自然主義論(三)

 『蒲団』

 日露戦争前後の資本主義の急激な発展によって明治社会は大きく変化した。ロマン主義的な社会批判や貧富の差が拡大する現実から逃れようとする夢物語は受け入れられなくなった。従来の文壇のやり方が時代遅れになり多くの作家は新しい対応を迫られていた〔注@〕。このような時、時雄は「自分が地理の趣味を有つて居るからと称して進んでこれに従事して居るが、内心此に甘じて居らぬことは言ふまでもない」と野心を抱いていた。時雄にとって従来のやり方が破壊され多くの作家が進むべき道を模索していた文壇の低迷期は成功を望み得る数少ない機会であった。時雄は「一生作に力を尽す勇気」を持てず、「断片」を書き続け「全力の試みをする機会」を待っていた。「断片」が何かのきっかけで認められ大きな発表舞台が与えられ華々しく成功する、というのが文壇の低迷にチャンスを見出した時雄らしい成功の仕方であった〔注A〕。
 時雄が「機会」を待っている間にも「社会は日増に進歩」し、「女学生は勢力になつて、もう自分が恋をした頃のやうな旧式の娘は見たくも見られなくなつた。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学も談ずるにも、政治を語るにも、其態度が総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ない」新しい世代が登場していた。文壇の低迷がいつ終わってもおかしくない状況が進行していた。激動する時代にチャンスを見出した時雄自身も新しい世代に取って代わられる存在となっていた。しかも時雄は次のチャンスを待っていられるほど若くはなかった。
 時雄は熱心に「断片」を書いていたが「青年雑誌から月毎に」「罵評」される小説の執筆は空しい仕事であった。また創作のために外国文学を「読み渉猟つて」も「満足」できなかった。外国文学の研究という地道な努力もまどろっこしかった。そして以前のように「家を引越歩いても面白くない、友人と語り合つても面白く」なかった。時雄は田園生活に詩情を求めいまだ世に認められぬ作家仲間と文学談義を交わす明治二十年代後半から三十年代前半によく見られたロマン主義的なディレッタントの生活に落ち着いていることができなかった。時雄は仕事にも研究にも過去の文学的生活にも充実を見出せず「朝起きて、出勤して午後四時に帰つて来て、同じやうに細君の顔を見て、飯を食つて眠る」毎日に「つくづく倦き果てて」いた。現在の生活に止まっていることを「身を置くに所が無いほど淋しかつた」という時雄の言葉には、せっかく巡ってきたチャンスを失って時代から完全に取り残されるのではないかという不安が現れていた。
 当てにできるような財産も後楯もなかった時雄は三十の半ばまで「地理書の編集」をやりながら小説を書き現在の生活と作家としての地位を獲得した。現在の生活と地位には時雄の少なからぬ労力と忍耐が刻まれており、人生の大きな成果であった。そしてまた面白くなくても小説を書き外国の作品を読むことが「全力の試みをする機会に遭遇」した時の準備、つまり時雄に残された数少ない成功のための手段であった。時雄は「身を置くに所が無いほどに淋し」くとも「倦き果てて」も退屈な生活から逃れることはできなかった。今の退屈な生活を続けることが成果を守ることであり成功のための手段であった。
 時雄は出勤の途中で美しい女教師と出会うのを「其日其日の唯一の楽み」にしていた。彼女との恋愛を「神楽坂あたりの小待合に連れて行つて、人目を忍んで楽しむだら何う……。妻君に知れずに、二人で近郊を散歩したら何う、いや、それ所ではない、其時、妻君懐妊して居つたから、不図難産して死ぬ…。其後に其女を入れるとして何うであらう。平気で後妻に入れることが出来るだらうか」と想像した。妻という障害がなくなっても「平気で後妻に入れることが出来るだらうか」と若い女との恋愛にのめり込むことにためらいを感じていた。新しく恋愛を始めるとこれまでの生活に新しい関係が入り込みいろいろな出来事が起こる。生活の変化は現在の生活と成功の可能性を失うことであり、若い女との恋愛は退屈しのぎに止まった。ただ作家として打ち込める内容を持たない時雄にとってこの退屈しのぎが生活の主な関心であった。
 芳子は地方の有力者の娘であった。芳子の両親は厳格なクリスチャンで母親の方は同志社女学校の出身でありイギリス留学を経験した兄は官立学校の教授であった。裕福で田舎にしては知的な家庭に育った芳子は小学校を卒業すると神戸のミッションスクールでハイカラな学生生活を楽しんだ。他の学生が、金色夜叉や天外の流行小説に夢中になっていたのに対して、芳子は時代遅れになりつつあった時雄の美文を愛読していた。都会に出ても田舎の教養を洗い流すことができず、田舎臭い感覚でハイカラを身につけた。
 時雄は自分の美文を「渇仰」していた芳子の手紙を弟子入りを願う田舎の読者と同様に扱った。しかし芳子からの熱心な手紙を三度も受け取ると「さすがの」時雄も「注意をせずに居られなかつた」。若い女への執着を抑えることができなかった。そしてまた作家として時代遅れになりつつあった時雄にとって入門の手紙を「走り書きのすらすらした」字で書くハイカラな芳子から尊敬を受ける、つまり新しい世代と接点を持ち得たことが慰めとなった。時雄はすでに美文を清算する方向に向かっていたにもかかわらず美文を崇拝する芳子の文章を「其の表情の巧みなのは驚くべきほど」と感じた。芳子への返事は「数尺」の長さになり時雄はその返事を読んだ芳子の反応が気にかかった。
 女だから文学ができないという時雄の返事はハイカラな芳子の知的虚栄心を刺激した。芳子は時雄の返事を与えられた試練と感じ「父母に願って許可を得たならば、東京に出て、然るべき学校に入って、完全に忠実に文学を学んで見たい」と自分の熱意を示した。一方時雄はハイカラな芳子から師匠と仰がれて、不安な気持ちで眺めていた新しい世代を「東京でさへ― 女学校を卒業したものでさへ、文学の価値などは解らぬ」と見下すほど有頂天になり芳子の弟子入りを認めた。頻繁な手紙のやりとりのうちに時雄は芳子の手紙を待つようになり、時には「写真を送れと言つて遣らう」と思うこともあった。花袋は芳子の写真を欲しがる時雄の心理を「女性には容色と謂ふものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない」と説明している。美人ならいっそう教え甲斐があった。
 弟子入りのために上京した芳子は「成るべくは見られる位の女であって欲しい」という時雄の期待を裏切らなかった。時雄は自分の家に下宿した芳子の「華やかな声」「艶やかな姿」また出産したばかりの妻を手伝って「靴下を編む、襟巻を編む、衣裳を縫ふ」様子を見たり聞いたりすると「新婚当座に再び帰ったやうな気」した。今までなら夜になると「子供と惧に妻君がいぎたなく眠って了って」いたのが不満であった時雄は、玄関で迎える芳子の「美しい笑顔」を思い浮かべて「家門近く来るとそそるやうに胸が動いた」。こんな芳子が自分の家に下宿するようになって時雄は「路を行けば、美しい今様の妻君を連れての睦じい散歩、友を訪へば夫の席に出て流暢に会話を賑かす若い細君」との生活を想像した。散歩が楽しめるぐらいに見栄えがよくて社交をそつなくこなす教養もある若い女がまめまめしく自分に尽くす、という時雄の想像は文壇的成功を目指す作家が望む家庭生活であった。
 無名で貧乏だった時雄のところへ嫁入りするのが分相応の娘であった妻は、結婚後次々生まれる子供の世話や家事に追われていた。時雄の獲得した今の生活は多くの勤労者の生活より恵まれていたとはいえ妻が楽をできるほどの余裕はなかった。妻が忙しく生活をきりもりしている一方で時雄は成功がもたらす生活に魅力を感じるようになっていた。時雄が憧れる家庭生活や女性像からすれば妻は「旧式の丸髷、泥鴨のやうな歩き振」とみすぼらしく見えた。今の家庭から「新婚当初」の雰囲気の消えたことを淋しがるのはこのような時雄の家庭生活や女性に対する価値観の変化を示していた。
 時雄は「四五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪、海老茶袴、男と並んで歩くのをはにかむやうなものは一人も無くなった」女学生に対して、妻を子育てに満足し「温順と貞節とより他何物をも有せぬ細君に甘んじて居る」と軽蔑していた。時雄には金持ちのハイカラな娘と日々の生活に追われている妻との違いが新旧両世代の違いと見えた。このような時雄の感覚からすれば、妻が夫に仕え子育てに満足できる平凡で古臭い女だから「其身が骨を折って書いた小説を読まうでもなく、夫の苦悶煩悶には全く風馬牛」で新しい時代にふさわしい仕事をしようとする自分を理解できないと感じられる。「自分の細君に対すると何うしても孤独を叫ばざるを得なかった」時に、「ハイカラな新式な」芳子に「渇仰」されたのだから「胸を動かさずに誰が居られやうか」と思った。
 時雄は芳子との家庭的団欒を楽しんでいたが、ひと月もしないうちに妻は不機嫌になり妻の親戚が騒ぎ出した。時雄は芳子の「華やかな声」「艶やかな姿」を見たり聞いたりできなくなるのが辛く「種々に煩悶」したが、妻や親戚とのゴタゴタを避けて芳子を妻の姉の家に預けた。一方学生としては十分すぎる仕送りを受けていた芳子は時雄の監督からも自由になって自分の望む生活を始めた。芳子は私塾で英語を勉強しながら恋愛に憧れるロマンチックな気分で本棚に飾られた紅葉やツルゲーネフの全集を読み美文や新体詩を書いていた。また「黄金の指環をはめて、流行を趁った美しい帯をしめて」男の学生たちと夜遅くまで遊んだりした。もともと病弱であった芳子は東京生活で多くの刺激を受け、興奮した神経を抑えるために睡眠薬を飲んでいた。芳子はお嬢さんらしいやり方で文学に取り組んでいた。
 芳子を預かった妻の姉は芳子の修業ぶりを見て「困ったものですね」と呆れていた。妻も姉の意見に同感だった。姉の苦情には「世間の口が喧しくって仕方が無い」と昔風の商家の多い近所の手前を憚る感情も含まれていたが、恩給と裁縫で細々と暮らす姉にとって芳子の修業の態度はいい加減だと映った。どんな仕事でも技術を習得して一人前になるには相当の期間と苦労が必要である。生活のために長期間の修業に耐えざるを得ない一般の人々に比べると芳子は修業に対して気楽でいられた。
 時雄は姉や妻の非難を「男女が二人で歩いたり話したりさへすれぱ、すぐにあやしいとか変だとか思ふのだが、一体、そんなことを思ったり、言つたりするのが旧式だ」と古臭い人間の言いぐさと軽蔑し、「今では女も自覚して居るから、為ようと思ふことは勝手にするさ」と芳子の生き方を新しい世代の肯定されるべき特徴だと弁護した。時雄はさらに芳子本人に向かってもイプセンのノラやツルゲーネフのエレーナを引き合いに出しながら「昔の女のやうに依頼心を持って居ては駄目だ。…(略)…父の手からすぐに夫の手に移るやうな意気地なしでは仕方が無い、日本の新しい婦人としては、自から考へて自から行ふやうにしなければいかん」と芳子に自分の生き方を貫くよう「得意になって」教えた。金持ちの弟子は恋愛に憧れるロマンチックな気分でツルゲーネフを読み、文壇的成功に憧れる師匠にはノラやエレーナが芳子のようなお壌さんに見えた。
 しかし時雄はその後すぐに「自覚と謂ふのは、自省といふことも含んで居るですからな、無闇に意志や自我を振廻しては困るんですよ。自分の遣ったことには自分が全責任を帯びる覚悟がなくっては」と注意した。芳子の振る舞いや身なりが学生としては派手すぎると感じていた。時雄は芳子のように仕事に対して気楽ではいられない。時雄の成果であった中流の生活を維持するとは喜びのない生活に耐えることであった。真面目に生きてきたわりには報われないというのが時雄の実感であったろうが、退屈に耐えるという苦労は現状を維持する能力しかなかった時雄が成果に対して当然払わねばならぬ代償であった。
 時雄は今の生活や将来のことを心配せず日々楽しそうに生きる芳子が妬ましく感じられる立場にいた。時雄の注意は芳子に対する嫉妬であり時雄は彼女を修業に縛りつけ自分と同じように面白くない生活を強制しようとした。芳子に嫉妬を感じるようになった頃、最初自分にまめまめしく尽くす彼女の姿に接して感じた「華やかな声、艶やかな姿、今迄の孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照!」という喜びに溢れた感激は次第に薄れ、「美しい顔と謂ふよりは表情のある顔、非常に美しい時もあれば何だか醜い時もあった」と芳子の魅力を語る彼の口振りも冷静になっていた。
 時雄は「道義の力、習俗の力、機会一度重ればこれを破るは綿を裂くより容易だ。唯、容易に来らぬはこれを破るに至る機会である」と芳子との恋愛を始めるきっかけのないことを残念がった。機会を待つというのも、恐れはしないと言いながら結局「道義の力、習俗の力」に従うのも現在の生活を守ることであった。時雄の守るべき生活は安定していたが喜びも充実もない退屈なものであった。時雄の能力からすればその退屈な生活が成果であり、新しい生活を望む感情には今の生活を守ることが前提となっていた。時雄には芳子の様子が「若い女のうかれ勝な心、うかれるかと思へばすぐ沈む。些細なことにも胸を動かし、つまらぬことにも心を痛める。恋でもない、恋でなくも無いといふやうなやさしい態度」と見え、自分から芳子の方へ進んで行けなかった。
 修業を初めて一年が経とうとする頃芳子は文学を諦める気持ちになっていた。芳子は時雄宛の「厚い封書」に「自分の不束なこと、先生の高恩に報ゆることが出来ぬから自分は国に帰って農夫の妻となつて田舎に埋れて了はう」という心境を「涙交り」に言いた。時雄は文学というアクセサリーを身につけ刺激の多い東京での生活を楽しんでいた芳子に行いを慎んで修業に励むように注意していた。芳子は師匠である時雄の手前修業をいい加減にはできなかったが、お嬢さんらしく文学を楽しんでいた彼女にとって何年も机にかじりついているのはまったくの苦役であった。芳子が自分から進んで厳格な両親のいる田舎に帰ること、まして「農夫の妻」になることなどあり得ない。芳子の悲愴な決意は気儘を許されない欲求不満であった。芳子は文学という高尚な仕事を志した以上もう昔のような平凡なお嬢さんには戻れないという気分で時雄への手紙を書いている。芳子は成果の上がらぬことに無頓着で、尼寺に入る悲劇のヒロインの気分に浸っていられた。
 時雄は芳子を新しい時代にふさわしい女性と評価しまたその才能も認めていた。芳子が文学を諦めるとは考えられず芳子の手紙には別の意味があると思われた。時雄は「容易に来たらぬ機会」が巡って来たと誤解し「一夜眠らずに懊悩」するうちに妻を思いやった。妻は無名で貧乏であった時雄と結婚し長い下積みの生活をともにしてきた。時雄は「穏やかに眠れる妻の顔、それを幾度か窺って自己の良心のいかに麻痺せるかを自から責めた」。今の生活を守らねばならぬこと、成功の可能性の少ないことが妻に対する愛情の基礎にあった。
 時雄は「厳乎たる師としての態度で」芳子への手紙を書き将来のために真面目に修業に励むように再び注意した。時雄は立場上「ハイカラな庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線が其半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言ふに言はれぬ香水のかをり、肉のかをり、女のかをり」にのめり込むわけにはいかなかったが、妻にはない芳子の若々しく華やいだ雰囲気にひかれていた。うだつの上がらぬうえに妻子もある中年作家のところへ芳子のようなお嬢さんが向こうから飛び込んでくるのはまったくの幸運であった。立場の違いを感じていた芳子との師弟関係は維持された。時雄は新しい世代の理解者である、あるいは社会の因襲を恐れはしないと言いながら実際にはしがない中年男としてお嬢さんである芳子と接していた。正しい思想を持っていれば若い優秀な女性の理解を得られると自惚れる社会小説の主人公ほど世間知らずではなかった。
 東京でも次第に窮屈な思いをするようになっていた芳子は上京の途中で恋人を作った。田中は教会の信者から学資の援助を受けねばならぬ身分の学生であり芳子自身も修業中の身であった。お嬢さんであった芳子は二人の現在の状態や将来について気楽だった。時雄は「自から考へて自から行ふ」芳子に共感した。しかし毎日同じことを繰り返し生活を守ってきた時雄にとって、二人の恋愛の「温情なる保護者」となって時雄には想像もつかない突飛な行動をする芳子との関係を維持することは「至大なる犠牲」であった。今の生活がいつ掻き乱されるかもしれなかった。芳子が恋人を作ったと知った時、「元より進んで其女弟子を自分の恋人にする考は無い。さういふ明らかな定った考があれば前に既に二度迄も近寄って来た機会を攫むに於て敢て躊躇するところは無い筈だ」と芳子に対する時雄の感情はさらに消極的になっていた。時雄は芳子との立場の違いを強く感じ始めていた。
 師弟関係を利用すれば芳子を手に入れることはそう難しくなかったのに時雄は芳子との恋愛を退屈の解決とすることができなかった。お嬢さんである芳子との関係を維持することに危惧を感じるのは芳子のように気楽に生きることのできない時雄の立易にふさわしい感覚であり、時雄は自分の立場を通していく能力を持っていた。時雄の立場を貫くとは成果であった今の生活を守りチャンスが訪れるのを待つことであった。退屈のあまり放蕩したり人生を諦めてしまう無気力な中年と違って時雄は仕事に対して真面目であった。
 しかし新しい感覚と思想を持った世代が登場し文壇の低迷が終わりになるかもしれない状況では、時雄のやり方で成功するのは難しかった。時雄は芳子との関係が師弟の間柄に止まったことから、本を読む気にも小説を書く気にもなれず「其身の半生のことを考へた」。時雄はここで作家として自分の置かれた状況を感じ今までの人生を振り返った。時雄は「一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦い味をかれは常に味った。文学の側でも左様だ、社会の側でも左様だ。恋、恋、恋、今になってもこんな消極的な運命に漂はされて居るかと思ふと、其身の意気地なしと運命のったないことがひしひしと胸に迫った」と嘆いた。時雄は自分がいつも社会や文学の動きから遅れていることを認め、このまま時代遅れの作家として退屈な生活に埋もれてしまうことがやりきれなかった。ツルゲーフの余計者の「儚い一生を胸に繰り返し」昼間から飲めぬ酒を飲んで酔いつぶれた。
 時雄は酔い潰れた後芳子とのことがいったい何であったかを考え始めた。時雄は「妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て烈しい恋に落ちなかったが、語り合ふ胸の轟、相見る眼の光、真底には確かに凄じい暴風が潜んで居たのである。機会に遭逢しさへすれば、其の底の底の暴風は忽ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了ふであらう」と二人の関係を振り返った。時雄の言葉は明らかに矛盾していたが、今の生活の崩壊を恐れぬ「意気地」のあることを確かめようとしていた。時雄は妻子や世間体が「消極的な運命」の原因であり、しがらみを断ち切れたら新しい積極的運命が始まると思っていた。ここで時雄は芳子との間に大きな隔たりを感じており、二人の関係を振り返ることは作家としての生活を立て直す方法について考えることであった。今までの生活を捨てすべての時間と精力を仕事に集中することが、時代遅れを克服する時雄の方法であった。
 時雄は三十の半ばまで作家として活動してきた。長期間にわたって努力した結果時雄は小説を書くことに退屈し外国文学を研究しても満足できなくなった。このような時雄が仕事に集中すれば「一生作」の名にふさわしい内容を獲得できるだろうというのは希望的観測であった。そのために今の生活を投げ出すのは馬鹿げていた。今の生活は時雄の人生の成果でありまた養うべき妻子もあった。しかも時雄の年を考えるとここで失敗すればやり直すことは難しかった。一か八か賭けるには失う物が大きすぎた。
 芳子との関係に「意気地」を見出そうとすること自体、時雄が今の生活を犠牲にできないことを示していた。時雄は最初自分の「意気地」を確かめ「確かに其感情を偽り売った」芳子を責めたが、師弟の間柄に止まった理由をいろいろ考えているうちに手紙に籠められていた芳子の気持ちに応えなかったのが自分であることを認めてしまった。時雄にとって「意気地」は切実な関心とならなかった。
 芳子を失った痛手に苦しんでいたはずの時雄は三目間の「苦悶」の後もとの生活に戻った。いつまでも本も読めず小説も書けない状態を続けているわけにはいかなかった。時雄はさきに「意気地」のなさと感じられた今の生活を守ろうとするところから生じる性格を、ここで「性として惑溺することの出来ぬある一種の力を有つて居る」と感じた。時雄は「意気地」なく「惑溺」せず生き今の生活を維持し「世間から正しい人、信頼するに足る人」という評判を得た。だから芳子の両親は安心して芳子を時雄に預けた。チャンスが去って行くのではと焦っていた時雄は現在の生活に引き戻す力に「支配されるのを常に口惜しく思って」いた。しかし今の生活に止まらざるを得ないからチャンスが去るのを恐れ、「惑溺」できぬ力に「征服される」ことを嘆いた。時雄は「師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為めを謀るばかりだ。これはつらい、けれどもつらいが人生だ!」と今の運命を自分の人生として受け入れようとしていた。
 教会の信者から援助を受ける貧乏学生であった田中にとって大学は成功の数少ない手段であった。しかし両親が芳子を連れ戻すのではないかと心配した田中は大学の授業を放り出して上京してきた。花袋は田中の上京を知った時雄の様子を「さまざまの感情が時雄の胸の中を火のやうに燃えて通った」と書いている。将来の保証であった授業を放り出してまで芳子を守ろうとする「意気地」を持った田中の登場は時雄にとって脅威であった。時雄は田中の登場を新しい世代に追い越されつつあること、つまり今まさにチャンスが失われつつあることとして実感したであろう。現状維持を図らねばならぬ時雄のような人間は立場をわきまえぬ田中の行動に脅威を感じ、しかも脅威を感じつつ対抗できない。「時雄の胸の中を火のやうに燃えて通った」の焼けつくような嫉妬であった。「手を握ったらう。胸と胸が相触れたらう。人が見て居ぬ旅籠屋の二階、何を為て居るか解らぬ。汚れる汚れぬのも刹那の間だ」とつまらぬことに神経を尖らせ、「監督者の責任にも関する!」と絶叫した。酒を飲んで気を紛らわせようとしたが、いてもたってもいられず芳子を姉の家から連れ戻し田中を芳子から引き離そうとした。田中の幸福を潰すことがせめてもの憂さ晴らしであった。
 夫以外に頼るべきもののない妻はまた酒を飲み出した時雄らしからぬ振る舞いが不安であった。ややこしいインテリ心理とは無縁な妻は時雄の荒れる原因が芳子にあると感じこれ以上構うなと訴えた。しかし時雄は芳子と恋愛をしたくてもできず、妻は時雄にできないことをするなと言ったことになった。妻の言葉は田中を嫉妬していた時雄に対する愚弄であった。嫉妬に狂っているところに妻の愚弄が加わって時雄のイライラが爆発した。時雄は芳子のことをうるさく聞く妻を「馬鹿!」と「一喝」し妻の制止を振り切って芳子を連れ戻すために家を出た。
 時雄は以前妻の不機嫌を知るとすぐ芳子を姉の家に預けたのに対してここでは妻と正面から衝突した。時雄にとって妻との衝突は芳子への愛情を貫くための「意気地」の発揮であり新しい運命の始まりであった。酔いのまわった時雄は姉の家へ向かう途中で「露西亜の賤民の酒に酔って路傍に倒れて寝て居る」のを、また「露西亜の人間は是だから豪い、惑溺するなら飽迄惑溺せんければ駄目だ」と友人と語り合ったのを思い出した。時雄の立場からすると「惑溺」は当為であり、時雄は「馬鹿な!恋に師弟の別があって堪るものか」と力んで姉の家へ急ごうとするが「急に自から思ひ付いたらしく」道を外れてしまった。
 時雄はこの時「奔放な情と悲哀の快感」を感じた。芳子を連れ戻したいと思う一方ですでに失ってしまったことを悲しんだ。「惑溺」できぬ力の支配を破って「意気地」を発揮しようする、つまり新しい運命が始まろうとする時に、芳子を失った「悲哀」を感じるとは思いもしなかったことであった。時雄は「自己の状態を客観し」「行く水の流れ、開く花の凋落、此の自然の底に蟠れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情けないものはない」と嘆いた。今の生活を守ろうとする時雄の行動は実際にこのように表現されるほど強力でありまったく抵抗できないと感じるのは時雄の正直な実感であった。
 三日間の「煩悶」からやっと逃れたばかりなのにまた芳子のおかげで酒を飲まずにはいられないほどにイライラし、小説も書けず本も読めない状態になった。こんなことを何度も繰り返すことは時雄の生活の崩壊であった。芳子との恋愛的関係を清算すべき時になっていた。人間の力ではどうにもならぬ巨大な力が芳子との恋愛を阻んでいるという想定はこのような事情を示していた。人間の力ではどうにもならぬ巨大な力の下では芳子と結びつく可能性はまったくなくなった。芳子を失った「悲哀の快感」は元の生活に戻れるという安心感であった。しかしこの「快感」はすぐに消える。元の生活に戻ることは時代遅れの作家として消えていくことを受け入れることであった。「悲しい、実に痛切に悲しい。此悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んで居るある大きな悲哀だ」という言葉は退屈な生活に埋もれしまわなければならぬことに対する嘆きであった。「汪然として涙は時雄の髭面を伝った」。
 時雄は結婚以前妻が恋しくて「かの女を得なければ寧そ南洋の植民地に漂白しよう」と思いつめたことを思い出した。時雄はそれほど愛した妻への気持ちが冷め芳子を愛するようになったことを「矛盾でも何でも仕方がない。其矛盾、其無節操、これが事実だから仕方がない、事実!事実!」と叫んだ。文壇的成功に対する執着が芳子への執着として再び甦って来る。しかし芳子との距離が近づきはじめる、つまり今の生活が脅かされそうになると高まった芳子への感情はまたも急速に冷めていき、また人生が終わりだという「堪へ難い哀愁が時雄の胸に漲り渡った」。
 時雄は耐え難いと嘆く生活に止まったから今の生活は本人が言うほど苦痛ではなかった。「人生の最奥の悲哀」や「堪へ難い哀愁」という嘆きは苦悩の誇張であった。しかし芳子と違って時雄はこうした苦悩に浸ってはいられなかった。時雄は今の生活を守らねばならなかったし、また退屈は解決されずに残っていた。
 時雄は九時になっても芳子が帰っていないことを知ると「かういふ常識を欠いた行為を敢てして、神聖なる恋愛とは何事」と激怒し、芳子を連れ戻す理由を姉に「余り自由にさせ過ぎても、却って当人の為めにならんですから、一つ家に置いて、充分監督して見ようと思ふんです」と説明した。芳子の周囲の人間は芳子がいい加減に修業していると感じていた。しかし芳子は時雄の姉や妻を古臭い人間と見下していたから彼女らの注意を聞かないし、両親は堕落だと責めるだけで埒があかない。芳子を指導できるとすればよき理解者と信頼されていた時雄であった。時雄は芳子の指導に自分の価値を見出すことができた。芳子の指導は地方の名士から信頼を受けるほど生真面目に生きてきた時雄にふさわしい仕事であった。時雄は田中のところから帰ってきた「当世流の庇髪、派手なネルのオリイブ色の夏帯を形よく緊めて、少し斜に座った艶やか」な芳子を前にして「一種状すべからざる満足」を味わった。自分の行為に積極的な価値を感じるのはこれまでの時雄の生活にはなかったことである。時雄は「今迄の煩悶と苦痛とを半ば忘れて了った」。しかし芳子の指導は時雄の「煩悶と苦痛」を完全に解決しなかった。時雄は時代遅れになることに「煩悶と苦痛」を感じており、作家として新しい時代にふさわしい内容を獲得しない限り「煩悶と苦痛」から逃れられなかった。だから「半ば」であった。ただ時雄は「機会」を待つだけであり生活は芳子との関係が主になる。
 芳子は厳格な両親から都会の生活を守るには時雄の援助が必要であった。今までの自由な生活を失うことは苦痛であったが、自分の家に戻れという時雄の指示に逆らえなかった。そしてまた芳子は時雄から言われるまでもなく、修業中恋愛の「実際問題」に触れてはならないという時雄の教えを守り、せっかちに解決を求める田中を「今は少時沈黙して、お互に希望を持って、専心勉学に志し、いつか折を見て、―(略)―打ち明けて願ふ方が得策」となだめた。一方学資の援助を受けていた田中はいつまでも授業をさぼるわけにいかず京都へ帰った。
 こうして芳子との生活が再び始まった。妻は芳子に恋人ができたのを知って安心していたので今回は「三度三度膳を並べての団欒」「芳子の笑顔」や「賑はかしく面白」い会話を気がねなく楽しめた。こんな楽しみもあったので時雄は熱心に芳子を教えた。師匠として芳子のため文学や恋の話をし「将来の注意を与へた」時雄の態度は実際に「公平で、率直で、同情に富んで」いたが、時雄は「わざとさういふ態度にするのではない、女に対つて居る刹那--其の愛した女の歓心を得るには、いかなる犠牲も甚だ高価に過ぎなかった」と付け加えた。公平な態度を装うことが時雄にとって「高価な犠牲」であった。師弟関係を利用して芳子を手に入れることが時雄には良心に反することと感じられた。芳子との師弟の関係が続く限り芳子との恋愛はあり得ず、この潔癖さも芳子との距離を置こうとする時雄の立場を示していた。
 「須磨の浜で、ゆくりなく受け取った百合の花の一葉の葉書」で始まった芳子の恋愛は両親の反対に会い、芳子は今までの自由な生活から退屈な修業に戻らねばならなかった。こうなろうとは「夢にも思ひ知らなかった」芳子は自分の「恋の運命」を振り返った。芳子は「恋すべき人に恋する機会がなく、思ひも懸けぬ人に其一生を任した」『その前夜』の主人公エレーナの「悲しい悲壮な末路」が自分の運命でもあると感じられた。芳子の恋すべき人とは時雄のことであったが実際には時雄を愛しておらず、芳子にとって「悲しい悲壮な運命」とは今までの生活を失ったことであった。田中との恋愛がなければ今までの生活を失うことはなかった。今の芳子にとって恋愛を始めたことは後悔すべきことであった。芳子は田中から淋しく楽しかった京都での出来事を思い出すが、「其二日の遊は実に夢のやうであった」と感じ女学校時代や東京での生活が思い出された。芳子は意識していないが田中とのことは芳子にとってすでに遠いものとなり始めていた。このような時田中が芳子に相談もなしに再び上京して来た。芳子は田中との関係が確定することを恐れ「本当に困つて了ふ」と何度も繰り返し上京した田中と言い争った。
 田中は「宗教に従事して、虚偽の生活をして居ることが、今度の動機で、すつかり厭になって了って」「将来文学で身を立てる」つもりで上京した。文学だけではないが一人前の仕事をしようとすれば地道で長期間の訓練が必要である。時雄がろくに訓練もしていない田中の決意を「空想の極端」と言ったのはまったく正しかった。田中は大学で一人前の仕事をするためにどれほどの労力を必要とするかを感じるほどの勉強をしていなかった。田中には宗教を虚偽であると批判する資格はなかった。この決意を聞いた信者が田中を引き止めようとせず「勝手にしろ」と見放すのも当然であった。貧しい田中は大学を成功の手段とし学資を援助してくれる信者の意向には逆らえなかったが、芳子を通して時雄という新しいパトロンを見出し「先生を頼って出京」した。新しいパトロンを見出したことが宗教を虚偽と感じ文学をやろうとする決意の根拠になっていた。人間関係に頼って成功にありつこうとする田中のような人間はうだつのあがらぬ作家を保護者と感じる。時雄が初めて田中に会った時「天真流露といふ率直な所は微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々の理由を強ひてつけて、これを弁解しようとする形式的態度であった」と感じた。時雄は田中のうさん良さを直観的に感じていた。
 芳子の指導に生きがいを見出し芳子との楽しい「団欒」を楽しんでいた時雄は田中を京都に帰そうとした。一方信者との関係を失った田中は時雄の反対に会っても帰るわけにいかず東京で生活のめどを立てねばならなかった。時雄が援助を断れば田中が食うに困るのは目に見えていた。このような生活を強いられるのは田中の自業自得であり、田中が生まれ変わるよい機会であった。しかし中流の生活を守ってきた時雄にとってどん底生活は悲惨そのものであり、援助を断ることは田中を一挙に悲惨につき落とすことであった。断ることには大きな責任が伴った。時雄は「座敷の隅に置かれた小さい旅鞄や憐れにもしほたれた白地の浴衣などを見ると青年空想の昔が思出されて、かうした恋の為め、煩悶もし、懊悩もして居るかと思って、憐憫の情」を感じ、二人の「恋の温情なる保護者」となり「安翻訳」の仕事を回すと約束した。
 芳子は田中の上京が両親に知れれば連れ戻されるのではないかと不安だった。修業を続けることは苦痛であったがそれでも都会の享楽を味わった芳子にとって田舎に帰るより東京に止まる方がましであった。芳子は田中と「同じく将来を進むなら、共に好む道に携はり度い」と考えるようになり時雄の指導に従って恋愛に「惑溺」せず修業するから「何うか暫く此儘にして東京に置いて呉れ」と頼んだ。
 時雄は両親の反対を知りながら勝手に二人の恋愛を認めた。そのために芳子の人生が台無しになってしまうようなことがあれば時雄は両親にあわす顔がなかった。時雄は両親に対して今まで以上に大きな責任を負うことになった。芳子はいつまたどんなことをしでかすかも知れず、時雄は不安で田中の上京を両親に知らせるべきかどうか迷った。そして田中が上京のために用意した生活費がわずかひと月分であること、芳子がそれを承知で田中を東京に止めようとしていることを知るといっそう不安になった。時雄は「若い鳥は若い鳥でなくては駄目だ。自分等はもうこの若い鳥を引く美しい羽を持って居ない」と芳子にとって魅力を持ち得ないことを認め、芳子を田中に奪われるのが当然だと感じた。しかし時雄は芳子を諦めねばと思うと「言ふに言はれぬ寂しさ」に捕らわれた。芳子との楽しい生活、指導、両親に対する責任は時雄の今までの生活にはなかった充実であり芳子を手放す気にはなれなかった。
 「恋の温情なる保護者」になった時雄は、芳子に「新しい女」は「女の独立」「自由」を守るために「貞操」を守らねばならないと真剣に「教訓」した。芳子を恋愛の「惑溺」から遠ざけて文学に集中させようとした。「惑溺」しないという条件で田中の上京を両親に知らせずまた田中が東京にいることを許可した。時雄は今の生活を脅かすような冒険や放蕩をすることなく小心に生きてきた結果世間から真面目で正しい人と認められた。作家として打ち込む内容を持たない時雄にとって中流の生活が成果であり、成果の維持であるこれまでの品行方正な生き方が精神的価値であった。このような時雄にとって「貞操」を守ることが若い娘の真面目さであり真面目でなければ時雄の指導を受ける資格はなかった。そして「貞操」を守らせることが若い娘を預かった者の責任であり、両親の信頼に応えることであった。時雄の許可を得た二人は気兼ねなく行き来を始めた。このままでは両親に顔向けできない事態がいつ起こるかもしれず、時雄は出版社から催促されまた金も必要だったのに、二人の恋の温かさを見る度に、胸を燃して、罪もない細君に当り散して酒を飲んだ」。
 田中が当てにしていた時雄から仕事は回ってこなかった。「共に好む道に携はり度い」と決意した二人にとって差し迫った問題は田中の生活であった。パトロンに頼って生きようとする田中は働きながら勉強しようとは考えない。時雄に代わるパトロンを必要としており、芳子の両親の理解が得られれば援助が期待できる。一方芳子はこのままではどうしても両親の理解が得られないから修業を続けて時機を待つつもりだった。しかしこれまで十分な仕送りを受けてお嬢さんらしい文学的生活を楽しんでいた芳子にとって、何年も生活に追われながら修業を続けるのは耐え難いことであったし、またそうして修業を続けても両親を納得できるだけの成果が挙がるとも思えない。芳子も両親の援助が必要だった。両親の援助が二人の恋愛の成り行きを決定する。
 芳子は田中の上京以来仕事ができないほどイライラし毎日酒を飲んでは妻に当たり散らす時雄を見ると時雄の「教訓」を守っていたにもかかわらず、「私がいろいろ御心配を懸けるもんですからね、私が悪るいんですよ」と時雄の荒れる原因が自分にあると思った。時雄に気を使って二人のつきあいを隠すようになった。時雄にはそれが「二人の恋が愈々人目に余る」と感じられた。時雄は芳子を説得して田中の上京を両親に報告させようとした。両親の援助を必要とした芳子は時雄の説得に従った。
 父親は田中の行動を「芳子と約束が出来て、すぐ宗教が厭になって文学が好きになったと言ふのも可笑しいし、其後をすぐ追って出て来て、貴方の御説諭も聞かずに、衣食に苦んでまでも、此東京に居るなども意味があり相ですわい」と見ていた。県会議員までした父親は時雄以上に田中のうさん良さを感じとっていた。父親は田中の「血統」や「身分」を気にしたが、田中との婚約を認めないのは田中自身が信頼できないからである。田中の上京を知らされた父親は芳子を連れ戻そうとはせず芳子を勘当した。恋愛にのぼせ上がりしかも時雄という理解者がいては芳子を説得するのは無理なことであり、金のある自分達との縁を切ってしまえば田中の方から去るだろうという判断である。
 田中は準備した金が尽き「終夜運転の電車に一夜」を過ごし芳子は仕送りを当てにできなくなった。芳子は時雄の家を出て「一生懸命働いて」二人で暮らそうと決心した。両親の援助なしには田中との生活ができないから両親の許しを求めたのであり、芳子の決心は「余りに無慈悲な」両親に対する一時的な反発であった。二人は手紙で勘当を言い渡した父親の上京を譲歩と感じ希望も持った。芳子は「昔風」であったけれど自分には優しかった父親なら「今の窮迫を訴へ、泣いて此恋の真面目なのを訴へたなら父親もよもや動かされぬことはあるまいと思った」。
 芳子の決心を知った時雄は「恋の力は遂に二人を深い惑溺の淵に沈めた」と思った。時雄にとって学生の身分を捨て金持ちの親との縁を切るのは無謀なことであり、本当に「深い惑溺の淵」であった。そのままにしておけば芳子の将来は台無しであり両親に申し訳が立たない。田中がどうしても東京に止まろうとするなら芳子を田舎に帰さなければならなかった。芳子を手放す時が来た。芳子を失えば時雄の生活は再び退屈でやりきれない生活に戻ってしまう。時雄は「芳子の美しい力に由って、荒野の如き胸に花咲き、錆び果てた鐘は再び鳴らうとして居た。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された。であるのに、再び寂寞荒涼たる以前の平凡なる生活にかへらなければならぬとは…。不平よりも、嫉妬よりも、熱い熱い涙がかれの頬を伝った」というほど辛かった。
 しかし「二人の状態はもはや一刻も猶予すべからざるもの」であって自分のことにかまっている暇はなかった。責任を問われる事態になるまで時雄は芳子の将来について何も心配しなかったが、ここで「真面目に芳子の恋と其の一生を考へ」「二人同棲して後の倦怠、疲労、冷酷を自己の経験に照して見た。そして「一たび男子に身を任せて後の女子の境遇の憐むべき」が想像された。このあとすぐに「自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情は今彼の胸を簇々として襲った」。時雄と芳子を引き裂いた巨大な力が二人の将来も支配するのだからどうしようもなかった。芳子の「恋の温情なる保護者」であったことが「甚だ不自然で不真面目」と感じられた。時雄は両親に二人の様子を詳しく知らせた。
 父親は二人が無謀なことをしようとしたやさきであったし、また名士の体面もあったので学期の途中で芳子を連れて帰るのをためらった。父親は「独立をすることも出来ず、修業中の身で、二人一緒にこの世に立って行かうと言やるのは、何うも不信用」だからあと三四年芳子は東京で修業を続け田中は京都に戻って大学を卒業したのち二人の将来について話し合おうと言った。時雄は田中が簡単に京都へ帰れない事情を知りつつ、「君を信用するに足りる三年の時日を君に与へると言はれたのは、実に此上ない恩恵でせう」と父親の処置が寛大であることを力説し田中を説得しようとした。時雄は上京したばかりの田中に同情し京都へ帰れとは言えなかった。以前は時雄が田中にどん底の生活に追いやる責任を追わねばならなかったがここでの責任は父親にあった。
 田中は京都に帰るのなら父親に二人の恋愛を認めてほしいと願った。勉強する気も能力もなかった田中が大学を続けられたとしても父親を納得させるだけの成果を上げることはできない。田中にとって名士の一族に結びつくことが先決であった。芳子との恋愛が認められない以上京都へは帰れなかった。芳子との恋愛には田中の人生がかかっていた。田中が芳子との別れを辛く感じる根拠はここにありいろいろな理由を上げて京都へ帰ろうとはしなかった。ただ田中にとって勘当されたままの芳子に価値はなくどうしても認められないのなら「田舎に埋もれてもよう御ます!」と言い、芳子も父親の援助が期待できなくなって「私は女…女です……貴郎さへ成功して下されば、私は田舎に埋もれても構やしません」と言った。父親の反対にあって二人の愛情は冷めつつあった。
 時雄は田中の「烈しい主張と芳子を己が所有とする権利があるやうな態度」を見ると二人の間にはすでに肉体関係があるのではないかと疑った。一方父親も肉体関係があると思っていたが、可愛い娘が財産目当ての男と婚約したいと言う時に娘の不始末を追及する気にはなれなかった。しかし「貞操」によって真面目さを判断する時雄にとって二人に対する疑惑は大きな問題であった。二人が真面目でなければ時雄の指導を受ける資格などなかった。父親が「そこまでせんでも」と言うのも構わず「身の潔白」を明かすために二人がつき合い始めた頃の手紙を見せろと芳子に迫った。あの頃の手紙は焼いてしまったと言い逃れようとする芳子を見た時雄は「欺かれた」と思い、「今迄上天の境に置いた美しい芳子は、売女か何ぞのやうに思はれて、其身体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になつた」。そのあとすぐに時雄は「芳子が其二階に泊って寝て居た時、もし自分がこっそり其二階へ登って行つて、遣瀬なき恋を語ったら何うであらう」と想像し、そして芳子が「遣瀬なき恋」を理解すると想像しても幸せを感じなかった。芳子に魅力を感じないのに芳子を必要とし、芳子を求めているのに芳子との恋愛に幸福を感じない、という時雄の曖昧な感情は、芳子との関係の維持が時雄の成果を常に危険にさらすことであると同時に時雄の生き甲斐であるところに根拠があった。時雄は芳子との関係を自分から積極的に維持する気にもまた解消する気にもなれず、芳子との関係は成り行きまかせになる。
 父親の援助が期待できないとはっきりした翌日、芳子は自分達の恋愛ではなく、時雄を「欺いて居た」罪悪感に捕らわれ「終日このことで胸を痛め」た。芳子は時雄の言いつけを守って田中の所へは行かず一人部屋に籠もって時雄に謝罪の手紙を書いた。時雄の「教訓」を守らなかったことを素直に打ち明け「何うか先生、この憐れなる女を御憐れみ下さいまし。先生に御縋り申すより他、私には道が無いので御座います」と訴えた。ハイカラなお嬢さんである芳子にとってそれほど東京の生活は魅力的であった。芳子があくまで自分の意志を通そうとするに対して、時雄は芳子を失えばまた退屈な生活に戻らねばならないことを知りながら何もできなかった。時雄は嫉妬から激怒し芳子に田舎へ帰れと命じた。時雄の反対を押し切って東京に止まれば芳子は父親からの仕送りを当てにできなかった。芳子は貧乏してまで東京に止まる理由はなく時雄の命令に従った。父親は田中が京都に帰りそうもないので芳子を東京に止めておくわけにはいかなかった。帰ることが決まったあと時雄は父親に「捨てた積もりで芳子を自分に任せることは出来ぬか」と訊ねたが、あえて父親の決定を翻そうとしなかった。
 こうして芳子との三年間の生活は終わった。時雄は「人生は長い、運命は奇しき力を持って居る」と芳子が戻って来ないかと淡い期待を抱いていたが、「いつもの懐かしい言文一致でなく、礼儀正しく候文」で書かれた帰郷の無事を知らせる手紙を受け取ると芳子との関係は完全に終わってしまったと思った。時雄は「懐かしさ、恋しさの余」芳子の部屋に入り芳子の「夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れて居る」ところに顔を押しつけ「なつかしい女の匂い」を嗅いだ。「性欲と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った」。芳子を失うかもしれない時に時雄は「意気地」なく自分の運命を成り行きにまかせた。時雄にとって芳子を失ったことは「侘しく」「孤独な」「荒涼たる」生活に止まることだけでなく、その生活から抜け出す力はないということを意味していた。このままでは人生が終わりだと知りながらどうすることもできず人生を終えなければならない。これが時雄を襲った「悲哀と絶望」の内容であり、芳子の「夜着」に顔を埋めて流した涙の意味であった。

 注@ 正宗白鳥は「自然主義文学盛衰史」で『蒲団』の成功以前の文壇と自分の状況を次のように書いている。「樗牛死し、緑雨死し、紅葉死し、文壇は混沌として居たのであったが、さういふ頼りない形勢を見るにつけても、『抱月が帰って来たら何か目覚ましいことをやるであらう』と、多くの人に期待されていた。『あなたの留守中、私は何もしませんでした』と、私(白鳥)が言うと『なぜです』と、氏は訊返した。『何をしたらいいかわからないから』と、心の中で答へていただけであった」と。大家の小説や主張に便乗して書くことに慣れた白鳥のような無能な作家達は、従来のやり方を破壊した激しい時代の変化に不安を抱き抱月が新しい道をつけるのを待っていた。
 また文壇の中には「『何か仕事をしなければならない』といふ情熱が限りなく溢れている」作家達もいた。花袋は『東京の三十年』で「自然派の文芸が生まれた」と言われる「龍士会」の様子を書いている。独歩、花袋、蒲原有明等々明治三十年代後半から四十年代にかけて活躍する作家達は、文壇を去った大家に代わるべく互いの小説を批評し、ヨーロッパの新しい小説を紹介し合った。
 注A 明治三十九年三月の『新小説』に花袋の『魔国』という小説が花袋の許可なしに掲載された。この小説は花袋が十年前に紅葉に依頼されて書いたアラビアンナイトの翻案小説であった。『露骨なる描写』等で従来の文壇を批判していた花袋にとってこんな小説を発表されたことは恥さらしであった。『新小説』は不名誉を挽回する機会として『新小説』の四十年九月号の巻頭小説を依頼した。(和田謹吾『花袋論修正』参照、『国文学』昭和四六年一月)当時すでに藤村は『破戒』で注目を浴び、国木田独歩も認められ始めていた。花袋が「何か書かなくちやならない。かう思って絶えず路を歩いてゐても、何も書けない。私は半ば失望し、半ば憔悴」(『東京の三十年』)していたところに、当時の代表的文学雑誌『新小説』の依頼があった。花袋は「全力の試みをする機会に遭遇」して「今度こそ全力を挙げなければならないと」(『東京の三十年』)思って書いたのが『蒲団』であった。

『蒲団』の先頭へ
近代文学研究会の目次に戻る