ニイタカヤマノボレ2001.12.08
今日は真珠湾攻撃の60年目の記念日である。
太平洋戦争のとらえ方について話してみたい。私は戦争直後の生まれで戦争そのものは知らない。うっすらと覚えているのは母に抱かれて進駐軍の行進見物に行ったことだ。だから私が知っている戦争とは親、年上の従兄弟、先生、近所のおじさんから聞いたことがすべてである。

実を言って私の先生には共産主義かぶれとか反戦思想の方はほとんどいない。そういった考えの先生は私を教えた先生より一つ下の代からではなかろうか?
小学校では特攻隊帰りの先生がいた。戦争のことはほとんど話さなかったが、問題があっても『戦争はこんなもんじゃね〜』と言って物に動じなかった。
この先生にはだいぶビンタをされた。はっきり言って嫌いでした。
それより若い先生は生徒の時、校庭で艦載機(空母から飛び立った飛行機)に襲われて機関銃で撃たれた話をしてくれた。自分はやっと物陰に逃げたが、友達が走る後ろをミシンのように機関銃の弾がついてきて、みんなが『横に逃げろ、横に逃げろ』と叫んだという。結局その友達は助かったそうだ。
この先生は無抵抗な子供を撃つアメリカ軍を糾弾していたが、日本が悪かったとか指導者が悪かったとは言わなかった。
中学校の英語の先生は先生になる前進駐軍の通訳していたという。『だからおれの英語は本物だ』といっていた。ジャパニーズイングリッシュじゃないことが自慢だったようだ。ついでに新制高校をでてきた先生を軽蔑していた。新しい教育制度をバカにしていたのである。
高校の先生は戦艦大和の建造時の技師だったという。46サンチ砲を見たというのが自慢だった。もっとも年齢から考えれば下っ端技師だったのだろうけど・・・あだなは魚雷だった。

子供たちは先生、まわりの大人から戦争の話を聞きました 裏の小さな自動車修理屋のおじさんはシベリア抑留者で寒い土地での生活を話してくれた。冬 川から水を汲んでくるのにざるを持っていく。そしてそれに水をかけると次第にざるの目が氷で埋まり水を汲んできたそうだ。抑留生活で多くの仲間が死んだ話をした。
私の父は中国に進軍して馬賊と撃ちあったとか、これを撃退して中国の住民に歓迎されたとか話をした。最後は北千島で玉砕を覚悟したら終戦になったそうだ。もし死んでたら少なくともこのホームページはなかったわけだ(^^)
総じて彼らは『日本は悪かった』とか『中国人に迷惑をかけた』という意識はなかった。終戦後も日本は正しかったと信じていたのだ。
彼らは『日本が負けたことが悪かった』と考えていたのだ。

我々が子供のころ戦争ごっこをしても日本軍が悪かったとかいう意識はまったくなかった。我々にとってたとえ負けると分かっていてもガキ大将に立ち向かうのは正義であって悪ではなかった。野球の川上選手と先ほどなくなった坂井撃墜王が同レベルの憧れだったのである。箸でハエをつかまえるなんてすごいよな!だからゼロ戦を操れるんだと納得していたのだ。もちろん日本軍アメリカ軍のどちらの軍服がかっこいいとか悪いとかの議論はあったが。
手旗信号とか旧軍の階級などの知識をもつことはガキ仲間では重要なことだった。作戦命令は『ニイタカヤマノボレ』である。
遊んだ建物に機銃掃射の弾痕が残っていた時代の話です。

いつから太平洋戦争で日本は悪者になったのだろうか?
いつから中国に悪事を働いたことになったのだろうか?
いつから日本は中国・韓国に根拠のない言いがかりをされ、謝罪を要求されるようになったのだろうか?
少なくとも戦争直後あるいは1960年頃までは、日本が悪かったとは考えておらず、日本と日本人であることに誇りは失っていなかった。

「少年H」は私の周りにはいなかった。

私の先生や当時の隣人で今生き残っている方々で少年Hに同感する人はいない。
一体どちらが真実か?

私を教え育んでくれた親、おじおば、従兄弟たち、先生、まわりの大人たち、みんなが嘘つきだったはずはない!


ニイタカヤマノボレとは何か?知らなければ年配の方にお聞きください。



このホームページでは固有名詞を避け、場合によっては仮名にしている。
しかし書いていることすべては事実を基にしている。
私の子供時代、少年時代を振り返ると、南京虐殺、慰安婦なんてのは大人たちから聞いたこともない。
だからこそ真顔でこのホームページを作っている。自分の心を偽っているとか、こうあらねばならないとか考えているからではない。
子供の時から教えられ、聞かされてきたことと今革新団体が叫んでいることがまったく異なっているから発言しているに過ぎない。

今私が黙っていれば、親、先生多くの人々が悲しむだろう
死んだおやじ、おじ、先生方がこのホームページを見てくれたら『ちょっとはましになったか、』と言ってくれるだろうか?
★内弁慶様より(2001.12.10)
ニイタカヤマノボレに感動しました。戦後生まれの方がこれだけのことを理解なさっていることが素晴らしい(私が知らないだけかもしりませんが)。これからも任田さんの健筆で胸のすく思いをしたいものです。「諸君1月号」は読みでがありますね。「南京虐殺の虚構」、高市議員の「いつまで乙女の祈りやってんのよ!」などなど。

毎度ご訪問ありがとうございます。
私と同世代の方々はまわりの従軍された方、戦争体験者からいろいろお話を聞いているはずです。『平和団体』や革新政党、あるいは中国、韓国がいっていることが本当かどうか分かるはずです。あまり大きな声ではいえませんが韓国にキーセン買いに行った人だってたくさんいるはずです。韓国はそのとき従軍慰安婦がいたなんて言ってません。なぜ今なのか?真実ならば終戦直後に言えばよかったでしょうが?あるいは何でキーセン外交の時に大声で『売春は悪だ!』と言わなかったんでしょうかね?





霧衣様よりお便りを頂きました。(2002.11.27)

初めてメールいたします、30代の契約社員です。
貴方様のHPを拝見し、とても嬉しく思い、キーボードに向かっております。
「日本の歴史」がおかしい、とうすうす気付いたのは映画『プライド〜運命の瞬間』からであったと思いますが、気を入れて勉強を始めたのは最近になってからです。
GHQによる占領政策、それによって起こった価値観の転換。
その時期のことを思うにつけ、当時大人だった、祖父や曾祖父の世代を恨めしく思ってきました。日本を守るために命を賭けた人々に石を投げるような、なぜそんな酷薄なことができたのかと。東京裁判の不当を叫ぶべきだったのに、なぜ同胞を信じることをしないで占領軍の宣伝に軽々とのってしまったのかと。
父母の世代に対しても同じです。日本が主権を回復したその日から、さまざまな、東京裁判の欺瞞を暴く著書が発表されています。勉強しようと思えばいくらでもできたのに、歪んだ歴史のまま放置しておいたとは、なんたる怠慢かと。
一つには、台湾の日本統治体験世代が、子供達が学校でたたき込まれる反日教育を家庭で修正していったと聞きましたので、そのように両親から生きた歴史を教えられた人々が羨ましかったというのもあります。
少なくとも私は、両親やまわりの大人達から、学校で教わる歴史観を修正されたことはありません。
しかし、やはり、GHQにのせられた人々ばかりじゃなかったんですね。「独り言」コーナーの「ニイタカヤマノボレ」を読み、大きな安堵を覚えました。そして、本当に嬉しかったのです。当時の教師は一夜にして言うことを変えたとばかり聞かされていましたが、それを否定する証言をここで得ることができました。もちろん、上記のような情けない教師も多かったのでしょうけど。このようなことを発信して下さる任田さまに、こころからお礼を申し上げます。
もっとも、一世代、二世代前の人々のなかに任田さまのような方がいてくれたからこそ、いま私は歴史を見直すことができているのですから、恨むには当たりませんし、勉強できるのにしなかったという点では、私も人のことを言えた義理ではありません。
祖父母や父母の世代が、ぺしゃんこの日本をとにかくも再建しました。このことには素直に敬服しています。経済力や社会インフラを再生させるのがこの世代の仕事だったのなら、歴史や文化を再生させるのは私の世代の仕事と思って、これからも勉強していきます。
ダイヤルアップ接続という環境の制限上、HP全てを拝見するのはもう少し時間がかかりそうですが、新しい記事をお待ちしております。
ありがとうございます。
日本は過去何度も危機がありました。
元寇もそうです、明治維新直前も、明治になってからも、
日露戦争なんて教科書では1ページもないでしょうけどもし日本が戦争に負けていたら日本はロシアの植民地かもしれず、今のアジアの諸国は独立していなかったかもしれません。
その意味では中国も北朝鮮も韓国も日本に足を向けて眠れないはずですが????
右だ左だと固まっていない霧衣様のような方が多く輩出してくれることを期待しています。



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