<サージシンセの写真>
サージシンセのうちでもっとも有名なもののひとつ、この怪物−−マイティ・サージと呼ばれる−−はニュー・エイジの作曲家ケビン・ブラヒーニ【Kevin Braheny】の手によってカスタム・メイドされた。彼はまた、サージ・モジュラー・システムの新しい製造元、サウンド・トランスフォーム・システムの代表取締役社長だ。設計者のサージ・チェレプニンによると、「もともとパネルには文字なんてひとつもなくて、端子しか付いていなかった。入力、出力、コントロール電圧入力、そして音声端子。それは非常に象徴的だった。プレートの上にはひとつのレタリングもなく、端子しかなかった。それらはリッチ・ゴールド【Rich Gold】がデザインした。その表面プレートは構造化されていて、<註:パッチコードで>非常にきれいに飾り立てることができるものだった。」
1960年代中盤を振り返ってみると、シンセサイザーをプログラミングするということは、デジタル化されたボタンや液晶ディスプレイやデータ・スライダー・コントロールなんてものとは遠くかけはなれたことだった。アナログ・シンセサイザは。その黎明期にはさまざまなコンポーネントがパネルにマウントされたでかい箱で、それぞれのモジュールはパッチ・コードで接続されていた。パッチの接続はえらく複雑だったので、モジュールをパッチして音を作るためには、MIDIシンセにプログラムチェンジを送ることよりも、ほんの少しのパラメータを変化させてパッチを調整するよりも、Minimoogみたいなアナログ・シンセのダイアルを回して新しいセッティングにするよりも、何よりもはるかに多くの時間がかかった。モジュラー怪獣をプログラミングすることは、どんなシンセ・プログラマーにとっても、あるひとつの挑戦−−そしてやり甲斐のあること−−だった。そしてまた、それは非常に金のかかることでもあった。モジュラー・シンセの全盛期には、ムーグみたいなシステムは10,000ドルくらいした。ほとんどの場合、自分のものを買うことはできなかったので、モジュラー・シンセを使うには大きな大学に通わなければならなかった。もしもムーグやブックラにアクセスできる幸運にめぐり合わせても、マトリックス・パッチボードのバンクを持っていたARP 2500を除いては、何本ものケーブルやつまみやプラグと格闘しなければならなかった。ブックラはどちらかといえば小型だったが、2500やMoogやE-muやPolyfusionモジュラー・システムはでかくて厄介だった。いくつかは壁一面を覆うくらいでかかった。MoogやPolyfusionやE-muはまるで古い電話交換機みたいだった。
しかしここに、モジュラー・シンセはそんなにでかくて高いものであってはならないと決意したシンセサイザきちがいたちがいた。そのうちのひとり、フランス生まれのサージ・チェレプニン【Serge Cherepnin】(チェレプニン【tcher-epp-nin】と発音)が開発した、彼の名前をとったシステムは、コンパクトでパワーがあって音がきれいでしかも値段が安いことで知られるようになった。
サージ・システムの開発は1970年代の初め、南カリフォルニアで始まった。チェレプニンはそのころ、南カリフォルニアに新しく創設されたカリフォルニア芸術大学の教授をやっていた。「そこには3つのブックラスタジオと、そこへ立ち入ることを規制する政治秩序とがあったんだ」。そのはじめのころからチェレプニンの活動に加わっていたレックス・プルーブがくわしく語ってくれた。「ちょっとスタジオを使おうとして準備しても、基本的にある作曲家に優先権があっていつでもスタジオを使えるってわけにはいかないし、ライヴをやるのにそれを持ち出すほうがまだ楽ってもんだった」。ある夜、サージとランディ・コーエンとリチャード・ゴールドとで古いおんぼろの車に乗ってハリウッドの【La Cienega Boulevard】に向かっていた。そこでみんなでモジュラーシステムの値段に文句を言ってたんだ。そういうのだけがそのころ手に入るシンセで、彼らが大学にいる唯一の理由はそういう電子楽器を手にすることができるからだった。彼らは自分みたいな人々のために自分たちが安くて強力なモジュラー・シンセを作るべきじゃないかって結論に達したんだ。
「俺たちはひとつめのシンセをサージんちで作った。台所からフライパンを持ってきて、ひっついてる卵を捨てて、そこに半田を流し込んでから基盤を手で浸して試作品を作ったのを覚えている。すべてのプリント基板回路のレイアウトのタッピングはランディとリチャードがやった。サージは何日も費やして回路図をどんどん描き出して、モジュラー・シンセと呼ぶにふさわしい機械にしようとしていた。試作品の基盤は全部台所で半田浸漬処理された。これがカリフォルニア芸大のちかくの標高の高い砂漠の中にある、ロス、カリフォルニアの【Newhall】か【Saugus】の郊外で起こったことだ。
プルーブは学生だったのか、それとも教授だったのか? どちらでもない。「俺はいわゆる『外部の活動家』だったんだ。外部の活動家は、学校にはたくさん面白いやつらがいて、十分な施設があると思った。モートン・サブトニックにパッチコードを作ってあげたんで、ブックラ研究所の鍵を手にすることになったんだ」。
試作品を作った後で、チェレプニンは学生と教授そして外部の活動家との連携を図って、カリフォルニア芸大キャンバスで20こばかりのシンセを作った。「俺たちの組み立て工場はこの100フィート四方の中庭を取り囲む、手すりの付いた4フィート幅の2階のバルコニーだった」。プルーブはがんばって思い出しながら話してくれた。「俺たちは、テーブルを動かして自分たちに十分な広さを確保して、授業が始まる前に椅子を元に戻した。俺たちは教室で寝てたんだ。ほんとにそうしなきゃならなかったとは思えないんだけど。俺たちは作業場を部屋から部屋へと変えてたから、誰も何が起こってるかわかんなかっただろうね。最初のユニットを作ってるときには8、9人の仲間がいた。ランディ・コーエンとリチャード・ゴールドと【Naut Human(from Rythm And Noise)】、【Will'Stonewall'Jackson(with Ether Ship)】、俺、あとほかに2、3人。やり方はこうだ。シンセを欲しいやつは前金で700ドル払う。半田付けをする。そうすりゃこの生産期間の終わりには自分の6パネルシステムが手に入るってわけだ。これが4、5ヶ月続いた」。
このはじめのシンセサイザーはどんなだったんだろう? 「キーボードがなかった」。プルーブが説明してくれた。「でもシーケンサ/プログラマはあった。片手につき4個のボタンがあって、電圧制御に使えて、シーケンサを手動で演奏するみたいなものだった。そのシンセは3個の電圧可変ウェーヴシェイプ付きオシレータと誰も見たことのないような独特なモジュールがいくつかあった。サージの長所は、俺の見解では、独特な音のするフィルター、-----いろんな種類の---それとウェーヴ・プロセッシング・モジュールだ。多くのシンセサイザでは、スタンダード・ボイスはオシレータとフィルターとVCAで作られてる。サージはオシレータとフィルターの間にウェーヴ・プロセッサ・セクションと呼ばれるものを加えた。それで音色を変えることができる。ほかのシンセではオシレータではFM、フィルターとか、VCAの振幅変調でしか音を変えられなかった。言い換えれば、ほんとに波形の豊かさを拡張するものはなんにもなかった。たぶんリングモジュレータを除いては。サージにはオーディオ信号かコントロール電圧----または両方----をかますことができて、音色を変化させてとても豊かな音を得ることのできる6、7個の入力があった」。
本当のところ、『チェレプニン』と製作者たちに呼ばれていたこれらの初期のサージ・シンセサイザが、彼らの初めて作った電子楽器というわけではない。「私は60年代に、ノイズ・メイキングやテープマシンのようなものにとても興味があった」。チェレプニンは言う。「私が育ったころ、まわりは真空管だらけだった。それで私は電気を独学で勉強した。音楽家としては、60年代にエレクトロニック・テープをやり始めて、身の回りのいろんなものが使えるんだと気がついたんだ。トランジスタラジオとか。私はそのラジオを電子ノイズづくりに使うために、内部の配線をつなぎ変えたんだ。私は俗に言う『ジャンク・エレクトロニクス』からはじめたんだ。あるとき、ロバート・ムーグやドン・ブックラのような人々や、イエール大学でパルサー【Pulser】と呼ばれる本当にすばらしいエレクトロニック・ミュージック・シンセサイザを開発した人々を知った。
「ハーバードとプリンストンで音楽と物理学を学んだ後、私はニューヨーク大学で教えはじめた。その間も私はエレクトロニクスへの興味を趣味レベルにとどめていた。最終的に、私はカリフォルニア芸大に行くことになった。そこでは私は音楽製作とかそういうことを教えた。私はまだエレクトロニクスの核心に興味があった。私はまだエレクトロニクスを使う楽器を作ろうとすることよりも、エレクトロニクスが音のために何をできるのか、ということに興味があったからだ。私は自分自身をムーグやその他のほとんどのシンセサイザ製作者たちの対極に位置付けていた。私の興味は古い音を出すことのできる新しい楽器を作ろうとすることにではなく、エレクトロニクスから何が引き出されてくるかを知ることにあったからだ。私はサンプラーやキーボードには少しも興味を持ったことがない。最終的にはいつでも存在する音を複製することに力点がおかれることになるからだ。私がもっと興味を持っていたのは、ノイズや、どうして歪みが起きるのかということだ。たとえば、ファズ・ボックスなんかは偉大な発明だと思ってる。
「はじめのころは、できるだけ小さく、エレガントで、普通じゃないやり方でどこまでやれるか、ということを追求していた。カリフォルニア大学では、私たちは9平方フィートもあって15,000ドルはしたムーグやブックラと同等以上の、4、5パネルのモジュールのキットを開発した。私はいつでも、人々にエレクトロニクスそのもののできるだけの可能性を与えたかった。新しいモジュールをデザインしたとき、私は言ったものだ。「さて、これを使う人たちがエレクトロニクスからどれくらい多くのことを引き出せるようにできたかな」。それはいつでも最終的にはたくさんの穴[入力と出力]とたくさんのつまみを持つとてつもない怪物になった。
「ふたつめに、私はいつでも製品からベスト・パフォーマンスを得ることを目標としていた。私は先に基本設計されたモジュールを完璧にするたくさんの仕事をした。しかし、私は終えるととてもハイ・クオリティな製品を作りたいという視点から仕事をした。
「カリフォルニア芸大では、私はモートン・サブトニックや【Marianne Amacher】のような人々とつきあってた。彼らはムーグ製品を愛用していた。私は彼女と仕事をしているうちに、彼女の好きなムーグの何が問題なのかがわかった。モートン・サブトニックにしても同じことだった。私は彼の環境作品のために彼にカスタム・モジュールを作ってあげた。
「最終的に私は教職を去り、【Stevie Wonder】や【Malcolm Cecil】みたいな人たちに私のシンセサイザーを作り続けた。でも私はまったく金を儲けようとしなかったので、会社は本当にぜんぜん巨大にはならなかった。私は1975年に生徒たちにキット形態で開発した第一世代の製品でサージ・カンパニーをはじめた。キットは大当たりで、会社は成長しはじめた」。
西ハリウッド地域での数年の成功の後、サージは引っ越しをした。「私は長い間サンフランシスコに行きたくて、1979年にその機会が訪れた。会社はまだ小さかった。私は会社がなるようになるようにして会社を離れた。1年間、サージ<註:サージ・カンパニー>は南カリフォルニアでケビン・ブラヒーニやグレル・ジョンソンやポールヤングやほかの何人かの人々に面倒を見てもらっていた。1980年に彼らと私は再びいっしょになった。それから私はまじめに働き始めた。特に私は生計を立てなきゃならなかったからね。彼らはだいたい1984年まで私といっしょにやっていた。その時点で必然的に、私はそれまでより大幅に少ない手助けしか得られない中で続けていけなければならなくなった」
モジュラーの製造は全面的に中止されたことはないが、完全なモジュラー・システムは1986年から去年<註:1993年>まで作られなかった。その間、サージは別のことに興味を持っていた。「1983年に、私はたくさんのコンサルティングをはじめ、いくつかの電気玩具を設計した。1986年には、出版に興味を持った。ところで、私は1968年に実質的に引退するまで作曲家をやっていたんだ。私は1986年に出版を始めて、1993年に作曲へ戻ってきた。
現在、サージは時々サンフランシスコに戻るが、ほとんどの時間をフランスで家族とともに過ごしている。サウンド・トランスフォーム・システムのレックス・プルーブは、カリフォルニア芸大で最初のチェレプニンシンセを作るのを手伝った人物で、去年、サージの生産ラインを引き継いだ。プルーブはサージから離れている間、サラマンダ・ミュージック・システムと呼ばれるほかのシンセサイザ会社を経営していたのだが、チェレプニンのシンセサイザの設計についてこう話す。「サージのシステムはほかのどれよりもブックラ・システムとよく似ている。それは、どのモジュールにも正負象限の電圧スケーリングがあるという事実による。多くのほかのシステムとは違い、基本的にどの入力でもコントロール電圧を反転することができる。スケーリングを内包することで、すべてを精密でコントロールされた状態に保つことができた。
「ドン・ブックラの最初の機械では、音ごとに音程を操作した[つまり、それぞれの音は単独で調音されなければならなかった]。それは、任意のスケーリングのできるタッチシーケンサみたいだった。そういうわけで、オシレータごとに調音したものだった。サージも似ていた。だが違いは、1970年代後半のデザインではサージがワイド-オープン-スタンダードを残すのと同時に、コントロールのある標準に興味をもつようになったことだ。そこで彼はオシレータとフィルターと精密LFOのいくつかに1V/Octトラッキングを加えた。
「サージは、彼のシステムをものすごく精密なレベルまで引き上げた。オシレータの追従グループで高い安定性を得るために、彼の新音色オシレータ、略してNTO、の設計は、切り替えなしでフルレンジを行ったりきたりできるほど高度なアナログ・オシレータになった。ほかの多くののシステムはオクターブ・セレクト・コントロールを持っていて、あるオクターブ内で行ったり来たりするしかなかった。サージは1,000,000から1Hz以下−−1Hzから100kHz−−のレンジ切り替えなしで連続スウィープした。サージには1V/Octモードもあって、制限のない【hog-wild】モードでも、制限【limit hog-wildness】をかけて1V/Octモードで使うこともできた。どちらの世界でもうまくいった。私が見たところ、彼が設計したディスクリート・オシレータの正確さは、可聴範囲内のものでは一、二を争うくらいのものだ。
「彼はまたVCAの新しいスタンダードを打ち立てた。かつては、どのシンセサイザの内部構造の中でもVCAは最も弱い部分だった。サージが思いついた独特な回路と独特な実装は、ほかのどれよりもはるかに優れた特性を持っていた。言い換えれば、そのころ手に入ったものの中ではとびぬけてノイズが小さく、いい音がした。サージ・チェレプニンによるシンセサイザの2番目のシリーズはロスの【Western Boulevard】にいたころに、サージ・モジュラー・システムになった。そのころ彼は熱心な組み立て工を数人雇って一貫した生産を行っていた。
チェレプニンによると、南カリフォルニアで設計された第二世代のシンセ・モジュールは「サージ・システムの製作を引き継いだレックス・プルーブの作ったモジュール以外は」現行の製品とまったく同じものだ
レックス・プルーブがサージチェレプニンのシンセサイザ・デザインを賞賛していた。では、チェレプニン自身が最も自信を持っているはどこだろう。「私はウェーヴ・シェイピングの側面に自信を持っている。それはもともとブックラにすこし、ファズ・ボックスからまたすこしインスパイアされている。私はとてもシンプルかつエレガントに音を変化させるたくさんのやり方を発見した。私はまた、音楽ではなくエレクトロニクスを基にした、全体のシステムコンセプトに非常に自信を持っている。それはもともと、あらゆるすばらしい機能がエレクトロニクスの内側に隠されてしまっていて、そういうものを使うためにはいちいち引っ張り出してあげる必要があるというような、ほかの製作者がやったことについて熟考を重ねたところから導き出された。子供のころ、私の本当に最初のシンセサイザーはジャックを基盤の敏感なところにつなぎ変えて信じられないような音を出すように改造したトランジスタ・ラジオだった。私はちっちゃなジャックをラジオの敏感なところにつなげたり、コンデンサや抵抗を使ったりした。あのときが一番アーティスティックだった。これが私の興味の源だ。
「もしも私のシンセサイザー・システムを客観的に見たならば、そこに今までに見たどれよりももっと多くのバナナ・ジャックがあって、重ねてつなげられるパッチ・コードがあることに気づくだろう。それはこのシステムのエッセンスで、それが面白いうちは、あるモジュールから別のモジュールにどんどんつなげていくことができる。
「みっつめに私が自信を持っているのは、もちろん、モジュールの音がきれいなことだ。たとえば、モジュレータは【[Harald] Bode】<註:Moogのボコーダーをつくったひと>よりも一歩進んでいて、ほんとにクリーンな電子回路しかないんだ。よっつめに自身を持っているのは、仕事につかないでずっとこれをやってるってことじゃないかな。」