以下の文章は、研究会のメンバーが1987年に書いたものです。

自然主義論(一)
 「前期自然主義」の文学論 天外、荷風の文学論

 天外、荷風、花袋が作家として自分のスタイルを確立しようとした明治二十年代後半から三十年代前半は、文学を高級な娯楽と考えていた文壇主流の硯友社文学、特にその中心的作家であった紅葉の文学が否定され、新しい文学論と作品が次々生み出された時代であった。硯友社、紅葉の文学を克服するために、田岡嶺雲や民友社の機関誌「国民之友」で文学の批評を担当していた内田不知庵と宮崎八面楼は社会小説論を唱え、この社会小説論は活発な論争を呼び起こした。一方保守的な文芸雑誌「帝国文学」や「太陽」の代表的な批評家であった高山樗牛は社会小説論を批判し国民文学論を提唱した。新しい文学を求める文壇の新しい空気の中で、観念小説や深刻小説に代表される傾向的で非芸術的な小説が大量に生み出された。
 このような時代に修業時代を過ごし、そして傾向的小説に満足できなかった天外・荷風・花袋は、社会小説論や国民文学論に代わるべき新しい文学論を確立することをめざした。社会小説論や国民文学論は硯友社文学の克服を目的としていたから、彼らの文学論は硯友社文学を否定する新しい方法でもあった。彼らの文学論は、自然主義全盛時代の明治四十年代の文学論と区別され「前期自然主義」の文学論と呼ばれている。ここでの課題は誕生期の自然主義文学論を検討し新しい文学論の内容と、四十年代の自然主義文学論との関係を明らかにすることである。

 一、小杉天外の写実論
 硯友社、紅葉の文学が否定されようとしていた時代に天外は政治家を風刺した稚拙な小説を書いていたが、ゾラの小説に影響されて次第に写実的な小説を書くようになった。天外はこの間の事情を次のように述べている。
 詩人は生まれるもので、養はれるもので無いとの咄だ。また、官能の働を純粋にする要があるけれど、理屈を研究したところで美を作るわけには行かぬと云ふ事も聞いた。けれども世間が余り噪しいので、私は此の理屈の研究を為さうとした、理屈に教へられて詩人に成らうと云う企を起こしてあつた。私は大変な目に遇はせられた、(中略)つまり長い間私の頭脳を支配していた主権者たる理想が倒れて仕舞つたのである、私の頭脳に革命の乱が起こつたのである。(「『蛇いちご』序 三十二年四月、伊狩章「硯友社と自然主義研究」P292より)
 ここで天外が「噪しい世間」と書いているのは、硯友社、紅葉の文学を克服するために新しい文学論を次々と唱えた批評活動のことである。新しい文学論に「大変な目に遇はせられた」と考えた天外は、このような文学論を否定することから独目の文学論をはじめる。「主権者たる理想」が倒れて「私の頭脳に起こつた革命の乱」の内容を独自の文学論として述べたのが、「『はつ姿』序」(三十三年八月)である。
 
我はわが嗜好を満たさんとして詩を作らざるなり、況や評家の嗜好に投ぜんとしてをや、況や読者の嗜好に投ぜんとしてをや。嗜好は杯上の美酒の如し、愛する者は喜んでこれに就かん、しかも愛せざるものは、其の香を聞いて先づその席を避けんことを思わずんばあらず、我は、美酒の好悪両者の口舌に適することの、反って彼の香なく味なき一椀の淡水にしかざるを思ふ。(「現代文学論体系」2 自然主義と反自然主義 河出書房P10)
 天外は「嗜好」を否定し、文学が「嗜好」にとらわれぬ「淡水」であるとした。天外は「嗜好」という言葉によって、紅葉文学を克服しようとした文学論の一般的特徴を表しており、「嗜好」の否定が天外の写実論の出発点となっている。
 硯友社、紅葉の文学を批判することは、明治二十年代を通じて文学批評の大きな課題であった。明治二十年代の前半は石橋忍月や内田不知庵(後に魯庵)らが、主な批判者であった。明治二十八年以降は不知庵をはじめ民友社の宮崎八面楼や田岡嶺雲らが激しく硯友社、紅葉の文学を批判した。彼らの硯友社、紅葉の文学に対する批判は、「軟弱卑近なる恋愛小説を以て本領とし軽繊浅膚なる引礼的文章を以て能事とする硯友社」(不知庵)というように、硯友社文学の取り扱う題材はつまらないこと、彼らの主な文学的関心が文章の技巧に限られていることに向けられていた。嶺雲は「其想に至つては実に小新聞の一雑報種に過ぎざるのみ」というような小説を書いているより、紅葉は文章がうまいのだから「創作をやめて力を翻案に専らにせよ、これ一日を姑息して其の名声と位地を保つ法なり」と皮肉った。つまらない題材を技巧的な文章で描く硯友社、紅葉の文学を克服すべき新しい文学に彼らが何を求めたかは、紅葉の「不言不語」を批判した宮崎八面楼の批評によって知ることができる。八面楼は紅葉の観察が処女の媚態については細かいが、「人生の大動機」を見抜くことができないと批判した。「人生の大動機」は「詩想」や「想」というように様々に言い換えられたが、文学の描くべき「人生の大動機」とは貧富の拡大によって多くの問題を含んだ現実の姿であった。紅葉の批判者は文学が「人生の大動機」を捉えこのような現実を批判することを求めた。
 新しい小説の出現を待ち望んでいた批評活動に応えるように、紅葉門下の泉鏡花、川上眉山や広津柳浪がそれぞれの独自性を発揮した作品を次々に発表しはじめた(1)。彼らはこれまで硯友社文学に描かれたことのなかった下層の人間の悲惨な運命や官僚や金持ちの堕落を描き出し、鏡花や眉山は当時の社会に対する抗議をあからさまに書き込んだ。彼らの作品は一般に人物が類型的で文学以前であり、現実の社会関係を描写したとはいえなかった。「鏡花子の作る如き一箇概念の外は何物をも留めざる野猪的の心性組織を育てる不自然なる人間」と不知庵が指摘した弱点は眉山のものでもあった。また柳浪の作品は「ことさらに構へて悲惨の境に陥れんとする」(島村抱月)と批判されたように、貧しい人間の悲惨さを強調するための不自然な設定が目立った。このような弱点を批判されながらも、観念小説とか深刻小説とか呼ばれた彼らの小説は硯友社文学が描いたことのなかった題材を描いた点が好意的に評価され、同じような小説が大量に生まれた。
 このような傾向的小説が硯友社紅葉の文学に代わる新しい文学である、と最も肯定的に評価したのが嶺雲であった。現実に近づこうとした観念小説や深刻小説の傾向を支持しさらに押し進めるために嶺雲は「下流細民と文士」や「小説と社会の隠微」(二十八年九月)という論文で、貧富の両極へ人々が振り分けられ、「富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す」明治社会の中で、一方で富のために悪徳を重ね他方で生きるためには犯罪をも犯さねばならない、という「社会半面の暗黒」を文学の描くべき「人生の大動機」であるとした。そして悪徳を暴露することによって上流社会の人間に反省を促し、また貧しい人間の苦しみを代弁することによって醜悪な現実を是正することを文学の目的と規定した。
 嶺雲の主張が社会小説論のさきがけとなった。嶺雲が新しい文学を作り出すために描くべき題材を作家に示したように、社会小説論も文学の題材を創作に先立って決定しようとした。二十九年十月内田不知庵と宮崎八面楼の民友社が「社会小説出版予告」の中で「月雪風流、白粉紅膩、唯矯、唯是れ艶喜ぶの文士も亦、社会、人間、生活、時勢といへる題目に着眼」するべきである、と新しい文学の方向性を打ちだした。「社会小説出版予告」がきっかけとなり二十九年から三十年にかけて、多くの雑誌や新聞の文芸欄に様々な社会小説論が提唱され論争が起こった。これらの主張は観念小説、深刻小説の不十分さを克服するためになされた。金子馬冶は「所謂社会小説」(三十一年)という論文で、社会小説論が唱えられた理由を次のように述べている。
 今の小説は概して社会の重要なる事件を写さず、個人に関する些事のみを書きて、団体より生ずる大事件を写さず、一部の末事に拘泥して、社会全躰に関する大事に頓着せず、活社会の潮流を追ふを忘れて、徒に支流の余波に随従す。……これ別に社会小説を求める所以なり(「近代文学論体系」2 明治 角川書店P77)
 社会小説論では、文学が「活社会の潮流」つまり「人生の大動機」を捉えるためには、個人ではなく恋愛ではなく、社会、あるいは政治宗教、あるいは個人と社会の関係を、あるいは社会全体を描くべきだと主張された(2)。そして社会を描けという要求には、文学が「一代の風潮を指導し、社会の予言者たる」べきだとする文学の功利主義的な解釈が含まれていた。
 一方、「帝国文学」や「太陽」の中心的な批評家であった高山樗牛は、貧富の両極へ分解する現実を描けという社会小説論の主張に危険を感じ、逍遥以降の明治文学をすべて否定する国民文学論を唱えた。樗牛は貧富の両極へ分解する現実を「社会生活は多数劣者の幸福を犠牲にするに非ざれば、其進歩の過程を継続する能はざる」というように、「多数劣者の幸福を犠牲」にすることよって自己の幸福を獲得する階級の立場から正当化し、社会小説論が「不適者」の反抗を煽るものであり国家にとって不健全であると激しく非難した。(「所謂社会小説を諭す」三十年) 樗牛は「小説革新の時機」(三十一年)という論文で、社会小説だけでなく明治のすべての小説が「決濶楽天」「尚武任侠」「道義的情緒に富める」「忠孝義勇」「家系の継承を重じ国家の運命を懸念する」「君父の為に死するを以て最高の名誉となし、国民の利福は国家の昌栄の中に見いだし得べきことを確信す」という日本の「国民的性情に対する軽蔑」だと決めつけた。このような国民に対して文学は、日清戦争に勝利し「一大飛躍の時機に際会せる」明治社会の進べき理想の道を、「時代精神」として描き出すべきであるとした。(「時代の精神と大文学」三十二年)これが社会小説論に対置された国民文学論である(3)。
 文学には文学独自の目的があるとする立場から、社会小説論を批判したのが「早稲田文学」の島村抱月である。抱月は社会小説論の主張が文学の題材を「全局」にとるということを意味するならば、「審美学」と矛盾することはないと考え社会小説論を認めた。しかし文学を現実の変革や貧民の救済の手段とすることには反対した。「吾人は飽くまでも文学の独立を保持せんとす」(「社会小説論」三十年)という抱月は、「小説の目ざす所は、此のおのづからなる世の様の上に描き出さる一種の色彩なり」(「同上」)とした(4)。
 社会小説論をめぐる議論には重要な理論的課題が多く含まれていた。社会小説論では、文学が「人生の大動機」を捉えるために従来の題材を捨てて、社会、政治や宗教というような新しい題材を選ぶべきだとされたが、文学の題材を創作以前に限定することができるのか、「人生の大動機」を描くとはどのようなことか、社会小説論と樗牛の文学論との対立では、明治の現実をどのように見るのかが問題であった。樗牛のようにか、嶺雲のようにか、それとも別の見方があるのか。抱月の社会小説論批判では、文学の価値は他の有益な目的の手段になることによって得られるのか、あるいは文学独自の価値があるのか。文学独自の価値があるとするなら「小説の目ざす所は、此のおのずからなる世の様の上に描き出さる一種の色彩なり」とした抱月の規定は正しいか、ということが考えられねばならなかった。理論上の問題を多く含んだ文学論争にどのように「教へられ」たかということを、天外は「理想の読者」(三十四年一月)という文章の中でふりかえっている。

 例令ば時代精神と云ふことをかけと云ふ人もあり、又政治社会の人を書けと云ふ人もあります、斯う云ふやうに色々世間の註文と云ふものがあるのです。それで申した通り、どうぞ斯う云ふ職業をして居るのであるから、あらゆる社会のあらゆる階級の人を自分の読者にしやうと云ふ私などの考へであるから、どの人の註文も皆な納れて見たい、どんな社会の人にでも歓迎されるやうなものを書きたい。それで私などは頻りと其方の研究をして見ました。所がどうもそれを研究して見ると、其所謂読者の声なるものが余程詰まらないもので、其詰まらないと云ふのは何故かと云ふと、さう云ふ人たちは皆な自分の小理屈、自分の観察した事柄、即ち自分の頭にあるやうなものの出ることを望むと云ふのであって、作と云ふものに対して何も深く考へて註文して呉れるのではない(三十四年一月「近代文学評論体系」2明治期 Up132〜133)
 まったく対立し合う主張を取り入れて「あらゆる社会のあらゆる階級の人」を満足させる小説を作ることなどできないから、天外が「理屈に教へられて詩人に成らう」として「大変な目に遇はせられた」というのも当然のことであった。そして天外は社会小説論をめぐる議論を大雑把に理解し、それらの文学論に共通する弱点が文学を特定の目的や基準に従わせようとする傾向であると考えた。天外が「はつ姿」序文で否定した「嗜好」の内容はこのような傾向であった。「嗜好」は、「人生の大動機」を描くとはどのようなことかなど、写実に関する重要な問題を含んだ文学論の内容を非常に単純化して得られたものであった。天外が「嗜好」を否定するのは、「嗜好は杯上の美酒の如し、愛する者は喜んでこれに就かん、しかも愛せざる者は、其の香を嗅いで先づその席を避けんことを思はずんばあらず」というように「嗜好」は相対的で主観的であるから、「あらゆる社会のあらゆる階級の人」に受け入られる小説を書くという天外の目的は「嗜好」に従うかぎり実現できないからである。
 天外は社会小説をめぐる文学論争で問われていた理論的課題を深く考えず、このようにごく単純に否定した。天外の課題は、あらゆる「嗜好」から自由でありあらゆる「嗜好」に受け入れられる文学とは何か、ということを明らかにすることであった。
 天外はあらゆる「嗜好」から自由であらゆる「嗜好」を満足させる文学を「彼の香なく味なき一椀の淡水にしかざる」ものと表現し、この内容を次のように考えた。
 芸術の美の人を感ぜしむるや、宣しく自然の現象が人の官能に触れるが如くなるべし、普遍ならざる可からず、平等ならざる可からず(「『はつ姿』序」)
 天外はここで「自然の現象」があらゆる「人の官能」に対して共通の感覚を与えるものであるということ、つまりすべての「人の官能」は「自然の現象」から同じ内容を受け取るということを前提した上で、文学も「人の官能」に対して普遍的で平等な内容を与えるものでなければならないと考えた。「人の官能」は「自然の現象」から共通な感覚を受け取るのだから、文学が「淡水」=「あらゆる社会のあらゆる階級の人」に受け入られるためには、「自然の現象」的でなければならない、「自然の現象」的である文学は、「ただ読者の空想をして、読者の官能が実世間の事に感ずるが如く感ぜしむる」というように、外的な現実を忠実に再現することによって実現される。天外はこの写真的写実を「其智を加えへない所の官能に依つて築上げられた空想」(「理想の読者」)と言い換えて、その特徴を説明している。現実をありのままに写すためには、現実に対する「智」つまり主観的価値判断を排除しなければならない、と天外は考えていた。
 文学から主観的価値判断を排除することを正当化するために、自然と主観的価値判断との関係を述べたのが「はやり唄」の序文である。
 自然は自然である、善でも無い、悪でも無い、美でも無い、醜でも無い、ただ或時代の、或る国の、成人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。(三十五年一月「現代文学論体系」2 自然主義と反自然主義P9)
 天外は自然は自然として独立に存在し、人間の主観的価値判断は自然を歪めるものだと考えた。文学は自然を自然として再現するものであるから、つまり「想界の自然」(同上)であるから、天外は「詩人また其の空想を描写するに臨んでは、其の間の一毫の私をも加へてはならぬのだ」(同上)というのである(5)。こうして天外は外的な現実をただありのまま写しとるのが文学であるとした。
 天外は文学がすべての人間に受け入られるための根拠を、「自然の現象」が「人の官能」に対して平等で普遍的な内容を与えうることに求めたが、このようなことは有り得ない。というのは、「人の官能」は「自然の現象」から同一の内容を受け取ることができる白紙のようなものではないからである。「自然の現象」によって刺激される「人の官能」はすでに社会的諸関係によって規定されており、規定された「人の官能」は「自然の現象」を自分との関係において感覚しその感覚内容を「善悪美醜」という主観的価値判断として表現する。天外は切り離すことのできない主観を、平等で普遍的内容を受け取る「官能」の側面と自然を歪める主観的価値判断の側面とに分離し、後者を否定することで文学が普遍的であるという根拠を確保できると考えた。そして天外は主観的価値判断を否定することによって、文学が文学であるための主観的条件を否定する。文学の主観的条件とは、現実をどのように写すにしても作家は自分の具体的イメージに従って現実の諸側面を選別し、選別された諸側面によって小説を構成することである。天外は現実を現実として再現することを文学であると考えているのだから、そしてまた現実に対する主観的価値判断を現実を歪めるだけのものと否定しているのだから、このような文学の主観的条件は否定され、現実を写真的に写実することが文学であるとされるのである。
 写真的写実を文学であるとした天外は、文学を非創造的で無用な仕事に変えてしまった。というのは模写論の関心は、現実をいかに巧みに現実らしく見せるこという技術的側面に限定され、そして模写されるべき現実がすでに存在しているのだから、現実をありのまま写した作品は無用な繰り返しとなる。そしてこのような模写論は、文学の描くべき内容は外的に与えられた現実として受動的に前提され、描写の内容については無関心であるという、本質的限界を持っている。
 注
 (1)二十八年だけでも、鏡花は「外科室」(一月)「夜行巡査」(四月)を、眉山は「大盃」(一月)「書記官」(二月)「うらおもて」(八月)を、柳浪は「変目伝」(二月)「黒蜥蜴』(五月)「亀さん」(十二月)などを発表した。彼らの新しい傾向の小説は批評家の注目を集め、活発な批評が行われた。
 (2)金子馬治自身は社会小説の描くべき内容として次のようなものをあげている。「(一)近世の社会主義に関する事態を書けるもの (二)社会に対する関係を書けるもの (三)漠然謂ふ小社会に関する事態を書けるもの (四)全体としての社会の行動を書けるもの」(「所謂社会小説」P78)
 (3)このように現実を無視した、反動的な樗牛の主張は当時の作家には支持されず、樗牛の望むような作品は書かれなかった。
 (4)抱月の立場からすれば社会小説論だけでなく、文学を国民に理想を示すための手段とみなしていた国民文学論も批判の対象となって当然であるが、抱月が樗牛の文学論を批判した文献は見当たらなかった。
 (5)天外は同じことを次のようにも述べている。「今の作家、只忠実に写さんとするといふ心亡びて、着意改造に走る、芸術家が作に臨むの瞬間は忠実に之れを写さんといふの外、一切無にして可なりと。」(「一問一答」三十四年 吉田精一「自然主義の研究」上巻P157より)
 二、永井荷風の主張
 社会小説論争を単純に否定した天外の写実論は、理論的内容が非常に貧弱であった、天外の写実論は彼の「写真的小説」と共に一時代を画したが、文学を技術的側面に限定する天外の写実論を克服しようとする文学的動きが天外の絶頂期にすでに始まっていた。文学の描くべき内容に対する関心が再び起こった。荷風の主張は文学の内容を規定しようとする試みであった。
 荷風も硯友社文学を克服しようとする文学運動の中におり、天外と同じようにゾラを研究し傾向文学の弱点を乗り越えようとしていた。天外がゾラから主にその手法を取り入れようしたのに対して、荷風はゾラを研究して文学の描くべき内容を規定しようとした。その研究の結果が、「『地獄の花』跋」(三十五年六月)であった。荷風は三十六年にアメリカに行きヨーロッパをまわって四十一年に帰国すると耽美派といわれるような作風に変わっていたが、荷風の主張を検討することは、自然主義文学理論が形成される過程を知るために重要である。

 人類は確かに動物的たるをまぬがれざるなり。此れ其の組織せらるる肉体の生理的誘惑によるとなさんか。将た動物より進化し来れる祖先の遺伝となさんか。そはともあれ、人類は自ら其の習慣と情実とによって宗教と道徳を形造るに及び、久しく修養を経たる現在の生活に於いてはこの暗面を全き罪悪として名付るに至れり。斯く定められたる事情の上に此の暗黒なる動物性は猶如何なる進行をなさんとするか。若し其れ完全なる理想の人生を形造らんとせば、余は先づ此の暗黒に向って特別なる研究を爲さざる可からずと信ずるなり。そは実に、正義の光を得んとする法庭に於て、必ず犯罪の証跡とその顛末とを、好んで精査するの必要あるに等しからずや、されば余は専ら、祖先の遺伝と境遇に伴ふ暗黒なる幾多の慾情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す。(三十五年六月「現代文学論体系」2 自然主義と反自然主義P11〜12)
 荷風は、明治社会だけでなく歴史一般の発展を人間の動物的側面と「宗教」的「道徳」的側面との対立によって説明し、動物的側面が「如何なる進行をなさんとするか」ということを、文学の描くべき内容とした。現実社会をこのように認識し文学の内容を規定しようとした荷風の主張は、文学の内容に無関心であった天外の写実理論の空白を埋めようとするものであると同時に、社会小説論が文学の描くべきだとした内容に対する批判的克服を試みたものである。荷風の主張と社会小説論の内容的連関は、荷風と嶺雲の現実認識を比較することによって明らかになる。というのは、社会小説論が社会を描けという場合の社会は、嶺雲の「社会半面の暗黒」と同一の内容であり、文学の描くべき内容を具体的な現実認識として示したのが嶺雲であったからである。
 嶺雲は作家の描くべき「社会半面の暗黒」を次のように描写した。
 「十九世紀の所謂文明開化なるものは富者に厚き文明也、自由の名の下に貴賎の階級を打破せりと雖も、貧富の隔絶はこれによって益々太甚だしきを加へたり。唯物文明の進歩に伴ふ器械の精巧は、労働者より其職を奪ひ、文華の発達に伴ふ奢侈の風は、窮乏者を擠(お)としめて彌々塗炭に苦しましむ。富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す、富む者は常に楽しみ、貧き者は常に苦しむ。……今の文明は中流以上の悪徳に陥ると共に、下流社会のものを擠して悲惨の谷に落す。「下流細民と文士」……奢侈淫靡其極に達し、賭博公に行はれて、花牌を弄せざるものは所謂紳士に似ずとし、附托請謁盛に行はれて白晝権門に出入して愧ぢとせず。学者にして僧侶と女を争ふものあり、高利貸をなすものあり、書肆と結託して利を圖るものあり。文学者にして財をかたるものあり……色を漁するの僧侶あり、利を争ふの宣教師あり……鳴呼暴露せよ、暴露せよ、益々社会の裏面を暴露せよ、所謂社会の悪徳は既に法律以外に逸す、これを責め、これを呵し、これを嘲り、之を罵り、翻然とし自ら悔い、自ら悛めしむるものは豈に天下操觚者の任に非ずや、…吾人天下の文士が大いに社会の罪悪を暴露し来ると共に、更に大いに其同情の涙を揮て人道の為に泣き、道義の為に憤り、其絶叫大呼して警世の暁鐘となり、懲悪の震雷たらんことを望む。「小説と社会の隠微」……今日の下流社会餓えて而して死せん乎、否(しか)ざれば盗みて食はざる可からず、盗みて食ふ、もとより罪なり、然れども人常に伯夷の潔なし、正を守りて餓死せんよりは罪名を受けて生きざる能はず。下流社会の罪悪、之を安逸の余に出づる上流の悪徳に比すれば、其の情や憫むべし、而かも人、之を罰して假さず、而かも呑舟の魚を逸して上流社会が汚行淫風をとがめず、鳴呼人の眼は到底明のみをみて暗をみる能はざる乎、「下流細民と文士」……嗚呼今の世界、正理ありといふ莫れ、公道ありといふ莫れ、強は弱を凌ぎ、富は貧を凌ぐ、今猶昔の如きなり。代議の政躰といふ莫れ、猶富者強者の寡人の政治のみ、公平なる判官ありといふ莫れ、彼等は其枉屈を訴ふるべき地なきに非ずや。世人皆暖かく衣、飽くまで食ふ。酒楼の上、絃歌絶ゆることなく、媚を売るの佳人錦繍を襲ぬ。而かも寒夜路側、兒女にたすけられ、破琴を弾じて哀を乞ふ瞽(こ)たる女には、人飽くまでも其の弾奏を貪りきいて、而も一文銭をも投ずるなくして過ぎ去る。鳴呼彼等悲惨の生涯、誰れに頼みて其の不平を訴へんや、彼等の多くは無文、訴ふるに筆を以てする能はず、訴ふるに舌を以てする能はず、彼等は満腔鬱勃の不満を呑みて地下に入るなり。法律ありと雖も以て其枉屈を伸べず、倫理なるものありと雖も、恵を彼等の上に垂れず。アアアア彼等に代りて彼等の筆となり、彼等の舌となり、絶叫絶喚、上は九天に訴へ、下は九地に訴へて、彼等が為に共鬱塞を明かしむるもの、文学者に非ずして将た誰ぞや。(「下流細民と文士」「小説と社会の隠微」二十八年九月田岡嶺雲全集第一巻P404〜405 「ヒューマニチー」二十九年一月全集第一巻P571〜572)
 封建的諸関係を解消した明治社会は、貧富の拡大によって両極に分裂して行く、そしてこのような社会の中で上流社会はひどく堕落し(自分の富を増やすためにますます悪徳を重ねる)貧しい労働者は誰からも保護されず大量に没落するという大規模な悲劇が生み出されている、これが嶺雲の認識した現実の真の姿である。
 このような現実認識は嶺雲だけのものではなく、『日本の下層社会』を書いた横山源之助や『社会主義の必要』という論文の中で貧民の救済を訴えた大西祝と共通していた(1)。このような現実といかに対処するのかという問題は、良心的なインテリやキリスト教徒の心を捉えた。嶺雲の功績は、「明のみをみて暗をみる能わざる」作家の前に、貧富の両極へ分解して行く現実が明治社会の一般的傾向であり、このような現実こそ認識されるべきものとして明確に示したことである。 しかし嶺雲は現実を現象的に認識するに留まっている。嶺雲の現実認識が現象的であるのは、明治社会が両極へ分裂していく必然的過程の中で、この両極分解を否定する契機が生み出されることを発見できないからである。一方の大量の人間の没落が一方の巨大な富の蓄積の源であるから両極分解が必然的である明治社会では、貧しい人間は上流階級とまったく異なった生活と運命を強制されると同時に、法律に保護されず「無文」で悲惨な生活状態の中で上流階級の人間とはまったく異なった人間に作りかえられていく。悲惨な生活を強いられる貧しい人間はこの社会に対する不満をつのらせ、この社会を維持することに利害を感じる上流階級の人間を自分と対立するものであると感じるようになる。そしてまた大量の人間が没落して行くということが必然的傾向であるから、没落する人間は、慈善家によって助けられるとか偶然によって成り上がるとかという個別的解決をあきらめさせられ、彼らの運命全体を変革する一般的解決を求めるようになる。貧富の両極へ分解する現実は、このように現実を否定することに利害を感じる人間を大量に生み出す過程である。嶺雲は現実そのものの発展傾向をこのように把握できないから、上流階級の堕落を悪徳だと声高に道徳的に非難することが、あるいは貧しい人間を救うべきだと人々に訴えることが、現実の変革的活動だと思われる。そしてまた現実をこのように把握できないから、現実の変革を望む彼の意図とは逆に嶺雲が描き出す貧しい人間は救いを待ち望む哀れで無力な存在でしかなく、嶺雲の認識した貧富の両極へ分裂して行く現実は出口がなく絶望的世界となる。
 嶺雲の絶望的な現実認識を批判的に克服しようとして登場したのが荷風の主張であった。上流階級の人間がますます堕落し下層の人間が没落し犯罪を犯してまで生きねばならないという、嶺雲の示した現実の背後にあり現象を支配するものとして荷風は人間の動物的側面と「宗教的」「道徳的」側面との対立を設定し、克服されぬ動物的側面が「社会半面の暗黒」の原因と考えた。つまり荷風は嶺雲の描いた現実を二重化し、現実の本質を規定することによって、嶺雲の絶望的な現実認識を克服しようとした。
 しかし人間の動物的側面と「宗教的」「道徳的」側面との対立という観点から捉えられた荷風の現実は、現実の諸関係が捨象され単純な内容しかもたない。動物的側面に対立するという「宗教的」「道徳的」側面は、動物的側面を抑圧するという以外に内容をもたない空虚な規定であり、しかもこれが現実の社会関係に対する荷風の規定のすべてである。そして認識されるべき、上流社会の堕落と貧しい人間が大量に没落していくという大規模な悲劇=現実の「暗黒」は、「暗黒な幾多の欲情、腕力、暴行」という個別的で項末な現象に矮小化される。こうして荷風の認識が現実の墳末な現象に固定されるのは、貧富の両極へと分裂して行くという明治の現実をその過程にしたがって認識を深めるのではなく、人間の動物的側面と「宗教的」「道徳的」側面との対立という単純な図式によって現実を認識しようとするからである。荷風の主張は嶺雲的な現実認識から更に深く進むために現象の背後にある本質の認識を試みたが、その内容は現実の社会関係を捨象したものである。荷風の現実認識は嶺雲の現実認織よりはるかに後退している。現実認識の深化ではなく、認識が現実の社会関係から遠ざかる、これが荷風の主張の理論的特徴である。
 注(1) 日清戦争後、大規模な工場が続々と建てられ、一方では劣悪な労働条件と低賃金を強いられる労働者の悲惨な姿が、また一方では工場によって職を奪われ浮浪人に転落する職人たちの姿が、一般的現象として人々の注意を惹くようになった。当時このような下層社会を調査し、悲惨な生活状照を暴露したルポが多く書かれた。

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