名は体をあらわさず 2004.11.03
日本人よ誇りをもてとあるが、薀蓄(うんちく)にもならない雑談ばかりじゃないかなどというお便りをいただいた。
実はそのとおりなんです。
私の生い立ちは美酒美食とか芸術なんてものとはまったく縁のない人生でございますから、薀蓄なんてもともとあるはずがありません。 
また「誇りをもて!」と大声で叫ぼうとするつもりもございません。それに「誇りを持て」と唱和させれば誇りをもつわけでもございませんでしょう。
それはまた肩を怒らせ、まなじりを吊り上げて反日勢力や彼らの運動に対抗することでもありません。
何事もあるがままに・・・ビートルズも歌ってましたよ 


まじめな話、誇りを持つということはどういう状態なのでしょうか?
oldman1.gif それは現実をあるがままに認め、そしてそれをよしと判断することではないのかと考えます。
私はもう半世紀以上生きてきました。まもなく還暦となります。
その間にいろいろなことがありました、成功、失敗、賞賛、恥辱、賛同、批判などなど、
そして今の私はいわゆるこの社会の成功者ではなさそうです。リストラもありましたし、財産などなく、賃金も、名誉も取り立てるほどのことはありません。
幸い家族には恵まれましたし、家内、子供たちに大きな病気はありません。
しかし悪いことをせずに努力を忘れずに生きてきたこの人生を恥ずかしいとか失敗だったとか後悔の念で振り返ることはありません。私の半生を振り返れば赤面するようなことばかりではありましたが、それは同時に私にとって宝石のようにかけがえのないものであります。
再び人生を繰り返せるならば同じ人生であってもよしと考えること、そういったことが自分に自信を持っているということ、自分の人生に誇りを持つことではないのでしょうか?

man7.gif 自分が生まれ育った環境と自分の努力そしてその結果をあるがままにとらえて、それがよかったとかその結果今の自分があると認識すること、それが大人だということだと思うのです。
金持ちに生まれればよかった、身長が高ければよかった、男に生まれればよかった、顔がよければ、外国に生まれればよかった、あのとき選択を間違えなければ、お母さんが悪かったのよ、友達に染まったのが悪かった、今の自分は本当の自分ではない、私はこんなところにいるはずではない、などと責任を転嫁したり、あるいは自分を取り巻く環境を否定することはすなわち誇りを持っていないということではないかと考えるのです。
つまらない例ですが、
最近山手線の電車の中で臍にピアスをしているお嬢さんをお見かけし驚きました。
夏はとうに過ぎましたが、丈の短いタンクトップを着ていてへそが丸見えだったのです。かわいいおへそに、なんとピアスをしているのです。
いやあ、ほんとうに驚きました。

何事も私の価値観で語るのですが、ご本人がへそにピアスをすると私に似合うだろう、素敵だわ!と考えてピアスの穴をあけたならそれはそれで結構なことであると思います。しかし、単にグラビアなどでモデルがしているのを見て、私もピアスしようかなあ?という発想ではいけないというだけのこと、
ちなみに、ハワイのワイキキビーチでへそにピアスしているアメリカ人はほとんど見かけませんでしたね。
もう2年も前のことでしたが・・・・
現実にはこの日本には、「日本は悪い国だ」「中国人に生まれればよかった」「日本人に生まれて運が悪い」なんて考えている人がたくさんいらっしゃるようです。
1950年代には「世界中のアメリカ人以外はアメリカ人に生まれなかったことを悔やんだ」と言われました。第二次大戦後のアメリカの位置づけからみれば実際にそうだったのでしょう。
物質的豊かさ、住環境、車、食生活、自由、科学、そういったものがまぶしく見えたは事実ですね。
しかし、今の中国に生まれなかったことを悔やむ日本人は何をもってそう感じるのでしょうか?
woman6.gif 貧しいことがすばらしいことなのでしょうか?
環境が悪いことがうらやましいのでしょうか?
電力不足、食糧危機、砂漠化、
政治的自由のないこと、
宗教的弾圧、
いったいどんなことを望んでいるのでしょうか?
ぜひとも、知りたいものです。


日本人よ、誇りを持てとは、日本人に生まれてきたことをただその事実を認め、是とするだけのことのようです。
間違っても、日本人に生まれてきたことを恥と思ったり、外国人をねたましく思うことではない。
ましてや、うそをついてまで日本人を悪人にすることでもなさそうです。

薀蓄などはありませんが、そんな私のひとりごとをこれからも書き続けていきます。




ではまた来週!