は じ め に
 沖縄返還交渉が成功した理由を挙げれば、沖縄住民の日本復帰運動の盛上が
りや佐藤栄作の用いた非公式外交チャネルの働き、国際情勢の変化など枚挙に
暇がない。これを称して、戦後一貫して沖縄問題に取り組んでこられた末次一
郎氏が「いろんな人の合力ですよ」といった言葉がとても印象深く耳の奥に残
っている。
 また、基地研のメンバーであった小谷京都外語大教授の「その時代背景に立
った見方をしないと沖縄返還の本質を見失うよ」という言葉が絶えず心を刺激
し続けた。
 その膨大な時間と労力の流れを一度に捉えることなど不可能である。論文の
執筆にあたってそのあまりに強烈な事実の集積に思わず身がすくむ思いがした。
  手間暇をかけて事実を集め、結局はよくできた歴史カタログのような論文に
なってしまう恐れを、構想を練り始めた7ヵ月前から漠然と、しかし妙な空し
さと共に感じていた。このままでいいのか、という思いを胸に抱きながら、イ
ンタヴューに行き、資料を集め、沖縄返還への時代の潮流を捉えようとして必
死で年表を作り続けた。
 年表は完成した。
 しかし、論文を貫くテーマはまだみつからなかった。そんな中で目に付いた
のが、第二章1節の冒頭に示した「現地は晴れぬ表情」という毎日新聞の見出
しであった。
 まさに天啓とはこのことかと思った。沖縄返還という誰もが喜んでいいはず
の祝賀にあたって何故「晴れぬ」のか。
 それまで漫然と読み漁ってきた資料の山と混沌としていた知識という砂鉄が
まるで磁石に吸いよせられるように一挙に体系をなした。
 その磁石の名は「認識」。
 これから展開するのは「沖縄返還交渉」の「認識論」的分析である。

(注意)
 本文を読むにあたっては巻末の年表を絶えず参照される事を希望する。
 本文中に(*17)とあるのは巻末のインタヴュー採録資料の通し番号である。

                 2  





 第 一 章     序 論
 「沖縄病」という言葉がある。南方同胞援護会会長の大浜信泉氏の命名であ
るらしいが、占領下にある沖縄の実状を知り、心情的に沖縄の住民に対して深
い共感を覚えた人々がかかった病気である。沖縄返還交渉が成功した陰には、
この病の熱に冒された人々の心情的バックアップを決して看過ごすことはでき
ない。しかし、その病のウィルスは沖縄という存在が日本人の意識に明確な対
象として上ってきて初めてその猛威を奮いだした。沖縄がアメリカの人質であ
ると考えられ、人々の心から忘れ去られた島々であった時代には、沖縄が日本
に戻ってくるなどとは誰も真剣には思わなかった。(注1)
 これは「日本本土の認識」が沖縄返還という潮流にのっていった過程である
が、その潮流が生み出された背後には、沖縄を統治していた「アメリカの認識」
の変化、そして返還要求の母体となった「沖縄住民の認識」が存在する。これ
ら三つの認識のギャップが調整され一致するために要したタイムラグが27年間
という長きにわたって沖縄を外国支配に甘んじさせたファクターであった。
 しかし、ある事柄に対する「認識」というものは、その認識がよりバイタル
な生存に関するものであればあるほど、一朝一夕には変化をみせない。
 沖縄に関して言うならば、アメリカの認識は占領の初期から次第にバイタル
な方向へと認識が移り、その認識がやがて沖縄から日米関係へと昇華していく
ことで、日本の認識と接点を見出だした。日本の沖縄に対する認識のレベルは
当初、非常に低く、やがて土地問題を契機として沖縄認識に目覚めるが、それ
はまだバイタルな意識ではなく、それを国益という認識にまで高め、アメリカ
との妥協点まで国民を先導したのが、佐藤栄作であった。
 沖縄住民の認識は、当初からバイタルなものであったが、それは日本の国益
と合致するものではなかったため次第に、アメリカや日本本土の認識と乖離し
ていった。
 沖縄返還の成功をこの認識のギャップが埋められたためであると考え、それ
がどのような経過をたどったのかを分析する事がこの論文の目的である。

                 3





 第 二 章     沖 縄 を め ぐ る 認 識 の 構 図
 2 − 1   沖 縄 住 民 の 認 識
 1972年5月15日、沖縄は27年の長きにわたるアメリカ支配に終止符を打ち、
日本に復帰した。
 この日、沖縄復帰を祝う記念式典が東京の日本武道館と那覇市の市民会館で
同時に開催され、その日の夕刊には「新生『沖縄県』力強く第一歩」(毎日)、
「沖縄県再生の決意新た」(日経)などの見出しが各紙のトップを飾った。し
かし、復帰を祝う見出しが踊る中で、ポツンと毎日新聞の「現地は晴れぬ表情」
というのがひときわ目を引く。日本本土復帰という積年の念願が成就したにも
かかわらず何故沖縄県民の心は小雨ふるこの日の沖縄の空の如く暗く沈んでい
たのであろうか。
 その上、記事の中には「第三の『琉球処分』」という言葉が見え隠れする。
 「処分」の意味するところは一体何なのか。「第三」というからには、第一
第二の「琉球処分」もあったに違いない。
 どうやら「沖縄住民自身の沖縄問題に関する認識」を解明するためには、こ
の「琉球処分」は避けて通ることができないようである。
 そこで、千年の文化を持つという沖縄の歴史をひもとくことから始めること
にする。
 ヨーロッパでは東ローマ帝国が滅亡の危機に瀕し、アメリカ大陸がまだ欧州
人の知るところではなかった15世紀の初頭、中国大陸では明朝が隆盛を誇り、
朝鮮半島では李成桂を太宗とする李氏朝鮮が覇権を取っていた。このような国
際情勢を背景として琉球王国は誕生した。沖縄では9世紀頃から、按司とよば
れる地方豪族が現れ、しばらく群雄割拠の時代が続いたが、14世紀には中山・
南山・北山の三つの小国家となった。これを押えて統一政権を作りその後四百
年にわたる琉球王国の基礎を築いたのが第一尚氏王統である。琉球王国は中国、
朝鮮はもちろんのことシャムまでもその貿易の腕を伸ばし中継貿易でその繁栄
を享受していた。ところが16世紀末、豊臣秀吉が島津藩を介しての朝鮮出兵協
力の要求に尚寧王が応じなかったため、これを理由に1609年(慶長14)島津家
久が琉球を征服した。これが「島ちゃび(離島苦)」の悲惨な歴史の序曲とな
る。島津藩のねらいは、当時中国の統一王朝であった明が日本との貿易に消極
的だったため、琉球王国を介して対明貿易の利益を独占することにあった。そ

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のため薩摩の琉球支配の事実が明側にばれぬよう、これまで通りに明との朝貢
関係(注2)を継続させた。そして中国の覇権が清へと移っても琉球王国の両
属関係は引き続き、島津藩に納める多額の税の苦しみは終わらなかった。
 やがて日本の開国、明治維新と時代が新しい歩みを始め、琉球はやっとのこ
とで長く暗かった島津支配を脱した。ところが、今度は富国強兵策の一環とし
て明治政府に「日本化」を迫られる立場になった。明治政府は1872年(明治12)
とりあえず琉球王国を琉球藩とした上で日本式の制度を導入するように強要し
た。しかし、これに琉球側が反発したため政府は1879年(明治12)警官隊 160
人、歩兵大隊約 400人を率いて琉球を武力で屈伏させて廃藩置県を強行し、
「沖縄県」を設置した(注3)。
 これが沖縄で第一の「琉球処分」とよばれるものである。奇しくも沖縄返還
の年を遡ることちょうど 100年前であった。
 その後、沖縄の帰属問題は、台湾に漂着した琉球人が台湾の蛮人に殺害され
るという台湾事件を契機として清国との間で一時緊張が高まったが、1872年
(明治7)の日本の台湾出兵に対して清側が賠償金を支払い、さらに、琉球は
日本の領土であると清が表明したと解釈しうる「ここに台湾の生蛮、かつて日
本国所属人民に対しみだりに害を加えたるにより、日本国は該蛮人の罪を問わ
んとしついに兵を発し…」という一条を含む日清間の条約が同年10月締結され
るに至って、一応の決着をみた。
 独立国の体裁を保ちながら清に朝貢し、日本に支配されるという不自然な両
属関係は終わりを告げたが、今度は本土住民との差別という新たな悲劇が沖縄
人の心を蝕んだ。
 二流の日本人という思いを味わらせられた上に、1941年(昭和16)に勃発し
た太平洋戦争によって、思えばその戦略的重要性故に過去に幾多の辛酸を嘗め
てきた沖縄は、ここに至ってその歴史上最大かつ最悪の悲劇を迎えることにな
る。
 真珠湾攻撃という奇襲で得た日本の優位はやがて打ち消され、国力に大きく
勝るアメリカが次第に戦局を有利に進め、1945年(昭和20)フィリピンを奪還
したマッカーサー率いる米軍は、日本の本土上陸を目指して、南西諸島を飛び
石状に攻略する作戦を立て、その最終目標として沖縄島を設定した。同年4月

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1日総兵力55万、艦艇1400隻、12万陸上兵力を擁する米軍の怒涛の如き一大沖
縄島攻略作戦が敢行された。酸鼻を極めたこの戦いは84日間に渡り、6月23日
の日本軍の壊滅をもって終了した。沖縄の母なる大地は焦土と化し、日本軍・
沖縄県民の犠牲者の総計26万人、米軍も1万2000人という多大な犠牲の上に戦
争は終結した。
 8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦が決定したが、こ
の宣言の中で、日本国の主権は、「本州、北海道、九州及び四国、ならびにわ
れわれの決定する諸小島に局限される」と規定され、後に沖縄がたどる運命の
方向を暗示していた。
 翌年1月29日、マッカーサーから沖縄を含む四群島の行政権を日本政府より
分離する旨の覚書が届き、アメリカの対日占領政策の中での沖縄の地位が明確
にされた。4月22日には琉球列島アメリカ民政府が創設され、沖縄は日本本土
と離れて独自の道を歩み始める。
 そして、 '51年9月8日対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が締結
された。この条約の第三条によって沖縄は日本から明確に分離され、アメリカ
の支配下にはいった。
 条約締結にあたって、沖縄住民に対して、日本の一県としてとどまるか、ア
メリカの統治下に入るかという選択の提示はなされなかったし、国会は沖縄県
民の代表の参加すら許していなかったので、国政の場で自らの意見を表明する
機会を与えられぬままに沖縄の運命は決定された。
 条約締結を前にして、沖縄には自分たちの将来像というものに対して三つの
意見があった。しかし、その内の二つは琉球独立論とアメリカ帰属論というご
く少数の意見であり、沖縄住民の大勢は日本復帰を希望していた。(*26)
 しかも、住民は復帰運動としての形は明確にとらなかったにしろ、日米両国
の政府及び議会に対し、日本復帰を切望するという陳情書や署名運動の結果を
表明して復帰を訴えていたが、沖縄住民の意思は完全に無視された。(注4)
 最初の「処分」で住民の意思が問われることなく無理やり日本の国家体制に
組込まれた沖縄は、今度は住民が日本帰属を望んでいるのに無理やり国家の枠
組みから外された。これが第二の「琉球処分」である。
 これらの国家による長い抑圧の歴史によって醸成された国家に対する不信と

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沖縄社会の特質である地縁・血縁にまつわる地域共同体意識(注5)がともす
ると住民をして現状肯定主義的な考え方に走らせ、沖縄が永久に日本に戻るこ
とがない可能性も十分にあった。事実、歴史的には明治政府の旧琉球貴族を華
族として列することによる懐柔策やのちのアメリカ政府の経済援助、ワトソン
高等弁務官の柔軟政策、そして現代にまで至る沖縄の米軍基地経済の恩恵とい
った、統治する側が巧みに住民感情を慰撫し、本質から目を逸らさせる政策が
とられてきたし、沖縄住民自身も幾度となく内部における現状肯定主義と復帰
運動の間で意見の対立をし、その対立の構図は現状肯定主義と基地反対運動と
いう図式で現在もなお連綿と続いている。
 現状が幸せであればその現状が作り出された本質がどうであろうと構わない
とか、本質をみつめねばならないといった価値観に対してここで議論をするつ
もりは毛頭ないし、またその意味ない。何故なら、価値というものは相対的で、
絶えずその価値を見出だす主体の環境認識によって変化するものであり、フロ
ーの状態にあることが自然でもあるからである。
 本土復帰運動とてやはり例外ではなく、政治的・経済的な様々な観点から意
見が主張された。厳密にいえば本土復帰ということすら固定的な価値観ではな
かった。
 ところがこのように、多様な価値がフローし、揺らめいている状態も、米軍
統治による生活の圧迫という環境がいたたまれないものだという人々の環境認
識によって、次第に日本本土復帰の方向へと向かい始めた。それでもまだ最初
のころは歴史的な日本政府に対する不信とアメリカの統治政策の緩和に対する
期待とで、環境改善要求という形で運動はおこっていった。
 しかし漠然とした期待と不安を払拭し、本土復帰運動を沖縄全土に燎原の火
のように燃え上がらせる事件が発生した。それが '53年4月3日に公布された
布令第91号「土地収容令」によって発生した、軍用地問題である。
 先祖伝来の土地を僅かな補償金で永久に奪われてしまうということは、沖縄
住民の心にバイタルな危機感を目覚めさせ、日本かアメリカかという漠とした
選択肢のうちの後者を人々の心の中から脱落させたのであった。こうして芽生
えた環境の本質に対する認識は、やがて生存権という意識にまで昇華し、自分
達の生存権を脅かしているものは米軍基地であり、その撤去なくしては真の幸

                 7  





福は得られないという認識が確立するのである。
 外部環境の良化、即ち社会の安定に伴って、バイタルな認識に結集した人々
の意識は、再びほぐれ多様な価値へと向かい始めるが、(例えば本土の池田内
閣の政策に同調した「積み上げ方式」の主張の発生、現代で言えば米軍による
軍用地返還を拒む、基地経済の恩恵を受ける人々の増加など)一度より高みに
昇った意識は決して消え去ることなく人々の心に潜在しつづける。この「米軍
基地の存在が自分たちの生存権を脅かしているという認識」のもつ本質性、つ
まりその認識がバイタルなものを衝いているという第一義性から、これは決し
て変質することなく沖縄返還交渉のすべてにおいて貫かれ、それは現代までも
沖縄住民の認識の根底に滞留し、将来、日米関係になんらかの根本的な変動が
おこって米軍基地の全面撤去という事態でも発生しないかぎり、その未来まで
も存在しつづけるであろう。

                 8  





 2 − 2   ア メ リ カ の 認 識
 沖縄住民の認識は、生存権という非常にバイタルな要因によって規定されて
いたため、本質の変化なくしては一貫性を保ち続けるのである、と前項では述
べた。しかし、日本占領初期の段階のアメリカはバイタルな国益、すなわち国
家の自己保存に関する要因に基づいてで沖縄を占領していたわけではなく、日
本を監視するという占領政策上の理由と、その地政的な条件の良さが潜在的に
将来役立つと考えたからであった。
 しかし、 '47月3月に「第二次大戦後激化した社会主義革命運動を抑え、ソ
連の勢力拡大を防ぐために、周辺の資本主義国家諸国に対してアメリカが軍事
・経済援助を与える」というトルーマン・ドクトリンが発表され、米ソの冷戦
時代が始まると、沖縄に対するアメリカの認識はよりバイタルなものへと近付
いていった。
 アメリカの対日占領政策は、 '48年1月6日、「日本を極東における全体主
義的脅威の防壁」にするというロイヤル米陸軍長官の演説に象徴されるように、
この時期、自由主義陣営と共産主義陣営の対立の激化に伴って大きな変化の様
相を呈し、沖縄は次第に対共産圏の封じ込め政策の要としての価値に重点が移
りはじめた。
 ユーラシア大陸の東岸では、当時、 '48年に朝鮮民主主義人民共和国が誕生、
'49年には広大な中国大陸の覇者として中華人民共和国が成立、北にはソ連と
いう存在があり、このように居並ぶ共産主義勢力は海に向かって突進するレミ
ングのごとくアメリカの目には映ったことであろう。これを封じ込めるために、
'50年1月のアチソン国務長官の発言にみられる、南北にわたって長く伸びる
アリューシャン列島から日本列島を経て沖縄列島、そしてフィリピンへと続く
弓状の防衛線をアメリカがイメージしたことは実に自然なことであった。その
防衛線の中央に位置する沖縄が米国極東戦略のまさにカナメ石(キー・ストー
ン)としての戦略的重要性を持つ存在となっていったこともまた当然の事では
あった。
 例えば、その重要性を沖縄から極東各国の主要都市までの距離の具体的な数
値で示すと、東京へ1600キロ、ソウルへ1500キロ、台北へ 620キロ、マニラへ
1450キロ、上海へ 800キロとなる。因みにサンフランシスコ−ハワイ間は3600

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キロ、ハワイ−沖縄間は7500キロこの両者を比較すればその価値は一目瞭然で
ある。
  '50年の初め頃には「無期限の沖縄占領」が取り沙汰され、当年度予算に計
上された5800万ドルを使って本格的な軍事基地の建設が開始された。この予算
策定の背後には、 '48年秋の台風で、沖縄の暫定的な基地が全壊したという事
実があるのだが、それと呼応するかの如く、北朝鮮、中共の成立が続き、アメ
リカの沖縄政策がソフト面→ハード面という漸進的な変化ではなく、ソフト面
(対共
産圏封じ込め)での政策決定とハード面の対応(恒久的軍事基地の
建設)とが非常に時間的に接近していたため、沖縄政策は後戻りできないラチ
ェットなものとなったともいえる。(全くの余談ではあるが、 '65年7月末に
沖縄基地からベトナムへ向けてB52が直接発進する口実となったのも、台風避
難がその名目であったことは、歴史の偶然として興味深い。)
 さらに、講和問題でダレスが来日していた6月25日に朝鮮戦争が勃発し、沖
縄の米極東戦略上の要としての地位は決定的となり、9月にはダレスによって
米国の沖縄施政権の保持が表明されるに至った。
 この時代の環境認識に基づく「施政権を保持し沖縄を長期にわたって支配し、
米極東戦略の要とする」というアメリカの政策もその認識の第一義性故にその
後継続して貫かれることになる。
 アメリカ側の認識の変化の兆しではないかと日本政府が喜色ばんだ「(沖縄
について)米国は日本に潜在主権を維持することを許す」というダレス全権大
使の発言が、 '51年9月5日、対日平和条約締結のための講和会議の席上なさ
れた。
 しかし、アメリカとしては、他の同盟国駐留米軍のような現地住民との取決
め等の煩わしさを感じることなく「自由で気ままに」使える基地が欲しいが、
そのためには施政権の保持が必要条件で、それは同時に沖縄をアメリカの領土
に組み入れることになり、領土不拡大を誓ったカイロ宣言に背くことになるの
で、条約では国連の信託統治をアメリカ自らが提案するまでの間の占領という
形式をとり、名目上、潜在主権が日本にあるという宣言をすることによって他
国の非難を避けようとすることがこの発言の趣旨であった。
 つまり、あくまでも「潜在主権」発言は外交上のテクニカルな意味でしかな

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く、アメリカの沖縄に対する認識の一貫性に変化はなかった。
 このアメリカの政策の一貫性の根拠も沖縄住民と同じくその認識の第一義性
によるものであったが、沖縄施政権の保持と沖縄の存在自体がアメリカの国益
に抵触する訳ではなく、それは他者との代替性をもつものであったために、や
がて、その認識に変化が生じて沖縄は日本に戻ったのである。
 国際情勢の変化や、軍事技術の発達による核戦略の変化等の分析は本稿では
行わないが、末次氏がアメリカの認識を変えるためにした例が非常に分かり易
く印象的なので引用しておく。
 「お前さんたちが自由な戦略基地を持ちたいなら、今みたいな状態を続けて
 いると事態がますますひどくなるだろう。沖縄の人が滑走路に皆寝ちゃった 
 らそれを強いて飛立つか。世の中には絶対というものはありえないのだから
   やはり施政権を返して、協力させて目的を達する方がいいだろう。それはニ
 ーズからいえば80%かもしれない、あるいは75%かもしれない、しかしゼロ
 になるよりましだろう。」(*37)
 アメリカは施政権と75%の基地機能ならば代替しうると考えたのである。

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 2 − 3   日 本 本 土 の 認 識
 佐藤内閣に至るまでの日本本土の沖縄認識には一貫性はみられない。むしろ
認識の外にあったといった方がより正確であろう。例えば対日平和条約締結直
後の '51年9月20日付朝日新聞の世論調査の結果をみると、沖縄についてのな
んらかの国民(=本土住民)の意思表示が見られるのは、講和条約の不満につ
いての項目であるが、それでも「南方諸島の信託統治」を不満な点としてあげ
ている人は僅か6%に過ぎず、「特にあげることなし36%,わからない25%」
を合わせると61%に達し、国民の過半数が全く沖縄を問題視していなかったこ
とがわかる。
 この国民の認識不足の原因は、基本的にはマスコミ報道の少なさによる絶対
的な情報量の欠如にあるが、マスコミが情報をもたらさなかったということは
裏を返せば、国民の興味がその方向になかったということの証明でもある。
 国民の意識の根底には、明治以来の琉球差別の風潮と沖縄が日本の領土であ
るという意識の欠如があった。また、国民自身が生きていくために必死で、他
人のことをかまう余裕のなかった時代に沖縄の地位というものが次々とアメリ
カの手によって規定され、気付いた時には既成事実と化したことも日本的な諦
観の境地に沖縄を追いやった理由の一つであろう。
 そして、対日講和条約の発効によって独立を果たした日本は、朝鮮戦争の軍
需物資の調達による特需景気に始まる、急速な経済復興にその意識を没頭させ
ていっため、次第に人々の記憶から沖縄は「忘れられた島」になっていったの
である。要するに忙しかった当時の日本人にとって直接の利害関係にない沖縄
は興味の対象外だったのである。
 この眠っていた日本国民の意識に強烈なショックを与える一撃はそれまでほ
とんど沈黙していたに等しいマスコミから突然もたらされた。
  '55年1月13日付の朝日新聞に掲載された「米軍の『沖縄民政』を衝く」と
いう特集記事は、 '53年4月の「土地収容令」を契機として沖縄で大きな社会
問題となっていた「軍用地問題」を中心に「労働問題」・「一般人権問題」・
「沖縄の地位」をとりあげ、アメリカの反応や住民の声を掲載し、社会面のほ
ぼ全面を使って沖縄の悲惨な現状を世論に訴えた。
 それまでは '53年に公開された映画「ひめゆりの塔」に叙情的な感傷を抱く

                 12 
 




程度の認識しかもっていなかった国民の心に、事実という刃は鋭く突きささっ
た。この記事を起爆剤として、マスコミが沖縄をさかんに取上げるようになり
急速に世論は高まっていくのである。
 こうしてみると、いかにも本土のマスコミが自らの意識を高めて世論を喚起
したようだが、実際には前年3月に、ニューヨークの国際人権連盟議長ボール
ドウィン氏が日本の自由人権協会に沖縄の実態調査を依頼、その結論が12月に
出され、それを受けての記事掲載であり、その背景を考えると実際にこの記事
を書かせたのはアメリカ人であった。この事実一つをとってみても、いかに本
土認識の程度が低かったかということがわかる。
 沖縄に対する認識のレベルの低さがそのまま意識の低さにつながっていた。
 つまり、バイタルな観点から沖縄を捉えていた沖縄住民やアメリカとちがっ
て、日本国民にとって沖縄は、その地位がどうなろうと痛くもかゆくもないと
思い込んでいたのである。
 ところが、「軍用地問題」がマスコミで盛んに掲載されるようになると、途
端に国民のバイタルな認識が発動されはじめた。その認識の過程を、図式的に
表現すると下のようになる。
 「軍用地問題」=「沖縄の土地がアメリカ人によって買上げられる」
  →「沖縄は日本の領土ではなかったか」
  →「そういえばアメリカも潜在主権があるといっていた」
  →「それじゃあ日本の領土がアメリカに奪われることになるじゃないか」
  →「そんなことは許せない」
  →「軍用地買上げ反対」
  →「こうなりゃついでだ施政権も返せ」
 非常に安易な図式ではあるが、これが国民の大多数の認識であった。「そん
なことは許せない」という意識の根底には、領土保全=自己保存というバイタ
ルな認識が働いているが、それに対して「こうなりゃついでだ施政権も返せ」
というのは一見突飛でもない論理の飛躍のようにみえるが、実はこの発言は重
大な国民の沖縄認識の問題点が内包している。今度はアメリカも登場させてみ
る。
  → JAP「こうなりゃついでだ施政権も返せ」

                 13  





  → USA「…しかたがない,基地をそのままにするんなら返してやる」
  → JAP「バンザーイ」
  → USA「…」
 つまり、施政権ということが領土の所有権という形で国民には捉えられてお
り、施政権返還は即ち領土の保全を意味する。領土保全が確認されればバイタ
ルな認識警報はなりやみ、再び以前と同じ認識のレベルに戻る。
 この予め原因と結果の因果関係を問題の発生した時点で一つのパターンとし
て組立ててしまいうという方法は、日本人の得意な認識パターンである。最初
に警報を発したその原因を取除くことに全力が注がれ、それさえ成功すればあ
とはどうなろうと構わない。商品についてはあれほど注意深い製品管理のシス
テムを作り上げておきながら政治面でのアフター・ケアの観念にやや欠けてい
るのである。
 このパターンは沖縄問題に限らず、この当時の全ての問題にあてはまった。
 即ち、沖縄返還の前後が日米安保条約の改定期にあたることから日本は沖縄
問題に関連して、「安全保障」、「核」、といった問題で国論が沸騰し、その
上、全国的な学生運動の炎が日本中を巻込みまさに革命前夜といった様相を呈
していたにもかかわらず、安保問題は自動継続、学園紛争は「大学運営臨時措
置法案」の成立、そして核と沖縄問題は沖縄返還協定成立という原因の除去、
あるいは闘争の敗北がはっきりすると、あたかも波が引いていくように世論は
静まっていった。
 沖縄に関する日本本土の認識は結局は時勢に流されたセンセーショナリズム
の範疇を出ることはなく、「日本国」としての認識の形成には明確なヴィジョ
ンをもち時代をリードした佐藤栄作の登場をまたねばならなかった。

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