『三四郎』 夏目漱石    


  「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入つた三四郎か新しい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自ら波瀾が出来るだらうと思ふ」(漱石全集・第21巻185頁・岩波書店)

 漱石は『三四郎』の予告にこのように書いている。 「手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈」と軽い調子で述べているこの言葉には、社会の 「新しい空気」と新しいタイプの人間を 「勝手に泳いで、自ら波瀾が出来る」ように描くことができる段階へ進んだ自信があらわれている。



 「凡ての物が破壊されつゝある様に見える。さうして凡ての物が同時に建設されつゝある様に見える。大変な動き方である」(漱石全集・第7巻19頁)

 三四郎が触れる 「新しい空気」を作ったのは日露戦争後の急激な経済発展である。都会において、古い関係を破壊し新しい関係を建設する激しい変動が起こっていることが観察されている。また冒頭の場面では三四郎の耳に、男と女が戦争、景気の変動、物価の上昇や大陸への出稼ぎなどの話をしているのが聞こえてくる。このような社会現象が人々の生活に大きな影響を与えている。人々の生活が変化する中、知識人の社会における地位も変化し始めた。
 これまで田舎から東京の大学へ入学することは、エリートインテリとしての将来が約束されることであった。田舎の高校を卒業したばかりの三四郎はこの幻想を抱いていた。

 「大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具つた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采する。母が嬉しがる」(第7巻13頁)

三四郎は自分の将来をこう考え、大きな未来が控へていると自信を持っていた。しかし彼は田舎を出て東京に落ち着くまでのわずかの間に、この自信は田舎でしか通用しないものだということを知っていく。

 【汽車での出会い】

 三四郎に対して最初に大きな動揺を与えるのが汽車で出会った女である。この女は三四郎の知らない階層の女である。汽車の中で出会った爺さんと女はすぐ懇意になって日常的に苦労を経験している者同士の身の上話を始める。坊ちゃん育ちでたいした経験もない三四郎と女とでは会話が成り立たない。三四郎はどう接していいのか戸惑い行きずりに一夜を共にする相手としてさえも考えられない。

 「貴方は余つ程度胸がない方ですね」(12)

別れ際の女の言葉は三四郎に大きな衝撃を与える。あらためて自分の態度を振り返って見ると、女の言葉は自分に対する的確な指摘であったと認めないわけにはいかない。田舎では特別の未来が開けた秀でた者として扱われ、自分でもそう思うことに慣れていた。しかし大学生であることを特別意識せず接してくる女と対等に接する力が自分にはなかったことを知らされた。むしろ教育を受けた結果、女と対等に接することができなくなっていて
いるのではないか、

 「何だか意気地がない。非常に窮屈だ。丸で不具にでも生れたやうなもの」(13)

 と初めて自分に疑問を抱く。
 この女から受けたショックを別の側面から自覚するのはその後出会った男の言葉からである。服装や三等車に乗っていることから中学校の教師程度と軽くみなしていたが、この男の態度や真面目だか冗談だか分からない話は、三四郎がこれまで知っていた知識人のイメージとは違っていた。日本の将来をあっさり 「亡びるね」と断定し

 「日本より頭の中の方が広いでせう」(19)

というこの男の言葉を聞いて三四郎は今まで自分は非常に狭い範囲の知識しか持っておらず、自分の知らない考え方や価値観があることを思い知らされる。三四郎は自信が壊れたことを 「真実に熊本を出た」と受け止める。大学生という肩書だけで自信をもち自惚れていたことを 「自分は非常に卑怯であつた」と反省する。下層の女とまったく地位などなさそうな知識人に出会ったことによって、田舎の高等学位の優等生というそれまでの彼の枠を取り払う。どうせ下層の女と風采の上がらない男の言うことと無視すれば帝国大学生としての誇りを守ることができる。しかし三四郎は女や男の言葉を受け入れて自分を省みるだけの度量を持っている。

 【東京での新しい出会い】

 東京で新しく出会う人物、野々宮や美禰子も三四郎がこれまで知らないタイプばかりである。さまざまな印象をどう整理していいのか分からなくて三四郎は混乱する。思わず 「矛盾だ」とつぶやく。

 「大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付きが矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾してゐるのか、又は非常に親しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、−この田舎出の青年には、凡て解らなかつた。ただ何だか矛盾であつた」(27)

田舎の狭い世界にいた彼は、東京に来て、現実は今まで思っていたよりずっと複雑で多様であることを知り、自分は何も知らなかったことを自覚した。田舎の優等生としての能力が都会でも通用すると単純に自惚れたまま留まるより、このような混乱と戸惑いは価値を持っている。素直で謙虚な感覚でさまざまな現実の側面を取りこんで、自分の世界を一挙に大きく広げようとしている。一面的な見解に限定されるのではなく幅広い世界を自分のものにする可能性、さまざまな世界を観察していくに従って認識を深めていく能力を三四郎は持っている。
 三四郎はこれから自分も新しい学問の世界に入っていくのだという強い期待を持って新学期の大学の講義を迎える。しかし散々待たされてやっと講義が始まってみると教授は断片的な知識を相互の関連のないまま並べたてるだけであった。これらは知的好奇心や学問的関心を干からびさせてしまう類の知識である。教授たちは細分化された狭い研究分野の中に閉じこもり重箱の隅をつつくような研究に専念している。落第という文字を丁寧に彫りつけてあったり、ポンチ絵を書いていたり、このような講義を真剣に聞いている学生は見当たらない。学生たちの関心は大学の講義から離れている。卒業後の就職や寄席などの娯楽に移っている。
 三四郎は真剣に講義を受け、生真面目にノートをとって週に四十時間もの講義を聞いてまわって努力を続ける。その上でどうしても 「物足りない」と思うようになる。帝国大学の権威が講義の内容を保証するように思い込んでいたのはまったくの幻想であったことを最終的に自覚するきっかけになったのが図書館で見つけた落書きである。落書きは真理を追求したヘーゲルと比較して、教授たちは単に生活のために惰性的に講義を行っていると批判していた。これは彼自身が講義に感じていた物足りなさと同じであり、気軽にその通りだと共感できた。しかし落書きは同様に学生も試験に受かるため、就職のために 「のつペらぼう」に講義を聞いている、学生たちの 「なす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず」と批判している。彼はこれを自分にも向けられている批判として受け取る。彼は田舎者らしく驚いたり圧倒されたりしながらも、娯楽や流行などの表面的には派手だが瑣末な都会の特徴に流されない。自分が 「社会の活気運」に関わっていないと自覚し、都会の諸関係がどうなっているのか真撃に考える。彼はここで講義の内容に失望する段階から独自の課題や問題意識を現実社会の中から汲み取ろうとする段階に一歩進む。
 三四郎は与次郎によってさまざまな人々との交遊の中に引き込まれ新しい世界に連れていかれる。与次郎は都会の活動や娯楽をたくさん知っており、文壇や雑誌社にも出入りしている。広田先生や野々宮や美禰子や原口をはじめ大勢の学生や教授連中にいたるまで彼の交遊範囲は非常に広い。与次郎はいつも軽い調子で適当に喋り散らしているように見えるが、庶民的な感覚で三四郎には見えない別の面を指摘したり、他の人々との関係を認識するきっかけを作るという役割を担っている。

 【三つの世界】

 三四郎は三つの世界に取り囲まれていると自分の立場を整理する。第一の世界熊本の田舎は遠くにあり、母の手紙が着いた時だけ立ち帰る。母の住む田舎は、激しく活動する都会の対照として挿入されている。田舎は三四郎にとって 「凡てが平穏であるかはりに凡てが寝坊気てゐる」古ぼけた世界である。都会の刺激に疲れた時母の手紙から伝わる愛情や素朴さに三四郎は安らぎを感じる。しかしお光さんの家が持っている田畑や、家と家の今までの付き合いから結婚話が持ち出されるように、田舎では小さい利害のしがらみの中で人々は生きている。 「至つて正直もの」と言われる者も女房を薪でなぐるようなことは日常茶飯事である。自分が建てた石塔を三四郎に褒めてもらって箔を付けてもらおうとする。手紙に書かれたこのようなエピソードから伺えるように田舎の人々の素朴さは美化されない。
 第二の学問の世界には野々宮や広田先生がいる。学問の成果を著作にして世間から尊敬されるという一般的な学者のイメージと彼らは全く異なっていた。 「現実世界」と接触できず戸惑いを感じていた三四郎は彼らを激しく活動する 「現実世界」と意識的に交渉を絶っているために落ち着きを持っていると解釈する。
 第三の世界は華やかな活動の世界である。富によって獲得できる享楽に溢れている。美禰子がこの世界を代表している。彼女は着物や身のまわりの物に贅沢に金を費やしてその上に洗練を加え上品な雰囲気を漂わしている。指に余った部分がさらりと開いているというハンカチの持ち方、ふんわりと前に落ち、ある角度でぴたりと止まる礼の仕方など、美禰子の身のこなしやしぐさはちょっとした細かい点まで非常に洗練されている。三四郎は彼女の美しさに引かれてこの世界に入って行きたいと思う。しかし同時に近寄り難く、何かが 「自分が自由に出入りすべき通路を塞いでゐる」と感じる。
 この三つの世界の背後にはもうひとつ貧しい人々の世界が描かれている。 「あゝあゝ、もう少しの間だ」と力のない呟きを残して列車に飛び込む女や、菊見坂で見掛けた乞食、ちょっとした火事のために運命がまったく狂ってしまう人々、最初の汽車で出会った老人や女などが点描される。田舎から出てきたばかりの三四郎の眼にも否応なしに入ってくるこれらの下層の人々は、日露戦争後の目覚ましい資本主義的発展によって新しく作り出された階層である。三四郎は彼らの生活や感情がどんなものかは理解できないが、彼らの生活は貧しく厳しいものでそれゆえ自分にはないエネルギーを持っているということを感じ取っている。

 【オラプチユアス】

 三つの世界のうちで三四郎がもっとも興味をひかれるのは美禰子の世界である。広田先生の家の庭に現れた美禰子を見た時、三四郎は彼女の眼に強い印象を受け 「オラプチユアス」としか形容し得ないと断定する。美学の教師から聞きかじったばかりで、よく意味が分からない不思議な語感がぴったりだと思える。美禰子の彼に与える印象は強烈であるが、彼女がどのような女性であるか分からない。

 「何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる」(75)

 三四郎は美禰子と自分との間に何か特別の精神的な関係が生じていると受け止めている。その確証を彼は美禰子の眼の印象の中に懸命に探し求める。
 美稲子は現実から遠い世界を詩的と捉え、雲を 「舵鳥のボーア」と想像する。三四郎にとってはこれまでの生活に無縁だった感性である。上流の世界に入っていく可能性のある三四郎は、それを上品な雰囲気として憧れる。三四郎が雲は雪の粉であるという野々宮から聞きかじった科学的知識を美禰子に話すと、彼女に 「雪ぢや、詰まらないわね」と否定される。三四郎が同じように興味をひかれ理解しようと努めている野々宮と美禰子の感覚が対立することが暗示される。三つの世界を統一しようと考えていた三四郎は、早くもここで美禰子と野々宮のどちらの世界に共感するのか、 「あなたは雪の粉でもよくつて」と選択を迫られる。まだ彼は二つの世界を知ったばかりでどちらとも判断できない。こういう形で判断が迫られていると意識もできないまま、肯定も否定もせず話題をそらす。この間題はまた形を変えながら問われ続ける。
 美禰子に謎めいた雰囲気を感じているのは三四郎だけである。他の登場人物たちは異なった見方をしている。三四郎と美禰子が空を眺めていた場面に登場する与次郎は、三四郎のように美禰子の詩的世界に興味を示さない。美禰子が二階にいると聞いて 「何をしてゐたんです」とせき立て掃除を頼んでおいたのに遊んでいたのだろう 「冗談ぢやない」と考える。本の整理をしながら美禰子に遠慮なしに小言をいい、サンドウィッチのはいった籠を自分で持ってきたと聞いても 「車夫でも連れてきたんですか。序に、少しの間置いて働かせれば可いのに」と言い、引っ越しの手伝いとして間に合わない困った変わり者のお嬢さんだという風に扱う。

 「あの女は反つ歯の気味だから、あゝ始終歯が出る」(125)

美禰子の美しさについても、三四郎が美禰子の顔の中で一番魅力的だと思う目付きと歯並びを与次郎はあけすけに批評する。与次郎は美禰子に魅力を感じていない。
 三四郎を黒ん坊のモデルにして小説を書いてみたらどうかという与次郎の冗談が、三四郎と美禰子の関係を照らしだす。与次郎の冗談を受けて美禰子は 「書いても可くつて」と三四郎に尋ねる。彼女は主人と黒ん坊の奴隷という関係を三四郎と自分との関係に自然に当てはめている。この時三四郎は美禰子の眼に 「酔つて辣んだ心地」になり 「どうぞ願ひます杯とは無論云ひ得なかつた」と描写されている。 「どうぞ願ひます」と彼女の言葉に調子を合わせるのは、アフラ・ベーンが書いた奴隷の黒ん坊と同じ地位に甘んじて彼女に媚びることである。三四郎は美禰子に憧れているが、卑屈に取り入ることはできず、かといってどうすればいいかわからない状態である。
 引っ越しが終わる頃野々宮も登場して、三四郎、与次郎、広田先生、美禰子と主要な人物が初めて一堂に会する。野々宮や広田先生と美禰子がどのような関係にあるのか描写される。
 広田先生は団子坂の菊人形について 「あれ程に人工的なものはおそらく外国にもないだらう。人工的によくあんなものを描へたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」と批評する。菊見は人々が大勢くりだしてお互いの羽振りを競い合う場所である。野々宮と与次郎は広田先生の皮肉を理解して 「先生一流の論理だ」と面白がる。美禰子は 「ぢや先生もいらつしやい」と誘いの言葉をかける。何気ない言葉であるが、広田先生の言葉と行動が一致しない点を引き出してみせようとする刺が含まれている。三四郎は団子坂の菊見がどんな所か知らないので、広田先生の皮肉も美禰子の言葉に含まれている刺も理解できない。広田先生や野々宮がいる学問の世界と、美禰子がいる華やかな活動の世界とが調和しているようでもあり、 「何処かに落ち着かない所がある」ようでもあり、彼らの関係が三四郎の関心の的である。
 空中飛行機についての論争で美禰子と野々宮の関係が描写される。美禰子は 「死んでも、其方が可いと思ひます」と空を飛んでみたいのなら装置が充分でなくても試みるべきだと主張する。美禰子は野々宮の実力と実績を認めているからこのような論争を挑む。自分の非凡さに一目置くという形で野々宮に認めてもらいたがっている。彼女は裕福な家のお嬢さんとして育ち、長年の努力を続けないと突破できないような困難や障害に出会ったことがない。飛びたいのならとにかく飛んでみるか、何もせず地面に立っているか二つしか想定できない。目的を実現するための準備ではなく、無茶な行動が勇気の現れに思える。
 野々宮は毎日穴蔵での地味な光線の研究に打ち込んでいる。野々宮は実質的な研究に携わっておりより大きな研究の成果を挙げるためにそれだけ本格的で徹底的な準備が必要となることを知っている。装置についての細かな工夫やデータの解析など毎日の実験に充実を味わい、この実験が世界の科学の進歩の中で果たす役割に意義を感じている。 「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」と言う野々宮は、彼女を相手にして真剣に論争しようとしていないことがわかる。地道な準備の必要性など美禰子に説明する気がなく 「死ぬばかりだ」と彼女にも理解しやすい所に論点を作っている。
 野々宮は論争を打ち切って 「女には詩人が多いですね」と広田先生に相槌を求める。抽象的な論争に付き合うのが途中で嫌になる。美禰子を現実的な関心を巡っての会話の相手としては不足であると判断している。自分と野々宮との感覚の違いは詩人的情熱と理学者的慎重さとの違いだと思っている美禰子の誤解をそのままにする。情熱を夢見るお嬢さんによくありがちな平凡な空想として片づける。自分や広田先生の研究態度を説明して理解される可能性も、その必要性もないと判断している。美禰子の反論より広田先生の感想に興味を持っている。

 【乞食と迷子】

 この論争で描かれた二人の食い違いの基本的な内容は何なのか、広田先生や三四郎やよし子を含めて、次の場面で掘り下げられる。団子坂に行く途中、物乞いをする乞食に出会う。乞食に対する態度に、彼らの社会に対する考え方や立場の違いが現れる。

 「やる気にならないわね」(98)

 きっかけは乞食に施しをやる気にならないというよし子の言葉である。この言葉は特別非人情的な冷たい響きを持たない。よし子の感想はごく自然な印象として受け取られる。誰も乞食に哀れみをかけようとしないし、よし子を非難しない。 「やる気にならない」ということを前提にして会話が進む。

 「あゝ始終焦つ着いて居ちや、焦つ着き栄えがしないから駄目ですよ」(98)

 美禰子は金をやる気にならない理由をこう説明する。大声をのベつ出すような物乞いの仕方では、金を遣ろうなどという気にはとてもならない、金をやる気にならないのは乞食のせいだと考える。哀れみを乞う表面上の姿の真には哀れみを売り物にして金を手に入れようとする下心が隠されているのであり、こんな下手な哀れみの乞い方だと下心が見え透いて金を貰えないのは当然だと判断する。

 「いえ場所が悪いからだ」(98)

 この言葉によって広田先生は、金をやる気にならないという気にさせる客観的条件へと焦点を移す。その中で 「あまり人通りが多過ぎる」という点を強調する。やる気にならないという感情は状況によって変化する。 「山の上の淋しい所で、あゝいふ男に逢つたら、誰でも遣る気になるんだよ」と仮定する。

 「其代り一日待つてゐても、誰も通らないかも知れない」(99)

 野々宮は 「山の上の淋しい所で、あゝいふ男に逢つたなら」という仮定の別の側面を指摘する。そんな所に人が通りかかるというのは極めて稀な偶然である。都会とは別の理由で金を手に入れる可能性は少ないことを野々宮は指摘する。野々宮は広田先生が乞食についてこのような冗談半分の会話の中でも、他の人間とは違った観点を示すのに興味をもつ。 「場所」という観点を持ち出したことで問題が複雑になっている。 「人通り」の多い少ないは、乞食を取り巻く多くの状況の一つである。条件の一つだけを取り出すと野々宮が指摘するような矛盾が生じる。大勢の人々が通り過ぎても乞食は人通りの多い場所で物乞いをする。都会では新しい経済の発展のために貧富の差が拡大し、家も仕事もなくしたたくさんの乞食が生まれてくる。経済的活動や金の流通する規模が大きく、そのごく一部分であっても施しとして乞食の手にわたる金が常に存在する。大勢の人々が通り過ぎ金を恵んでくれる割合がどんなに少なくても、通りかかったほんの一郎の人が金を恵んでくれるだけである程度の金が手に入る。大勢の乞食を生み出し、彼らが乞食として生きていけるのが都会である。 「人通り」に注目する視点は条件か複雑に絡み合った都会の社会関係の問題に発展する契機となる。
 三四郎は彼らの乞食に対する批評が同情を前提にしていないのを見て非常に驚く。

 「自分よりも是等四人の方が却つて己れに誠である」(99)

彼は彼らの感じ方を肯定して受け入れる。 「己れに誠であり得る程な広い天地の下に呼吸する都会人種である」と、通りかかる人々も乞食に同情を感じないですむ条件が都会においては生じており、彼ら四人の会話は都会で形成された感覚を表現する言葉であることを理解する。
 その後出会った迷子を巡って都会のまた別の側面が話題となる。少女の様子は人々の同情を引いているのに、乞食同様誰も助けようとせず通り過ぎていく。迷子を見て誰もが気楽に同情し、同時にそのうち何とかなるに違いないと安心して通り過ぎる。 「今に巡査が始末をつけるに極つてゐるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が言う。偶然や個人的努力に頼らないですむように迷子の面倒をみて責任を取る部署がシステムとして作られている。都会では責任をとる方法や形態が社会的になっている。
 よし子は 「追掛けるのは厭」 「こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」と可愛そうに思っても行動に移す気がないことを認める。彼女は都会で人々が実際にとっている行動を素直に認める。美禰子は迷子についての会話に加わらない。迷子が巡査の手に渡ったのを見て 「もう安心大丈夫です」とよし子にひとこと言う。彼女は迷子を可愛そうだと思い心配している。迷子の子供には乞食のような演技や嘘が感じられない。そういう場合は彼女は同情を感じ、また巡査に無事保護されるのを見届ける。乞食もこの迷子のように純粋に困っていれば美禰子が同情する余地は残されている。下心でもって金を催促されるようだと不快であるが、哀れさが切実に伝わるならば喜んで金を渡すはずである。彼女が気持ち良く同情心を発揮するために、乞食はもっと哀れっぽく卑屈になることが必要である。そして金をやった後美禰子は 「安心」し、自分の同情心に満足しそれ以上関心が広がることはない。
  「矢張場所が悪いんだ」と先程の広田先生の言葉を今度は野々宮が使う。 「場所」という言葉が持っている深い意味を野々宮は再確認している。

 「男は二人で笑った」(100)

と描写されているように、よし子が素直に認める現象や美禰子が問題にする人々の意識の奥にもっと様々な条件がからんでいるのだということが二人の間では共通の認識となっている。田舎では同情から直接手を差し延へてやれば責任を果たすことになったが、都会ではたまたま目にした乞食を哀れんで施しをやっても、同じように困っている乞食は大勢いてそれは気まぐれの慈善に終わる。どのようにすれば乞食を救うことができるのか、都会の複雑な状況の中でその答えを出すのは容易ではない。さまざまな社会問題を解き明かそうと広田先生は思索を続けている。これを野々宮は理解している。


 【ストレイシープ】

  「見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間に立つて振り返つた」(101)

 美禰子は上流のお嬢さんとして洗練された雰囲気を漂わせており、町家のものたちの間に溶け込まず、とりわけ目立つ存在である。野々宮と広田先生は 「菊の培養法」について熱中して話しているが、美禰子は菊の花に関心を持っていない。野々宮が菊の根を指しながらなにか熱心に説明しているのを見て彼女はさっさと一人で出口に向かう。彼女にしてみれば 「菊の培養法」のような馬鹿げた会話のために相手にされないなど甚だしい屈辱である。彼女は彼らから排除され、無視されていると感じる。
 三四郎は菊の花よりも美禰子に注意を払う。乞食についての広田先生や野々宮の会話には感心するが、また美禰子の方へ、美禰子の 「物憂さう」な眼や二重瞼に浮かぶ 「不可思議なある意味」の方へ引きつけられる。一行から離れて小川の辺に腰を下ろした美禰子と三四郎の間で引っ越しの場面と同じ空や雲のことが話題になる。 「大理石の様に見えるでせう」と強引に美禰子は三四郎に同意を求める。三四郎は 「えゝ、大理石の様に見えます」と単に美禰子の言葉を繰り返して相槌を打つ。 「かう云ふ空の下にゐると、心が重くなるが気は軽くなる」と美禰子の雰囲気に合わせようと努力している。 「どう云ふ訳ですか」と美禰子に興味を示されても 「どう云ふ訳もなかつた」と思う。深くは考えず対句的に言葉を揃えている。引っ越しの場面では彼女の空を眺める雰囲気や言葉のセンスに新鮮な感覚を感じていたが、ここでは彼女の詩的な世界に最初ほど引きつけられていない。乞食や迷子などさまざまな出来事や、現実の関係を探ろうとする広田先生と野々宮の会話の印象が三四郎の頭に刻まれ、空や雲についての空想は色褪せている。

 「朝から晩迄あゝ云ふ声を出してゐるんでせうか。豪いもんだな」(105)
 「商売ですもの、丁度大観音の乞食と同じ事なんですよ」(105)

 菊人形の客を呼ぶ大声が聞こえた時、三四郎は単純に感心するのに対し、美禰子は乞食に対するのと同じように懸命な呼び込みをするのは金を儲けたいという下心があるからであり、あんな呼び込みだとその下心が見え透いてかえって入る気がなくなってしまうと皮肉っている。三四郎は 「場所が悪くないですか」と広田先生の真似をして自分で面白がっている。裏側の意図を指摘する美禰子の見方と 「場所」を問題にする視点とが異なっていることを直観的に把握して反応している。美禰子や広田先生、野々宮と接していくうちに、三四郎は次第に広田先生や野々宮の感覚を吸収し、美禰子の感覚と離れていく過程をたどる。
 美禰子は広田先生や野々宮と離れてきたことを気分が悪いからと三四郎に説明する。彼女自身彼らの態度が原因で離れて来たと思っていない。しかし三四郎が広田先生の言葉を面白がっているのを見てからの彼女の態度は、何気ない様子を保ちながらも広田先生の批判に転じる。

 「広田先生は、よく、あゝ云ふ事を仰やる方なんですよ」(105)

 美禰子の言葉には広田先生はいつもつまらないことを批評するという皮肉が含まれている。このように非難めいた言葉をもらしてもすぐその後でそういう印象を与えないような言葉を付け足している。その緊張が会話の調子が早口になったり急に活発になったりの微妙な狂いに現れている。三四郎はますます広田先生や野々宮のことを気にして話題にする。

 「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでせう」

 と美禰子が広田先生と野々宮のことを批判しているのだと分かる言い方をした時、三四郎は気になって 「誰が、広田先生がですか」 「野々宮さんがですか」と追及する。美禰子が彼らの批評についてどのように考えているのか、責任という言葉を彼女はどういう意味で使っているのか、美禰子が彼らの考えをどう評価しているのか知りたがっている。三四郎に追及されても美禰子は答えない。場所や責任という視点は彼女の関心を引かない。広田先生の批評は美禰子にとって無意味な小理屈である。

 「迷へる子(ストレイ・シープ)」(106)

 この言葉で美禰子は彼女より広田先生の方へ引きつけられている三四郎をもう一度自分の方へ引きつけようとする。詩的な表現で暗示をかけたり、思わせぶりに相手の反応を試したりする媚に彼女の才気が発揮される。

 「私そんなに生意気に見えますか」(107)

 美禰子は彼らに認めてもらえない不満をもらす。 「生意気」と思われているのだろうかというのは彼女としては精一杯の反省である。自分の美しさや才気に自信を抱いている彼女にとって、広田先生や野々宮に無視されたのは相当ショックである。それでも 「生意気」と思われているというのは彼女のプライドが許せる範囲内の反省である。実力のない男が美禰子に反発する時には彼女を 「生意気」と考える。上流のお嬢さんという社会的地位や彼女の頭の回転の早さ、大胆さなどに圧迫を受け、対抗できないときは負け惜しみからあの女は 「生意気」だという評価になる。 「生意気」と見られていると思うのは自分の才気に自信を持っている証拠である。
 
 「あの女は底の方が乱暴だ」(116)

 これが広田先生の美禰子に対する評価である。広田先生が乱暴と評するのは、美禰子が詩的で高尚だと考えている世界以外のものを無視する態度である。彼女が無粋で俗だと判断したものは何の価値もないものとして切り捨てられる。美禰子が菊見の人込みで気分が悪くなり、三四郎は 「下等の者が何か失礼でもしましたか」と尋ねた時、彼女は何も言わない。そういった人々が自分の気分に関係しているとさえ彼女は考えない。また二人が座っている所に年配の男が通り掛かり、若い男女か二人でいるのを咎めるような目で睨みつけた時も、三四郎はこれをひどく気詰まりに感じるが、美禰子はこのような男は問題にしない。無視するという労力さえ必要ない。もともと目に入らない。成り上がった金持ちの上品ぶりとは違って彼女は人を馬鹿にする態度でさえ洗練されている。露骨に見下したり馬鹿にしたりする人々より、彼女の感覚は庶民と遠くかけ離れている。
 
 「周囲と調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何処かに不足があるから、底の方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」(118)

 「あの女は底の方が乱暴だ」という広田先生の評価を聞いた時、三四郎は美禰子が派手な外見の真に何か満たされない思いや苦しみを抱いているのだと三四郎は解釈する。彼女が上流の生活に満足しているならば、三四郎にとって彼女は手の届かない存在である。しかし美禰子が不満を抱いていると考えるならば、自分と美禰子の接点を求めることができる。この三四郎の見方は最初の場面から、 「何とも云へぬ或物」(16) 「何か訴へている。艶なるあるものを訴へてゐる」(74)という曖昧な形で存在していた。引っ越しの場面では 「Pity,s akin to love」(84) 「可哀想だた惚れたつて事よ」(86)の言葉に暗示されていた。 「ストレイ・シープ」という言葉を聞いた時三四郎は真剣にその意味を考え、彼女が苦しみを自分に訴えていると解釈する。何だかよくわからない魅力に強力に引きつけられた最初の時期が過ぎて、美禰子の感覚との食い違いが生じていく過程と、美禰子の魅力を分析する過程が平行して進む。

 【 運動会 】

 運動会の場面では美禰子と三四郎との距離、彼女の属している上流の階層と三四郎との距離が一層明らかになる。運動会は着飾った女性やフロックコートの紳士が集まる上流の社交場であった。美禰子は団子坂とは違いこの運動会の見物の雰囲気に溶け込んで熱心に競技を見ている。三四郎は運動会に溶け込めない。フロックコートの紳士には圧迫を感じ、着飾った女たちには近づくことのできない距離を感じ、人々の喝采を受けて競技を行っている選手たちには 「どうして、あゝ無分別に走ける気になれたものだらう」と違和感を抱く。自分も参加するだけの価値のある競争とはどうしても思えないが、女性たちが熱心に競技を見ているのを見ると注目をあびている選手たちが少し羨ましい。最後には 「あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐる」と決めつけ、運動会を抜け出し裏山の崖の上へ坐る。こんなものに価値を認めないと意地を張っているが、運動会からすっかり離れてしまうことはできない中途半端な行動である。この活動の世界に出入りする道は出世の競争に打ち勝つことである。競争への反発は競争に入って行けない臆病さの現れである。このような臆病さは美禰子から認められない。
 崖の上で一人でいる三四郎を見た美禰子の眼は 「高い木を眺める様な眼」だったと描写されている。華やかな雰囲気を楽しんできた美禰子にはこんな所にいる三四郎が不可解に見える。 「此上には何か面白いものがあつて」という言葉には三四郎への軽い皮肉が含まれている。この時三四郎は美禰子のちょっとした言葉や視線まで自分を愚弄したものではないかと感じる。美禰子が野々宮を褒めるのを聞いて、彼女に認められるためには野々宮のような仕事をして実績を残さねばならないのだということに気付く。

 「外国に迄聞える仕事をする人が、普通の学生同様の下宿に這入つてゐるのは、必竟野々宮が偉いからで、下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなくつてはならない」(135)

 美禰子は野々宮を尊敬している。しかし彼女がこういう形で野々宮を誉めることに美禰子と野々宮の大きな食い違いが現れている。 「近頃の学問は非常な勢ひで動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取残されて仕舞ふ」(28)と言うように野々宮の関心事は世界の科学の進歩の最先端の動きである。日本では自然科学の基礎的な研究は金儲けや出世と結びつかず認められにくい状況である。野々宮は日本の大学の教授としての名声を得ることより、自然科学の世界的発展に貢献したいという欲望を優先させている。生活は簡素な方が研究に都合がいい。可愛がっている妹のためにさえ時間を割かれるのは苦痛である。彼は教授会に 「僕なんか出ないでいゝのです」(28)と時間をとられないでむしろ都合がいいという程度に考えている。俗用に煩わされるのは厄介で、まして教授の席を得るのに奔走したり、金儲けの手段をいろいろ考える暇はない。穴蔵での実験がおもしろくて専念してきた結果外国まで認められる程の成果を挙げた。
 美禰子には野々宮が 「単純な生活に我慢」していると見え、それは 「研究の為已を得ないんだから仕方がない」と考える。 「外国に迄聞える程の仕事をする人」という名声を得ている野々宮が 「普通の学生同様な下宿に這入つてゐる」という点を誉めている。 「下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなければならない」とまで強調することから、野々宮はよっぽどの覚悟で禁欲的生活に耐えている、余裕のある生活をしたいのに世界的な名声を得るために我慢していると解釈していることが分かる。野々宮の研究に対する真剣さを感じることはできても 「外国に迄聞こえる程の仕事をする人」という名声からの判断であり、野々宮が研究にかけている情熱や、名声や金などに囚われない感覚を理解することができない。

 【広田先生】

 野々宮と美禰子の広田先生に対する評価は食い違う。野々宮は広田先生を尊敬しているのに対して美禰子は評価しない。三四郎は初め広田先生をどう理解していいのか戸惑い 「世の中を傍観してゐる」 「批評家」(49) 「古戦場を説明する」 「案内者」 「実際を遠くから眺めた地位に自らを置いてゐる、そこに楽天の趣がある」(143) 「外に何等の研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其拠に、此暢気の源は伏在してゐるのだらう」(138)という感想を持つ。彼は広田先生独特の余裕に引きつけられると同時に、世の中の活発な活動から離れているのではないか、下層の人々が遭遇する困難を傍観しているだけで同情が薄いのではないかという疑問を抱く。確かに広田先生は何か具体的に成し遂げたわけではない。ただ広田先生は自分で多くの人々にこのように思われているだろうと自覚しており、当然だと思っている。理解されないことを正しいことの言い訳にしない。

 「我々は西洋の文芸に囚はれたるか為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである」
 「我々の理想通りに文芸を導くためには、零砕な個人を団結して、自己の運命を充実し発展しなくてはならぬ」(123)

 学生集会で演説を行う者が描写されている。その場では確かに皆気分が高揚し拍手喝采するが、翌日になるとビールの酔いと一緒に消えてしまい何も残らない。広田先生は社会は誤った方向に進んでいると否定非難するのではなく、このような現象が生じるのはどうしてなのか説明しようとする。
 広田先生が偽善と露悪について三四郎に解説する。以前はなすことすべて君、親、国、社会のためと他本位であったが、それは偽善であった、今はみんな表面的な形式をはぎ取って、自分の感情や欲望に正直な露悪家であると説明する。広田先生は自己の利害を追求する我を批判しない。

 「度を越すと、露悪意家同志がお互いに不便を感じてくる。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風に暮らして行くものと思へば差支へない。さうして行くうちに進歩する」(140)

 広田先生は露悪的傾向と偽善的傾向の作用と反作用によって社会は進歩していくと考えている。彼は社会を客観的な動きとして冷静に観察しようとしている。表面的な現象にいちいち憤って批判しなくなり、社会は複雑な過程を経てこうなるべくしてこうなったと考える。直接的な批判から遠ざかって現実の変動の奥に潜む何かを掴もうと模索する過程にある。
 家深しの場面で与次郎は石の門構えの立派な家は新しい男爵のようでいいと交渉に行く。広田先生はこんな立派な家に住むつもりはない。このような家に住むことを本気で望んでいる場合は、その家に相応した中流の生活を送る収入と地位とを手に入れなければならない。広田先生は与次郎が話をまとめてくるわけがないとわかっているし、失敗してもたいしたことがないから与次郎の気のすむように放っておく。与次郎は月四十円の家賃を二十五円に、自分たちが住める値段に値切って断られる。交渉に失敗し石の門の歴史をいろいろ聞き出してくる。家主とでも誰とでも気軽に話をして面白そうな情報を集めてくるのが庶民的な与次郎の能力である。
 広田先生を大学教授にしようという運動も同じような経過を辿る。 「大いなる時間」の論文で、広田先生は薄給と無名に甘んじているが、しかし真正の学者である、学海の新機運に貢献して日本の活社会と交渉のある教授となるのにふさわしい人物であると賞賛している。退屈な講義をする教授たちより広田先生の方が偉いと尊敬している。普通の教授とは対立的な生き方や価値観が野々宮や与次郎や三四郎を引きつける。広田先生は、教授の地位と多くの収入を得るために努力することより、この競争への批判的見地から薄給と無名の方を選んでいる。先生にとって与次郎の運動は余計な奔走である。
 与次郎は教授の地位と広田先生の価値観が対立することに気がつかない。広田先生が教授にふさわしいという世論を自分が中心になって喚起すれば運動は成功すると気楽に信じている。自分の力で広田先生を教授にするという思いつきを実行するために大勢の人間の間で立ち回るのが楽しい。計画を説明したり説得したり交渉したり、奔走すること自体を楽しんでいる。
 与次郎の運動が失敗し新聞や雑誌で中傷されても広田先生は与次郎を真剣に叱らない。広田先生にとって教授にされる方が大迷惑である。出世を拒否している広田先生は、もともと出世とはまるで無縁な与次郎の庶民的感覚を好んでいる。広田先生は新聞で中傷されたことより、自分が下層の人々と離れてきているのではないかということをもっと深刻に危惧している。二十年前に一度だけ出会った女から 「あなたは、其時よりも、もつと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだ」と言われた夢の話には、自分が意識しないうちに、下層から見れば上層の方へ人生を歩んでいるのではないかと危ぶんでいる先生の意識が表れている。知識人の狭い生活の中に閉じ籠もることは学問から遠ざかることだと考えられている。
 広田先生は一人で複雑な社会の研究に取り組んでいる。容易に成果が上がらないことを充分自覚している。その上で人にどう思われようと自分の人生を賭ける覚悟を決めている。この覚悟からどんな成果が生まれるのかまだ具体的には分からない。道義と我の図式を破壊してやっと認識のスタートに立った。この図式を破壊して現実認識のスタートに立ったことは非常に大きな意味を持っている。
 初めは広田先生を理解できなかった三四郎も、都会での経験が積み重なって成長すると広田先生に近づき、美禰子とは離れ始める。三四郎と美禰子の食い違いが三四郎にも次第に意識されてくる。ちょうどこのような状態の時に美禰子に金を借りに行くという用件が生じる。このきっかけを作ったのは与次郎である。与次郎にとっては金を貸してくれさえすれば誰でもよいのであって、美禰子は特別な女性ではない。 「ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質」と考えている。金を借りようが借りっぱなしにしようが与次郎は美禰子から影響を受けない。三四郎は美禰子との特別な接触を求めている。しかし美禰子が自分に特別の好意を持っていると考えようとしてもそうでないことが感じられる。美禰子の態度を見極めて 「最後の判決」を下したいと考える段階にきている。

 【無意識の偽善】

 与次郎にではなく三四郎に金を渡したいという美禰子の意向は、自分に対する特別の好意とも 「愚弄」とも考えられる。三四郎の感じる通り与次郎には美禰子の影響が及ばない。美禰子は自分の影響力の範囲内にいる三四郎を選んでいる。

 「悪い方ね」
 「馬券で中るのは、人の心を中るのより六づかしいぢやありませんか。あなたは索引の附いてゐる人の心さへ中て見様となさらない呑気な方だのに」(160)

彼女は三四郎が彼女のペースに合わせて応えてくれるかどうか反応を探ってくる。彼女のペースに合わせるためには美禰子の心を 「中て」みたいのに 「索引」が付いていないから因っているという調子で、美禰子への好意を洒落た言葉に包んで卑屈に表現しなければならない。三四郎は金を借りることで美禰子に迷惑がかかるのではと心配する。経済的に独立しているわけではない美禰子を自分と同じような立場であると考えている。三四郎は金を借りることで従属的な位置に立つことを嫌がり、あくまで対等な精神的つながりを求める。それぞれが求める関係は擦れ違う。
 画廊の場面で美禰子と、三四郎、野々宮、原口の三人の関係が集約的に描写される。原口はいつも積極的に美禰子の気を引こうとする。美禰子は声をかけてきた原口を無視し彼の向こうにいる野々宮を意識する。野々宮を見つけた途端三四郎の耳もとでなにか囁やく。彼女が求めるような反応を返してこない野々宮と三四郎に対して、三四郎に親しげな態度をとって野々宮の注意を引こうとし、野々宮の名前を囁いて同時に三四郎の気を引こうとする。
 三四郎は上流のお嬢さんの美禰子が現在に満足しきれない思いを抱いていて、彼女の立場と心情に矛盾があると考えている。美禰子に矛盾を探す三四郎は美禰子の野々宮への態度を見て、何か深い意図が隠されているに遅いないと解釈する。この時の美禰子の行動は特別の好意を表した行為とは思えない。それなら逆に何らかの意図を持ってわざわざ愚弄したと考える。三四郎は好意と愚弄の矛盾した態度を見つける。美禰子の自分に対する態度も同様に 「惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか」分からないと迷わされてきた。美禰子の態度はいつも二つの異なった結論のどちらにも解釈できる。 「野々宮さんを愚弄したのですか」と尋ねた時、三四郎はこれまでの彼女の自分に対する態度の意味を問いただそうとしている。
 美禰子は愚弄という三四郎の質問の意味が分からない。美禰子は 「何故だか、あゝ為たかつたんですもの。野々宮さんに失礼するつもりぢやないんですけれども」と説明する。美禰子のこの反応は三四郎が探している矛盾を否定している。言葉どおり美禰子が野々宮に抱いている好意を素直に表現したのがこの行動である。
  「無意識なる偽善者」(第34巻『文学雑誌』173頁)という言葉が美禰子を説明する言葉として使われる。漱石自身はこの言葉が美禰子の特徴を言い表すことになるかどうかは分からないと書いているが、互いの感情がすれ違う彼らの関係の一端を示している。 「偽善」とは本心と異なった表面的な好意を示すことである。好きでもないのに気をひいてからかおうとしている、または好きなのに受け入れてもらえない腹いせに野々宮を嫉妬させようとしている、というような、本心と表面的態度の屈折は美禰子にはない。その意味で無意識である。野々宮や三四郎の気をちょっと引いてみたいというのが彼女の素直な行為の内容である。美禰子にとってはこのようなコケットリーが洗練された自分の魅力の表現である。
 野々宮は美禰子のいる上流世界と離れることを自分の利益としている。その方が自分の学問の成果が挙がると考えている。野々宮は三四郎も何事か成し遂げる人物だと認めている。そのために野々宮は 「妙な連れときましたね」と三四郎に声をかけている。野々宮は美禰子のコケットリーを 「愚弄」や 「偽善」と思わない。美禰子から離れるきっかけを得ようとして美禰子に近づこうとする三四郎は彼女に翻弄されるのに対して、美禰子から離れている野々宮と与次郎は美禰子の心理や行動を、お嬢さんの気まぐれとして対処し紳士的に接している。美禰子と野々宮の間には特別の感情があるのではというのは誤解であり、二人の人生が大きく擦れ違っている様子が描かれている。
 三四郎と与次郎との間では金の貸し借りが二人の結びつきを強める。三四郎は与次郎から金を返してもらわなくても愉快だと感じ、わだかまりを生じない。与次郎に金を貸したことで、与次郎のことを心配したり呆れ果てたり、美禰子に金を借りることになったり、三四郎の生活にさまざまな波紋が起こる。与次郎の言い訳にもならない言い訳は、少々の失敗をくよくよ反省せずすべて肯定的に解釈する与次郎の能力を感じさせる。
 三四郎と美禰子の関係では三十円の金が二人の間を隔てる。田舎では三十円あれば四人の家族が半年暮らしていける。田舎と都会での金の価値の違いについての野々宮とよし子の会話を聞いているうちに、三四郎は自分にとって三十円が大金であることを理解する。美禰子は自分の通帳を持っていて銀行へ自分で金をおろしに行く。彼は十円を簡単に貸してくれる美禰子との立場の違いを実感する。
 三四郎が期待するような感情の交流がないままの状態で、ただ金を借りているのは負担である。金を返すために行った原口のアトリエの場面で、これまで三四郎に特別な印象を与えてきた美禰子の眼が 「其眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた」と描写されている。原口のアトリエの雰囲気に溶け込んで静かな姿勢でまったく動かない美禰子が三四郎から遠ざかりつつあることを直観的に感じとっている。
 原口は美禰子なら西洋画にしても引き立つと考えてモデルに彼女を選んでいる。浮世絵のような女では古すぎて現代には通用しないし、ラフアユロのマドンナのような女は日本にいないと言う。原口が狙っているのはハイカラな味つけをした日本趣味である。金箔で光る矢や、金糸の刺繍の小袖、卯の花縅しの鎧や虎の皮などを飾った豪奢なアトリエの雰囲気の中で美禰子の派手でハイカラな美しさが原口の演出によって引き出されている。後女に日本的な小物の団扇をあしらって取りあわせの妙を狙い 「苦つた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない」軽快で粋な絵に仕上げている。原口は上流の女性の美しさを当世風に味つけする作風で金持ちの紳士や淑女が集まる展覧会を開ける新進画家としての地位を確立しつつある。美禰子は原口を外国留学中でも真剣に勉強せず野々宮に比べて安易な成功をねらう俗物であることを見抜いて見くびっている。しかし美禰子はこのような感覚で描かれることを受け入れている。
 原口は結婚に関する寓話を三四郎に話し、その上でついでのように美禰子の兄の結婚で貴方はどうなりますと質問をする。原口は事情を察している。美禰子は 「存じません」と答える。自分にも結婚の話が進んでいることを否定しない。原口はこの答えから彼女の結婚話が進行していることを理解する。三四郎には全く理解できない微妙な言い回しのやりとりが原口と美禰子の間では成立する。原口は彼女の皮肉や女王然とした接し方を喜んで受け入れる。 「僕でよければ貰うが、どうもあの女には信用がなくてね」と美禰子との結婚など願わず彼女の崇拝者としての立場に甘んじている。原口は美禰子の皮肉や才気に上手く調子を合わせる。美禰子は原口のお世辞や賛美を馬鹿にしながら受け入れる。
 
 「返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて来るか」(198)

三四郎は金を返した時の美禰子の反応が今後の美禰子と自分の関係を決定するだろうと考える。これ以上曖昧な状態でいることに耐えられず、美禰子を思い切るきっかけを求めている。三四郎が思い切って差し出したお金に美禰子は 「今下すつても仕方がないわ」と言っただけで手も出さないし、身体も顔も動かさない。三四郎が思いを込めて渡そうとしている金を、単に金を差し出されているとしか受け取らない。三四郎に金を貸しても返してもらっても、彼女の生活のなかには何の波紋も影響も生じない。三四郎は初めて 「あなたに会ひに行つたんです」と思い切って自分の気持ちを口にする。美禰子は金をめぐってのやりとりとして表面的にしか受け取らない。洒落たやりとりやちょっとした好意の範囲を越えた真剣な態度を美禰子は理解しない。
 原口のアトリエからの帰り美禰子の夫となる紳士が迎えに現れる。美禰子と三四郎が二人きりで歩いていたところに出くわしたにもかかわらず、美禰子も紳士も三四郎の事をまったく問題にしない。美禰子は三四郎を 「大学の小川さん」と自然な形で紹介する。何か特別の関係があることを示すようなこだわりはない。男も紳士的に向こうから挨拶してくれる。二人は車に乗って去ってしまい、三四郎は彼らにとって無関係な人間として示される。はっきり拒否されることがない代わりに、受け入れられることもなく、好意を示す態度とそっけない態度とはそれほど大差のない同じ対応なのだということを三四郎は理解しつつある。美禰子と特別な運命によって結び付けられたかのように思っていた三四郎の誤解は消えていく。
 教会の前の場面では、互いに今まで存在した微妙な感情の交流が終わってしまったことを意識する様子が描かれている。

 「かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた」
 「田端の小川の縁に坐つた事もあつた」(238)

三四郎は美禰子とのことを過ぎ去った過去の思い出として回想する。金を差し出して述べた礼は彼女との関係を整理するかのような調子である。風邪のことを気づかったり、手に持っていたハンカチを不意に三四郎の顔の前に延ばしたり美禰子は今までのようなコケットリーを示す。これまでの三四郎ならこのような思わせぶりな行為は自分への特別な好意の現れではないかと心をときめかせたり、馬鹿にされているのではないかと思い悩んだり彼女に振り回されていたのであるが、 「結婚なさるさうですね」と美禰子コケットリーを拒んで距離をおく。結婚と言う言葉を聞いて美禰子の態度も三四郎を遠くに置いて見るような様子に変化する。

 「われは我が咎を知る。我が罪は我が前にあり」(240)

美禰子は結婚が決まって、ちょっとしたコケットを罪として意識し反省し始め、三四郎や野々宮と離れつつあるということを示している。三四郎や野々宮や広田先生との付き合いとはまったく別の紳士との生活の中に入って行きつつある。最後の原口の絵の展示会の場面では美禰子が夫と一緒に現れ原口と三人で礼を述べ合う様子が描かれている。美禰子は上流の夫人として落ち着いた雰囲気を漂わしている。彼女にとって一番自然な立場に収まった。
 絵に描かれている美禰子の姿を実際に見たのは三四郎である。その時彼は 「只奇麗な色彩だと云ふ」印象を抱き 「けれども田舎者だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない」(25)と感じた。金縁の額で飾られた美禰子の姿は、上流の華やかで粋な女性として描かれている。三四郎もこれが美禰子の本来の姿であり、最初の出会いの時から三四郎の印象と美禰子自身とは違っていたのだとはっきり感じとっている。あの時とは美禰子は変わってしまったのだという慰めを持つこともこの絵は否定している。

 「三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅いで見た。けれども別段の香もなかつた」(27)

漱石は三四郎が深い意味や苦悩を期待しても実は何もないのだということをすでに最初から、美禰子との出会いの場面に描写に暗示されている。

 【終わりに】

 日露戦争後の経済発展は上層と下層の分化を拡大し知識人の地位を相対的に押し下げた。明治時代には大学を卒業すれば、日本の近代化を指導する超エリートの地位を確保することが可能だったが、日露戦争以後にはそれは困難となってきた。野々宮や広田先生はすでに上流とは分離されている。彼らは長年の研究活動を続けてきて自分の学問の成果のために上流と分離した。三四郎は田舎ではそれなりの地所を持った家の坊ちゃんであるが、都会での出世は容易でなく、出世のために懸命になる気も薄れている。上流社会の美禰子の上品さに引かれるのも一時的な感情として自然に消え去った。広田先生や野々宮に引かれ、都会に住む大勢の下層の人々の運命を身近に感じる。三四郎がどのような通を歩んでいくかこれから試される。漱石はこれまで世間を批判する優れた知識人の姿を描こうとしてきたが、『三四郎』ではエリート意識を捨てて、その上で具体的に何を成し遂げるのか、この課題に直面できる新しいタイプの知識人を描いている。

この頁の先頭へ
近代文学研究会の目次に戻る


『三四郎』 夏目漱石