どうして、わかってしまうのだろう
この本におさめられている作品(炎の金魚/杏散る/ギプスの音/ボンタン実る樹のしたに/つくらなかった本の「あとがき」)は全て、「モデルの弁を含む一連の短い文章、室生先生について書いたもの」である。本文紙に合わせてグラデーションに手染めした紬絹布も美しく、頁をめくるとパラパラ漫画みたいに、杏は散ったり咲いたり蕾んだりを繰り返す。
このなかで「炎の金魚」は、言ってみれば "ウラ「火の魚」" であり、モデルとなった栃折氏によって、氏の視点から実際のやりとりも描かれている。クノーの『文体練習』の実際を読むような楽しさもある。
「私が最もふかい感銘を受けたのは、私の手紙の形にして書かれている部分で、その中に、私が金魚を買って帰った時の複雑な心境をのべているところがある。どうして、こういうことがすっかりわかってしまうのだろう」とあるように、あのすべらかな手紙は実際のものではなく、しかも栃折氏がとうとうと全てを語ったわけでもなく、日々自然に接するなかで得た折見とち子の魅力の断片を紡いだものであった、ということがこれを読んで初めてわかる。そのことに読者である私は面白みを感じるが、私達が面白がるほどに当事者である栃折氏にはある思いがはっきりしてくる。
「小説を書くというのはこういうことなんだな、ということを痛烈に感じた」、「室生先生のこの小説をよみ、いろいろな感想を自分自身の中で整理し了えた時、長い間の文学志望を、きっぱりと捨てる気になった」。
そうして栃折氏は文学への思いを断ち切って造形に進み、おかげで私たちのオヤカタが誕生したわけである。製本の全ての教えをこうている身としては、ただただ魚拓に「あたい」に感謝するのみ。
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