自然主義論 (二)

目次
 
一 小杉天外『はつ姿』
  二 永井荷風 『地獄の花』
  三 田山花袋 『小詩人』から『憶梅記』まで

 一 小杉天外 『はつ姿』
 小杉天外は、紅葉の文学を否定しようとした深刻小説や社会小説の非芸術的な傾向的小説に対して、文学を「彼の香なく味なき一椀の淡水」と考え、そのために「ただ読者の空想をして、読者の官能が実世間のことに感ずるが如く感ぜしむる」という写実主義を提唱した作家である。小杉天外はこの写実主義によって明治三十年代中期に一世を風靡したが、今では通俗的作家と見られ作品はほとんど顧みられない。「はつ姿」も(三十三年)自然主義文学論の先駆と評価される序文によって文学史に名を止めているだけである。このような文学史の片隅に眠っている作品を取り上げるのは、四迷から自然主義への後退を写実の発展と考える常識的文学史に対して、現実をありのままに描き出そうとした天外が現実離れしていることを、つまり忘れられて当然の作品であることを明らかにするためである。
 貧乏な一家のために芸人になったお俊は、高座に上がったその日から彼女の美貌にひきつけられた「好色な」金持ち連中につきまとわれた。金持ちの世界に入る可能性を与えられたお俊は「色の白い、鼻の高い、目の大きい」瀧山に一目見てひかれ、この銀行員からの贈り物を嬉しそうに受け取り、瀧山といっしょにあちこちの料亭を遊び歩いた。お俊は、高利貸しの斧岡がどれほどの金持ちかと聞かされても「不思議そうな顔」をしていたように、あるいは金持ちだから妾になれという斧岡の誘いを「淫買はいや」だと断ったように、「玉の輿」めあての打算的な娘ではなく、金持ちの世界の享楽に無意識的にひかれる世間知らずの娘である。
 お俊は瀧山にひかれる一方で、以前いっしょに工場へ通っていた龍太郎を愛していた。お俊は安楽な生活を望む叔母の犠牲になろうとしている龍太郎をなんとかしたかった。両親を早くに失った龍太郎を女中をしながら育てた叔母は、いい「稼ぎ」のために「資産ある」寺の跡取りを狙って坊主にしようとしたり、また「多淫」の未亡人が龍太郎を欲しがっているのを知ると見返りを期待して自由にさせた。龍太郎は恩があるから叔母に反抗できなかった。「無暗に欲ばかり突つ張つた」叔母を憎む女郎屋の女主人が「お金なんか幾でも出来まさア…良い旦那でも取らうツてなら其れこそ網の目から手の出る程ありまさア、負けませんとも、お金で張り合うツてなら」と威勢よく言うのに対して、叔母の物質的欲望を満足させる手段を持たないお俊は「私はア、龍ちやんが何様な人をお神さんに爲たからツて、別になんとも思やしないんだけれど、其れだツても、龍ちやんの叔母さんの仕様が余り酷いと思ふわ」というように、結びつく可能性のない龍太郎を愛し続ける。妾という打算を選べば貧しい一家を救うこともでき叔母を満足させて龍太郎を自分のものにできるにもかかわらず、お俊は金持ちの世界に入ろうとしなかった。貧乏な世界に止まろうとするには、金持ちに対する批判的意識や感情が必要である。そしてまた批判的意識は同時に金はないけれども貧乏の世界の方をよしとする価値観であるから、貧乏な世界を肯定的に評価する何かが発見されていなくてはならない。貧乏な世界に止まろうとする見識を持つことなしには、金のあるなしによって人生に格段の差ができる明治社会において「芸人は贔屓だけがたより」であるとか妾を「玉の輿」と感じる貧しい人間の打算的感情に抵抗できない。(女郎屋の女主人が龍太郎の叔母に対抗するために考えた手段はこの一般的意識を前提としている。)しかし天外はお俊の愛情を打算を拒否して貧乏に止まろうとする感情として描いていない。
 お俊は金持ちの家に生まれある事情のために今の両親のもとに預けられた娘であった。お俊の父親は没落以前は売れっ子の画家であり、「義理」ある娘であったお俊は大切に育てられ気位の高いわがままなお嬢さんであった。そして父親が画家として失敗してお俊が一家のために働くようになっても、両親はお俊に遠慮があったから、彼女のわがままは許された。龍太郎に執着するお俊の感情は、一度手にしたものを放したがらない駄々っ子的愛情であった。天外の描写の不自然さは、お俊がこのような愛情によって貧乏な世界に止まろうとするところにある。無意識的に金持ちの世界にひかれるお俊の軽薄はまだ打算にも達していない無定見な意識であり、お俊が銀行員の瀧山ではなく、貧乏な龍太郎を選ぶということなどありえない。軽薄にもかかわらず貧乏な世界に止まろうとするお俊の設定は、現実をありのままに描かねばならいという天外の主張に反して、まったく現実離れしたものになっている。
 天外が自分の主張にしたがって非常に細かに描くのは、お俊や龍太郎に金の力で図々しく言い寄る金持ち連中の「好色さ」やいやらしさ、あるいはその金持ちを取り巻く貧乏人の媚びやへつらいである。天外が現実をありのままに描くべきであるという場合の現実は、金と地位が非常に大きな力を発揮する現実においてもっとも人々の目につき易い表面的な現象である。天外の現実に対する認識はごく平凡な常識的レベルに止まっているということであり、このような現象を長く細かく描くほど天外の描写は退屈なものとなる。
 「はつ姿」はダラダラした描写が続く一方で、軽薄にもかかわらず貧乏に止まろうとするお俊の現実離れした設定によって多くの事件が引き起こされることになっているから、ストーリーはまったく作為的である。お俊は龍太郎を愛していたにもかかわらず、瀧山の贈り物を受け取りあちこち遊び回ったために瀧山の「意」に従わねばならぬ「義理」という状況に追い込まれ、連れ込まれた温泉宿でこれもまた「多淫」の未亡人のもとから逃げて来た龍太郎と出会い、真夜中に二人で逃げ出した。偶然的な出会いはストーリーの展開のためによく使われるが、お俊、龍太郎、瀧山の三人の関係が馬鹿げたありえない設定である以上、メロドラマ的効果しか生まない。逃げ出した二人は知り合いの女郎屋にかくまってもらいこれから「何うすりや可いんだか」と困っていたところを、女郎屋を見張っていた警官に逮捕され、物語は急展開する。このために龍太郎の叔母は龍太郎をお俊から遠ざけた。お俊は売春婦と間違われて逮捕されたことをねたに笹田という新聞記者にゆすられ酒を無理強いされた上に強姦された。そして恥をかかされた瀧山も再び「意」に従うようにとお俊に迫った。事件以後お俊と龍太郎はますます引き離されて、物語は最後にお俊が自分の両親を本当の親ではないことを知り恩に応えるために斧岡の妾になる決心とするという大団円を迎え、お俊が妾になるちょうどその日に龍太郎の「得度」の式も挙げるところで終わっている。天外がお俊に与えた設定は結局、貧乏な女性が家の犠牲となり恋人と引き裂かれるというよくある悲劇を面白く読ませるための役割を果たしている。このようなストーリーの作為性のために、天外は紅葉の文学を否定しようとした深刻小説や社会小説を越える新しい写実主義を提唱したにもかかわらず、紅葉の文学も乗り越えることができなかったといわれる。しかし作為性は天外が硯友社的「趣向主義」をひきづっているからではなく、軽薄にもかかわらず貧乏な世界に止まろうとするお俊の設定が、貧乏学生の寛一がお宮に復讐するために金持ちになるという設定と同様に馬鹿げた主観的設定であるところから生まれる必然的傾向である。作為性での紅葉との共通点は、現実の必然性を誤って把握するところから生まれる類似点である。新しい写実主義を唱えた天外の小説は、社会小説等ばかりでなく、紅葉の文学を越える内容を持たなかったということである。
 こうして「はつ姿」は人を驚かせるようなストーリーの展開によって、そしてまたお俊が「好色な」金持ちに言い寄られるとか今まさに強姦されようとしている、というきわどい場面を挿入することによって、貧乏人の悲劇を面白く読ませようとする通俗的でダラダラした描写にうんざりさせられる作品となっている。「はつ姿」が厳しい現実の中で生活する人々から見放され、流行作家のつまらない作品と同じ運命をたどるのは当然のことであった。今ではあまり学界的野心もない地味な研究者が、天外の作品をときたま取り上げるだけである。

  二、永井荷風「地獄の花」
 荷風は「地獄の花」(明治三十五年)の跋文で、前号で検討したように、人間の性欲とそれを抑圧する「道徳」や「宗教」との対立、という社会的関係を単純化した図式を現実の基本的対立と考え、道徳に抑えられた「暗黒なる動物性は猶如何なる進行をなさんとするか」を研究すべきだと主張した。荷風は「動物性」を人間本来の性質と考えてこのような観点から現実を認識する。「地獄の花」は跋文における荷風の現実認識に従って人間の「動物性」にふさわしい理想を描こうとした類型的な思想小説である。
 園子は厳格な道徳家の叔母に育てられ、「貞操と徳行為とを看板に世渡り」する教師であった。園子は黒淵という財産家の家に家庭教師として雇われ、黒淵の苦しみを知って道徳で縛りつけられた自分の生き方を疑いはじめた。黒淵は若い頃財産家の外国人宣教師の妾と「姦通」し、妾と共に財産をも奪い取ったといわれる男である。黒淵は金持ちの堕落を書き立てる新聞によってスキャンダルを暴露され「社会的活動」から追い出された。園子は敬虔な宗教家で神聖な恋愛を歌う詩人笹村の紹介で「呪われた」黒淵家に入った。そこで園子は、黒淵がスキャンダルのために自分だけでなく、娘も「不義不徳」の子と蔑まれ世をすねた「偏屈な」人間になったのを悲しみ、今は幼い息子の幸福だけを願う哀れな老人であることを知った。園子は世間の道徳的非難が厳しすぎるのではないかと思われた。
 
人の妾と結婚する其は明らかに罪である。しかし社会はいつもこのやうに公平に罪あるものを罰するものであるだらうか。かの遊里に横行して未だ情を知らぬ少女が肉を弄ぶ一国の宰相、かの幾度か婦女を辱めて平然たる政治家、忌はしき収賄の罪を瞞着して耻ざる教育家、社会は此れらの人物をも猶且寛大に見逃してその地位と信用とを奪はずに居るではないか。黒淵家の財産は云ふまでもなく、卑しむべきものである。けれども、以上のやうな寧ろ法律に触れた罪過をもその儘に見逃して置く寛大な社会は何故に独り厳酷にこの黒淵家のみを罰したのであらう。園子は社会世論の標準、道義の標準の、ほとんど計り知ることの出来ぬ程、不思議にも不公平であることを深く考へなければならなかった。(荷風全集第二巻 五〇〜五一頁 岩波書店)
 明治の官僚はよく知られているように今では考えられないほどの特権を持ち、彼らと結びつけるかどうかが人々の運命を決定する大きな要素であった。金と地位を求め多くの人々が彼らとのコネを得るために奔走した。官僚と結びつき利益を受ける。あるいは結びつきを求める人間にとって必要なのは、官僚が道徳的かどうかではなく官僚という地位である。官僚と結びつく人間は官僚という地位によって利益を受けるのだから、官僚の堕落を不道徳と考えたとしても表立って非難することはないだろう。(暴露された官僚は多少はみとっもない思いをしなければならないが。)あるいは道楽が過ぎるというぐらいにしか感じないであろう。園子が道徳では単純に割り切れぬ現実に気づき道徳を疑うことは、現実の利害関係を理解するための入り口となる。しかし園子は「道義の標準を深く考へなければならない」と感じたにもかかわらず、道徳をつまらない考えるに値しないものとして簡単に投げ捨ててしまう。つまり背後にあって道徳を支配する現実の利害関係について考えるのをやめてしまう。
 園子と同じように荷風もまた現実の利害関係の中に入ろうとはしない。荷風は、「学士社会でも錚々の聞こえある法学士」である大学の助教授が金のために「不義不徳」の子と蔑まれた黒淵の娘富子と結婚する、という黒淵家が「社会から全く排斥」されたとする設定と矛盾するエピソードを書き込んでいる。金のために黒淵のスキャンダルを厭わない助教授のエピソードは、どのようにして手にした金であれ現実の社会では大きな力を発揮し、そして道徳によっては金を手に入れようとする欲望を抑えることができないことを示している。非常に貧しい時代であり金と地位が人聞の運命を支配する決定的な要素であった明治において、獲得の手段を問わず莫大な財産は金によってひきつけられる多くの人間を支配する力となる。荷風は、黒淵の夫人が毛嫌いされているにもかかわらず財産家の夫人であることによって笹村の通う教会で多くの人と交際があり、また厳格な道徳家であった園子の叔母が将来の不安から園子を黒淵家に入れるのを躊躇しなかったという事実も書いている。しかし荷風は金によって作り出されるこのような人間関係が特別描写する必要がないかのように、単にストーリーを展開するためのひとこまとしてだけ扱っている。荷風が黒淵とはまったく異なった扱いを社会から受ける官僚の姿を園子の意識に投げ込むのは、園子が自分の地位を維持するために厳格に守ってきた道徳に疑いを持つきっかけを与えるためである。園子は「この今更らしく感じた定めなき褒誉の社会に、清い美しい名を保っていくことの如何に困難であるか、又好しその名を保ち得て、社会から歓迎され」ても意味がないと思われ、道徳によって縛りつけられたこれまでの自分の生き方を馬鹿らしく感じた。園子は何年か前にきっぱり断ったはずの結婚話を思い出しては後悔し、笹村との恋に落ちた。
 富子は大学の助教授と結婚し「名望ある法学士」夫人として満足していたが、夫には結婚以前から妾がいた。それを知りあてつけに無断で外泊した富子は、不道徳と罵る夫の偽善に我慢できず、離婚していた。「名望ある法学士」である夫の本当の姿を知り世間が分かったと考えた富子は、独特の思想の持ち主となった。
 富子はいつものやうに、社会から受ける名誉とか名望とか云ふものは果たしてなんであるか。名望を得ようと思うたら、あるいは既に名望の地位に達したなら、自分はいろいろな方面から自分で自分の自由を束縛し、表面の道徳とか道義とかを看板にして、愚にもつかないことまで自分を欺く言わば偽善者にならねばならぬ。そんなことよりは自分は世の中から卑しまれ退けられた自由の境に、ゆうゆうとして意の儘に安心して日を送る方がどれほど幸福で愉快で、そしてまた心にやましいことが少ないか。と云ふやうないつもの持論を述べ始めた。(同上六五頁)
 富子が「社会から受ける名誉とか名望」を拒否するのは、名誉のための道徳が「自分の自由」を拘束するためである。「自分の自由」とは世間が不道徳と非難する行為である。跋文での荷風の主張にしたがって露骨に言えば人間の「動物性」=性的な欲望に忠実に生きることである。したがってここでも道徳は性欲を抑圧するという内容に限定されている。夫や「名望ある」人間に対する富子の批判は、性欲の満足を人間本来の自由であるという観点から行われるから、道徳的に潔白であるといいながら人の目を憚って性欲を満足させていることを非難する常識的、道徳的批判とは逆になる。富子にとって彼らが偽善者であるのは、名誉に執着するために道徳によって自らを縛り人間本来の性質である性欲に忠実でないからである。富子はその偽善に対して、名誉を捨て「道徳や道義の看板」という束縛から自由になって、性欲を満足させようと言うのである。富子の思想は、内心では性欲をどう考えようと地位や名誉のためには道徳的であらねばならぬことを前提としている。名誉のため実際に性欲を抑えたり隠したりせねばならないとしても、道徳だけが必要なのではない。富子の思想の前提は間違っており、現実に対する狭い認識に基づいている。名誉を求める人間は単なる名誉を求めているわけではない。出世の手段が自分の能力だけである人間は名誉によって物質的幸福を獲得しようとし、またすでに財産を作り上げた人間はさらにそれにふさわしい名誉を手に入れ虚栄心を満足させようとする。名誉のためには媚び、へつらい、駆け引きなどあらゆる手段が動員される。富子は名誉を獲得する可能性をすでに失い、そして名誉を獲得することによって与えられる金をすでに持ち「ゆうゆうとして意の儘に安心して日を送つて」いるから、名誉を求める人間の野心に対して無関心でいることができる。富子は名誉に固執する必要のない立場におり、性欲が人間本来の自由であるという一点から現実批判が行われる。「社会から受ける名誉とか名望とか云ふものは果たしてなんであるか」と問う富子は実際の名誉を明らかにできず、「自分の自由」との対立によって名誉を捉え内容として道徳を発見するだけである。
 現実の社会関係を性欲と道徳の対立によって見るのは荷風の思想であり、このような思想にしたがって現実が単純に描かれる。名誉を求める人間の野心は漠然としており、登場人物の生活は道徳と「動物性」に分裂していることが専ら強調される。敬虔な宗教家で詩人であった笹村は実は黒淵夫人と不倫の関係にあり、彼の生活は「夜に於ける心の衰弱と昼に於ける功名心の勃興とは、全く画然たる不思議な区別を作るやうに」なっていた。また園子が厳格な道徳家だと思っていた校長は、仕事柄道徳の拘束を厳しく受けるから若い娘の愛によってしか慰められない「変調なる熱愛」の持ち主となった。荷風は道徳性を維持しながら性欲を満足させようとするから、「暗黒なる動物性の進行」は不自然な形になるというのである。
 世間の道徳に疑いを持ちはじめた園子は、富子の思想に「動かすべからざる真理のあることもみとめねばならなかった」が、「あなた(富子)のやうにはつきりと世の中と縁を絶つ事が出来」なかった。その後園子は恋人と黒淵夫人の不倫の関係を知り、また校長から結婚を迫られ強姦される(強姦に至る過程は多くの登場人物が絡んで来る「地獄の花」の見せ場になっている)という経験を経て、富子の批判の正しさを理解した。そして黒淵がスキャンダルを暴露されるのを恐れ夫人を殺し自殺した結果、黒淵の財産を譲り受けるという幸運に恵まれてはじめて富子の境地に到達した。
 ああ! 実に、人はこの自由自在なる全く動物と同じき境涯にあつて、而して、能く美しき徳を修め得て、始めて不変不朽なる讃美の冠を、その頭上に戴かしむる価値を生ずるのである。否、始めて人たる名称を許されるのである!!(同上一七〇頁)
 園子は富子の思想を獲得し、裏切られた笹村をもう一度愛するために黒淵夫人とのスキャダルを暴露されて「狐の如く隠れた神の信者」を訪れた。守るべき「貞操」を失いまた世間から黒淵家の人間だと見なされて「信用」を失った園子は、誰の目も揮ることなく「動物性」に忠実に生きようというのである。これが富子の思想の実践であり、「美しき徳」の内容である。これが道徳に抑えられた「暗黒な動物性」の校長的笹村的、つまり偽善的「進行」に対置された理想的生き方である。嶺雲が上流階級の堕落をあってはならないものとしておし止めようとしたのに対して、荷風は「動物性」を自由に発揮すべきだという観点から「道徳」によって自分を束縛することを批判した。校長や笹村に対置された荷風の理想は、名誉を諦める代償として十分な金を持っている、あるいは十分な金によって名誉の獲得のためにあくせくするのを馬鹿々々しいと考えることのできる人間だけに許された、そしてまた維持しうる思想、生き方である。「地獄の花」で描かれた荷風の思想=理想的生き方は、金持ちの中でも世の中の動きに関心をもたず、すでに野心など失った怠惰で享楽的なごく一部の人間の気分を表している。

  三、田山花袋「小詩人」から「憶梅記」まで

 ここでとり上げるのは、花袋がロマン主義の時期から自然主義へ移行をはじめる時期の作品である。これらの作品は馬鹿々々しいほど退屈である。自然主義の研究者でさえ「蒲団」以前の作品として大雑把に扱うことが多い。このような作品の検討が必要であったのは、自然主義を確立したといわれる「蒲団」を花袋の思想的流れにそって位置付けるためである。
 花袋は明治二十四年当時文壇の主流であった硯友社で文学修業をはじめた。江戸趣味の「粋」とか「通」をきどった硯友社の中で、花袋は硯友社ではめずらしいロマン主義の作家の江見水蔭に見いだされた。二十六年の「小詩人」は、後に花袋が本当の処女作と言っているように、花袋がはじめて本格的に彼独自の世界を描いた作品である(1)。描かれる人間関係もストーリーも非常に単純であるが、二十年代後半から三十年代前半にわたって花袋の追求した主題の原型がある。貧乏でいまだ世に認められない「宇宙の美」を歌う若い詩人は財産家の美しい少女に憧れ自分を理解してくれることを期待するが、愛を打ち明ける機会もなく少女は大学出の官僚の妻となり詩人の恋が破れるという作品である。美しい少女を巡って、金と地位を自分の力とする人間と金も地位もなく精神的価値を自分の力と感じる人間の対立、という作品の基本的人間関係は明治の人間関係を反映している。日本人全体の生活レベルが低くなおかつ貧富の差が拡大しつつあった明治社会において、我々の想像以上に大きな力を発揮した金と地位は、貧しい人間の利害をつねに侵害したからである。対立の内容がどうであれ「小詩人」のような対立は明治のいたるところで見られる人間関係である。花袋はエリートと少女が結びつき孤立する貧しい人間に慰めを与えようとする。
 花袋は「脱却の工夫」(大正六年一月)の中で、自分が早く父に死に別れ、母親の手に育つたこと、維新の破壊の大波を被ったこと、家道がふるわず、つぶさに生活上の艱苦をなめたことの三つの理由をあげ、それが自分の人生を見る眼をセンチメンタルなものにした。国木田独歩にはそれがなかったため、素直に世間を見ることができた、といって、境遇のために畸型にされた自己を悲しんでいる。
 このやうな孤独性、憂鬱、悲観的色調、不如意な人生に対する詠歎などは、それ自体の性格として、現世に対し現実に対する否定的意味をもってゐる。しかし善意の人間が社会に敗残し、恋に破れ、不如意な生活に泣くに至る客観的内実については、作者はさぐらうとする意欲をもたない。懐疑すらをももたない。ただ人性をかかるものとして、結果としての感傷にやすらひ、それに甘んじている所に詩趣を見いだしてゐる。……人間生活の観察者であるよりは、単なる詠歎者たる位置に満足する花袋であった。(「自然主義の研究」吉田精一上巻二九七、二九八頁)
 花袋が苦しめられた貧乏は作家として成功すれば解決できることであった。出世を望んだ花袋は、貧乏人の不幸な現実を「懐疑」したり「内実」を探ったりする必要はなかった。しかし貧乏から抜け出るには花袋の才能は乏しく容易ではなかった。花袋は成功を望みながらいまだ出世できずにいる立場から現実に「否定的」態度をとり、嘆くのである。花袋のロマン主義や感傷性は、出世できず財産家の美しい少女も手に入れられない自分に対して与えた慰めである。
 詩人は「宇宙の美を謡う」というようにロマン的世界に暮らしていたが、自分の貧乏を思い知らされる時には現実に対して無関心ではいられなかった。大学を出て内務省に勤務するエリートの従兄が毎日車で出勤するのを見ると詩人は自分の一家のためにクタクタになって働く兄を哀れに思い、また憧れの少女にエリートからの縁談が持ち込まれるのを聞くと自分の貧乏が恨めしく感じられた。そんな時詩人は「傑作」を早く世に出し文壇的成功をと「心中で叫ぶ」。成功が財産家の少女の婿になるための資格を与えてくれると詩人は期待していた。芸術を出世の手段と考える俗な関心はあからさまに描かれていないが、詩人の関心は花袋のものであった。没落士族の家に生まれ早くに父を失い貧乏のためにイザコザの絶えない生活を送っていた花袋にとって、漢詩人として多少認められた文学的才能は貧乏生活を脱出するための手段と思われた。花袋は漢詩のほかに和歌の創作や外国文学の研究などをしていたが、もっとも注意を払ったのが文壇の趨勢であった。花袋は紅葉の華々しい成功や硯友社の派手な活動にひきつけられ、彼らが倣おうとした西鶴や近松を熱心に読むようになり、硯友社に入門した(2)。硯友社は非常に多くの出版社や新聞に小説家を供給しており、紅葉に認められるのが成功を手っとり早く手にする方法であった。出世を望んだ花袋は、「小詩人」だけでなくずっと後まで裕福な家庭を羨ましげに描いている。
 詩人はエリートと同様に出世を望んでいたが、従兄の地位を「条例に首引き」の退屈な仕事だと見下していた。いまだ望みどおり出世できない詩人は、従兄が金と地位をすでに獲得し少女との距離が自分よりはるかに近いのが妬ましい。しかし憧れの少女を軽蔑する従兄に奪われそうな惨めな境遇を、詩人は文壇での成功の方が「数等豊かな名誉」であると誇ることによって慰めていた。詩人としての成功に比べれば従兄の地位などとるに足りないと考えて、財産家の美しい少女を争うエリートとの対立においては自分の方が本当は有利なのだと信じたいのである。詩人は従兄の「得意の境遇」を見せつけられた時いつも「かかる些々たる名誉(従兄の)を思ふは詩人たるものの見識にあらず、わがこの作と思ひかけつつ、机上に乱れたる原稿を見やりて、この傑作の置きどころをみよ」(3)と、詩人が従兄との違いをヒステリックに言いたてるほど出世にこだわり従兄を妬むあさましさが露骨になる。
 すべての希望は詩人の才能次第であった。詩人は並はずれたと感じていた自分の才能を示すために早く「傑作」を書かねばと焦るが、芸術を出世の手段とみなす俗な詩人の才能は実に平凡で陳腐である。「宇宙の美を謡ふ」ロマン主義の詩人が少女に見いだす美しさは「白がすりの衣の裾まで月の光を帯びたる立姿」や「甲斐絹の蝙蝠傘におのが顔をかくした」姿等(4)である。この描写が詩人に成功を約束する「天才」の美的感覚である。少女のこのような姿に美しさを見いだし「狂はんばかり」の恋をした詩人の才能はロマン的詩人としても二流以下としか思われない。これではとても文壇での成功など望めそうもない。詩人は美しい少女や裕福な生活に眼が眩んで、自分の才能が実際よりもはるかに大きく見える(5)。出世のために詩を書いたり、財産家の美しい少女を手に入れようとしたりするのが詩人の生活である。詩人の軽蔑や自惚れは、いずれ自分が出世によって手に入れるはずの少女をエリートに奪われそうな状況に対する焦りであり、出世を待ちこがれる俗な貧乏人の醜態である。
 自分の名誉の方が大きいのだと力んだり才能を買いかぶったりしたところで、将来の成功は役に立たず憧れの少女を獲得する手段がないことには変わりはなかった。詩人は少女が「嫁入盛り」であると思うと「傑作」が書けぬほど落ち着きを失い、「一生離れがたき係累をわが身の上に作るは、わが詩人たるの本志に背くにあらずや」と考え「傑作」に打ち込むために旅行を決心した。妻帯が芸術の妨げになるからというのは理由としても馬鹿げており、詩人の負け惜しみである。詩人は係累を作りたくても作れないのであり、「まして(ではなく本当はである)我はかくまで破れたる家に住める貧生なり。高等中学の教頭にすら許さざりし少女を、いかにしてこの我には許すべき」であるから仕方なく芸術だけに打ち込もうというのである。「貧何物ぞ、富何物ぞ、人何物ぞ、少女何物ぞ」とあらゆるものを捨てようと意気込んだ詩人は、出発の朝出会った少女に心動かされ、旅行で少女を手に入れることができるという希望を持った。詩人は旅行中に昔書いた漢詩を読んでいた人々によって詩会に招かれるという「思いがけない快事」に出会った。たとえ「文壇にもてはやされ」なくとも自分の詩の精神を理解した人々がいたということは、少女を忘れようとしても忘れられなかった詩人には大きな喜びになった。詩人はこの事実から、文壇での評判に関係なく、自分の精神が人々をひきつける優れた価値を持っていると思い込んだ。詩人としての派手な「名誉」という婿の資格がなくとも、エリートをおしのけ少女を自分のものにするための力を発見したのである。詩人はまだ成功を獲得していなかったから、少女を得るための最後の手段として「白がすりの衣の裾まで月の光を帯びたる立姿」に美を見いだす才能そのものに救いを求めた。自分の優れた精神的価値を示す「傑作」を発表しさえすれば少女は理解するだろうと期待した。しかしこれも少女への期待も追い詰められた詩人の幻想であり、慰めである。詩人が金と地位を少女を獲得するための手段と考えたように、財産家の美しい少女を得るためのエリートとの競争では精神的価値が優れているかどうかなど問題ではなく、「条例に首引き」という従兄の地位がもたらす物質的幸福が少女の親をひきつけるのだから、詩人が自分の力だと信じた精神的価値は文壇的成功の代わりとはならない。だから詩人の自分勝手な想像で少女を理想の人間に作り上げ期待をつなごうとするのである。「文壇にもてはやされ」なくとも才能そのものが素晴らしいのだからという自惚れと、そんな自分が愛した少女は自分を好きにならないわけがないという傲慢をつなぎ合わせて、詩人は追い詰められた状況を打開しようとした。詩人は希望でもない希望に励まされ、少女のことを思い浮かべても「筆が乱れる」ことなく「卓絶した詩想」が湧き上がり、「わが作世にいれられずして、少女と共にかかる山中に隠るること」の楽しさを夢想した。しかし、「傑作」の執筆旅行中に少女の親が従兄との縁談を決め詩人の恋は破れてしまった。
 詩人のあずかりしらぬところで彼の恋が破れたと花袋の描いた結末においては、優れた才能によって書かれた「傑作」が間に合ってさえいれば少女は理解したはずである、と詩人が希望的に考える余地が残されていた。花袋は、少女を獲得する手段である出世をまだ持たない詩人の幻想と慰めを、詩人が期待したように現実的希望として考えていたのである。花袋はそもそも結びつくはずもない二人の間に結びつきの可能性を見いだし、叶うはずであった詩人の恋が破れたことに悲劇を感じている。文学を出世の手段と考え財産家の美しい少女への憧れにいつまでも執着する俗な詩人の主観的願望によって、現実を描こうとするところに花袋のロマン主義がある。花袋が貧乏人の苦しむ現実に対して無批判的であるという批評の生まれる根拠はここにある。
 しかし「小詩人」にはまだ、後の作品に見られるような、憧れの美しい少女と結びつけないことに対する花袋特有の嘆きや感傷はない。詩人にとって少女を奪われたことは大きな痛手であったが、少女を手に入れることができたであろうという幻想はまだ破られていなかったから、世をはかなんだり嘆いたりする必要はなかった。詩人は「あり得べからざる」ことが起こったことに驚き「傑作」が間に合わなかったことを残念がるだけである。詩人は少女がもうすでに自分のものとなったと感じていたから、詩人の残念がりようは深刻ではあった。最後に詩人は「我れは詩人なり、少なくとも宇宙の美を唄う詩人なり、妻を娶つて一生を条例の中に過さむとする彼等とは異なれり。詩人! 詩人! 叫びながらも、わが涙は霰のごとく迸りて、机の上に置きたるかの傑作を名残なく濡らし尽くしぬ」と「口惜しさ」のあまり泣き叫び、少女を失った今文壇的成功を再び目指すことを決意する。
 花袋も、詩人と同じように、「今に豪くなるぞ、豪くならずには置かないぞ」という「内部の声」に動かれて、実に多くの小説を書いていた。彼の作品は「文学界」の人々から認められただけで、文壇の主流から言葉の使い方も知らず甘ったるい恋愛ばかり書く小説家として嘲笑的に扱われた(6)。花袋は成功どころか自分の食い扶持を賄うのさえ苦労した。花袋は成功を諦めることはなかったが、「不幸多く薄命」なのが詩人の運命であると感じるようになっていた。二十九年の「わすれ水」(7)では、このような花袋の作家生活を反映して、詩人として食っていけず都落ちして教師となった鐘一の美しい少女礼子への憧れが描かれている。ここでも主題は、「小詩人」と同様に財産家の美しい少女と結びつけない悲劇であるが、鐘一には「詩人」のように「傑作」を発表するという希望がなかったから、彼の恋愛は一層悲劇的である。
 不本意にも田舎暮らしをはじめた鐘一は、美しい自然に慰められ「憂いといふもの」なく本を読み詩を書く牧歌的生活に満足していた。鐘一は裁縫を習う礼子の「他の女子共の訳もなきことを喧しくしやべり散らす中に、唯一人言葉もなく、一心に針を走らすさまのしおらしさと、折々難しき所にあいて恭しく師匠の前にもち行くさまの大人しさ」等に「恍惚」となり恋に落ちた。彼の平和な生活は破られた。鐘一は礼子が「親孝行」で「性質が優しく」「学問が人並み以上に優れ」「琴の免許」も持っているという噂を聞くと「いよいよ恋しくいよいよ慕はしく」なった。「小詩人」では憧れの少女の美しさが甘ったるく描かれていたのに対して、ここでは憧れの内容が少し具体的である。鐘一の憧れる礼子の性質は頑固な道徳家も文句のつけようのないほど凡俗で、具体的であるだけ鐘一の恋の馬鹿らしさが一層目立つ。詩人と同じようなつまらない恋をした鐘一の恋の障害も「金、学問、容色」という礼子の親が婿に望む条件がないことであった。鐘一は詩人として成功しなかったから礼子の親を満足させることができなかった。
 財産家の美しい少女に憧れる鐘一は最初から「詩人」のように幻想によって生きるほかなく、しかも鐘一の状況は「詩人」よりさらに困難である。鐘一は自分が「人の夢にも見ざる美しき境を」知っているので、礼子が自分と結婚すれば「他の少女らより、いかばかり幸福と安寧を享け得ることか」と自惚れ自分を慰めていた。鐘一の才能は文壇での成功のためには役立たなかったが、恋愛では威力を発揮するだろうということである。しかし鐘一は詩人として失敗し自分の精神的価値を示す機会もないから、礼子が何かの機会によって自分の精神を理解する、という起こりそうもない偶然を期待する以外にない。財産家の少女が貧乏人をふりかえるのを待つ鐘一の「熱病の如き」苦しさを緩和するには、自分の気持ちを打ち明ければよいことである。結果が鐘一にとって不都合であっても、ありもしないことを期待して気を揉んだり苦しんだりするよりましである。しかし鐘一は「尊い立派な」「憂いを知らぬ」少女の「無垢な翼」を傷つけるのを恐れたから、打ち明けるのをためらった。「忍ばねばならず」というのが鐘一の深刻な覚悟であった。財産家の美しい少女への憧れをこの上もなく神聖であると感じる鐘一は、打ち明けてふられるのが怖いのだろう。鐘一は詩人としての出世の可能性を失って少女に働きかけることもできず、夢の中に逃れたいたいのである。
 夢の中に暮らす鐘一はすれ違うごとに「礼を施す」礼子に気づき希望を持った。しかし「恋愛の美しさを知りたる」鐘一は、打ち明けることをどういう訳か「世の常なる汚き手段」と考えていたから、「汚き手段を用いてその現実の恋の成就を」望まなかった。鐘一は、「機会」を待ち続けた。この「機会」が何かについても書かれていないが、自分を愛するようになった礼子と愛を確かめ合う運命的な出会いといったようなものである。しかし「機会」は訪れず、鐘一は一家の生活を支えていた兄の病気のために「純潔な愛」を持ち続けたまま東京に帰らねばならなかった。一方で親の望むような結婚を強いられた礼子は、しばらくすると「金、学問、容色三拍子揃った婿」によって家を追い出された。鐘一は面影を忘れず二十年後再びこの町を訪れ不幸な礼子と出会い、礼子も自分を愛していたことをその時知った。礼子は優しい先生だという弟の噂話を聞いて愛するようになったのだが、鐘一と同じように打ち明けることを「汚き手段」と考える「純潔な愛」の信奉者であったから、二十年前に鐘一は礼子の気持ちを知ることができなかった。こうして二人の悲劇的すれ違いは、男と女が金や地位によって結ばれる世間に対して、また打ち明けるという「世の常なる汚さ手段」を使う実際の恋愛に対して、二人が同時に自分の愛の純粋さを守ろうとして起こったのである。
 財産家の美しい少女を手に入れるための現実的手段は出世であったが、花袋は出世できなかった。憧れが実現する可能性が失われた今、少女に愛されているということが花袋の満足となる。花袋は自分の幻想をなんとか維持しようとする。花袋はそのために愛しあいながら鐘一も礼子も打ち明けることを「汚き手段」と考えて拒否するこじつけ的な設定を作り、愛の純粋さを貫こうとするために結びつけないという悲劇的矛盾を構成した。打ち明けなければ恋愛ははじまらないのだから、告白の否定は少女を手に入れるために何もしないということである。告白すれば結果は明らかであるから、現実と触れ合うことを否定することによって、花袋は幻想の中で自由に少女を作り上げることができる。しかも告白を「汚き手段」と見下せば、打ち明けないのは結果が恐ろしいからではなく、自分の恋愛を非常に純粋に考える高潔な人間だからだと思い込むことができる。実際には財産家の少女が「貧乏な文学書生」であった花袋にふり返るということなどありえない現実にあって、花袋はこのような設定で逆に少女に愛されているという幻想を維持すると共に、自分の精神的価値を新たに示し才能を認めなかった世間を下らないと軽蔑するのである。花袋は幻想の中で礼子も鐘一と同じ「純潔な愛」の信奉者に仕立て、二人は汚い世間や恋愛から愛の純粋さを守ろうとするために、愛し合いながらはじめから結びつく可能性がなかったと考えることによって、そしてはかない恋を精一杯嘆き世間を心底恨むことによって、出世もできず憧れの少女も獲得できない惨めな自分の現実を慰めているのである。これが「わすれ水」での花袋の感傷である(8)。
 「わが国の女性と、恋愛とは、いかに烈しき血と、いかに優美なる趣を備えたるか…諸子狂えよ、迷えよ、悶えよ、泣けよ、燃えるが如き恋をせよ。かくて諸子の詩は成らん。かくてぞわが清新の明治の詩調は成らむ」という序文についた三十年の「わが影」でも、花袋は「わすれ水」と同様に「純潔な愛」を歌っていた。しかし「純潔な愛」を熱狂的に叫ぶ恋愛詩人にも転機が訪れた。「純潔な愛」という花袋のロマン主義を打ち消したといわれるのが、三十二年の結婚とヨーロッパの自然主義や象徴主義といわれる文学の耽読であった。
 花袋は「妻」(明治四十一年)という自伝的な小説の中で自分の結婚に対する感想を書き込んでいる。花袋は結婚生活の経験から「繁殖? 妻を娶るのは繁殖の為か? 然り、繁殖の為、恋といふ美しい花の咲くのも要するに肉体と肉体を合せしむる為―繁殖を計る為の自然の一手段であるのだ」と恋の真実が性欲にあることを見いだし、「純潔な愛」というプラトニックな恋愛を「要なき煩悶、要なき苦痛、要なき同情、少なくともいままでは要なきものに余りに多く憧れた」と感じるようになっていた。花袋は結婚生活の実際に自分のロマン主義を否定する肉体的関係を発見し、この前後から「不道徳」といわれた自然主義以降の作品を大量に読みはじめた、花袋は三十三年には、ゾラに影響されたといわれる「うき秋」で「先天的性質」によって一家族の歴史を描いた。また三十四年から担当した雑誌の批評欄でヨーロッパの現代文学を熱心に紹介した。花袋は自然主義者の中でも特にモーパッサンに注目し、人間が性欲に支配される姿を描いたことにモーパッサンの偉大さを認めた(9)。
 三十四年の「憶梅記」は花袋が自然主義へ移行をはじめた時期の作品である。ここでもまた貧乏芸術家の「純潔な愛」が描かれる。「わすれ水」では少女を獲得できなかったから無理やり悲劇をつくり上げ感傷に耽っていたのに対して、花袋はここでは「純潔な愛」が成り立たない現実のあり方を描こうとしている。花袋は「先天的性質」の「衝突」によって、「純潔な愛」が破れると考えている。花袋はロマン主義から抜けだし現実に近づこうとしていた。
 貧乏な画家は十六の時にすでに「厭世家」となって「釈迦だの、達磨だの、脱俗だの」と考え、自分の思いどおりにならぬ世間を見下していた。画家が悲観するのは、「立派な人間になりたいといふ心が胸一杯」あったにもかかわらず貧乏のために田舎に取り残され、「小学校の朋友」が「東京に遊学」するのを見送らねばならなかったからである。花袋がストーリーの展開の必要上画家に与えた特徴から「厭世」の理由はこのように考えられるが、花袋は「先天的性質」から説明する。画家は「母の遺伝性を受けて、癇癪持の、意地悪の、負けず嫌の、それはそれは烈しい感情」の人間であった。この上「我一方」という「先天的性質」であった祖母に育てられたから「益々旋毛曲といふ性質に走つて行つた」。画家は人から嫌われる性質であったために「多い友達の中にも、殆ど除け者にされて居たが、その他人扱いにされた口惜しさが、深くその小さな胸に沁入って、愛憎の念は極端から極端へと愈々嵩じて行つた」と、つまり画家は人から嫌われる性質であったから人から嫌われて厭世家になったということである。花袋が「厭世」を描いた論法からすれば画家は人から嫌われっぱなしで、画家の運命はすでに確定されたことになる。「先天的性質が運命を作る」というのが花袋の主題であったとはいえ、これはあまりに単純である。花袋はこの主題を大がかりに展開するため、画家に「優しい言葉がなくては一日も楽しく生活することができない性質」を与えている。新たに画家に与えられた性質は財産家の令嬢とは関係をつくり出すためのものであるが、人に嫌われることを厭世の原因と考える花袋にふさわしい単純で俗な設定である。
 田舎に取り残された画家は、「旧知事公」に絵の才能を見いだされ東京の美術学校に入学した。画家は東京の旧知事邸でも母の遺伝性を受けた性質のために「人から愛されたこと」がなかったが、「先天的性質」による「淋しい恋し」い孤独を救ったのが旧知事の第三令嬢であった。画家は令嬢から「優しい言葉を掛けられて」恋に落ちた。(花袋の描く貧乏人はいつもこんなに惨めな精神の持ち主である。)貧乏な画家は、詩人と同じように、令嬢を獲得する手段がないから、卒業制作によって「階級の相違」を乗り越えるようとしたが失敗した。鐘一と同じ立場に置かれた画家も「純潔な愛」の信奉者になった。画家は打ち明けもせず令嬢に愛されているという幻想によって二年間暮らしていた。
 「憶梅記」は画家の友人である「私」の回想という形式をとっている。「私」は画家よりも古くからの「純潔な愛」の信奉者であり「先天的性質」による孤独に苦しむ画家に恋の神聖を説いたこともあったが、「私」はすでに「純潔な愛」を否定していた。「私」つまり花袋は画家に打ち明けるべきだと忠告した。「それぢや先方でも君が思ふやうに、君を烈しく思つて居るけれど、矢張君と同じく打明けることが出来ずに居て……つまり互いにその打明ける機会が無くつて、互いに思つて居りながら、一生知らずに過ぎるやうな事があつてもかまはんのか」と、「わすれ水」の悲劇を繰り返してはならぬと激しく責める。「わすれ水」の悲劇は憧れの少女がすでに愛しているというあつかましい空想を前提にして作り上げられていた。花袋は自分勝手な想像に乗っかって、画家に令嬢の方も愛しているのだからみすみす逃す手はないことを大真面目に説教する。画家は「私」の説教を一度ははねつけて田舎に帰り教師になったものの、我慢できずに東京の友人を介して令嬢に気持ちを伝えた。その結果手紙こそ来なかったが写真を送られて画家は「実際の成就を為す事の出来ないのは、只階級の相違が障碍になるばかりである。だから(令嬢の愛情を確認しただけで)満足で」あった。画家の苦しみは愛し合いながら結ばれることができないということであったから、令嬢の愛を知ったことは解決ではなかった。それに「障碍」である「階級の相違」もはじめから分かっていたことである。にもかかわらず愛の確認で画家は十分であった。というのは「純潔な愛」は結びつきの手段としての出世が実現できない時に生まれる幻想であるから、高嶺の花に実際愛されていることを知るのは「純潔な愛」という幻想においては予想外(後に写真は友人のイタズラだと分かる)の満足であったからである。画家は、自分の思いどおりにはならないつまり出世できない現実にあって、貧乏人が財産家の美しい令嬢をひきつけた、というつまらない虚栄心が満されたのである。これが「純潔な愛」の最終的内容である。
 花袋は自分のロマン主義を実現した画家を批判することによって、ロマン主義から抜け出そうとする。花袋つまり画家は「自分の恋は理想的なものであるから、実際の成就不成就は、更に関する所ではないと、口では立派に揚言しながらも、しかも倍一倍その実際的感情に支配されていた」と批判する。実際的感情とは令嬢と結婚したいということであるが、花袋にとって結婚はすでに見たように肉体的結びつきであった。だから花袋の画家批判は、性欲の満足を求めているのにそれを隠して、プラトニックな愛情に満足しているかのように装うことに向けられていた。みすみす逃す手はないという説教を本当の理由によって露骨に言ったわけだが、花袋は財産家の少女をいつまでたっても獲得できなかったから、画家批判の実質的内容は性欲を満足できない恋愛に執着するのは馬鹿げているということである。これが「純潔な愛」というロマン主義に対する花袋の自己批判である。花袋の自己批判は性欲を隠していたという一点から行われるだけで、憧れのくだらなさつまり財産家の美しい少女への憧れが貧乏人の俗な感情であることには及ばないから、花袋の中では憧れは依然として美しい感情として残り、画家に対して同情的である。
 画家に写真を送ったのは実は佐藤という友人のイタズラであった。佐藤はそれだけでなく、「娼妓も買うし、芸妓も揚るし、其他いくらもその艶話は山の如くあると、誇って居る身」であるのに画家を苦しめるために令嬢を奪おうとし、令嬢は佐藤になびいた。「憶梅記」での新しさは花袋が憧れの少女が貧乏人を理解しないことを事実として認め、描かざるを得なくなっていることである。花袋は、画家を裏切った令嬢を「女も女だ。あんな佐藤のやうな男に騙されて、山縣の真の恋を認める事が出来なかったとは。…あの令嬢などは、学問もあり、性質も鋭敏だと聞いて居つたのに」と非難している。財産家の少女が貧乏人を理解しないことを花袋が認識するまで、「小詩人」が二十六年であるから八年かかったことになる。花袋の認識は八年間の成果としてはそう大きなものではないし、花袋は令嬢がだまされただけだとまだしも好意的に考えようとしている。花袋は財産家の美しい少女に憧れていたのだから、令嬢をそう強く非難できない。そのかわり花袋は令嬢を愛していたわけではない「残忍な性質」の佐藤をさんざん罵倒している。画家が懸命に愛しているのになぜ理解せずに邪魔をするのか、と。佐藤にだまされるような令嬢に憧れ理解を期待したのは画家の勝手であって、佐藤を罵倒するのは見当違いである。他人を非難する前に花袋はそろそろ令嬢に期待をかけるのがいかに現実離れしているかに気づくべきであった。しかし花袋は裏切られても令嬢を好意的に見ようとしたように、財産家の少女に対する幻想を残しており、画家の悲劇=自分の憧れが実現しなかったことの原因を佐藤の「残忍な性質」に求め慰めを与えようとしている。これはすでに少女に期待できないのを経験上認めざる得ない、つまり花袋なりに現実認識が進んだ段階での慰めの方法であった。
 画家はどんなことがあっても愛し続けると考えていたが、今では令嬢を「仇敵」のように憎んでいた。画家に対して「私」は「人間には弱点があるから、遺恨やら、嫉妬やら、憤怒やらの悪魔が出て来て、それを打ち壊そうとするのは事実だ。けれど僕は人力で及ばなければ、神の前に祈っても、自分の理想を実行して、猶その人を誠意を以て恋しやうと思ふね。同じく情あり心ある人間じやないか。それまでして動かないやうな木石は決してない」と、「私」らしからぬことを言って励ます。この時「私」には画家がふられた理由はまだ知らされていなかったとはいえ、すでに「実際的感情」の満足によって「純潔な愛」を否定していた「私」がこんな無茶を言うのは、画家が「純潔な愛」を捨てる理由=花袋が熱心に唱えたロマン主義を捨てる理由を強調するためである。画家は「私」に対して「君の議論はよく分かつて居る。僕は実際君のその理想の清く堅いのに敬服して居る」にもかかわらず、「僕の性質が情けないが、……それは出来ない…」と応える。「純潔な愛」はよく理解できるのだが、「先天的性質」のために愛し続けることがどうしてもできないというのである。ふられた画家が令嬢を諦めるのは無理もないことであった。また「実際的感情」の満足に関心のあった「私」も特別咎めるようなことではない。事実「私」は画家が令嬢にふられた直後に別の少女に恋愛感情を持つことに対して非難していない。それではなぜ「純潔な愛」を捨てるために「先天的性質」などという特別な理由を持ち出したのか。「東京の三十年」や「近代の小説」という大正時代の回想記の中で、すでに「蒲団」で自分の性欲を描いていた花袋は、「わすれ水」前後の自分の「純潔な愛」と性欲の関係について書いている。花袋はプラトニックな愛を神聖であると考え実際の恋が性欲を満足させる汚いものと軽蔑していた。しかし軽蔑しても性欲は抑えられなかったから、プラトニックな愛の神聖を唱えながら性欲に支配されていた、と(10)。画家に対する「私」の批判は、花袋の自分自身に対する観察に基づいていた。口では神聖な恋愛を唱えながら実は汚いと見なしていた性欲に支配されること、これが花袋の発見した自分の真実の姿である。この発見は「純潔な愛」というロマン主義を克服するための花袋の唯一の思想であったから「実際的感情」を書かずにはいられない。しかし画家が「純潔な愛」を捨てるために「先天的性質」を持ち出すのは、花袋が依然としてプラトニックな愛を理想とする観点からしか性欲を見れず、汚いものと考えた性欲に自分が支配されていることを露骨に書くのが躊躇されたからであろう。その上あれほど熱狂的に「純潔な愛」を歌った自分が性欲のために、「純潔な愛」を捨てたと認めるのはあまり見っともいい話ではなかった。性欲を満足させたいから「純潔な愛」を捨てた、という因果関係を隠すために「先天的性質」の力が必要であった。「先天的性質」は自分と世間に対する花袋の弁明であった。花袋が性欲を隠そうとした個人的思想的理由はこのようなものである。
 花袋は、画家に「純潔な愛」を断念させた「先天的性質」の力強さを、つまり「先天的性質が運命を作る」ことを示すために、画家と繁子のエピソードを挿入する。令嬢にふられた画家は田舎で神童といわれる美しい少女の教育を頼まれた。「その美しい頬に、星のやうな笑靨を二つ出したさまは、深く自分の心を動かした。…その笑顔がかの良子に彷彿であつた」という理由で、気に入った画家はこの十二、三才の少女の「清い愛」によって失恋の痛手を癒そうとした。画家の祖母は、下宿にまで引き取って教える画家の将来を心配し繁子をいびり出そうとし、繁子を守ろうとする画家は祖母に育てられた「大恩」を感じているにもかかわらず邪険に扱った。祖母は昔息子を独占するために画家の母を追い出したほどの「我一方」の人間であったから譲らなかったし、画家も「母の遺伝性を受けて、癇癪持の、意地悪の、負けず嫌の」性質だったから譲らなかった。こうして繁子は我慢できずに実家へ帰り、画家は祖母を憎んだまま自殺した。画家を独占しようとした祖母は一人残された。
 花袋の描いた繁子を巡る画家と祖母の確執は、画家の厭世と同様に社会的内容に乏しい。花袋の目的は自分の発見した真実である「実際的感情」を粉飾しながら描くことにあるから、現実は花袋の都合に合わせて単純に描かれる。「小詩人」や「わすれ水」では、花袋は出世と少女を望む俗な貧乏人のロマン主義によって甘ったるい空想的世界を作っ上げたのに対して、ここでは性欲と「先天的性質」をなんとか結びつけようとして現実離れした観念的世界を描いた。
 (注)(1)「小詩人」は、花袋に関する膨大な資料を集めた小林一郎氏の「田山花袋研究」の中で、当時の花袋の考えを総合的に描いたと評価されている作品である。
 (2)花袋は入門のためはじめて紅葉を訪ねた時の印象を次のように書いている。「一時間ほど私は話した。何を話したか、それは大抵忘れてしまったけれど、彼の賛沢な生活、何不足ない生活、いかにも大家らしい鷹揚な生活、ことに美しい菊子夫人が私の眼と心とを強く刺激した。…暇を告げて外に出た私は、一面強い奮励の念に燃えると共に、一面貧しい生活に心を暗くした。私には明るい二階もなければ、メリンスの座蒲団もなく、そら豆もなく、新刊の雑誌もなく、唯、厠に近い汚い一間の机があるばかりだ。」(田山花袋「東京の三十年」大正六年 四六頁 岩波書店一九八一年)
 (3)「小詩人」と次の「わすれ水」の引用は「田山花袋全集新輯別巻」(文泉堂書店)、最後の「憶梅記」は全集第十四巻による。
 (4)このような金持ちの美しい娘の姿を見るために、当時の花袋は高級住宅街をよく歩いた(花袋にとって残念だったのは貧乏のために軍人のように気楽に娘と話できないことであった。)、と「東京の三十年」の中であけすけに語っている。しかし「小詩人」の頃の花袋は自分の気持ちを露骨に書くのは憚られたのであろう。花袋は美しい少女との出会いを「目的も無く歩みしわが足の、知らぬ間にかかる処(少女の家の前)に来たり」「をりしもあれ、少し離れたる松の木陰に、何人ならむ、白き衣着たる人の佇める姿が」あった、というように偶然として描いている。
 (5)ただ詩人は時々成功などできないと落ちこむことがある。詩人=花袋は自分の才能を買いかぶっていたが、文壇はもちろん硯友社内部でもほとんど認められなかった。「田山は不遇不遇と言っているが不遇なんていうのは早い。一体不遇なんて言うほどのものをいつ書いたんだ」(同上二三六ぺ-ジ)と紅葉にたしなめられたように、花袋の小説は批評の対象にならないほどまずい作品ばかりであった。野心だけは人一倍強かった花袋は文壇での不評が気にかかり、自分の将来を悲観して「厭世」的になることが多かった。
 (6)花袋をもっともこきおろしたのは「めざまし草」であった。「めざまし草」に「腹にも据えかねるというほどひどいわる口を言われたが」、花袋は嘲笑的批評を無視することができなかった。そのうち花袋は「悪口を長く言われたのを却て評判が好かったというやうに」考え自分を慰めようになった。
 (7)「わすれ水」は「かれの初期小説の慣用的手法を駆使した一編」(「田山花袋全集新輯別巻」吉田精一氏の解説)といわれる作品で、小林一郎氏は「田山花袋研究--博文館時代(一)」の中で「めざまし章」にあいかわらず酷評されたもののとにかく「二十九年の作品では一番評家の関心をたかめたもので」あると指摘している。
 (8)「文学界」の人々だけでなく、高山樗牛もこの作品を褒めている。樗牛は逍遥も深刻小説も硯友社の戯作文学もいっしょくたにして、これらすべてを「国民的性情に対する軽蔑」であると批判した批評家である。「今の小説、われ等は其の浅さを惜しまずして其の清からざるを悼む。恋の清きものは、世に尤も美はしきものの清きなり。澆季浮薄の世に、名の為に動かず、利の為に走らず、つれなき運命の風波に揺られつつ、身を以て其の愛情に殉ずるものにいたつては、われ等是れを高しと云はず、又大なりと云はず、只其の甚だ美はしきを認めずむばあらず。…『わすれ水』はたしかに愛情の福音を伝ふるものなり。」(「田山花袋全集新輯別巻」七七五頁)花袋は「名」も「利」も持っていなかったからプラトニックな恋愛に止まるほかなかったのである。しかし樗牛は反動的立場から現実の恋愛が「名」や「利」によって支配されるのを批判し、「わすれ水」での「純潔な愛」に理想的な恋愛を見いだしたのである。
 (9)花袋は、ゾラ、イプセン、フロベール等の自然主義作家より、モーパッサンを「もっとぐっと徹底して物を見る」作家であると評価していた。徹底して物を見るとは、人間を性欲に支配されたものとして発見することであり、花袋はモーパッサンの「ベラミ」を次のように紹介している、「モウパッサンが「ベル・アミイ」こそいみじき小説なれ。欲情を逞しうすること尋常茶飯に均しき主人公を拉し来りて、姦通又姦通、不義又不義、しかもその間に起り来れる機微の情を利用して、巧みに淫乱を極めたるフランスの上流社会に地歩を占むるの行路、殆ど人をして猶この事ありやと疑はしむるばかりなるを覚ゆる。就中主人公が落魄巴里の街頭より救いたる友人フオレスチールの妻をうばひ、その重死の病床に公然と妻と戯れるの一段の如きに至りてはいかに寛容なる読者といえども眉を顰ざること能はざるべし。然るにモウパッサンはこれを描くに……純守たる写実の筆を以て、人間にこの事ある怪しむに足らずといへるが如き態度を以て平然としてこれを描けり。……われは此所謂不健全なる作品の中にも猶驚くべき人性の真趣の発展せられたるを認めて慄然として肝を寒うせざるを得ず。」(「田山花袋研究--館林時代」小林一郎112 頁より 桜楓社)
 (10)「T(花袋)に取っては、娘は、処女は触るることの出来ないほど神聖なものにして置きたかった。処女の純潔ほど美しく理想的なものは世の中にないとTは思った。」(「東京の三十年」一一五頁)「T は長い三、四百枚の小説を書き始めていたが、これに倦むと、昼間でもその寝台にもぐり込んで寝た。そしてまた触れない禁断の果実に憧れた。口では神聖の恋とか、聖教徒とか言っているけれども、その時は白い肌の美しい襟元だの甘い歓楽だの不健全に頭に浮かべていた。」(同上一一九ページ)「東京の三十年」でも「純潔な愛」と性欲の関係は国木田独歩との対話形式で書かれていたが、「近代の小説」の中では花袋の描いた独歩が花袋を次のように批判し、「純潔な愛」の実際的関心が性欲にある、という花袋の自分自身に対する考えを述べている。「『だって、君のやうに、さういふ風に女性崇拝ばかりして居るのは、それは君、性欲だよ。たしかに性欲だよ。だって、女をそんなに美しく見たり、尊んで見たりする必要は何處にもありやせんもの』」(「近代の小説」田山花袋全集新輯別巻 二四二ページ)


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