社説と述部2004.04.22
インターネットのウェブサイトに「国民的な議論が必要だと愚考する。」という表現があった。私はこれを見てまさに虫唾が走る思いであった。
虫唾が走るとは胃液が逆流しまさに虫が体を歩くが如く吐き気がするほど不快でたまらないこと。
quest.gif インターネットに限らず、このような評論家的言い回し、文章は掃いて捨てるほどある。それどころか政党とか新聞社のご意見にも多々見受けられる。 そういった言い回し、述部が上品で差しさわりがないと考えられているのだろうか?

ある新聞の社説の最終文を見てみよう。
  • 問われているのは、いかにテロの連鎖を防ぐかという知恵である。
  • だれにも安全なドアのあり方を考えたい。
  • スペインの離脱は、イラク政策を根本的に変えようとしない米政権に対する国際社会の悲鳴に聞こえる。
  • 米政権にはそれなりの決断がなければならぬ。
  • 日本の大事な役割ではなかろうか。
  • 決して許されるものではない。
これはまた別の新聞社の社説の最終文である。
  • 保険会社は、自ら失った消費者の信頼を取り戻さなければならない。
  • 小児救急の問題は、育児支援の視点からも解決を急ぐべき重要課題である。
  • 国際連帯の毅然(きぜん)とした意思を示したい。
  • 各自治体は、教育現場などに混乱が生じることのないよう、男女共同参画の本来の趣旨の徹底をはかっていくべきである。
  • 人道復興支援活動を担う自衛隊は、その重要な構成員である。
  • 有事法制の整備と合わせて、有事に備える意識が、広く国民に浸透することが望ましい。
比較すると何か感じませんか?
futari.gif 一方は評論家的であり、読者を誘導しながら決して自分の意見を明確にせず、責任を問われないように書いている。他方は結論の正当性はともかく、自らの意思(WILL)を明確にして断じている。
ウェブサイトであるいは掲示板であるいは紙の書物であっても自分の意志を明確にせず、疑問の提示や反論のための反論で終わっているものを見かける。

はっきり言おう。
私はそんなものに価値を見出せない。そんなことを書いてはいけない。
自らが発言すべきことがないのなら『私は意見をもっていない』ことを明確にして黙しているべきなのだ。 おれは発言したいというなら意思を表明すべきであって単なる騒音を出したり、無意味な文字列を並べてはいけない。事実の報告ならそれはまた十分な価値がある。でも単なる報道なら通信社となんら変わらない。

私が子供の頃、私よりズット年上のいとこが『社説のない新聞は新聞でない。』と教えてくれた。語義を明確にすれば『社説』とは社説と自称するものではなく、新聞社の意思を表すものであるはずだ。 自分の意思がないなら、あるいは外国のご意見をありがたく購読者に流すだけなら、それは社説と称せず、『提携紙より』と明記したほうが良い。

あるいは誰でも知っていること、あるいは事実に関わらない思い付きだけを並べられてもインターネットあるいはハードコピーのリソースの無駄遣いなのだ。
いったい、君たちは社説を書いているのか?意味のない散文詩を書いているのか?あるいは2ちゃんねると同じレベルのことを大新聞を自称し購読料をとってまでしているのか?

社説と題するものだけが社説ではない。
産経の社説は『社説』ではなく『主張』と称しているし、また『天声人語』や『編集手帳』は社説ではないが、新聞社の意思を対外的に表すものとして準社説として扱われている。
なんと自称しようと勝手だが、単なる記事ではなく、番組欄でないならば、自らの意思をはっきりと表明し、人々に語りかけ、心を震わせるものを書くべきだろう。


このウェブのコンテンツは拙文でありナンセンスなところもあるだろう。
しかし、一語一語に私の愛と熱情を注いでいる。
だからこのウェブのすべての単語、文章は私の分身であり、お読みいただく方へのラブレターである。




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