もし(IF) 2007.02.04

先日、田舎のいとこが亡くなって我が故郷にお葬式に行ってきた。
私が生まれた町に帰るのは実に27年振りである。平成の大合併はあったが故郷の町の町名は変わっておらず、人口もほとんど変わらず、田舎であることに変わりないものの、中心街の電線は地中化され、見た目がきれいにそして見上げる空が広くなっていた。乞食の子も三年経てば三つになるというが、片田舎にも21世紀は来たらしい。
町並みも見違えるように変わり、立ち並ぶ建物も建て直されてまるっきり変貌していた。高層ビルなんてあるわけがないが、道の両側に並ぶ家々は現代風のサイディングと屋根を持ち、田舎であることを思わせない。もし突然ここに連れてこられても、自分が30歳まで住んでいた町だなどと気がつかないだろう。
boy2.gif 道もほとんどといっていいくらい変わっていた。昔の舗装もされていない細い曲がりくねった裏通りはなくなり、縦横まっすぐで車がすれ違える幅の道に取って代わられている。ぐにゃぐにゃだらだらした坂は一直線のゆるやかな坂道となり、その両側には田舎町には不似合いなほど広い歩道がついている。50年前この道を毎日ランドセルを背負って通ったのかと思うのだが・・・懐かしさはこみあげてこない。
もはや別世界である。
せっかく来たのだからと、お葬式が終わってからまっすぐ帰らず、昔住んでいた家の跡を見ていくことにした。すたすたと歩くわけではない。だらだらと周りを眺めながらである。
ここに染め屋があったはずだが、なんて探してもあるはずがない。第一、いまどき染め屋なんてありませんよね、
染め屋とは着物や手ぬぐいなどを染める仕事をしているお店です。
豆腐屋もない。まあ、今は夫婦で豆腐を作ったり油揚げを売ったりするような豆腐屋なんて存在するはずがないよね、
魚屋もない。親父が元気だった頃、昔そこにあった魚屋から魚を買ってきたら腐っていたのだが、田舎じゃあしょうがないとさすがの親父も納得してしまったというほどの田舎だ。
いくら田舎とはいえ時間は都会と同じく流れ、在来種である個人商店は外来種であるスーパーマーケットとの戦いに負けて駆逐され根絶やしにされてしまったに違いない。
私が子供の頃、眠り姫の魔法使いのようにおばあさんが糸を紡いでいた家があったところには、大手プレハブメーカーのきれいな家があった。あのおばあさんのひ孫くらいが住んでいるのだろうか?
家並みが変ったのも無理はない。木造家屋の耐用年数は22年といわれるが、私が引っ越してからそれ以上の時が経ったのだから。私が住んでいた時あった木造のほとんど、それどころか私が去った後に建てられた家さえ取り壊され建てなおされるくらいの年月が経っているのだ。

突然、 と声を出してしまった。
いまだ床屋は健在だった。もちろん建物は現代風に建てなおしてあるが看板の屋号は昔と同じだ。今仕事をしているのは、子供の頃私の頭を刈ってくれた床屋さんの息子かあるいは孫かもしれないなと思った。床屋はその提供するサービスの形態からスケールメリットがなく大企業の参入が困難なのである。豆腐屋も魚屋もブラックバスのごときスーパーに撃破された今でも、まだ個人企業が生き残っている。
signal.gif そしてなんと床屋のそばの十字路には信号機がついていた。信号機があるということは交通量が多いということであり、車も人も増えたということなのだろう。正直いって生まれ故郷が過疎で寂れていくよりはうれしい。
27年はものすごく長い、そう感じた。

息子が生まれると同時に、私は事情あってここを去り、20キロくらい離れた地方都市に移り住んだ。引っ越すことになったいきさつから、生まれ育った地に足を踏み入れる気にはなれず、それ以来ここに来たことはなかったのである。用があって近くまで来たこともあるが、それまで住んでいた家の跡地には決して近づかなかった。
「二度と同じ河に足を入れない」となるとヘラクレイトスではないか 

そこを去ることになった事情から、トラウマというか心の傷になっていたのが正直なところである。子供ではなかったが私はそのいきさつでかなり傷ついていた。今回、家の跡がどうなったか見る気になったのは、時間がたって私の古傷もすこし治癒してきたのだろう。あるいは気持ちに踏ん切りがついたということなのかもしれない。

30年前に住んでいたところに立って、もし、あれからずっとここに住んでいたら、今とまったく違った人生があったのだろうと思った。
ここに住み続けていたら、娘も息子も私が通った小学校と中学校に行っただろう。oyako.gif
子供というのは周りの影響をものすごく受ける。だれも大学に行かないようなところで育てば娘は大学進学なんて考えもせず、地元の高校を出て地元の中小企業に勤め、二十歳過ぎたらすぐに育ちも家庭環境も同じような若者と結婚していた可能性が高い。 実際、当時近所にいた娘と同じ歳の子は高校を出て近くの工場で働き、すぐに結婚して3児の母になったとだいぶ前に聞いた。
息子も同じように高校を出たら自宅から歩いて通える会社に勤めて、自分の住む町以外の都会とか世界とかあまり考えないような人間になっていたのだろうか?
そのような人生は気楽で悩みもなく、都会に比べれば収入は少ないだろうが、土地も安くそれなりに暮らしていけるし、それなりの人生がある。ただ、社会環境の変化があったときは適応力に欠ける可能性が大きい。小さな企業が倒産する確率は大企業より大きく、田舎では転職の機会も少ないし学歴が低ければ更にその機会は少なくなる。大学に進学したり、社会経験を積むと広い視野を持つ。それは人生において大きな力である。
いや子供たちだけではない、私だって地域社会に埋没した人生を送っていたに違いない。もちろん歳をとれば地域では冠婚葬祭、お祭り、学校の行事など取り仕切る立場にはなっただろうが、その世界は狭く限定されていただろう。

現実は、娘が3歳、息子が生後2週間という時期に私は隣町に引越し、大きな団地に住むようになった。私の住んだのは子供がいないと入れない県営住宅で、さらに所得制限があったので入居者の所得もほとんど横並びであった。だから入居者は30代の夫婦と子供からなる家庭ばかりだった。
そこはそれまで住んでいた、あかちゃんから年寄りまでまんべんなくいた、となり近所とはまったく違っていた。そしてそれはそれで決して住みにくくはなかった。年寄りがいない、上下関係のない、似たような人との付き合いは新鮮で気楽だった。
子供たちも幼稚園に入る前、あるいは幼稚園に行っている頃は、社会的経済的な階級というか位置づけによる心理的ストレスを感じなかったと思う。金持ちもなく貧乏人もいない、二世帯家族どころか年寄りはおらず、子供のない家庭はなく、職業も給与生活者に限定されて商店主や個人経営者もいないきわめて均質で平等な人しか住んでいない。これは見方によるときわめて異常なコミュニティである。こんなところで育てばきわめて視野が狭く価値観も偏るだろう。
そのような人たちとの付き合いしかなければ娘もふつうの女子大か短大程度に進み、ふつうのサラリーマンと職場結婚していたかもしれない。息子もふつうの進学校に進みそれなりの大学に行ってふつうのサラリーマンになったのだろう。

しかし小学校になるとその団地だけなく近くのいくつかの団地から子供たちが集まってくる。私が住んでいた近くの別な団地は、やもめ団地とか離婚団地と陰で呼ばれていた。住人に片親が多かったのである。そのような境遇の人ばかりがなぜ同じ団地に集まったのかは不思議であった。家賃とか入居条件でそのようになるのかもしれない。
そこには家に帰っても誰もいないという鍵っ子が多く、そういった子供たちがアパートの周りとか小さな公園で保護者が帰ってくるまで遊んでいるのを見かけた。彼らの親、父親なら残業や母親であっても夜までのパート勤めなどで家にいなかったのだろう。
振り返れば我が家だって同じで、私も朝は月影を踏み夕べに瞬く星を眺めて帰るような、毎月100時間残業なんてのは普通のことだった。ただ我が家には専業主婦の家内がいたから、子供たちが時間・時間に夕食を食べられ夜には風呂にいれ寝かせてくれた人がいたということだ。
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私は決心したのよ!
子供が夜まで外で時間をつぶしている風景をみて、娘は「女でも一人で生きていける経済力がないといけない。だから私は大学にいって手に職を持ち一人で生きていけるようになる。」と語ったのである。
まだ小学生高学年のときである。驚きである。
私がなんら吹き込んだわけではない。周り人びとの暮らしをみて娘はそう悟ったのだ。
まさに孟母三遷というか、子供は親の話よりも周りの環境からいろいろと学ぶのである。
その後も我が家は引越しをしたが、それは子供たちが大きくなって借家が狭くなったなどの物理的な事情によるものであって、深刻な理由はなかった。
我が娘は有言実行、その決心を変えず進学校から大学に進み、資格をとり現在に至る。私も家内も娘は結婚などしないと思っていたのだが、あるとき突然結婚した。
ああ 人生不可解なり

そして子供たちが進学して都会に出て行った後、またまた運命のいたずらか、私の人生は5年前に大きく変わり仕事を変わり都会に引っ越すことになった。そして20年以上住んだその町にもまた別れを告げまったく見知らぬ都会に出てきた。
このときの引越しにはなんのこだわりも葛藤もなく、住んでいたところを訪問することに心理的抵抗はない。と言ってもその後一度も行ったことはない。
隣は何をする人ぞ・・・引っ越したときにマンションの同じ階の隣近所に挨拶にお伺いしたが、先方は何かのセールスかと思ったらしくドアを開けないところもあるくらい対応が冷たいのに驚いた。都会では引っ越しても挨拶回りするような習慣はないらしい。
だが、それからまもなくやはり田舎から出てきた人が引越しの挨拶に来たのでこちらが驚いた。
そして驚いた自分の、その変わりようにまた驚いた。

あの団地にずっと住み続けていたら、私にも子供たちにもまたそれなりの人生があっただろうと思う。近所付き合いばかりではなく囲碁仲間もたくさんいたし、団地のそばには小さくても由緒ある(?)神社があり、祭りの季節には我々の出番もあったのだ。
mikoshi.jpg 都会にはそんなものはない。賃貸マンション住まいの者には地元の小さな神社も寺社も無縁である。大きな神社には神輿の会などはあろうが、近所にある神社ではみこしを担ぐ人もいないようで祭りでもそのような風景を見たことがない。
私たち自身、新年のお参りに電車で遠く川崎大師や成田山に行くことはあっても、歩いて数分の地元の小さな神社に詣でることはない。
その後も引越しとは無縁ではなく、賃貸契約の更改時にどうせお金を払うならと便利なところ、うるさくないところと移り住んでいる。
今借りているマンションにもあと何年も住むことはないことは確実だ。私ももうすぐ定年だし、そうなれば田舎に帰るか、都会に住み続けるにしてももっと家賃の安いところに移らねば食っていけない。
人生なんていたるところ分かれ道があり、曲がり角がある。曲がり角の向こうには何があるのだろうか? 不安と期待半ばである。
赤毛のアンの最終章の文句のようではないか 
どうせなら、すべて世はこともなし、と続いてくれればよいのだが
このだじゃれ分からなければ赤毛のアンを読みなさい。きっとためになります。
保証はしません
歴史にIFはないというが、人生にもIFはない。しかし、あのとき違った道を選択したらどうだったろう思うと、正直なところ心中おだやかではない。
SFにはパラレルワールドというカテゴリーがあるが、人生にもパラレルワールドがあるのなら、別の人生を歩んだ自分がどうなったのか知りたくてたまらない。

そんなことを考えて少しの間たたずんでいた。
私のことなど知らないだろう現在の住人は、私のことを変な人、怪しい人だと思ったに違いない。
冬の日は短い。日が傾いてきたのでさて帰ろうと思い、バス停の時刻表を見て驚いた。私が住んでいた30年前には1時間に2本くらいバスが走っていたのだが、今はなんと1時間半に1本しかないのである。
さて、どうしたものか? 最寄のJRの駅まで4キロ以上ある。
タクシー代も大変だしと、気負わずJRの駅までのんびりと歩いていった。駅について時刻表を見ると、JRの電車は1時間に1本あった。やれやれと電車の時間まで待つことにした。新幹線の停まる駅までの20キロ、4両編成の電車にはほとんど人が乗っていなかった。乗り継いでなんとか夜半には自宅に着いた。

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すべては運命です
家に着くとなんだかひどく疲れてしまった。10も歳をとってしまったようである。
あのときあの町に住み続けていたら、私たちの人生も娘や息子の人生もまったく違ったものになっていただろうねと家内に話したら、家内は私の考えを笑い飛ばした。
「そんなことは運命で決まっているのよ、グジグジ考えたってしょうがないの!」
心理的にきゃしゃで弱っちい私と違い、家内はロバストな女である。
ロバスト(Robust)とは自動制御や品質管理において環境条件が変わっても影響されない頑丈なシステムのことである。
ロバではありません 


本日の謎?

 運命論は正しいのだろうか?

子供たちが引っ越したことをどう受け止めたのか? 娘息子に聞いたことがある。
「なんも気にしていないよ」というのが答えだった。
もちろん公務員などは数年毎に転勤する人もいるから、子供のときに何度か引っ越したことは何でもなかったのかもしれない。むしろ親の方が引越しの理由もしがらみも当事者であるから気にしすぎるのかもしれない。



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