自分が関わることは、もう終わりだと割り切っている。いや、割り切るほかはない。屑が社長になるのはいやだが、親が選べないのと同じく、自分が社長を選べるわけがない。
だが自分の生き方は選べる。今回自分が発言したことに社内でなにか言われたら、会社にしがみつくよりも自分が楽しめることをしたい。
自分の学位とキャリアなら、退職してどこかの大学の非常勤講師くらいにはなれるだろう。そう思うのは甘いかな。
上西課長である。
いやはや、最初聞いたときは偶発的な事故で、その対策を勉強させてもらおうという気分だった。しかし行ってみればなんと同期の岡田が、ミスをしたのが発端で、エラーを重ねて問題を大きくしまったと判明した。
話の流れで我が社には新入社員の時点で、社長候補を決めるという隠された仕組みがあると知った。そして自分も岡田もいってみれば社長候補のキャリア組だったこと。入社してからトントンと出世して、社長はともかくいいところまでいくレールに乗っていたものの、今回の事故で、岡田は社長候補から外れるどころでなく、悪くすれば懲戒解雇、良くても依願退職らしい。
俺も下手をするとそうなったかもしれない。岡田から電話を受けたとき、柳田が止めてくれたから助かった。これから会社でどういう顔をすれば良いものか?
いや、そうじゃない。これからは、何事でもよく考えて判断しなくちゃならない。
磯原である。
出張に行く前は山内さんと上西課長で処理できるだろう、自分まで行けば大名旅行と揶揄されると言ったものの、結果として自分が行った甲斐はあったと思う。いや、自分がいなければ、誰もイニシアティブをとらず何も進まなかったに違いない。
上西課長は向こうでただ座っていただけだ。あの程度のことなら、課長ともなれば仕切らなければならない。上西課長は、もうちょっとしっかりしてもらわなければ困る。
前任者の鈴木課長は何もしないで逃げ回っていたが、上西課長は逃げないが何もしないで座っているだけだ。パターンは違うが役に立たないのは同じだ。
二日半も留守にしていると未処理の書類が溜まっている。今は出先でも仕事ができる、在宅勤務ができるといわれるが、できない仕事も多い。
そして出張と在宅勤務は周囲の条件が大きく違う。
まず出張の移動の際の車内や空港では、パソコンや書類を見てはいけないというのは鉄則だ。もし隣に座った人が同業他社、マスコミ関係者あるいは反社会的勢力だったりすれば、会社不祥事とか機密を見られたら取り返しがつかない。
見方を変えればそういうところでは磯原だって機密文書を開かないだけでなく、耳を澄まして情報収集しているわけだ。書類やモニターを覗くまではしないが、聞こえてくる話は逃さない。実際に他社の環境教育の方法やトラブルの会話を聞いたこともある。直接使える情報ではなかったが参考にはなった。
また社内と言えど、お金・人事・不祥事関係の書類を広げるわけにはいかない。
要するに出先でできる仕事などあまりないのだ。
出社して2時間ほど過ぎた頃、山内が上西を呼ぶ。
山内は上西を連れて小会議室に入る。
「出張お疲れだった。溜まっていたメールなどの処理は終わっただろう。
ちょっと話をしたい。今回の出張では、どんなことを感じたり考えたりしたかね?」
「まず物事の判断は、しっかりした証拠と根拠に基づかなければならないことを認識しました」
注:証拠と根拠は違う。証拠は事実を裏付ける物や証言であり、根拠は何事かを定めたルールや基準である。
刑事裁判なら、根拠は法令であり、それを罪刑法定主義という。そして証拠は検察が提示する犯罪を立証するもろもろで、これを証拠裁判主義という。もし証拠が犯罪を立証するに足らなければ無罪となる。
ISO審査で不適合とは、ISO規格要求事項が「根拠」であり、それを満たしていない文書・現場の状況・証言が「証拠」である。根拠と証拠の二つがそろわなければ不適合ではない。
証拠・根拠を示さずに不適合!と叫ぶ審査員が 多い いるが、それはISO17021-1に不適合である。異議申し立てされないようご注意あれ
ISO17021-1:2015では、根拠は「9.4.5.3 特定の要求事項について記述しなければならない」とあり、どのshallなのか明記することが必要である。
証拠は「(同)不適合の根拠となった客観的証拠を詳細に特定する、不適合の明確な記述を含まなければならない」と定めている。
審査員が口頭で説明しなくても、報告書を読んで不適合の証拠にたどり着けなければならない。
「ほう、どんなことかな?」
「まず岡田から電話を受けた時のことです。
ご存じのように用件は、工場で事故が起きたが本社報告しないのを了解してくれという
相談というより要請でした。それを聞いて私もOKしても良いと思いました。
そう答えようとしたとき、庶務の柳田が私が通話しているスマホを取り上げて磯原に投げ、磯原は受け取ったスマホで通話先の岡田に、私が上司に呼ばれたので後で回答すると電話を切ってしまいました」
「それを聞いて、笑ってしまったぞ。スマホが飛ぶのを見たかった。
ところで君を救ってくれた柳田と磯原にお礼を言ったのか?」
「いえ、その時はその振る舞いを叱るつもりでした。その後、柳田に会社規則の説明を受けてその行動に納得しましたが、お礼は言っていません」
「もしそのとき君がOKしていたらどうなっていたかな?」
「それを思うと冷汗が流れます」
「柳田にお礼を言うこともないが、反省はしなければならんな」
「反省しています」
「ISOでは反省だけでなく、反省した結果行う是正処置という言葉が好きなようだ。君はどのような是正処置をとるのかな? 反省しているというのだから、考えているのだろう」
「柳田から会社規則を読めと言われました。そうするつもりです」
「それはもちろんだが、会社規則を知らなくても常識で対応できるものさ。ところで多くの人は常識の意味を、誰でも知っていることとか、知っておかねばならないことと思っている。
しかし常識って元々日本にはなかった言葉で、Common senseの翻訳語だ。その意味を知るには日本語の辞書でなく、英英辞典を見なければならない。Common senseとは『the ability to behave in a sensible way and make practical decisions』、つまり『賢明に行動し、現実的な決定ができる能力』だ。簡単に言えば知識ではなく知恵だな」
注:知識とは認識したこと、理解したこと、情報を知っていることであり、知恵とは論理的に考え判断や推論できること。
有名人の名前を知ることは知識であるが、常識ではない。電話詐欺にひっかからないためには知識より常識が必要だ。
「『事故が起きたけど本社に報告しなくて良いか?』と聞かれたら、会社規則を知らなくても、昨今コンプライアンスとか透明性ということが厳しくなっていることを踏まえれば、簡単にOKできることではないと分かるはずだ。
ならば即答せず、しばし時間をもらって会社規則を見るのもあり、近くに磯原や柳田がいれば、このような場合のルールはどうなっているのかと問えば、連中は歩く会社規則集だから即答してくれるだろう。そうすべきだったね」
「今はそう思います」
「では、そのときそう考えなかったのはなぜか? そうしなかった理由を考えて、それに見合った対策しないと是正処置、つまり再発防止にはならない」
「ええと…私は岡田に仕事ができるように見せようとしたのだと思います。OKする・しないではなく、即答できることを見せたかったのだろうと思います」
「そうだろうね。岡田も君も同期では出世頭だ。ということは最大のライバルのわけだ。自分が知識も決裁権もあると示したかったのだろう。
岡田が、業者の車が石油タンクや防液提にぶつかって損傷を与えたとき、OKしたのもそういう気持ちだったのだろうな。そのとき謙虚に自分は判断つかないから担当者か環境課長を呼べば問題にならなかった。熊本工場に柳田がいなかったのが残念だよ」
「まったくそう思います。柳田がいなければ、岡田の姿は明日の我が身でした」
「柳田がいなくても、そうならないよう努力すべきだな。
ところで岡田も君も入社時から社長候補だったって知っていたか? 」
「若い時言われたことはありませんが、同期で一番早く課長になったとき、上司から教えられました」
「どんなこと?」
「自分が社長候補であること、だから自分が同期より早く昇進している、大事に扱われていると言われました。その時の上司は、うらやましいと言っていました」
「入社した20代初めに将来の社長候補を決めるのは、おかしいという見方もある。なにせ入社して、なにも成果を出していないときだからね。正確に言えば社長候補というよりキャリア組だな。幸運なことだ。
とはいえ、なにごとにも一理はある。植木でも動物でもよく育ちそうなものを選び、肥料や良い餌を与えて成長を促し、そうでないのを間引くのは当たり前だ。
人間においても、そういう発想は昔からある。18世紀イギリスのネルソン提督を知っているか?トラファルガー海戦で勝利しイギリスを救った。
ネルソンは12歳で船に乗り、19歳で士官、21歳で艦長、38歳で提督(艦隊司令官)になった。
ネルソンより2世紀遡るがドレイクも10歳で船に乗り、25歳で船長になる。その後34歳で船団を率いて世界一周する。彼は海賊と言われるが、当時は海軍も海賊も違いはない。
海上自衛隊で一番若くて艦長になった人は40歳だと聞く。現代では21歳とか25歳で艦長になるなど想像できない。
だがなにごとにも理由はある。当時のイギリスの平均寿命は40前
今は平均寿命も伸びたが、現代でも社長として会社を率いていけるのは肉体的にも60代前半までだろう。そして必要とする知識も膨大になった。また社長も最低4年続けなければ自分の考えを出す暇もない。勘案すると社長就任は50代半ばか遅くとも60までになる。
そして入社年齢は大航海時代の10歳ではなく今では23歳だ。となると入社時に育成する者を選別して帝王学を仕込み、50代前半までに必要な知識や経験を積ませ、役員が務まる力量を付けねばならない。
もちろん社長は技術に詳しい必要もないし、発明や特許を取る必要もない。企業が難破しないように決断し舵取りできればいい。そのためには大きな失敗をされては困るが、少々の失敗体験とある程度の成功体験を積ませるよう育成するわけだ。
オーナー社長の場合は初めから後継者が決まっているが、雇われ社長の当社の場合は、そういう仕組みを選んだということだ。
警察などのキャリア採用は、人数も少なく失敗しなくちゃ皆一緒にとんとんと昇進するのもそれと同じ仕組みだ。
自衛隊では防大出は多いが順次選別されていき、若くして二佐にならないと昇進の見込みはない。65%は三佐のままで、定年直前に二佐になりめでたく退役する。
わしも自分はバカではないと思っているが、学部の後に更に5年+αかけてドクターになり会社に入った。だが研究室でもまれ、研究費で苦しみ、査読や発表で叩かれ、屈折し世間ずれした30歳は、社風に染まりにくい。学会で有名になっても、社内政治ができなければ昇進は無縁だ。
我が社で社長になったドクターは、みな入社してからの論文博士だ」
「社長候補とは単純に幸運というわけではないのですね」
「幸運どころか不運かもしれないぞ。ミツバチは女王バチも働きバチも、卵は同じそうだ。選ばれた幼虫に
それは人間の王様も同じで、平時は優雅な暮らしだが、戦争に負ければ首を切られるのが仕事。会社の社長も、不祥事があれば引責辞任が仕事だ。
外国では経営を学んだMBA持ちを、最初から幹部として採用することもある。我が社はそれと違い、入社した中から優秀なものを選んで教育して経営者を育てる方法を採用したわけだ。
熊本の岡田は、今回やったことをみれば懲戒免職となって然るべきだが、なぜか依願退職
さて今回の一連の問題で、彼は何を間違えたのか、君はどう思う?」
上西は突然質問されたので驚く。
「彼の持っている行動規範が、この会社というか一般社会の基準とずれていたからでしょう。ただそれは岡田の責任だけではなく、彼を教育した人にも責任はあるように思います」
「そうだろうな。帝王教育すべきところを、その逆に周りが大事に大事に、失敗しないように苦労させないように育てたので、当人の価値観が狂ったか、判断力・決断力が付かなかったのかもしれない。
君もその一歩手前だったわけだ。ではどうしたら良いのだろう?」
「山内さんがおっしゃった常識を身に付けるべく勉強することだと思います。
磯原を見ていると、天才的な閃きは見えませんが、ものすごい努力家です。以前山内さんからお聞きしましたが、工場では電気主任技術者とエネルギー管理士の仕事だったそうですが、本社に転勤してからISO認証を勉強して審査員以上の力量を持っているとか。今では公害関係も破棄物も詳しいです」
「努力というのも漠然としている、どのようなことを努力というのかね?」
「法律を知ることや、過去の不祥事事例を読んで、追体験することでしょうか」
「それもあるだろう。MBAコースは経営問題の事例研究が多いらしい。
だがそんなことをするまでもなく、日々の仕事において関係する法規制や会社規則あるいは過去の事例を参照することだろうね。努力も勉強も仕事そのものだ。
ケーススタディよりも何よりも、日々の仕事において遵法とルール厳守を意識しなければならない」
「具体的なイメージが分かりませんが」
「架空のケーススタディや過去の事例を調べるのも悪くないが、なによりも日々の仕事をより深く理解することだろう。
君は毎日たくさんの報告書、計画書、購入伺いにハンコを押しているはずだ。例えば出張報告なら、それを読んで内容を100%理解しているか? 誰の書いたものでもA4一ページに1か所くらいはおかしな点とか説明不足なものがあるだろう。
そういうものはすぐ担当者を呼んで内容を聞く、あるいは会社規則を引っ張り出して確認する。そういう注意力と面倒くさがらないことが大事だ。
![]() 環境課長 23.04.24 上西 |
「過去の自分を恥じます」
「恥じることはないから、今からそういう努力をしてほしいね。とはいえまだまだわしの意図を君は理解していないようだ。
実例を挙げよう。熊本工場で会議前に我々出張者だけのとき、武藤君が打ち合わせることは何かと言っただろう。そのとき君は即座に磯原にホワイトボードに書けと言った(第66話)。
わしは君の言葉を聞いて残念に思ったよ。書くということは単に手を動かすことではなく、考えることなのだ」
「おっしゃることが分かりません」
「あのときのあるべき姿は、君がホワイトボードに君の考えを書くべきだった。
何を書いたらいいか分からないなら、自分がホワイトボードの前に立ち、皆に発言してもらい板書すべきだった。
それをせず、磯原に丸投げした。自分は判断だけすればよいと考えていたのか?」
「いえ、そんなことはありません。ただ……一番詳しい人が適任と思ったのです」
「本社で君から熊本工場で漏洩事故が起きたと知らされたとき、わしはどういう対処をするのか君に聞いた。そのときも君は磯原に丸投げしたね(第65話)」
「そんなことありましたか」
「君は忘れたかもしれないが、わしは忘れていない。上司から受けた仕事や質問を部下に丸投げするだけなら、君の存在意義は何だ?」
「ええとその件は覚えておりませんが、そのときそのとき、一番詳しい者に任せることが管理者として最善かと思いますが」
「常に磯原が最適なら、環境管理課には管理者はいらないな。当事者意識がなく人任せだから、存在感もリーダーシップも確立できないのだ。
熊本工場でのことに戻ると、板書するのは下っ端の仕事じゃない。活動の中心となる者がすることなんだ。わしも武藤君も、君が立ち上がると思っていたがね。
まあ、いい。岡田のことを考えてみよう。彼は今回の問題で何度もミスをしている。まずは知らないことを自分が思い込みで判断した、その判断は間違いであった、そのミスを隠そうと更にルール違反を重ねた。
良否を判断できないなら調べればよいわけだし、過去の判断がミスだと気が付いたときに誤りを認めて是正をすることはできたのではないか。君がすぐに行政に通報しろと語っても、彼はしなかった。まさに、過ちて改めざるだ。なぜそういうミスを重ねたのか?
間違ったことを隠すとか、しなければならないことをしない、そういう人に社長に求められる遵法精神、公平性、正義感、実行力があると思うか?
今回は部長だったから問題の影響はまだ小さかった。職階が上がるほど影響は大きくなる。社長ともなればちょっとした間違いでも会社のダメージは極めて大きい。もしよく考えずに、反社会的勢力との関わり、インサイダー取引、私情による決定などしたものなら、世のマスコミにとって美味しいニュースだ。企業は大ダメージを受けるだろう。
さて、君について考えてみよう。今回の騒動に関わって君もいろいろミスをした。
彼から電話が来たときの対応や決定に反省するところはあるだろう。
次に何のために君は九州まで行ったのか? 板書だけではない。出張した日の夜、武藤君やわしが防液堤を懐中電灯で照らして見ていたのをどう思っていたのか。あのとき君は、熊本工場の下村君が買ってきて業者に配っていた缶コーヒーをもらって談笑していたね。そういうのをみんな見ているぞ。
上役は担がれているお神輿であるが、担ぐほうだってバカじゃない。尊敬されているなら丁寧に神社まで運んでくれるだろうが、こいつはダメだと思えば道端に放り投げるかもしれない。
岡田が、部下や業者からどうのように見られていたか知ってるか? 昼行燈と呼ばれていたな、ハッハッハ」
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どうしたらいいんだ |
自分は今までの昇進に見合うほど成果を出してはいない。トップグループにいる理由が自分の能力とか成果ではなく、初めから特別扱いされていたのだ。今まで確かに辛いとか難しい仕事を担当させられたことはない。それを運が良いと思っていた。
自分がそういう人間であるということは、周りの人は知っていたのだろうか。磯原や増子はどうか知らないが、柳田は知っていたようだ。
彼女は何事かあると、真面目だったり茶化したりいろいろだが、間違わないよう誘導していたとしか思えない。正直言って庶務なのだから余計なことを言わず、黙って言われた通りした方が、上役(つまり自分だ)の受けも良いのに不器用な奴だと思っていた。そうではなかったのだ。
スマホを取り上げられたときは、柳田をどこかに飛ばしてやるぞと思ったが、実は俺のミスを防いでくれたのか。それは人事部あたりから指示があったのか? それとも彼女が俺の立場を知って、自発的に行動していたのか?
山内さんにも言われたが、熊本工場で何度もあった打ち合わせではも、もっと積極的に議論に参加することもできた。現場でも缶コーヒーを飲んでいないで、みんなと一緒に防油堤を見ていてもよかった。翌日 岡田の話が変だと思ったが、3人はその前から岡田の説明をおかしいと感じていたのだ。
今までずっと、自分がしなくても周りの人がしてくれて、その成果は自分のものになると思い込んでいた。それをおかしいと気付くべきだった。他と扱いが違うことに気づけば、自分から差別しないで同じ仕事をさせてくれと言うこともできたはずだ。
自分はチヤホヤされることに慣れてしまったのだろうか? 積極性がないのか、真剣でなかったのか、仕事に関心を持っていないのか?
山内さんがあれだけ言うのだから、自分も後がないのは間違いない。なんとかしなければ自分が課長解任されて、代わりに磯原が課長になることだってありえなくはない。実を言って、そのほうが会社のためになるだろう。
以前、課内の業務分担を見直したが、自分が担当すると決めたことを、まだ引きついでいない。いつになればできるようになるのか?
上西は悶々とするのである。
翌日である。上西は磯原を呼んで話し合いをする。
「磯原君、熊本工場では大変お世話になった。今まで自分が消極的というか、周りの人に頼りすぎていた。深く反省している。
教えてほしいのだが、磯原君も工場では電気関係しか担当していなかったと言ったね。熊本では行政報告とかマスコミや近隣との対応を話していたが、そういったことに詳しいようだが経験していたのかい?」
「いやいや、工場ではそんなことしたこともなく知らなかったですよ。私の仕事はほんとに電気設備関係と省エネだけでした。もちろん廃棄物の電子マニフェストの入力程度はしていました。担当者が出払っていると、代わりにしなければなりませんからね。
積極的に知識を幅広くしようとしたのは本社に来てからですね。本社では工場から問い合わせがあれば、担当がいないから分かりませんとは言えません。だからいつも他人の仕事を盗み見しています。もちろん間違えたことを回答してはいけませんから、本を読んだり行政のパンフレットを見たり勉強しました。
アハハ……いや思い出し笑いです……以前廃棄物担当だった奥井さんは廃棄物マニュアルを作ると何年も言っていたそうです。私が来てからでも2年経ちましたが、何も成果を出しませんでした。
でもね、廃棄物マニュアルなんて行政が作ったものがウェブにありますし、廃棄物業界の作成したのもあります。そんなのをプリントアウトして、通勤電車で2〜3回読めば終わりですよ。なんでわざわざ奥井さんが作らなければならないんでしょう。それも何年もかけて完成しないのは異常です。怠けていたとしか思えません。
知識を得るため、公害防止管理者や危険物取扱者を受験するとかいう人もいますが、そんなことでなく、まずは日々している仕事について、その根拠となる法律とか技術的な理屈を知ることでしょう。
ご存じと思いますが、廃棄物契約書で収入印紙金額が足りないことがありました。環境問題か否かはともかく、国税庁の「印紙税の手引き」を読めば、自信をもって仕事ができます。仕事をしていてあやふやなこと、気になったこと、もっと知りたいと思ったことがあれば、都度解明することが勉強でしょう」
「そういうことをしていれば、今回の漏洩が起きたときの具体的対応も分かるのか?」
「もちろん現実に起きる問題は、マニュアルにあるような定型的なことばかりではありません。イレギュラーなこともあるでしょう。でも基本を知っていれば応用動作がとれます。それに行政に問い合わせるにしても、最低限のことを知ってないと話になりません。
普段からわからないことがあれば調べる、人に聞く、他人がしているのを盗み見る、現場を見に行く、いつもそうしていればだんだんと力が付きますよ。
確かに公害担当でないと、油が流出したときどうするかって知りませんよね。
熊本で漏洩事故があったと聞いて、私は恥ずかしながら重油流出事故ではどんな対応するのかググりました。オイルフェンス、オイルマット、ひしゃくで汲む、そんなのがヒットします。有機溶剤が蒸発するから防毒マスクも必要だそうで、防毒マスクの型名も写真もありましたし、どこで買えるか、値段もわかりました。
どういう場合はどこに報告するかなんて、いろいろなサイトに書いてあります。根拠を確実にするには、そこに記載されている法律を斜め読みすればよい。
万が一、刑事罰となったら罪の相場はどれくらいか知るには、5分もあれば判例は手に入ります。
今言ったことは皆、マウスをクリックするだけで済みます。
熊本に行く前にそれだけはしました」
「おいおい、ウェブサイトをググったくらいで大丈夫なのか?」
「一夜漬けでもしないより、した方が良いでしょう。しない善よりする偽善とはちょっと違いますか(笑)」
「やる気があれば、なんでもできるということかな?」
「やる気とは関係ないですよ。しなければならないことをするだけです」
話を聞いてみると、磯原がしているのは、山内参与が語ったことそのままだ。もっとも磯原が山内さんに教えられたのか、それとも山内さんが磯原の動きを見て知ったのか、どちらかあるいは無関係かはわからない。
要するに磯原だって何でも知っているわけではない。ただ要領が良いのだ。おっと要領が良いとは貶しているのではなく、ほめ言葉だ。仕事は要領よくできなければならない。
いつも好奇心を持って仕事をしていれば、知識も増え感受性も高くなりアプローチ方法も上達するだろう。その積み重ねはやがて大きな違いになる。彼はそういうことが身についているのだ。
自分にもできるのだろうか? 上西はさらに悶々とするのであった。
本日のまとめ
上西が本社に来たとき、環境管理課はだらしがないから部下を鍛えて、仕事の速さも質も量も向上させてやると意気込んでいたはずです。エリートってみなそうですから。
でも彼のような経歴の人がするのは、気の利いた部下、例えば磯原に改善しろと命じるだけです。そして結果が出れば自分の成果、改善できなければ部下が悪いと決めつけるまでが
でもそんな方法がうまくいくはずありません。
「人を動かしたいなら、まず自分が動け
それだけでなく指導者は仕事を命じるだけでなく、仕事の仕方を教えなければなりません。五十六さんの「やってみせ……」を実践するのが唯一無二の方法です。
それは新しいアイデアではなく、誰でも知っている基本。でも当たり前のことを当たり前にすることが困難なのです。
管理者は権限を持ち責任を負います。だから、積極性がない、好奇心がない、無責任、逃げ腰な人は管理職に向きません。岡田も上西もそんなタイプでないのかな?
本日の蛇足
会社での生き方というのは、つまるところ公のルールと村社会のルール、社会的正義と村社会の価値観のせめぎあいをどう処理するかということでしょう。それは会社ばかりでなく、学校でも趣味の集まりなど社会全般で同じです。
大学のアメリカンフットボールで、危険なタックルをしろとコーチに言われて実行したお話を覚えてますか。
その話を聞いて皆「それはいけない」と思ったでしょう。しかし自分が言われたとき「それはダメです」とか「できません」と言える人は何割いるでしょうか?
別にアメリカンフットボールをしていなくても、同様なことは身近にあります。同僚がカラ出張したのを黙っていろと言われた
アマでもプロでも競技の目的は勝つことだが、それはルールを守ってのこと。民法の冒頭に信義則があるように、競技においてはスポーツマンシップが前提だ。
我々が社会人として生きていくには、社会正義を守るという意識がなければならない。今は身分社会でもなく封建社会でもはないのだから。
勝てば正義、ルール違反も危険行為もなんでもありという考えを通用させちゃいけない。
現実には村社会では公正でない考えが多数派なことがある。そのとき、それはいけないと反論できるかといえば、我が事なら結構重い決断です。職場でイジメとかシカトされるかもしれない、上司に睨まれるかもしれない、リストラされるかもしれない。
生活が懸かっていない趣味の会でも、仲間外れにされると思うと、断れないかもしれません。
注:「村社会」とは、有力者を頂点とした序列構造を持つ、閉鎖的で排他的な社会をいう。
元々は古い価値観や観衆を残した田舎の集落を呼んだが、現代では非公正(不正・ごまかし・非平等・独裁など)な価値観を持つ、企業やその一部、特定の地域、クラブ、学会など広く使われる。
私は働いていてそういうことは何度もありました。空気を読まない私は村社会の掟を拒否してきました。その結果いろいろありましたが、後悔はありません。お天道様に恥ずかしくなく生きたことが誇りです。
ここはひとつ、高倉 健なら「自分、不器用ですから」、侍なら「武士は食わねど」、ウェスタンなら「命も張れば、意地も張る。それが男というものさ」とカッコつけましょう。私はウェスタン派です。
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注1 | ||
注2 |
会社規則違反や問題を起こした場合に、罰として解雇されるのが懲戒解雇、会社が退職を促すものが論旨退職、本人が自主的に退職するのが依願退職。論旨退職はその後撤回できるが、依願退職は撤回できない。 Cf.依願退職の意味と解雇との違い ![]() | |
注3 |
これなんとソクラテスの言葉らしいです。もっとも英文では「Let him who would move the world, first move himself.」とか「To move the world we must move ourselves.」のようで「世界を動かしたければ、 誰よりも先に自分が動け」という和訳が多いです。 ![]() | |
注4 |
詐欺罪、有印私文書偽造・同行使、 ![]() | |
注5 |
健康保険法違反 ![]() | |
注6 |
裁判でなければ刑事上の罪にならないかもしれないが、民事で訴えられる恐れはある。 ![]() |
おばQさま 力作ですね、とても勉強になりました。 「社長候補」昔の大会社アルアルですね。 今でもあるのでしょうか? 国内だけで国際競争がなければ残っているかもしれませんが、そういう有難い事業って絶滅危惧種ですよね。 このお話では岡田は依願退職、ありがちなまとめ方ですね。
今では柳田のような仕事は、非正規にするから、それに応じて給料分しか仕事はしない。 他社でも通じる力がある人は転職、特にキーパーソンなんて外資が高給で引き抜くから国内が低下して海外が躍進。 当人にとっては国内企業が評価してくれれば良いけれど、それが無ければ、労働者にも生活があるから評価される方へと人材は流れる。 そういう労働市場の国際的変化が出てくる前の、日本の大企業がどんなものだったのか、とても良く判る作品でした。 |
外資社員様 毎度、ご指導ありがとうございます。 査読を通過したとホッと一息をつきました。 次はそれぞれが少し進歩というか成長した状況ですね。 |
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