駅長』 (『ベールキン物語』より)   プーシキン


 この物語はロシアの田舎のある駅が舞台である。ロシアではこの時代モスクワとペテルブルグだけが都会であり、それ以外の広大な領土のほとんどが遅れた閉鎖的な田舎であった。馬車が立ち寄って馬を交換する駅が広大なロシアに点在していた。田舎でありながら、様々な身分の旅人たちが立ち寄って、都会の空気が届けられる場所が駅である。にぎやかな駅も街道から外れると、しだいにさびれていくという流れが、物語の背景として描かれている。この物語の中の出来事や、登場人物の精神はその変化の中で展開する。
 冒頭で、駅長は世間の人々から「職務怠慢」で「極悪非道」な連中と思われているが、実際は生まれつき世話好きな人付き合いのいい人々であると強調されている。旅の疲れで不機嫌な旅人から不満をぶちまけられ、こき使われている駅長たちの労苦が描かれ、駅長の立場に同情が示されている。プーシキンは苦しみに満ちた人生の中で彼らがどんなに偉大な感情をもっているか、主人公の駅長を通して描いている。

 駅長と彼の娘ドーニャは厳しい駅舎の仕事を協力してこなしていた。ドーニャは父親を助け、掃除や炊事などの仕事を受け持った。ドーニャは利発で働き者の娘だった。どんなに気難しい客人でも、彼女がもてなすと機嫌を直した。駅で彼女は身分の高い貴族から飛脚や御者までさまざまな人々と出会い接していた。彼女の明るく素直な性格とテキパキとした対応は多くの人の心を引きつける魅力を持っていた。
 駅にたち寄った若い士官が彼女を見初め、病気を装って駅に滞在した。士官は病気を装いながら積極的に愛情を表現し、ドーニャに気にいられようと努めた。短い間に三人はすっかりうちとけた。駅長も士官が気さくで冗談好きであることを知って彼を気に入っている。    
その日は日曜で、ドーニャは教会へ出かけようとしていた。そこへ士官の馬車が引き出された。彼は駅長に別れの言葉を述べて、宿泊と御馳走のお礼にすこぶる気前のいいところを見せた。ドーニャにも別れを告げると、ついでに村はずれの教会まで送っていってやろうと言いだした。ドーニャは当惑してたたずんでいた。・・・
  『何のこわいことがあるものかね?』と父親が彼女に言った。『この方が狼じゃあるまいし,お前を取って食べようとはおっしゃるまいよ。教会まで乗せていっていただき』
  ドーニャは士官と並んで馬車に坐って、従者は御者台のわきへひらりと飛び乗った。御者がひゅっと口笛を鳴らすと、馬は走りだした。
 馬車に乗ることはこの駅を出ていくことを意味していた。田舎に止まるか、都会に出ていくか、ロシアではこの運命の差は非常に大きい。ドーニャはこの士官が導いている新しい世界に引きつけられた。しかし父親への愛情が彼女を躊躇させた。
 これまでの生活でドーニャは父親が自分をどれだけ愛しているか、どれだけ必要としているか知っている。彼女は父親との別れを決断することは出来ない。たとえ駅長から「士官についていきなさい」という許可を与えられたとしても彼女は父親を見捨てるような決心をすることはできない。
 駅長は自分の愛情のためにドーニャが躊躇しているのを察した。美しく利発な娘が都会の広い世界に憧れをもつのは自然な感情であることを駅長は理解することができる。  
「教会までのせていっていただき」
 駅長の言葉はドーニャを馬車に自然にのる状況をつくった。ドーニャがここから出ていくことができるのは父親と別れると判断しないですむ状況のみである。何も気がつかないで言われたようにも見えるこの言葉は、駅長と彼女の強い信頼関係に基づいて、ドーニャの運命の展開を認める駅長の深い精神によって発せられた言葉である。駅長は愛情によって愛情の拘束からドーニャを自由にした。この言葉は、彼がドーニャと自分の運命を分かち、ドーニャの意志と運命の大きな流れにすべてを委ねる決断をしたことを意味している。
 ドーニャが年頃になるまでは彼女の成長を見守ることが、駅長にとって大きな幸福であった。ドーニャにとっても優しい父親に見守られて駅長の仕事を手助けすることが幸福だった。しかし彼女が年頃になり、この幸せを越える時期を迎えていた。駅長は彼女を愛していればいるほど、美しく賢い彼女の個性を生かすように行動せざるをえない。
 ドーニャを馬車にのせたのは、ドーニャの運命に対する駅長の直観的な決断だった。彼は自分が一人残されどうなるかなど考えずに決断した。30分後に駅長は実際に娘が自分の元からいなくなるということはどういうことか分かり始める。駅長は彼女がいないことによって受ける苦しみの大きさを知った。彼は動転し、あの時の自分は分別をなくしていたと考える。これは大きな決断のもとに生じる動揺である。
 どんなに娘を可愛がっても、都会へ行くことだけは決して許さないのが、田舎の父親の常識である。彼らは馬車にのることを許すようなことはしない。駅長の言動は、田舎の父親の分別から外れている。彼は常識からはずれた自分の直観的判断を自覚しているわけではない。自覚しないまま大きな判断を下している。  
やっと病気がよくなるかならぬうちに、駅長は○○○県の駅局長に二ヵ月の休暇を願い出て、自分の目論見は誰にもひとことももらさずに、徒歩で娘を探しに出かけた。駅馬券によって彼は、大尉のミンスキイがスモレンスクからペテルブルグへ行く途中だったことを知っていた。彼を乗せて言った御者の言葉によると、ドーニャは道々ずっと泣き通しだったけれど、そのくせ自分から好きこのんで乗っていくような様子だったそうである。『まあたぶんおれは』と駅長は考えるのだった。『うちの迷える子羊を連れ戻せることになるだろうよ』」
 御者が伝えたドーニャの様子は彼女がミンスキイについて行くことを選択したことを示している。都会に行くことは不安であっても父親と別れることは悲しくても、新しい運命の展開への期待が溢れている。
 行くようにうながしたものの実際ド−ニャがいなくなればさみしさが募る。駅長にとて彼女が仕事の上においても生活の上においても生き甲斐だった。駅長は都会へ行く許可を与えるほど彼女を愛しており、別れた後いとしさが募りたえられなくなった。駅長にはもう一度会いたいという強い衝動が生じている。ただドーニャに会いたいからいくだけであっても、連れ戻しに行くと彼は考える。彼は大きな運命の流れにつきうごかされて行動している。その大きな感情を素朴で具体的な形で意識する。苦労に満ちた生活を送ってきた素朴な人物の特徴である。誰でも自分の行動の動機を正確に理解できるわけではない。本当の動機を明らかにするのは行動である。この後の彼の行動が、どんなに連れ戻したいと思っていたとしても実際にはドーニャを連れ戻す気などないことを示している。  
老人の胸は煮えたぎって、涙が両目ににじみ出た。彼はわななく声でやっとこれだけ言った『旦那さま・・どうぞお慈悲でございます。』『失せたものはもう取り返しはつきません。でもせめて、うちの可哀想なドーニャだけはお返しくださいまし。もう十分にお慰みになったじゃありませんか。どうぞ罪もないあれの身を破滅させないでくださいまし」
 ミンスキイに会った時、駅長はミンスキイの気持ちやドーニャの様子を確かめようとしていない。彼女の気持ちがどうかも考慮されていない。誘惑して捨てるつもりであると決めつけ、ただもうドーニャを返してくれと訴えている。ドーニャを連れ戻したいという一方の感情に身をまかせている。
 駅長にはドーニャを連れ戻そうという計画があるわけではない。この感情の爆発は、ドーニャを連れ戻せる可能性がないという状況が前提となっている。もしその可能性があれば連れ戻すのが本当にドーニャにとっていいのかどうか、別の葛藤が生じることになる。無理に連れ戻してもと通りにくらせるのかが問題になってくる。ここでは駅長はそのような問題を考えることなくただ自分の気持ちをぶつけている。このような感情をドーニャにぶつけることはしない。返してくれと頼んでも何の影響もない状況のもとで自分の感情を吐露することで、ドーニャへの未練を断ち切ろうとしている。
 これまで駅長はドーニャの運命を考えて自分の気持ちを抑えてきた。駅長にとってこの時が愛情をそのままぶつける最後のチャンスである。自分の愛情にだけ没入している。感情が高揚するまま、自分の気持ちを一方的にぶつけている。最後の別れを惜しむ感情である。最後だからこそ甘い感情にひたり、自分の感情を晒すことを駅長は自分に許している。  
「出来てしまったことは元には返らないものなあ」ひどく当惑の態で応えた。「きみにはすまないと思うし、また喜んできみの許しを乞いもしようさ。だがこの私がドーニャを見捨てる、なんていうことは思わないでくれないか。あれはこの先も幸福なはずだ、これだけはきっぱりうけ合うよ。それに、君があれを取り返してみたところで何になるかね。あれは私を愛している。あれはもう、以前の身分などはすっかり忘れてしまっているんだ。きみにしてもあれにしても、いったん覚えた味は忘れられまいじゃないか」
 ミンスキイは一時的な気まぐれではなく心からドーニャを愛していた。ドーニャを見捨てることはないという言明もその通り実現される。しかし彼がドーニャを心から愛していたとしても、貴族である彼には駅長やドーニャの絆や複雑な心理を理解することはできない。自分が愛情と豊かな生活をドーニャに与えたことによって、ドーニャは駅長のことを忘れたと単純に思い込んでいる。
 ミンスキイは駅長とドーニャの運命や関係にとって、第二次的な立場にある。彼の悪だくみで駅長とドーニャが引き裂かれたわけではない。美人を好きになって誘惑すること、仮病をつかうことなど、非難するに値しないことである。ミンスキーはドーニャが駅から出ていくきっかけをつくったが、別れを決めたのはドーニャと駅長である。彼が駅長やドーニャを理解できないとしても当然のことであり、駅長もそれを期待しているわけではない。  
長いこと彼は身動きもせずに立っていた
 いいたいことをすべて吐露したことが、これまで強くこみ上げていた感情を鎮める作用を及ぼした。とにかくドーニャを返してくれと訴えたことがドーニャへの未練を断ち切るきっかけになった。駅長は自分自身を取り戻し冷静になっている。駅長は都会での新しいドーニャの人生が始まっていることを理解した。ドーニャは帰ってこないことが深く確認されている。
 駅長は袖の折り返しに金が入っていることに気がつく。駅長は怒り金を投げ捨てる。その後金を拾いに行くが、なくなっていても気にしない。金などどうでもよくなっている。金を渡されて彼が感じた屈辱や怒りは一時的でたいした問題ではない。ミンスキイに腹を立てても金に意識をとられても、結局ドーニャの運命に対する理解は動揺していない。  
「わが家に帰ろう、あの宿場へ帰ろう」
 駅長は静かに決意する。ドーニャを馬車にのせたときもこの時も大きな分岐点での重大な決断は葛藤を経ずあっさり簡潔に行われる。
 ドーニャを田舎から出すという決意はもうすでに下されている。駅長にとって田舎でのドーニャのいない人生をどう受け入れるかどうかが問題だった。ドーニャの独立的な運命を認める駅長は彼自身の独立的な人生と精神を持っていた。自分自身の運命や生活はあの田舎にある、ドーニャがいなくなって侘しい生活が待っていようと田舎に帰るしかないと決意した。  
その前にせめてもう一目だけ可愛想なドーニャを見ておきたかった
 ペテルブルグまできた本来の目的がやっと自覚された。とにかくドーニャの様子を確かめたいというのが駅長の行動に現れている彼の真意である。ドーニャを馬車にのせた時と同様に完全にドーニャの意志と彼女の運命に従うつもりである。  
みごとに飾りつけられた部屋の中に、ミンスキが思い沈んだ様子で坐っていた。ドーニャは流行の粋をつくした服装で、さながら馬の鞍に横乗りになった乗馬婦人のような姿勢をして、男の腕に腰をかけている。彼女は優しいひとみをミンスキイに注ぎながら、男の黒い巻き毛を自分のきらきら光る指に巻き付けている。可哀そうな駅長よ。彼には我が娘がこれほど美しく見えたことはかつてないのだった。彼は思わずうっとりと見とれていた。」
 駅長は自分とは違う世界に行ってしまった娘の美しさに心から感動している。駅長は望みどおりドーニャの姿を見ることができたことに満足した.駅長はペテスブルグまで行き、ミンスキイに会い、ドーニャに会い、様々な手順をふみ、感情の変動を経験して、ドーニャがもう帰ってこないという現実を受け入れる過程をたどっている。そして再びドーニャと離れるしかないという決意が固められた。
 馬車に乗るようにうながしたこと、娘の幸福そうな姿をみて諦めて田舎へ帰ったことなどすべて、彼は実質的には、娘がペテルブルグでミンスキイのもとで幸福になるように行動していることがわかる。彼の全体の行動の背後にドーニャを都会にいかせるという駅長の一貫した決意を読み取ることができる。
 駅長はドーニャを失うことによって、ドーニャに対する愛情を貫いた。無理に田舎に押し止めた場合は、むしろ愛情や信頼を失うことになる。駅長はすべて捨てたことによって、すべてを獲得した。  
 「ドーニャを可愛がってやりようが、大事にしてやりようか、足りないとでもいうんでしょうか。あれでもまだあの子は幸せでなかったというんでしょうか。だがどうも災難というやつは逃れられないものでしてね。まったく運というやつばっかりはどうにもなりませんよ。」
 「いやまったく、世の中にはいろんなことがあるもんでしてな。旅のいたずら者におびき出されて、しばらく囲われた挙げ句にぽんとふり捨てられるのは、何もあれが初めではなし、あれがおしまいでもありませんのさ。ペテルブルグという町にゃ、今日のところはやれ絹やビロードだとかぴかしゃかしているが、明日になってみりゃ、安宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、道路掃除でもしていようというあさはか女がうんとこさおりますよ。」
 「時々ドーニャが成れの果てにはそんなそうになるじゃあるまいかと思うたびに、罪深い話ですがつい私は、いっそあれが死んでくれればいいのにと思いましてね・・・」
 深い愛情を持つ場合、別れの後非常につらい思いを味わうことになる。駅長の場合この苦しみは喜びと同一である。ドーニャを失った苦しみは、彼女が彼の人生に与えてくれた喜びや価値と共に味わわれる。一人田舎に残されたことは苦しいが、彼の苦しみはドーニャを自由にするという意義をもった。そこに苦しい運命を受け入れる幸福がある。大きな犠牲が大きな満足を生み出している。運命の変動を体験したものが味わう特有の満足である。
 酒を酌み交わしながらドーニャの思い出に浸り、ドーニャの運命に思いを馳せ、自分の犠牲の大きさを改めて確かめることは彼の幸せである。人が聞いて感動するほどの苦しい人生の体験をすることはわびしい田舎の生活では稀なことである。
 都会には都会の矛盾がある。堕落も破滅もある。田舎の娘が貴族に弄ばれて捨てられるのは世間によくある話であると同時に、捨てられても田舎には戻らず、厳しい生活であっても都会に残るというのが現実の一般的傾向でもある。都会では捨てられても生活ができる。貧しい暮らしに転落したとしても、そこには都会的な生活と多様な人間関係が形成されている。田舎の生活の穏やかさは、狭い人間関係と変化のなさをあらわしている。
 変化のない侘しい生活より、矛盾に満ちていても都会の生活のほうがドーニャにはふさわしいと駅長は判断した。彼はドーニャをペテルブルグへ行かせたことを後悔したり、彼女が田舎に戻ってくるという空想を抱くことはない。都会で生き、そして都会で死ぬ運命が確定したものとして考えられている。彼の駅は次第に街道からはずれてさびれていき、彼の人生は片田舎に取り残されている。この田舎の侘しい生活はドーニャを都会へ行かせた駅長の判断が正しかったことを証明している。
 ドーニャの転落や堕落を心配し、死んだほうがいいとまで言うのは、逆に駅長が彼女の幸福を信じていることを示している。たとえどんな状況に置かれていようと、ドーニャなら彼女の力で生き抜いていることを彼は確信している。深刻な不安がないからこそ駅長は酒を飲みながら甘い感傷に浸り、ことさら自分とドーニャの不幸を強調して嘆くことができる。

 ドーニャがいなくなった後、駅長は飲んだくれの生活を送るようになる。ドーニャを失ったその穴を埋めることはできないが、村の子供たちとの関係、村の人々との関係は維持されている様子がうかがえる。語り手のようにわざわざ尋ねてくる人物もいる。一見すさんだ生活を送っているように見える駅長は、深い苦しみを味わっている人間独特の魅力をもっており、それに引かれる人々と独自の関係が形成されている。
 私が3度目にこの駅を訪れた時もう駅長は死んでいた。私は村の子供から美しい夫人が彼を尋ねてきたこと、彼の墓に行ったことを聞く。
 長い間墓の前に倒れ伏して泣いていた彼女の姿から、ただ駅長の愛情の深さを確認して、悲しみにひたっていることがうかがえる。彼女をおおっているのは駅長と自分の運命に対する感慨である。こまかな後悔や反省や葛藤はない。駅長もドーニャも互いのことを理解しあい納得しあっている。
 ドーニャは駅長の死後やってきたため二人は再会することができなかった。しかし駅長とドーニャの運命は死によって分離されたのではない。駅長が彼女を馬車に乗せたとき、分離と同時に深い信頼による別の一致が形成された。むしろ運命が分離することによって愛情が深まった。互いの消息も分からないまま離れて暮らしていても、そして駅長が死んでも、深い愛情を通じて精神的な絆がつながっていたことが分かる。

 この作品では、ドーニャが田舎を出て行くことはほんの偶然のように見える。ドーニャや駅長は田舎から都会へと人々を駆り立てる動きがまだそれほど大きくない時期に生きていた。この時代に駅長は、この動きを直観的に理解して分離を受け入れ、分離の苦しみを引き受けた。二人は納得づくで別れた。ここに悲劇性の大きさ、愛情の大きさがある。
 後の時代、田舎から都会へ人々が出ていく動きは、次第に大きくなっていく。田舎に止まることは、世の中の動きから隔離されどんなに精神を停滞させるか、すぐれた資質をもっている者が田舎にとりのされた場合どのような苦しみを味わうことになるか、チェーホフをはじめロシアの多くの作家たちが描いている。プーシキンは、この動きが表面に出てくるずっと以前に、都会と田舎に引き裂かれるというロシアの最も典型的な矛盾の中に生きた駅長の精神を描いた。

                                                           2000年4月18日
                                                                 平井 薫
   

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