結核日誌

書かれている日々:199412??-199606??
書いた日:19970130?-19990914.20001202.20010128

 僕は出かける時はほとんど九割がた傘を携帯している。鞄を持っている時は絶対に。それはかつて咳をすることがそして風邪を引くことが恐くてたまらなかった頃からの習慣だ。天気のいい日も鞄に傘がないと安心して出かけられないのだ。わざわざ携帯性のよい超軽量の傘を買って持っている。この日記は肺結核の受験生が風邪を引くのを恐くなる程度に血を吐いたりする日記だ。血を吐くと言っても血痰からスタートしてちょっとがはがは言ってたくらいだ。当時は血を吐いた日を克明に覚えていたがそれも忘れてしまい、その後一年ほどたってから、完全に忘れないうちにと思って書きはじめた。その頃には人に話したりして面白い話として思い出すようになっていた。それがベースだ。そしてさらに書き足したり改定したりしているので文章が無茶苦茶になってしまったところもある。思い返してしか書けないことも適当な日の日記に付け足してしまっているので時間もぐちゃぐちゃだ。日誌と言いながら当日書いているわけでもないので「×月×日」を挿んで適当に書いてるだけだ。しかし、これは思い出しながら書いた覚え書きなのでそういう時制がぐちゃぐちゃな点は勘弁してほしい。血を吐きはじめてから治療期間は1994年12月から1995年6月ごろ。

12月×日 冬 年末

 そのとき僕は昼ごはんを買いに学校からでかけようとしていたのだった。そして、何気なく下駄箱外の水道に痰を吐き、ローソンにでも






 ありゃ?今なんかおかしくなかった?
 リプレイ。
 痰が軌跡を描いて...
 なんかいつもと違くなかった? 色。
 も一度痰はいてみよう。
 ぺっ。





 赤。
 赤い。
 ほんとに。
 真っ赤。

 この前、兄が手術のあとにどはっと血を吐いていたが、あれは胃に溜まったやつだったから黒っぽかったけど、俺のは赤いよ。しかも確実に、どこからかわかんないけど、湧いてきてるよ。どこか体の中で血が出てる。咽喉より奥だけど胃よりはこっちがわ。

 こういうときはとりあえず保健室に相談だな。普段行く機会ないし。怪我もしくは病気であることは間違いない。たぶん僕はその時パニックに陥っていたんだ。
 「あのー。僕、いま、血を吐いているのですが。」
 「あ。まだ出てます。ここ、吐いちゃっていいですか。」
 手近にあった洗面台に血を吐く。ぺっ。やっぱ赤い。
 聞いてみると、可能性としてはポリープ、胃、気管のいずれかの損傷なんじゃないかということだったがとりあえず医者に行くことに。そんなことを聞きつつも血は湧いてくる。ふつふつ。血は咽から溢れるように湧き続けた。少しづつ少しづつ。ぺっ。ぺっ。ぺっ。

 とりあえずうちに帰ることにする。血は止まった。

 帰り道、自転車をこぎながら、これがもし例えば胃ガンしかも末期だったらと考えてダークになってみる。まじダーク。やばいって。死んじゃう死んじゃう。俺最終回。しかもこのクールのうちに。だってもう血ぃ吐いてんじゃん。末期末期。うわー。いままでは死んじゃえとか思ってたけどこりゃいかんな。宗派替えだ。生きまーす。じわじわ死んでくなんてたまんない。生きてること自体じわじわ死に向かってるようなもんだけど、病気で毎日血を吐きながら暮らしてあと3週間で死んじゃうとかはなし。とりあえずいまはなし。受験生だぜ。

 病気で死ぬのは残酷なことだ。少しずつ少しずつ体が弱っていく。ある部分以外は元気なのにどこかが確実に悪化し自分全体を死へ向かわせる。毎日毎日血を吐いて死んでいくなんてそれはとてもこわいことなんだろうな。と自分がこれから毎日血を吐きながら生きていくことを思った。そして死ぬんだ。

 その日は気管を疑い耳鼻咽喉科の病院に行ったがそこではなんでもないと診断された。
 なあんだ。なんでもないんだ。よかったよかった。
 しかしそれは間違いだった。

 あとから考えるとその日は見たことのない祖父が結核で死んだ日だった。

 祖父は満州から父をつれて帰国後すぐに肺結核で死んだ。
 祖母はそれからすぐに同じく肺結核で死んだ。
 僕にとって肺結核とはすぐにうつってすぐに死ぬ病気だった。
 しかし自分も肺結核だと分かるのはそれから2週間ほどたってからのことだ。
 それから2週間、私は原因も分からず、分かってからもすこし血を吐くことになる。

×月×日

 電気グルーヴがポップジャムに出た。見た。

 冬の午前一時頃、やばいなこんなん見てるとまた吐血なんだよねなんて思いながらもそれは電グル優先でテレビの前に陣取っていた。電グル登場。よかった起きてて。おもろいおもろい。「ギ・おなら吸い込み隊」ですよ。まりんと卓球、ひょっとして、NHK的にはダンサー?瀧も「ピンサロ」とか歌っちゃいけないみたいだし。三人ともその状況がおかしくって仕方がないという笑顔満面。曲も終わりに近づく。「ぼへみあーん...」あ、これも歌うんだ。ぷぷぷ。しかしその先もあった。「もしも、ぴあのが、ひーけーたーならー」なぬー。がはは。そーきたか。見ててよかった。はっはっは。(ほんとはあんまり覚えてない。順番とか内容とか)

 笑いは血の味がした。

 曲を終わりまで聴きたいんだけど、口腔内が血で一杯になっちゃってるのでそういう訳にもいかず、テレビの前を去り、洗面所に赴き、口に溜めていた血をべーっと吐いた。そして、その後はぐふぐふとゆっくりまた血を吐いた。初めのときよりもずっと量が多い。ずいぶん長い間のことだったような気がする。実際のところ、30分間ちかくそうしていたはずだ。それにしても、笑っても血を吐くとはねえ。笑って血を吐く俺。笑えるねえ。そっちが可笑しいっつーの。ほんとに。可笑しいなあと思いながらも血を吐く。笑っちゃうな。いやほんとに。俺可笑しい。吐き終わってから、どれくらい吐いたのかなあ、と考えてみた。ちょうど目についたコップで一杯分くらいは軽く吐いていたように思った。そして、洗面所を白い状態に戻し、風呂に入って寝ることにした。

 なんでもなくないじゃないか。まったく。
 しかし医者は年末休業だ。

×月×日

 今日は血を吐かずにすみました。よかったですね。とっとと寝ちゃいましょうね。布団かぶっておやすみなさーい。ばたん。と勢いよく背中から倒れたのがまずかったらしい。なんだかよくわからないが気管のあたりからなにかが沸き上がってくるのを感じる。嘘だろう。寝るぞ。眠いんだから。無視だ。寝ることを固く心に決めて強制執行することにする。が、くふっ、くふっ。気管に出てきてしまうものにたいしては非常に無力である。口の中で小さく咳込んだところで降参することにする。畜生寝たかったのに。寒いのに。ほんとに血ですか。ティッシュペーパーに出してみてみる。暗いから見えないけど明らかに赤いはず。そんなもん味でわかる。見ると落ち込んじゃいそうなので電気はつけない。見ないことにする。

 階段を下り、洗面所でまた血を吐く。眠かったので、半分寝ながら吐く。うとうとしながら吐く。うとうと。ぐふっ。ぺっ。ちくしょう。んー。うとうと。くふっ。ちくしょう。ぺっ。30分くらいしてようやく止まる。洗面台の上にあるコップを見ながら、これでまた一杯分くらいは吐いたのかなあ。と思う。たいしたことはない。

 ようやく部屋に帰るとごみ箱の中には赤い塊があった。目はすっかり覚めてしまっていた。そしてとても疲れていた。

 よく、血を吐く演技の時に「げほ」とかやるが、もし気管から血を出した演技をしたいのならば、例えば肺結核の演技をしたいのならばあれは間違いだ。もっと腹から。音もしない咳をするように。体を曲げて。止まらない咳を出すように。気管に水を入れちゃった時のように気管に血が入ってるんだから。しかも気管から血が出てるんだから。たいへんなんだから。「っ。っ。っ。っ。っ。っ。っ。っ。っ」というかんじで。1回始まったら止まらない。「なんじゃこりゃあ」とかやってる暇はない。あとは疲労。

×月×日

 お風呂の中で血を吐く。びっくり。ちっともいい湯じゃない。湯船につかりながら流し場に血を吐く。ぺっ。出ると寒い。とはいえ体があったまっちゃうと止まる血も止まんないんだろうな。しかしそれにしても風呂のタイルが赤く染まるというのは嫌な感じだ。水と一緒に流れそうで一緒には流れない。

 そんなことを思いながらもただただ嫌な気持ち充満しつつ風呂から上がって洗面所で血を吐く。合間に着替える。ということは、しばしのあいだ素っ裸で血を吐いていたということになる。さみーな。覚えてないが。きっとこのときは真っ暗な気持ちだったんだろうな。

×月×日

 さて、風呂に入るぜ。とジーパンを脱ごうと前屈姿勢で頭を下に。そして少々力を入れることになった。結果、血を吐いた。

 やんなっちゃうなあ。風呂入っちゃおうかなあ。でもそれもちょっとダークだったしなあ。なんか温かくて余計にふつふつ出てきそうだし。

 脱いだ服を少しずつ、血を吐く合間に着る。

 血が止まってから風呂に入って寝た。この、風呂に入って寝るというのがなかなかの鬼門だ。

×月×日

 どの日か分からないが俺が洗面所でがはがは血を吐いていると母親が起きて来て、母親は俺が延々血を吐き続けるのを見てこれはひどいと言い、年が明けたら病院に行けと言った。そういうことになった。


 年が明けた。



×月×日

 予備校に行く道すがら、坂道一発こぎまくって上りきったところでこみ上げてくるものがあってぺっと吐いてみると血痰。まいったねえ。と思いながらうちにかえってそのあと家の近くの内科の病院に行った。レントゲンを撮った。医者は、「うーんこれはひょっとするとかげがあるね」と言ったのだった。そうか。そりゃまずいじゃん。いしゃは、その影の控えめさと血を吐くという症状にちょっと戸惑ってるみたいだった。かわいそうに。

 もっと大きな病院に紹介してもらうことになった。

×月×日

 ここらへんでも血を吐いてた。
 結核か?と思いながら血を吐く。


×月×日

 紹介された大きな病院でレントゲンを撮った。海辺の病院だ。死に損ないが地震で沈む埋め立て地のはしっこの病院に集まっている。そこは紹介されたか重い症状の患者を主に対象としている。その病院の診察券を持っていると言うことは地域では重病人のステイタスなのだ。そして私は埋め立て地の果て、人工海岸のそばの大きな病院に行った。放射能コーナーに行ってレントゲンを撮る。そして封筒に入ったできたてのレントゲン写真を自ら医者の元へと運ぶ。医者はレントゲン写真を見て「結核ですね」と言った。「親とか親戚で結核になった人はいないか」とも聞いた。もう死んじゃってるんだけど。います。見たことないけど。とりあえず学校には行かないほうがいいだろうと言うことになった。やり。結局3学期は学校行かずに済んだ。結核万歳。私は高校三年生の三学期がどんなものかよくわからない。

 ちなみに主治医はDr.菊池。月木が診察日だった。僕が学校をお休みしている間にあった阪神大震災に駆け付けて医療を行って来たりするえらい医師だ。

 ツベルクリン反応をする。もう結核だと言うことは分かってるんだと思うんだけどツベルクリン反応をすることになる。やめてほしい。腕にぷくりと筋肉注射される。

 僕はいままでツベルクリン反応でちゃんと反応したことがない。体の中に結核菌に対する耐性がないのだ。だからいつもBCG注射まで進むことになった。こういう人はこまめにBCG注射をしなければならない。中学生くらいまでしかやらないからその先は耐性無しで生きていくことになる。そして結核にかかる。

×月×日

 やめるべきだったんだ。ツベルクリン反応なんて。注射の翌日。すでに腕の内側は激しく腫れはじめていた。ツベルクリン反応は48時間後の反応を見る。まだまだだ。あと24時間もある。しかしこれは誰が見ても反応していること間違い無しだ。もういい。

×月×日

 ツベルクリン反応2日目。ほんとにやめるべきだった。ちょっとだけ注射すれば分かることだったんだ。まさかツベルクリン反応が25センチメートルに達するなんて思っていなかった。手首からひじの裏の関節部分まで。わかりやすく誇張無しに説明すると、腕の内側全部が腫れている。これで結核じゃなかったらたいへんだ。注射をした部分は水泡みたいになっている。かゆい。結核患者にツベルクリン反応をしてはいけない。医者は楽しそうに、「結核ですね」と言った。

 たくさん薬をもらうことになる。3種類の薬を混合して飲む。今はいい薬があるので半年間飲めば治るらしい。あとたくさん飲むので肝臓の副作用を押さえる薬も飲んでいたのかも知れない。よくわからない。

 帰りに薬局コーナーで異常にたくさんの薬が入った袋をいくつか受け取る。なにかヤバい気分だ。
 一日飲む薬のセット見本の袋があるので見てみると、10錠の様々な薬が入っていた。
 見なれたサイズの錠剤は少し。あとはでっかい錠剤と毒色カプセルだ。

 それから毎日、一日十錠の薬を飲み続けた。毎朝一度に十錠。全部飲むにはコップ一杯の水が必要だった。オレンジ色のとても大きな錠剤とかどう見ても毒にしか見えないような毒赤褐色のカプセルとか、色鮮やかというのはちょっと間違いな感じがした。毒赤褐色のカプセルはまさか中身はもすこし優しい色のものだろうと思って開けてみたら中身も同じ色の細かい粉だったので開けてみて後悔した。半年間、たぶんそれ以上飲んだので、結局、単純に計算すると10*6*31で1800錠以上の薬を飲んだことになる。きっと俺にはなにかもう効かなくなっている成分というのがあるのだろう。だが、とりあえず今回は治ったようだった。だが、2、3年後でもたまに空虚な咳をすると嫌な気分になった。風邪など引くとほんとに嫌な気分になった。だから、風邪は引かないということに決めていた。だからといって生活を変えたわけではない。それはもしかすると命取りになるのかもしれない。しかし、風邪を引かない、と決めてから風邪を引くことはなくなった。その後風邪を引くのは完治から一年以上たってからだ。

 はじめのころは血管を丈夫にする薬をもらって飲んでいた。薬をもらって飲んだらすぐに血は止まってしまったようだった。とりあえず血を吐くことはなくなった。それはそれで。いや、それはよかった。私は薬が確実に効くこと、そしてもう血を吐くことは多分ないのだろうと言うことを思った。そして数度の血痰と吐血を思って確かに少し淋しい気持になった。


×月×日

 痰を採る。痰に結核菌が含まれるかどうか調べるのだ。表に見える容器に痰を吐くのは気持のよいことではない。それに、痰を吐いて下さいね。と言われても、そうやって言われて痰を吐けるほど器用には出来ていない。がんばって痰を吐く。

×月×日

 この前採った痰から結核菌は検出されなかった。外部には結核菌を振りまかないことがわかった。非飛沫性とかそういうやつだ。だから入院の必要はない。通院する結核患者になった。はじめは結核現役受験生、その後結核浪人生。

×月×日

 薬を多量に投与されているので肝臓がちゃんと耐えているか調べるために、病院に行くと毎回帰り道に採血コーナーで採血をする。おばちゃん看護婦がえいっと俺の腕に針を突き立てる。それは俺の見え難い腕の内側の中央を走る血管に対しても常に正確なものだった。しかしたまには「こっちのほうがやりやすいじゃない」という理由でちょっとひじの方に近い血管に対して針を突き立てられることもある。僕はかなり暗い気持になった。そっちの血管から血を取られるると僕は力が抜けてしまうのだ。僕は採血センターがかなり嫌いだった。

×月×日

 予備校に通いながら病院にも通う。二週間くらいごと。行ってレントゲンを撮って医者と眺めて様子を確認して、最後に血を採って薬を山ほどもらって帰る。レントゲンだって山ほど撮った。X線コーナーで腕をおった人とかどこか病気の元気な子供とかおばちゃんとかに並んで肺の写真を撮り、現像を待って封筒をもらう。なかにはできたての写真がある。気になるので医者に見せる前にちょろっと見てみたりしていた。そして、うーんまだまだ。と思ったりしていた。病院に慣れていた。病人だった。薬をのみ初めてしばらくは影がはっきりしていった。ここのレントゲン写真はフォーカスがよいので家の近くの内科で撮ったレントゲンよりもはっきりとわかる。私でもみればわかる。はじめは肺の上の方、肩の近くにあった影が肺の中央を走る太い気の幹のようなところへ広がり、そしてそこから枝分れするところまでぼつぼつと影を落としていた。酸素はX線を通さない。だからレントゲン写真で肺の健康な部分は黒くなる。影は白い。肺の房の中央部分に影があった。

×月×日

 生まれて初めてのCTスキャン。息を吸って止めて吐いてのくり返し。肺は肩からお腹の当たりまで結構長いので1センチ刻みくらいで撮られると呼吸が疲れてしまう。それに私は今呼吸をしたくないんだ。あまり。撮り終わったCTスキャンはカラフルで綺麗だった。しかし写っている肺は小さく元気がなかった。息をたくさん吸い込む気力がなかった。そしてそこには確実に影があった。思っていたより深くまであった。

×月×日

 たまには若い看護婦さんに採血をされることもある。


 「はい。じゃ少し痛いですよ」
 「はい」
 「...」
 「...」
 「?」
 「?」
 「...」
 「あ」
 「!」
 「今、血管に入ったのが分かりました」
 「痛かったですか?」
 「いえ」

 まだろっこしいが、若い看護婦さんならいいのだ。

 その後は常に採血センターではなく採血されることを望んでいたのだが、結局その望みはかなわず確実に毎回おばちゃんにちくりと採血されることになった。

×月×日 春

 通院生活を送る。2回目のCTスキャンを撮った。一回目は気力がなかったので小さな肺の断面図だったが、2回目はその反省を活かして息をめいっぱい写真を撮る瞬間に向けて吸い込み、元気一杯の素晴らしい肺の断面図にすることが出来た。確実に快方に無かっていた。堂々とした、ちょっと影のあるCTスキャンだった。

 そしてそんなうきうきCTスキャンの仕上がり待ち時間中、私のそばではひとりのおばちゃんがレントゲン技師に、「もういい」と訴えかけていた。おばちゃんは癌みたいだった。数度の手術を経て検査のCTスキャンを撮りに来ていたのだ。体のどこかに出来た癌があちことに転移し、これまでそれを何度もやっつけようと手術をくり返しているのだ。「骨まで回ったらどうしようもないんでしょ」とおばちゃんは言っていた。今日はその検査なのかな。「まあね。がんばりましょうよ」とレントゲン技師。そりゃおばちゃんだってがんばってるんだ。みんなそれは知っている。そして、そこでおばちゃんが思うのは、「もういい」ということだ。私は確実に治っていた。おばちゃんは「もういい」と思っていた。もう疲れてしまっていたのだ。

×月×日 初夏

 薬を全て飲み終わる。レントゲン写真に影がほぼなくなった。もう治療はおしまいで半年後の検診で確認しましょう。とのことなのでそこらへんは医者に任せる。結核の治療は気長なのだ。ちなみに結核は完治しない。結核菌は体の中に居座り続ける。完全にいなくなるというはない。体が弱くなれば復活する。老人になって。

×月×日

 薬を飲まない生活。朝に余裕が。何かもの足らない、不安な気持になるが、運を天に任せて普通に生活をすることにする。




×月×日 冬

 半年後検診のお知らせが保健所から届いていた。結核はこれまでもこれからも診察から薬まで全部ただだ。結核は法定伝染病の11種類くらいのうちには入っていないが結核予防法と言う専用の法律を持っているのだ。だから今回の検診もただ。今回はちゃんと治ってるかどうかを確認するものだ。また影があったら嫌だなと思いながらレントゲン写真を撮る。きれいきれい。跡形もなく。CTスキャンでも撮ればちょっとはすかすかなのかもしれないが、レントゲンはまったくきれいなものだ。「治りましたね」。治ってる。うれしい。また半年後念のため検査らしい。



×月×日 夏

 病院に行く。一年後検診。と思ったら受付で「もう終わってるみたいですよ」と言われる。なに。完治していたのか。この前のでおしまいか。俺は。なんだかぼーっとした感じになってしまう。やった完治だ。さようなら結核。そしてなんとなく暇を持て余してしまって病院から歩いてすぐの人工海岸へ向かい、道と海岸を隔てるコンクリートの上に座り、暑い中東京湾を眺めながら完治の喜びを噛み締めたのだった。やった完治だ。素晴らしい。生きてる。生き延びた。



 そして僕はそれから5年間献血が出来ない以外は全く普通の生活を送ることになった。しばらくは激しい運動と水泳もだめだったけどどうせやらなかった。あとから思えば非常に軽度の肺結核だった。あんな程度で血を吐くのは奇跡に近い。祖父が命日を忘れさせないためにわざわざ血を吐かせたのだろう。とか思ってみたりして。困ったじじいだ。感謝。Dr.菊池にも感謝。病院にいたみなさんに感謝。薬を開発した人達に感謝。結核で死んだ人達に合掌。これを書きながら忘れたことを確認させてもらった母親にも感謝。記憶がないほど幼くして両親を結核で失い子供も結核にかかってしまった父親に愛と感謝。あとこういう話を直に聞いて下さったみなさんにも感謝。感謝。

 ここで特に軽い結核の方へ。結核にかかった人はちゃんと薬を飲んでください。薬はすぐに効きます。体が楽になります。ただ、薬を飲むのはめんどくさいです。しかし、完治するまでしっかりと飲み続けなければなりません。そうしなければ自分の体の中で薬に耐性のある結核菌を育てていることになります。そして、普通の結核菌なら薬で治りますが、薬に耐性のある結核菌の場合、それを治すことは難しいのです。だから、結核にかかった人は半年なら半年。9ヶ月なら9ヶ月。ちゃんと薬を飲み続けて下さい。せっかく結核が薬で治るようになっているんだから。結核患者はしっかりしましょう。


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