高橋昭八郎個展「反記述による詩」は 2004年8月12日に終了いたしました。 

高橋昭八郎展によせて
.
.
「VOU」と「ASA」のこと  藤富保男
.

.

「さみだれ」
 新国誠一
「ASA」7号 1974
.
.
.
.
.

『0音』
新国誠一
1964.9
昭森社
 北園克衛が主宰していたVOUは一九三五年に出発した詩のグループで、機関誌VOUを北園が没する一九七八年まで四十三年間に一六〇号を刊行した。この雑誌は詩のほか、芸術一般、流行などの紹介をはじめ、海外からのゲストを加えていて、他の多くの詩誌とは異なっていた。そして何よりデザインの感覚で異彩を放っていた。
 もう一つASAというグループが新国誠一によって一九六四年に創立され、一九六五年から、新国の没年一九七七年まで十二年間に七号のASAを出している。ASAの主張を一口で言えば、「言語は物質であって、詩は瞬間伝達の方法を必要としている」ということになる。
 ここでこれら二つの先鋭的グループを並べてみるについて、一九六四年、六五年ごろに針を戻さねばならない。
 『資料・現代の詩2001 日本現代詩人会編(角川書店)』をひろげると、六四年に佐藤春夫、三木露風が没し、六五年に河井酔名、イギリスのT.S.エリオットなどの著名な詩人が他界している。すなわち新旧の世代交代の期になっていた。今なお続いている歴程の詩のセミナーの第一回が六四年八月に発足しているし、富岡多恵子の詩集『女友達』が六四年に、那珂太郎の『音楽』は六五年に出版されている。因みに北園克衛の『煙の直線』は五九年に刊行され、そして六四年九月、新国誠一『0音』も小さく出ている。
 北園克衛については今まで広く記されているので略歴は略すとするが、新国誠一にふれてみよう。彼は一九二五年仙台生まれ。東北学院の英文科を出て、二、三の同人誌を経てコツコツと言語とその表現について闘いつつ三十八歳で前記の詩集『0音』を上梓。この一冊を携え上京。自分の実験を理解してくれるだると、ぼくに会いに来たのである。彼の情熱はまさに火を熾す勢いがあったのをよく記憶している。二人で旗揚げを、と言われたがぼくとしては甚だ自信も希薄。そのときちょうど来日していたのがブラジルの文化担当者L.C. Vinholes(ヴィニョーレス)氏であった。彼は作曲家であったが、ブラジルのコンクリート・ポエトリイの仲間と交流が深く、新国はASAの一号でブラジルの「ノイガンドレス」のグループの作品の紹介を果たすこととなったのである。
.
.
.
.
.

「デザイン」
1965.7
「新しい言語、新しい詩」(ルイズ・アンジェロ・ピント、デシオ・ピニャタリ著、藤富保男訳)掲載
.
.
.
.
.

『煙の直線』
北園克衛
1959
國文社
.
.
.
.
.

プラスティック・ポエム
北園克衛
初出 「VOU」106号 1966
 一方北園克衛の方は、VOUが順調に発刊をつづけ、特に六四年には隔月刊というペースで、92号から97号の六冊を出している。その95号では北園自身が「ノイガンドレス」の面々が記した「コンクリート・ポエジイの試論」を訳し、メンバーの一人清水俊彦がピエール・ガルニエの具体詩の国際運動を結成する呼びかけのマニフェストを訳している。因みに、ぼくは「デザイン」の三月号、七月号(一九六五)に「コンクリートから新コンクリート・アートに」及び「新しい言語、新しい詩」を訳出している。
 話をもどそう。とにかくVOUもASAも共に視覚による詩とは何かを問いつづけて模索探究した時期である。
 前述のL.C. Vinholesは北園克衛の『煙の直線』のポルトガル語訳をやり、日比谷のあるホールを借りて、音による詩の発表に力を注いだのである。
 ASAは新国誠一が月例の研究会をひらき、吉沢庄次、山中良二郎、梶野九陽といったアーティストを加えて次第に輪をふくらませて行ったのである。そしてVOUから清水俊彦も寄稿の形で参加をとりはじめた。新国は高橋昭八郎にも呼びかけてをしていたが、高橋はVOU一筋で活躍をつづけていた。
 もう一度日本の詩壇を見てみよう。日本の詩界で、詩といえば散文型か行ワケという方式で記述される詩ばかりで、誌面に一面くりひろげられる図や写真の作を見ることは全くない。これは今も続いていると言ってもよいだろう。日本語がもっている特殊なおもしろさなどを追及している詩作品も、やはり従来の詩という形のなかでしか行われていないし、見かけられない。
 当然VOUやASAに加わっている詩人たちは自作を自分たちだけの同人誌のなかで眺めて慰め合っている状態である。その不満を吐く場所は海外しかないわけである。
 北園克衛の場合、六五年にオックスフォード、六六年にはサンフランシスコ、フィラデルフィア、スペイン、イギリスへ作品を送っている。
新国誠一は六六年にフランスのピエール・ガルニエとの共同制作にはじまり、のちにオランダ、ドイツ、アメリカ、イギリスと作品を搬入し発表をつづけたのである。もちろんそれぞれのグループはメンバーの何人かもがいっしょに海外出品をしている。

北園克衛と新国誠一の作品を言葉で説明することは困難であるが、北園の場合は<プラスティック・ポエム>と自称し、写真の作品を、新国の場合はあくまでも文字をデフォルメした作品であった。
新国誠一は詩は言語であり、モノであるという理念を強く全面に押し出す熱意をASAという場を作ることで具現しようとした。これに対し北園克衛は、詩をペンで書く時代はもう終わった、としてカメラを通じて作品活動に入って行った。
二人の七〇年代の仕事はこのように分れていた。ただ類似していたのは、ひたすらな頑固さで海外のアヴァンガルドの友と手を結んでいたことだろう。

copyright (c) 2004 TAKAHASHI Shohachiro, HASHIMOTO Akio, NIIKUNI Kiyo, KEIYUDO and the authors