BOOK BAR 4 > 手製本 > 平まどかのベルギー製本留学記03 

うす曇りのブリュッセルに降り立った平さんだが、入学試験に合格しなければベルギーには滞在できない。「私はこれからどうなるのか」一瞬不安がよぎるが、様々な準備でそれにひたる暇がない。 (2001.12.24 4-kama記)
3)不安はあるけどひたってる間もなく

だ暑さの残る東京を後にして、ブリュッセルに向かったのは9月2週目の火曜日だったと思う。ブリュッセル空港には、先に到着していた夫が迎えに来てくれた。写真家である彼は中秋の行事の人々の様子を撮る為、香港に立ち寄った後、数日前にブリュッセルに来ていた。

港からブリュッセルまでの電車の中から見えるのはうす曇りの空で、私はこれからどうなるのだろう、と思ったことは今でも忘れない。多分入れるだろうと予測はしていたが、入学試験は入学試験だ。これに落ちれば、ベルギーに滞在出来ない。駄目な場合は、とにかくパリまで行こう、ということは話し合っていたが、それはやはりいやだった。

ブリュッセル一の名所、グランプラスから程近い小さなホテルにその日は泊まり、翌日学校に正式の試験登録に行った。自分では、簡単に行けると思っていた学校だったが、そばまで行ってからが手間取った。栃折久美子さんの留学記「モロッコ革の本」で学校の位置は認識していたつもりだったが、実際にその場所を見つけるのは少し難しい。
学校のあるAbbaye de la Cambreという場所は、ルイーズ通りから行くと、道がちょうど二股に分かれたところの左側にあり、外からみるとすり鉢状にくぼんだ公園というおもむきだ。私はそのすり鉢の底に学校があることを見つけられず、まっすぐ奥にひかえるカンブルの森まで進んでしまった。人に聞きながら学校にたどり着いたのは、お昼直前だった。かつて僧院だった建物が学校になっている。登録をして、試験当日に必要な道具のリストを渡された。


日は、しばらくの間住むことになる、いわゆるアパートホテルに移った。ここは池袋のアトリエの人から紹介されたところで、学校からも近い。そばに、日本の現地法人が比較的多くあり、日本食料品店などもある日本人地区の一つだった。
午後は、指定された道具などを買いに、製本材料店に行った。Wilberz & Delcordeという名前のこの店は、トラム(路面電車)で学校からでも往復で2時間近くかかる。小さなブリュッセルにしては、買い物に時間がかかる店だ。ブリュッセルは地下鉄が2路線しかない。他の公共交通機関としてはトラムとバスのみ。郊外に住む人も市内に住む人も自家用車で通勤する人が多いが、その割に混雑が少ないのだから、首都といってもその小ささがわかるだろう。

初めての週末は、街歩きをした。1年中雨が降るベルギーで、9月は比較的晴れの日が多い気がする。過去に2度、旅行で来たことがあるといっても、周辺の住宅街は初めてだから、やはり新鮮だ。ホテルの周辺地区はイクセルという区で、100年前から戦前くらいにかけて住宅街になったところだから、古さもほどほどの落ち着いた街だ。緑の多い小さな公園が住宅街の中にいくつもあり、散歩するのが楽しい。入学試験がどうなるかわからなかったが、このようにしてどのあたりに住みたいか、検討していった。
(上記写真2点:Jualian Gracq著「Un Balcon en foret」。ラカンブルでは2年生で初めてパッセカルトンを作る。これは半革額縁装。濃茶のモロッコ革)


曜日から入学試験が始まった。最初の日は午前中にデッサンのみ。午後は何もない。翌火曜日から金曜日までが各アトリエでの試験となる。ルリユールの受験生はこの年、なんと私一人だった。最初の日は午前中に行ったが、先生から出された課題は、まず60人くらいの様々な分野のアーティストについてのリストを渡され、知っていることをそれぞれ数行づつ書くこと。先生が持参した何冊かの本あるいはテキストの中から1冊選び、それについてのデコールを図案化してくること。紙とその他の素材を用いて、なんでも良いから立体的なものを一つ作ってくること。さらに、水曜日はアシスタントの先生について、簡単な本(見開きが出来る形にカートンをつなぎあわせたもの)状のものを作った。これだけのことだし、私ひとりということで、うちで大体の作業はしてきていい、という。 さらに木曜日は休みにして、火、水、金曜日も午後から学校に来る、という話になった。まことにのんびりした試験だったが、入学後他のアトリエのことを聞いてみると、なかなか厳しい試験のところもあるようだった。毎日9時から6時近くまでぎっちりと課題が組まれ、受験生の多いところは当然のことながら、落ちる人もかなりいるという。
(上記写真:「Un Balcon en foret」の表紙のために作ったPapier de decor(装飾の為の紙)。色鉛筆とアクリル絵の具で着色した三椏紙を、薄黄色に着色した洋紙の上にちぎって貼っていく。 乾いたら、プレスに入れ平らにして制作。)


の場合、とにかく合格だった。翌週木曜日に合格発表があり、その翌週からもう授業が始まった。アパートをすぐに決めなければならない。すでに下見していた地域でこの辺に住みたいと思うところがあり、不動産屋を2軒たずねた。不動産屋を仲介すると高くなるので、直接アパートの外に出ている「貸間」の貼り紙を見たり、ミニコミ新聞のアナウンスを見たりして決める人が多いが、私たちには時間がなかった。2軒目の不動産屋でまあまあのアパートを見つけ、契約することにした。学校がすぐに始まったので、授業の合間にホテルとアパートの間を往復する生活がしばらく続き、ガス、電気などの手続もしなければならなかった。多くのことを電話で連絡しなければならないのは、とても面倒なことだった。今ではフランス語の電話もおっくうではないが、もともと日本語で電話するのもあまり好きではなかったし、フランス語で電話する前は頭の中はフランス語でいっぱいになったものだ。

学期の最初の週のアトリエは、道具や本の買い物で費やされた。この年の1年生は月、水、金曜の午後が原則アトリエに行く日で、その内の1回はルリユールではなく、ドリュール(dorure)という装飾に関する勉強だった。他の日は、講義と基礎実技に費やされる。当時の1年生の授業は5科目、美術史、現代美術、文学、写真、意味論、基礎実技はデッサン、色彩論、フォーム、遠近法があり計9科目。これは1年生全員に課されるもので、ルリユールはこれだけ受ければよかった。アトリエによっては、例えば修復の学生などはこの9科目に加え、専門の講義が7,8科目はあるのだから大変だ。講義は進級していくに従い、課目が減っていき、5年生は各自のアトリエ制作のみとなるが、そこにたどりつく頃には、学生数は1年生の半分くらいになるのだった。
(上記写真:卒業審査の時。同級生で一緒に卒業したフランス人のセリーヌと。彼女は洗練された美しい紙を作る。)