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2010年11月版 漱石『こころ』 授業案 
     
 はじめに

  小説の授業の教材として、もっとも高度の内容を持ち、生徒の反応も大きいのが『こころ』である。この作品をどう教えるか、探求し続ける価値の十分にある作品である。前回2003年5月に、『こころ』の授業案をアップしてからも、少しずづ検討し変更を続けてきた。今回それをやっとアップすることになった。『こころ』については、これからも検討を続けるつもりであり、その検討過程をできるだけその都度アップしていきたいと考えている。
 
  ★印が付いているのが、今回検討し変更した部分である。また検討途中であるものは、どのような問題があるのか★★印をつけて、簡単にメモ書きをつけている。ご意見や質問をいただき、それを参考によりよいものにしていきたいと考えています。(2010年11月)
 
  『こころ』は多くの人々の関心をひきつける作品である。高校生もこの作品の複雑で細かい心理描写に他の作品とは違う強い印象を抱く。しかし教科書に採択されている場面だけでは先生の全体像を理解することが難しい。先生のKやお嬢さんへの感情を理解するためには、先生の倫理的価値観や猜疑心、Kの禁欲的価値観から考えることが必要である。自分の行動は利己心の発現だと言う先生の心理と、先生の人生全体からうかがえるKに対する強い信頼と友情の関係を理解するのがもっとも難しい点である。また先生の倫理観の全体像や、明治精神に殉死するという先生の死の意味など、『こころ』には多くの課題が残されている。

  『こころ』の「下」の前半では、叔父との関係から、私の猜疑心がどのように形成され、私の倫理的価値観はどのような内容を持っているかが詳しく描かれている。ここではその中の重要な場面の抜粋と教科書に掲載されることの多い三十五から四十七の場面についての質問と考え方の例を掲載した。授業時間数に制限があり、多くの時間をかけるのは難しいが、それでも教科書に入るまでに、『こころ』の下の前半部分をプリントで扱い、私とKの生い立ちや価値観を確認する方が教科書の内容を理解しやすいと思われる。
(前半の本文の抜粋は、40文字40行の設定で表裏プリント3枚に印刷することができます。)

 本文抜粋資料へ



 ☆Kがお嬢さんへの恋を私に告白する場面
  (三十五後半、三十六、三十七) について


◎1)「Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ケ谷のどこへ行ったのだろうというのです。」とあるが、「いつもに似合わない」とはどういう意味か。
・普段のKは、学問や書物の話ばかりで、お嬢さんや奥さんの話をすることはなかった。

◎2)面倒よりも不思議の感に打たれたとはどういうことか。
・お嬢さんについてのKの質問に答えることの煩雑さよりもどうしてKがいつもに似合わない話を続けるのか、調子が違うのか不思議だった。
 

◎3)Kが「突然黙った」ことから、私は何を感じたか。
・Kは何か重要なことを言おうとしている。
*Kの口元は震えるように動いていた。私は、普段は無口なKが何か言おうとすると口をもぐもぐさせる癖があることを知っていた。そのKの癖は、考えつくした上で重みの籠もった言葉を発するKの特徴を表していた。
*私はKが何か重要なことを言うだろうと予感し、待っていた。

◎4)「何か出てくる筈だとすぐに感づいていた」私が「驚いた」というのはどういうことか。
・「お嬢さんに対する切ない恋」を打ち明けるとは思っていなかった。
・私は大きな衝撃を受けた。

◎5)その「驚き」はどのように表現されているか。
・「魔法棒のように一度に化石された」
・「一つの塊りだった」

◎6)Kの告白はどのような特徴をもっているか。
・ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けていった。
・Kは自分に集中していて、私の表情などに注意する余裕を持っていなかった。
・最初から最後まで同じ調子で貫いていた。
 

◎7)Kがお嬢さんへの恋を打ち明けた時、私はどう思ったのか。
・「しまった」「先を越されたな」と思った。
・どうしていいかわからず苦しくてたまらなかった。
・Kの話が耳にはいらないほど、どうしようという念にかき乱されていた。
・Kの言葉の強い調子だけは私の胸にひびいた。
・Kの決意は容易な事では動かせない、Kは自分より強いという恐怖を抱いた。


◎8)Kの話が終わったときの私の心境はどのようだったか。
・何事も言えなかった。言う気にならなかった。
*Kの告白は彼の生き方に関わる重要な問題であって、私はKの告白の重さを直感的に感じている。

◎9)「手ぬかり」とは何か。
・私の気持ちを打ち明けなかったこと。
・さっきKの言葉を遮ってでも、こっちから逆襲すべきだった。
・せめてKの後に続いて自分も打ちあけるべきだった。

◎10)「この不自然」とは何か。
・Kの自白が一段落ついた今となって「こっちからまた同じことを切り出す」こと。
*時機が遅れて打ち明けるのはおかしいと考えた。

◎11)「襖」をはさんで、Kにどのようなことを期待したか。
・Kが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好い。

◎12)静かなKに対して私はどういう心理状態だったか。
・ 静かさにかき乱される
・ Kが気になってたまらない
・ そのときの私は調子が狂っていた
・ それでいて襖を開けることができなかった

◎13)私から進んで襖を開ける事ができないのは、どうしてだと考えているか。

・「いったん言いそびれた私は、また向こうからはたらきかけられる時機を待つよりほかにしかたがなかった。」
*私はKに打ち明けられなかったことを後悔しつつ、どうしてもKに打ち明けない。その理由を私は偶然的な状況のせいにしている。
*私はお嬢さんに心引かれて、お嬢さんに結婚を申し込もうと思ったことが何度もあったにもかかわらず、打ち明けることができずにいた。私は叔父に財産を横領された経験から、すべての人間に猜疑の目を向けた。私はお嬢さんに対しても猜疑心を消すことができなかった。Kに恋をうち明けることができないのは、恋に積極的になれない私の問題であるが、それを私はここでは、「時機」が遅れて打ち明けるのは不自然だから、いったん言いそびれてしまったからという状況のせいだと考えている。

◆(参照十六 十八 三十四 三十五)  

◎14)私は、無暗に歩き回りながらKにどのようなことを聞かねばならないと考えたのか。

・平生のKがどこに吹き飛ばされてしまったのか。
・どうしてここまで恋が募ってきたのか。
*平生のKが追究する生き方は「恋」と相容れないものである。Kが恋をしたというのは普通の人が恋をしたのとは違った意味を持っている。


☆散歩の場面(四十、四十一、四十二)  について
  四十
◆引用 二人は別に行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。前後の様子を綜合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。けれども彼の態度はまだ実際的の方面へ向ってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向って、ただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。一言でいうと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は彼の平生と異なる点を確かに認める事ができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件でその特色を強く胸の裏に彫り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。

◎1)「例の事件」とはどういうことか。
・Kが私にお嬢さんの気持ちを打ち明けたこと。

◎2)「実際的の方面へ向かってちっとも進んでいない」とはどういうことか。
・お嬢さんに働きかけていない。

◎3)Kが私に「どう思う」と聞いたのはどのような意味があったのか。
・「恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるか」知りたい。
・Kは「現在の自分について、私の批判を求め」ている。
*Kは恋愛感情を抱いたことで、現在の自分のあり方、自分の生き方を問題にしている。Kはお嬢さんとの関係をどうすればいいかアドバイスを求めているのではなく、もっとも信頼する私に批判を求めている。

◎4)「彼の平生と異なる点」とは何か。
・現在の自分について、私の批判を求めているらしい点。
*いつものKとどうも様子が違うと私は感じている。

◎5)「彼の天性」とは何か、いつものKはどのような様子か。
・「他の思惑をはばかるほど弱くできあがっていない」。
・「こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある」
*Kは、他人の思惑など気にせず、自分が信じる生き方を貫いてきた。

◎6)「養家事件」とは何か。
・Kの家は真宗の寺でかなりの財産家だった。Kは中学のとき医者の家に養子にだされた。Kの養子先も裕福で、そこから学費を出してもらって、Kは東京の大学に進学した。養子先は彼を医者にするつもりだったが、Kはそれに従わず、哲学や宗教について勉強し、禁欲的な修行に励んだ。Kはそれを自分から養子先に知らせ、養子先との関係や財産の相続を捨てることを選んだ。彼は実家からも勘当されたが、自分の意志を曲げなかった。(参照十九 二十 二十一)  
*養父母が望む通り医者になっていれば、地方の名士として、経済的にも安定した生活が保障されていた。しかしKは「道」のために生きる、そのために「精進」すると考えていた。Kは「道」のために妨げになると思われる人間関係をすべて切り捨てた。

  
引用◆私がKに向って、この際何んで私の批評が必要なのかと尋ねた時、彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいといいました。そうして迷っているから自分で自分が分らなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるより外に仕方がないといいました。私は隙かさず迷うという意味を聞き糺しました。彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰りました。彼はただ苦しいといっただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。

◎7)Kは自分の現状をどのように考えているか。
・自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい。
・迷っているから自分で自分が分らなくなってしまった。
・私に公平な批評を求めるより外に仕方がない。

◎8)「弱い」とはどういう意味か。
・お嬢さんに恋をして今までの生き方に突き進めないことを「弱い」と感じている。
*Kはこれまで、養家や実家との関係を断ち切って道のために生きてきた。Kにとっての恋は今までの生き方を否定することである。今までの価値観と矛盾する感情を抱き、道を貫けず、揺らぎの生じている今の自分をKは弱いと考え、私に批評を求める。
参照二十二 二十四

◎9)「公平な批評を求める」とはどういうことか。
・Kは唯一の理解者である私に、「道」という観点からの批評を求めている。

◎10)Kはどういう意味で「進んでいいか退いていいか迷う」という言葉を使っているか。
・今までの生き方を進んでいくべきか、退くべきか迷うということ。
*Kはこれまでの自分の生き方に行き詰まり悩んでいるという意味でこの言葉を使っている。Kが悩んでいるのは恋をどう進めるかでなく、今までの「道」に対する迷いである。
*Kの道とは禁欲的な態度をとること自体に価値を置くようなものではない。すべてを犠牲にする道という生き方を真摯に求め、それが現実的成果を持たらさないため、すでにKは神経衰弱になっていた。私の下宿で元気を回復し、Kは今までの価値観と矛盾する恋愛という感情を抱いた。Kは戸惑いながらも、自分の中に生じた恋愛という自然な感情を、今までの生き方を考える契機にしている。

◎11)「退こうと思えば退けるのか」という言葉を私はどのような意味で尋ね、Kはどのような意味で受け取り「苦しい」と答えたのか。
・私・・お嬢さんへの恋から退くこと、恋を諦めることができるのかと尋ねた。
・K・・道から退くこと、道をあきらめるのが苦しいと答えた。
*Kが自分の生き方自体に行き詰まり悩んでいることを、私はお嬢さんへの恋に進むか退くかを意味していると限定して解釈した。

◎12)「Kに都合がいい」と私が考えている言葉はどのようなことか。
・お嬢さんへの恋を励ます言葉
*Kが求めていたのは恋に陥っている自分を「批判」する言葉である。私が「Kに都合がいい」と考える言葉と、Kが求めている言葉は食い違っている。

◎13)「私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。」とあるが「その時の私は違いました」とはどういうことか。
・Kを打ち倒そうという感情を持った。
*「美しい同情」をもって、常に倫理的に生きている私が、このとき初めて違う感情をもったということ。


引用◆四十一
「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向ったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

◎14)「他流試合でもする人のようにKを見ていた」という言葉からわかる私の気持ちは何か。
・Kと対立しKをうち倒そうと考えている。

◎15)「私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。」とはどう意味か。
・私はKの考えていることをすべて分かっていると考えている。

引用◆Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向って急に厳粛な改まった態度を示し出しました。無論策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といい放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

◎16)私はKが「理想と現実の間に彷徨してふらふらしている」のを発見したとあるが、「理想」「現実」という言葉をどのような意味で私は使っているか。
・「理想」Kが自分の道を貫くこと。「現実」お嬢さんに恋してしまったこと。

◎17)私がKに言い放った「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉はどのような意味か。
・精神的向上を第一に目指すべきだ。
*これはK自身の言葉で、Kの信念を表していた。房州を二人で旅行した時、精神的向上を第一に目指し、恋愛を軽蔑していたKが、私を批判した言葉だった。


◎18)「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉が「復讐以上に残酷な意味を持っていた」とあるが、
a)「復讐」とは何か
・Kに言われた批判をKに返すこと。K自身の信念でKを批判すること
参照三十


b)「残酷な意味」とは何か
・この一言でKの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたこと。
*Kは恋に進むことを悩んでいるのではない。Kの前には「恋の行く手」は横たわっていない。私はKの前に「恋の行く手」が横たわっていると考え、さらに自分がそれを「策略」によって阻もうと「残酷な意味」をもった言葉を言ったと思っている。
・私の意図を超えて、この言葉はKの行き詰まりをはっきり自覚させことになった。
★検討課題・「残酷な意味」とはKの運命を自殺に導いてしまったという意味まで含むのか?

 引用 ◆Kは真宗寺に生れた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃からお嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑の方が余計に現われていました。

◎19)Kの言う精進にはどのような意味が含まれていたか。
・「道のためにはすべてを犠牲にすべきものだ。」
・「摂欲や禁欲は無論、欲を離れた恋そのものでも道の妨害になる」
*Kは医者の家を継げば、裕福で安定した生活ができた。誰もがそうした生活を求めるときに個人的幸福を求めず、財産を放棄して道を求めるという生き方をしていた。

◎20)私がKに反対したのはどういう事情からか。
・お嬢さんに恋をしていた。
*私はKのあまりにも厳しい禁欲主義に疑問を抱いていた。愛情や結婚がKが言うようにまったく価値のないものとは考えられなかった。私はKの生き方を尊敬していたが、この点についての考えは対立していた。しかしKを納得させるだけの反論はできなかった。

◎21)この時点での私とお嬢さんとの関係はどのようなものだったか。
*私は叔父に財産を取られるという経験をした後、あらゆる人間を疑い、財産をねらわれているのではないかという猜疑心を抱くようになった。私はお嬢さんに恋心を抱いていたが、関係が深まるにつれて、奥さんが叔父と同じように財産目当てで、お嬢さんを自分に接近させるのではないか、奥さんと同じようにお嬢さんもまた策略から私に好意をみせているのではないかという疑念がおこり、お嬢さんへの好意と猜疑心の間で動けなくなっていた。

◆引用「こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kにとって痛いに違いなかったのです。しかし前にも言ったとおり、私はこの一言で、彼が折角積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが、道に達しようが、天に届こうが、私はかまいません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。」

◎22)私の「利己心」とはどのようなものだと、私は考えているか。
・Kが積み上げた過去を今まで通り積み重ねて行かせ、その結果がどうなってもかまわないと考えること。
・Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れること。

◎23)「Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する」とあるが、私は何を恐れたのか。
・Kが道を捨てて、お嬢さんへの恋に積極的に進むこと。
    
◎24「私の利害」とは何か。
★ここで私が意識している「私の利害」とは何か。意識されていない客観的な「利害」とはどのようなものか。またそれらはどのような関係にあるか。これを規定することは大変難しい問題である。

引用◆「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
 Kはぴたりとそこへ立ち留まったまま動きません。彼は地面の上を見詰めています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいという事に気が付きました。私は彼の眼遣いを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、徐々とまた歩き出しました。

◎24)私の言葉をKはどう受け止めたか。
・道に生きることができない自分は「馬鹿だ」と、Kは私の批判を素直に受け入れた。
*Kは自分の生き方を理解する唯一の人物として私を信頼している。Kは私に厳しい批判を求めており、Kにとって恋にすすむことは最初から問題になっていない。Kにとって私の批判は「騙し討ち」でも「卑怯」でもない。自分の信頼に応えてくれた言葉だった。
*私はKと対立しKの恋の行く手を阻むつもりでこの言葉を言った。実際には、厳しい批判を求めていたKに、Kが期待していた通りの言葉を言ってしまった。

◎25)私は何に「ぎょっと」したのか。
・Kが立ち止まったまま動かず、地面を見つめている様子。

◎26)「居直り強盗のごとく」に感じた、とはどういう意味か。
・Kが開き直ってお嬢さんの方向へ向かうのではないかと感じたということ。
*「居直り強盗」とは、辞書的には、こっそり盗みに入ったものが家人に発見されその場で強盗に変わるという意味である。自分の言葉がKに打撃を与えたことを感じながら、Kが開き直ってお嬢さんへ向かうのではないかという不安の方をあえて強く受け止めようとしている。それにしては声に力が乏しいことや目遣いが分からないことを深く考えようとしなかった。

引用◆四十二
「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せといった方がまだ適当かも知れません。その時の私はたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍へ来て、お前は卑怯だと一言私語いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私を窘めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。

◎1)どういう点で「卑怯」だったのか。
・私はたといKを騙し打ちにしても構わないくらいに思っていた点。
・Kの言葉を待ち受けて、Kの正直さ、善良さ、単純さにつけ込んで、Kをうち倒そうとした点。

◎2)Kを「うち倒す」とはどういうことか。
・無理にでも恋を諦めさせること。

引用◆Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向に見る事ができたのです。Kは私より背の高い男でしたから、私は勢い彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
 「もうその話は止めよう」と彼がいいました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「止めてくれ」と今度は頼むようにいい直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食い付くように。
 「止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」
 私がこういった時、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられない質だったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、――覚悟ならない事もない」と付け加えました。彼の調子は独言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。

◎3)Kが「もうその話は止めよう」と言い、「止めてくれ」と頼んだのはどうしてか。
・Kは先生の言葉で、自分が道という生き方を貫けないことを確認した。Kにとってはこれ以上話す必要はなかったから。

◎4)「口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ」と私の言った「それ」を止めるだけの覚悟、とはどういう意味か。
・「お嬢さんへの恋」を止める覚悟。
*私はKが恋を諦め道に戻ることを確認したかった。

◎5)「それ」を止める覚悟、という言葉を、Kはどのように受け取ったか。
・ 「道という生き方」を止める覚悟
*「平生の主張」を、「どうするつもりか」と問いつめられ、「自分の矛盾を非難されることに、平気でいられない」Kは、自身の中に矛盾を抱え込むことができない。一挙に矛盾を断ち切る覚悟にいきついてしまう。
*Kの生き方の行き詰まりは、この下宿に来る前から始まっていた。Kがどんなに禁欲的に頑張っても成果はでなかった。無理をして健康を害し倒れ、私がこの下宿に呼んだ。Kはここで健康と精神力を回復したが、恋という今までの「道」と矛盾する感情を抱いてしまう。だがKは今までの価値観を捨てる訳にはいかない。この価値観を捨てれば自分自身を見失ってしまう。Kは「道」以外の生き方をすることはできない。「道」という生き方に対する覚悟をどのように示すのか、Kの頭に「死」によって「覚悟」を示す考えが浮かんでいる。しかしまだその考えが浮かんだだけで決意までには至っていない。
*Kの私への信頼と私のKへの深い理解が、Kに自分の生き方の行き詰まりを自覚させることになった。二人の関係は信頼と裏切り、誤解と理解が複雑にからみあっている。二人の主観的意図と、これまで積み上げられた二人の関係はお嬢さんをはさんで複雑にねじれており、「覚悟」「裏切り」「卑怯」「残酷」という言葉は二重三重の意味をもっている。


引用◆四十三
「その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人のもたない強情と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。

◎1)「現代人の考え」とは何か。
・覚醒、とか新しい生活、という言葉にあるように、古い自分を「さらりと投げ出して新しい方角へ」向かうという、時代の変化に合わせた生き方。

◎2)Kの「尊い過去」とは何か。
・経済的援助や財産を放棄し、養家や実家との関係を断ち切って、道という生き方を貫こうとしてきたこと。

◎3)「いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。」とあるが、「むやみに動けない」とは、どういう意味か。
・いくらお嬢さんへの激しい恋の感情が燃えていても、「道」という生き方を貫いてきたKはむやみに恋に進めない。

◎4)「双方の点において彼の心を見抜いていた」とあるが、「双方」とは何か。
・Kには「投げ出すことのできないほど尊い過去があった」こと。
・Kには「現代人の持たない強情と我慢があった」こと。
*Kはお嬢さんへの恋をあきらめて、今までの道に戻るだろうと、私は解釈した。
*「現代」は大きな変化の中にいる。しかし、Kは投げ出す事のできない「尊い過去」を持っており、今までの生き方を変えることができない。それを私はよく理解している。

引用◆上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。私はKが室へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳した後、自分の室に帰りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。

 ◎5)「恐るるに足りないという自覚」とは何か。
・お嬢さんとの関係においてKを恐れる必要がないと思っていること。
・Kに恋を諦めさせることに成功したと「勝利」と「得意」を感じている。
*私はKを尊敬し、勉強をはじめ何をしてもKにはかなわない(参照二十四)、容貌も性質もKの方が自分より優れている(参照二十九)、常に自分よりKの方が強いのだと考えていた。この時は自分の策略が成功しKに恋を諦めさせることが出来たと安心している。しかしKが恋を諦め道にもどってしまうと、私もお嬢さんとの関係に進むきっかけを失うことになってしまう。

引用◆ 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。急に世界の変った私は、少しの間口を利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
 その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた眼を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、昨夕の事を考えてみると、何だか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食う時、Kに聞きました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだといいます。なぜそんな事をしたのかと尋ねると、別に判然した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。
 その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅を出ました。今朝から昨夕の事が気に掛っている私は、途中でまたKを追窮しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日上野で「その話はもう止めよう」といったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点に掛けて鋭い自尊心をもった男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を抑え始めたのです。

◎6)私は何に対して「なんだか不思議」と感じたのか。
・昨夜のKの行動について。
*夜中、襖が二尺ばかり開いて、Kが立っていた。「もう寝たのか」とKが聞いたこと。

◎7)「なんだか変」と感じたのは何に対してか?
・昨夜の行動に対する私の質問に、判然とした返事をせず、かえって調子の抜けた頃になっ熟睡できるのかとKが聞いてくること。
*いつもKは明確で率直な返答をする。私はKのはっきりしない態度を見てKがいつもと違うと感じている。

◎8)強い調子で言い切ったのはKにどのような考えがあったからか
・Kにとって恋はもう終わったことであり、この時Kは自分の生き方についてどう覚悟を示すか考えている。

◎9)Kが鋭い自尊心をもっていることに気付いた私はそれから何を連想したのか。
・「覚悟」という言葉
*「覚悟」という言葉の意味が急に気になりだした。
*Kのことを深く理解している私が冷静に考えてみるとKが恋に進むはずがないことが分かり安心する。この安心を私は無理矢理打ちこわしている。

引用◆四十四
「Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔な訳も私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら揺き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに畳み込んでいるのではなかろうかと疑り始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。その時の私がもしこの驚きをもって、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだよかったかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうと一図に思い込んでしまったのです。

◎1)「私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです。」とあるが、「一般」「例外」とはそれぞれ何か。
・「一般」…Kは本来「果断にとんだ性格」であること。
・「例外」…恋についてのみ例外として「優柔」であること。そのためお嬢さんへの恋に進むという決断をすることはできないだろうということ。

◎2)「得意だった」とあるが、私はKについてどう考えていたのか。
・Kがお嬢さんへの恋に進むという決断をすることはないだろうと考えて安心していた、ということ。

◎3)私の得意がぐらついて、私が疑いだしたことは何か。
・恋についても「例外でないのかもしれない」ということ。
・「すべての疑惑、煩悶、懊悩、を一度に解決する最後の手段を、Kは胸に畳み込んでいるのではないか」ということ。

◎4)私は「覚悟」という言葉をどのように解釈し直したか。
・「果断にとんだ彼の性格が、恋の方面に発揮される」と解釈した。
・Kの「覚悟」を、「お嬢さんに対して進んでいく」という意味に解釈した。

◎5)「公平に」見廻すことをせず「一図に思い込んでしまった」のはどうしてか。
・Kがお嬢さんに対して進んでいくつもりだと思い込むことで、Kへの対抗心からお嬢さんとの関係を進める勇気を得ようとした。
*Kがお嬢さんへの恋を断念してしまうと、私もお嬢さんとの関係を発展させられないままの状態に留まることになる。私は自分の都合で、Kの覚悟の言葉を解釈し直している。私はそう思い込むことで自分自身を「最後の決断」に追い込んだ。

引用◆私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。私は黙って機会を覘っていました。しかし二日経っても三日経っても、私はそれを捕まえる事ができません。私はKのいない時、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。
 一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって仮病を遣いました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時頃まで蒲団を被って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内がひっそり静まった頃を見計らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつもの通り茶の間で飯を食いました。その時奥さんは長火鉢の向側から給仕をしてくれたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持ったまま、どんな風に問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈托していたから、外観からは実際気分の好くない病人らしく見えただろうと思います。
 私は飯を終って烟草を吹かし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢の傍を離れる訳にゆきません。下女を呼んで膳を下げさせた上、鉄瓶に水を注したり、火鉢の縁を拭いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
 私は仕方なしに言葉の上で、好い加減にうろつき廻った末、Kが近頃何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くのです。

◎6)私の「最後の決断」とは何か。
・お嬢さんに結婚を申し込む決断。
*私はお嬢さんに恋をし、かなり以前から結婚を意識していたにもかかわらず結婚を申し込むことができなかった。私の猜疑心は結婚に進むことを押しとどめていた。この決断は結婚に進むための、これまでの猜疑心を超えようとする決意である。Kが「覚悟」を決めた様子であることに影響をうけて私も「最後の決断」を行った。
*Kが恋の方向に進もうとしていると思い、それは自分の「利害」と衝突することであり、「利己心」からそれを阻もうとしていると考えてきた。そう考えることでお嬢さんとの関係を進めようとしたことを私は自覚できないでいる。

◎7)結婚を申し込む決心をして、私はどうしたか。
・お嬢さんの留守、Kのいないときをねらって奥さんに談判を開こうとした。
・好都合な時を待って一週間経ったあと、ついに仮病を使った。生返事をしながら、布団をかぶっていて、誰もいなくなってから寝床を出た。奥さんと二人になってもなかなか切り出せず、言葉の上でうろつきまわった末、Kが何か言い出さなかったかを尋ね、Kに「別段頼まれたわけではないから」、Kに関する用件ではないと言い、どうしようもなくなって、突然「お嬢さんを下さい」と言った。
*決心したにもかかわらず、実際に奥さんに話をするまでかなりの時間がかかった。

☆プロポーズの場面(四十五、四十六)  

◎1)奥さんの返事はどうだったか。
・奥さんはあっさり承諾した。
◎2)どうして奥さんはあっさり承諾したのか。
・奥さんはお嬢さんが私に好意を持っていることを知っていたので承諾した。
*奥さんとお嬢さんの側には、私との結婚に問題はなかった。問題は私自身にあった。


引用◆自分の室へ帰った私は、事のあまりに訳もなく進行したのを考えて、かえって変な気持になりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底に這い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。

◎3)プロポーズ後、私が「かえって変な気持ち」になり、「果たして大丈夫なのだろうかといふ疑念」が「頭の底に這ひ込んで」きた、のはどういうことか。
・ お嬢さんとの結婚に不安を感じている。
*結婚が決まってかえって不安になっている。Kを出し抜いてでも結婚を決めようとしたはずなのに満足感や充実感はない。
*この不安は以前からもっていたものであるが、Kを出し抜こうと緊張していた間は感じることがなかった。奥さんの承諾を得て、結婚が決まったことで改めて不安を感じている。
* 私は叔父との財産問題からあらゆる人間に強い猜疑心を抱くようになった。同時に私は自分の猜疑心の強さやそこからくる神経の消耗を意識していた。すべての人間に対する不信を打ち消すような愛情や信頼を理想とし、一点の疑いもない純粋な愛情かどうかにこだわった。お嬢さんや奥さんは財産を狙っていないのか。それを直接確かめることは出来ない。結婚をするために困難があれば、それを乗り越える過程で互いの信頼を築くことができただろうが、財産がある私にはそのような困難がない。私は猜疑心を越える行動をおこせないままでいた。Kと競争する形で気持ちをかきたてて、結婚を決めてしまったが、この愛情が本物なのか自分自身を確かめることができなかった。
*この過程でKとの関係は深まったが、お嬢さんとの関係はいっさい深まってはいなかった。

◎4)「私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました」
*結婚の承諾をもらったことによって、私は自分自身の問題に向き合うことになった。私は親からの遺産で暮らしており、社会に出て活動した経験も無く、人との接触をできるだけ避けて暮らしている。このような生活では、大きな困難や積極的な行動を経験することがない。人との間に深い信頼関係を築く機会を得ることが難しい。結婚はこのように財産に守られ孤立し安定した生活を確定した。

引用◆Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。彼はいつもの通り机に向って書見をしていました。彼はいつもの通り書物から眼を放して、私を見ました。しかし彼はいつもの通り今帰ったのかとはいいませんでした。彼は「病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか」と聞きました。私はその刹那に、彼の前に手を突いて、詫まりたくなったのです。しかも私の受けたその時の衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。

◎5)「良心が復活」とはどういうことか。

・お嬢さんとの結婚に踏み込んだ不安に心をとらわれていた間はKのことを忘れていたが、Kに声をかけられ、Kを裏切ることをしてしまったという気持ちがわき起こったということ。

◎6)家に戻り、Kに声を掛けられた時、私が感じた「そのときの衝動」とは何か。
・Kの前に手を突いて、謝りたい。
*Kは単純に私の病気を心配している。下らない策略を労した自分を謝りたいと思う。だが私はどうしても謝れない。

◎7)謝りたいという私の「自然」が食い止められた理由を私はどう考えているか。
・奥には人がいたから。
*これは外的な理由であって、私がKに謝れない内的な理由は意識されていない。

引用◆夕飯の時Kと私はまた顔を合せました。何にも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い眼を私に向けません。何にも知らない奥さんはいつもより嬉しそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。私は鉛のような飯を食いました。その時お嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の室で只今と答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんは大方極りが悪いのだろうといって、ちよっと私の顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんで極りが悪いのかと追窮しに掛かりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
 私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔付で、事の成行をほぼ推察していました。しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それを《悉く話されては堪らない》と考えました。奥さんはまたそのくらいの事を平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸いにKはまた元の沈黙に帰りました。平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。私はほっと一息して室へ帰りました。しかし私がこれから先Kに対して取るべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私は色々の弁護を自分の胸で拵えてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向うには足りませんでした、卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。

◎ 8)「私だけがすべてを知っていた」の「すべて」とは何か。
・Kを出し抜く形で結婚を決めたこと。
*ここで私が「すべて」として意識しているのは、Kが私に恋を打ち明けたにもかかわらず、私はKに何も言わずにお嬢さんとの結婚を申し込んだことである。しかしこのような形で結婚を決めるようになった背景にはどうしてそうなったのか非常に複雑で深刻な問題が積み重なっている。この時点で私は「すべて」がどのようなものか認識できないまま、単に表面的な経過だけをさして「すべて」と考えている。

◎9)「自分で自分でKに説明する」ことが嫌になったのはどうしてか。
・「色々の弁護を自分の胸で拵えて見」たが、「どの弁護もKに対して面と向かうには足」らなかったから。
*自分を「弁護」するためには、ちゃんとした「説明」が必要である。きちんと「説明」することが、「Kに対して面と向かう」ことになる。そのためには、私がどうしてこうなったのか。お嬢さんと結婚するためにKと対立していたのはどんな意味をもっていたのか。どうしてこんなつまらない卑怯な態度をとることになったのか、私は何を悩んでいるのか、このような行動をとった自分はどのような人間なのか、説明が必要である。Kと話をするためには「自分で自分をKに説明する」必要があるが、自分の問題を自覚できない私は説明することができない。
* 実際にはKとの競争の形で結婚を決めることしかできなかったが、そうさせた猜疑心を私は認識していない。自分の奥に有る苦悩に気づいているが、それを説明できず謝れない自分を倫理的な意識から、卑怯と考える。


引用◆「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟するのですから、私はなお辛かったのです。どこか男らしい気性を具えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに素ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。

 ◎11)「Kに対する絶えざる不安」とは何か。
*Kに結婚について説明しなければならないが、どうしても話すことが出来ない不安。

◎12)「私は何とかして、私と此家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。」

a)「倫理的に弱点をもっている」とはどういうことか。
・Kに黙ってKを出し抜く形で結婚を決め、それを謝ることができないのを、私自身が「卑怯」であると感じていること。にもかかわらず何も話すことができないこと。

*親友を相手に様々な策略を労し、出し抜く形で結婚を決めた私は良心が痛むと感じる。謝罪したいと思うし、謝罪しなければならないと思う。叔父との経験から人を騙すこと信頼を裏切ることを許せず、倫理的道徳的に生きるべきだと考える私は、謝罪できない自分を卑怯で倫理的に弱点を持っていると意識する。倫理的な観点からは当然謝罪するべきであるが、しかしどんなに自分が卑怯だと思ってもどうしても説明ぬきに謝罪することができない。
*これまでの行動を引き起こしたのは私の内面の深い問題であると感じているが、それが何か分らない。だから私は自分がなぜ謝罪する気になれないのか分らない。どうしてKに結婚を知らせることがこれほど「至難の事のように感ぜられた」のか分らないでいる。

◎b)何が「至難の事のように感ぜられた」のか。
・「私と此家族との間に成り立った新しい関係」を、Kに知らせること。
*Kに知らせなければならないのは婚約の事実ではない。婚約の事実を打ち明けて謝罪することだけなら、それほど難しいことではない。これが「至難の事」であるのは、今回このように結婚が決まったことが、「私と此家族との間」にどのような「新しい関係」が成立したことを意味しているのかをKに説明できないからである。これを説明するためには、これまで私はどうして結婚を申し込めずにいたのか、結婚を申し込めなかったのは、これまで私とこの家族の関係がどのようだったからなのか。結婚によってそれがどう変化したのか、様々な問題を説明しなければならない。そのためには私が私自身を理解しなければならない。私は何を悩んでいるのか、このような行動をとった自分はどのような人間なのか、これを理解することは謝罪することより難しいことである。この理解と説明なしに単に謝ることは、むしろ問題をごまかすことになってしまう。

引用◆私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変りはありません。といって、拵え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問されるに極っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝け出さなければなりません。真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
◎13)自分でKに説明できない私が考えた別の方法はどのようなものか。  
・奥さんからKに結婚のことを話してもらうこと。

◎14)この方法を実現できない理由は何だと考えているか。
・ありのままを告げられては、Kに対して面目がない。
・拵え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問される。
・すべての事情をうち明けると、奥さんとお嬢さんに「自分の弱点」をさらけ出し信用を失う。

★*私は「面目」や「信用」を失うことを恐れている。

引用◆要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。

◎15)「私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らしてしまった馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。」とはどういう意味か。
・私は高い信頼関係を求め倫理的に生きようとしてきた。しかし現在の自分がそうではないということが強く意識されている。「正直な道を歩くつもり」だったのに「つい足を滑らした馬鹿者」という言葉からどうしてそうなったのか分からないでいることが表現されている。そして面目や信用を失うことを恐れ打ち明けることができない自分を「狡猾」だと意識している。

◎16)「しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。」とあるが、私は何を「窮境」と考えているか。
・「今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない」ことを、苦しい状況と考えている。
*結婚に至った経過と自分の苦悩を、きちんとした説明でなくてもKにうち明け、よくわからないままにも自分をさらけ出し話したならば、Kと苦しみを共有することはできたはずである。Kに話すことができていたら、一歩前に踏み出すことが出来たかも知れない。しかしこの時の私は滑った事を隠したいという気持ちが強かった。

◎17)「この間に挟まってまた立ちすくみました。」とあるが、
a)「この間」とは何か。
・「あくまですべったことを隠したが」ったことと、「どうしても前へ出ずにはいられなかった」ことの間。
*自分の苦悩をうち明け、Kと苦しみを共有する可能性があったはずだが、私はKに完璧な説明ができないからという理由で、Kに説明することから逃げている。自分の生き方にこだわり、自分にこだわることによって、私は実際に卑怯である行動をとっている。
唯一の可能性を失った。
b)「また立ちすくんだ」とあるが、以前どういう場面でたちすくんだか。
・お嬢さんとの関係をどうすべきかわからず立ちすくんだ場面。三十四、三十五参照。


◆ 五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」 私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと細かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは固より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。 奥さんのいうところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に坐っていた私は、その話を聞いて胸が塞るような苦しさを覚えました。 

◎18)「最後の打撃」とは何か。    
・ 結婚の知らせのこと。 

◎19)「もっとも落ち着いた驚きをもて迎えたらしい」とあるが、私はKをどう捉えているか。
・Kは驚いただろうが動揺せずに落ち着いて結婚を受け入れたと私は考えた。

◎20a)結婚のことを知った時のKの様子はどのように描写されているか。
・最初は一言「そうですか」と言っただけだった。
・奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」と言った。   
・「結婚はいつですか」と聞いた。    
・「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」と言った。
*Kは私とお嬢さんの結婚は知らなかった事実として驚いた。私が直接何も言わなかったことも不思議に思ったかもしれない。しかしそのようなことはKにとって大きな問題ではない。
*Kはお嬢さんに恋心を抱いたが、お嬢さんと結婚したいとは最初から考えていない。驚いたものの落ち着いて考えてみると私はお嬢さんと結婚するにふさわしい相手と思い結婚を祝福した。
*Kの心はすでにお嬢さんへの恋から離れ、この時は自分の生き方や覚悟をどうしめすかという問題に集中している。Kは自分の生き方を理解して的確な批判を与えてくれる人物として私を信頼しており、それが損なわれることはない。★まとめる

*Kは常に端的に自分の気持ちを表明する。ここにさまざまな意味を織り込むのは私である。
*私にとって、Kがこのように簡単に許してくれることはかえって苦しいことである。結婚にどうしても踏み込むことができず、Kへ卑怯な策略を弄するまでした長い間の苦しみが、単にお嬢さんと結婚したいがための軽率な判断や行動と誤解されてしまう。
★整理

b)胸をふさがれるような苦しさを感じるのは何に対してか。
・Kが結婚を祝福してくれたことに対して。
・二人の運命が切り離されている。その時に自分の卑怯さを意識する。
*私はここで自分とKとのずれを意識する。Kは私とお嬢さんとの結婚を祝福してくれた。だが私はその結婚に不安を感じている。Kと共有した苦悩の方が私には大切である。それを共有してきたKが私の結婚を祝福することにより、私とKとの運命が切り離されてしまう。私はKが内心は苦悩しているのだと思うことによって、Kとの関係を維持したいと無意識のうちに考え、自分の卑怯さを意識し続ける。

◆☆Kの自殺の場面(四十八)

 引用◆「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。」 

◎1)奥さんから結婚の話をしてからのKの態度はどのようだったか
・Kは私に対して少しも以前と異なった態度を見せなかった。

◎2)Kの様子を「超然とした態度」と表現しているが、私はKをどのように考えているのか。
・内心は苦しんでいるがそれを見せず平然としてみせているように思う。

◎3)Kに対して私は自分をどのように考えるか。
・策略で勝っても人間としては負けた。
*狡猾さで勝利したが人間としてはKの方がはるかに立派だと考える。自分の抱えている矛盾を説明することができず、私は自分を道徳的に否定的に捉える。
・Kが超然としており人間として立派であるというのは、私の以前からの認識である。Kは「道」に生きる立派な人物だと深く信頼しているがために、自分が出し抜こうと騙そうと、Kなら恋愛や結婚という問題で大きなダメージを受けることはないと安心することができた。
*私はKが以前と変わらず「道」という自分の生き方を貫いていると考えている。Kの異変と覚悟について気がついていない。

◎4「さぞKが軽蔑しているだろう」とあるが、私はKがどのような点を軽蔑していると考えているのか。
・策略を用いKを出し抜いて結婚を決めたこと。
*Kから軽蔑されていると感じるのは、私自身が自分の今の状態を不安に感じているからである。私はKを個人的幸福とは別の高い目的を追求している人物として尊敬しており、そのようなKであるから今の私を軽蔑していると考える。
・不安を感じ、Kとの関係を解消できずにいるのは私自身の問題である。)
Kを裏切って今までの自分の価値観とも違う個人的な幸せに入っていこうとしている自分を、さぞKは軽蔑しているだろうと考えている。★検討必要
★倫理観にこだわって孤立を選んでいる。

◎5)Kが婚約を知っているとわかったにもかかわらず、私がKに打ち明けて謝らないのはなぜか?    
・「Kの前に出て恥を掻かされるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛」だと考えるから。
*どう説明するかわからないままでも、Kに打ちけることはできた。そうすれば別の可能性が開けていた。だがそれには「自尊心」が邪魔をした。そういうくだらないことのために、私はまたここでも立ちすくんでいる。

 
引用◆私が進もうか止そうかと考えて、ともかくも翌日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然とします。いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、屹とKの室を覗きました。洋燈が暗く点っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団は跳返されたように裾の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。 私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体は些とも動きません。私はすぐ起き上って、敷居際まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い洋燈の光で見廻してみました。 その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ち竦みました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。 それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。) 手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜しく詫をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。 私は顫える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖に迸っている血潮を始めて見たのです。 

◎1)Kの自殺はどのように描写されているか。    
・私が夜中にふと目を覚ますと、襖がこの間の晩と同じように開いていた。    
・床の上にKが突っ伏していた。襖に血潮が飛び散っていた。
a)襖がこの時開いていたのはどのようなことを意味しているか。    
・Kが先生が寝たかどうか、前の晩と同じように確かめた。    
・Kが私に最後の別れの挨拶をした。    
*様々な可能性が考えられる。

◎2)「私はまたああしまったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。」とあるが、
a)何について「ああしまった」と感じたのか。    
・親友であるKを失ったこと。    
・Kにうち明ける機会を失ったということ。
*Kに対しては私はこれまでもいろいろとしまったと後悔することをしてきた。強いKだと信じているから策略を弄することができたし、信頼を回復する自信もあった。しかしKが自殺した今は取り返しがつかないことになった。

b)「黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。」とは、どのような意味か。    
・衝撃の強さ
*Kの自殺が、これからの私の人生にずっと影響を与え、私は一生、Kの死の意味を考えることになる。

◎3)「私は私を離れることが出来ませんでした」とはどういうことか。
・手紙を見てなにが書かれているかを気にした、それによる周りの私に対する評価、世間体を気にしたということ。 
*この衝撃を中で、私はKのことではなく自分の些末な問題を考えている。

◎4)「中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛い文句がその中に書き列ねてあるだろうと予期したのです。」 予期したような事とは何か。    
・私のことを非難する言葉 

◎5)Kは自殺の理由をどう書いているか。
・自分は薄志弱行で、とうてい行き先の望みがないから自殺する。
*道に生きられない自分は生きる望みがなくなったと考える。
*意志」の力を養って強い人間になることに人生のすべてをかけていたが、そうなることができず、到底行き先の望みがないと自覚したKは死を選んだ。

◎6)死後の始末を私に頼んだことにはKの何が現れているか。
・私への信頼。友情。
*お嬢さんのことや私の結婚のことはKの視野にはない。死後の始末を私に頼むのは私を信頼したまま、Kが死んだことを示している。

◎7)「もっと早くに」とはどのような意味がこめられているか。 
*死の間際で決断が遅れたことを後悔している。 

◎8)「もっと早く」とはいつの時点か。
*恋をしたとき、図書館を出たとき、批判を求めたとき、御前はばかだと言われたとき、覚悟ならないこともないと言ったとき、この前襖を開けたとき、など様々な解釈ができる。

◎9)「わざと回避した」と私が考えるのはKの死因をどう見ているからか。
・Kの死を失恋のせいだと考えている。それを見せないため、お嬢さんと私のためにわざと書かなかったのだろうと考える。
*私はKの死を自分と切り離して考えることができない。ここでも、Kの単純さを私は私の視点で複雑に解釈する。
*私はこの時点では、私とお嬢さんが結婚することになったことがKの自殺の原因だろうと考えている。
 *これは私の誤解である。しかし私はこれからもKの自殺について、Kの自殺に対して自分が果たした役割について、考え続けることになる。 

*先生はお嬢さんと結婚した後も、財産に守られた生活を送る。実践的な活動の必要がない生活からは苦難等を共有しながら培われていくはずの信頼関係を作ることができない。妻との間に傷がつくことを恐れ、美しいまま保ちたいと願う関係は、信頼を求めながらも、それ以上の関係にはならない。自分の潔癖さを求め、身動きもとれずにいる自分が、主義のために死んだKと同じだと考え、Kの辿った道を自分も辿っていることに気が付く。すべてを自覚した上で、自分もKと同じように今更、生き方を変えることができないこと、この生き方を葬ることによって、若い「私」の糧とすることで、この生に初めて意味を与えることを自覚して、先生はあえて死を選ぶ。

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