第 三 章     佐 藤 栄 作 の 認 識
 3 − 1   佐 藤 栄 作 と 大 石 内 蔵 助
 「『宿願成就』三たび涙」。沖縄復帰記念式典の行われた日の読売新聞夕刊
の見出しである。己の政治生命を賭して沖縄返還の推進にあたった首相が式典
会場で三度目の感涙にむせたことを称したものだが、三度の涙はそのまま佐藤
政権における沖縄返還交渉の歴史を示す道標であった。
 戦後の首相として初めて沖縄入りし、那覇空港の歓迎ステージで「私は沖縄
の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないこと
をよく承知しております」という首相ステートメントを読み上げたときが最初
の涙、そして二度目にハンカチを目にあてたのは、沖縄返還協定が衆議院本会
議で可決されたときだった。
 栄作の涙もろいところは母親譲りだと寛子夫人は回想しているが(『宰相 
佐藤栄作』)、返還交渉の転換点に三たび涙したのは、その人情家的な面もさ
ることながら、沖縄返還に対する並々ならぬ決意の表れであったろう。
 第二章で三つの認識主体を論じたが、沖縄返還交渉における主体はもう一つ
存在する。それが佐藤栄作である。彼は当然日本人であり政府の意思決定者で
もあったわけだが、その認識は「日本人」のものでもなく「政府」のものでも
なかった。むしろより正確を期するとすれば、佐藤の沖縄認識が世論を形成し
政策を決定づけていったのである。
 彼の認識は、やがて「日本本土の認識」となり、ついには「アメリカの認識」
との接点を見い出だして合流し、「核抜き本土並み72年」という一つの潮流を
形成した。序論で述べたパーセプション・ギャップがここで埋められ、沖縄返
還実現の運びとなった訳だが、彼が沖縄返還交渉で果たした役割を考えるとき、
忠臣蔵における大石内蔵助のイメージがそれとダブるのである。
 彼が主君(浅野内匠頭長矩)の仇討ちを成功に導いた最大の功績は、各人様
々な思惑ををもって集合してきた浪士達(例えば、武士の体裁を保つためであ
るとか、幕府の政策に反発し一石を投じようとした者など)の内面に深入りす
ることなく、目的を主君の仇を討つという一点に絞り、全員の意識をその達成
に向けて集中させたことにある。仇討ち決行の日までその思いを消すことなく
1年9ヵ月もの間にわたり庶民の中に混じって浪士達が耐え続けることが出来
たのもこの目的指向の強さにあった。

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 佐藤も第二回佐藤・ジョンソン会談で沖縄返還の合意を取り付けてからは、
細かい論議には一切「白紙」の答弁を続け、「沖縄を返還させる」という一点
のみで世論を1年4ヵ月にわたって魅きつけておき、満を持しての「核抜き本
土並み」発言で一気に沖縄返還の方向を示し、その成功へと導いた。両者の政
策実現のための目的指向性の強さが二人のイメージを重ねあわせるのである。
 その上、どちらも寡黙で、辛抱強い。さすがに佐藤は反対派を欺くために、
遊郭に通い詰めたりはしなかったが、内に秘めた「核抜き」の決意を微塵も見
せずに4度の国会を切抜けたところなど、まさに「討ち入り」を胸に秘めなが
らも、内匠頭の奥方にすらその期するところを決して語らなかった大石の姿を
彷彿とさせる。

 ところで、大石のこの強い目的指向性を裏うちする認識は、「主君の仇討ち」
が当時の武士社会における最高の価値観のひとつであり、その遂行に当たって
天下大道恥じることのないことであったが、それに呼応させて考えると、佐藤
は「沖縄返還」(仇討ち)が「国民」(赤穂浪士)にとってプライオリティが
最も高い価値観であるという認識をしていたことになる。言い換えるならば、
軍事基地の撤廃が沖縄住民の第一義的認識であったように、沖縄返還が日本に
とってバイタルなものであるという認識を彼はしていた訳である。
 もしも漠然と沖縄が日本に戻ってくると望ましいとか、国民の圧力が強まっ
たので返還要求を始めたというのであれば、世間の誰もが沖縄が戻ってくるな
どと考えず、沖縄の琉球政府主席や党指導者ですら沖縄返還が楽観的過ぎると
考えていた(*28) '64年に、自民党総裁選の出馬表明の中で明確に沖縄返還要
求を打出し、政権担当後、まさにその通りに実行していくことは不可能であろ
う。何故なら、利害が対立せず、数年のうちに決着のつくものならばいざ知ら
ず、8月のトンキン湾事件を契機としてアメリカがベトナム戦争の泥沼にはま
りこんでいったその年に彼は政権を担当し、最終的決着をつけるまでに5年以
上の歳月をかけ、二人の大統領を相手にしたのである。これはどう考えても大
石的価値観を「沖縄返還」に見出だしていなければ出来ない相談である。

 その認識に至った過程については、千田恒氏がその著書『佐藤内閣回想』の

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中で非常に示唆的な分析を行っている。彼は佐藤が沖縄を政策課題とするにあ
たったその背景を、 '62年の9月から11月の欧米視察旅行でのドゴールとの会
見に見い出だす。ドゴールに佐藤が語った部分をそのまま引用してみる。(原
本がどうしても手にはいらなかったので孫引きである。)
 「世界平和を保つという意味から、世界の現状をそのまま認める。現状を凍
 結させることが平和を維持するいちばんよい道だ。そういう考え方が一部に
 ある。ドイツは東と西に分割されている。韓国もそうだし、ベトナムもそう
 だ。中国も二つに分れている。日本の場合も千島列島がソ連領に加えられて
 いる。その他の国々の国境も、占領の結果だんだん固まって来ているから、
 そのままでもいいじゃないか。その状態をそのまま承認しさえすれば、世界
 の平和は保てるだろう。こういう議論があるのだが、それについて自分には
 いろいろと疑問がある。この考え方には、戦争の後始末から生じた結果をそ
 のままよしとする安易さがある。理論的な解決ではなく、力の解決であるも
 のを、そのまま認めようとするものだ。本来は一つであった民族を、遠慮会
 釈なしに二つにわけている。われわれの場合を考えてみても、日本固有の領
 土を占領されて、それが外国の領土に編入されている。この現状を認めるこ
 とを強いられている。いったいこういう現状凍結の議論について、あなたは
 どういうような考え方をしているのか。」
 と、ドゴールに尋ねたという。
 ここで非常に興味深いことは、安易な現状凍結の考え方に、彼が真向から反
発していることである。これを沖縄住民の認識と比較してみるとその類似性に
は驚くばかりである。
 佐藤は、国家が分裂したその状態をそのまま承認しさえすれば世界平和が保
てるという考え方に疑問をはさんでいるが、これは、沖縄の軍事基地を認めさ
えすれば経済的には安定した生活が送れるという沖縄の現状肯定主義に対応す
る。「戦争の後始末から生じた結果をそのままよしとする安易さがある」この
言葉が沖縄住民の口から発せられたとしても、決して不思議ではない。むしろ
沖縄の言葉として捉えた方が説得力を増すほどである。そして、世界の分裂国
家におけるその分割は、決して国民の望んだものではなく戦争の結果として他
者に押付けられたものである。沖縄の軍事基地もしかり。

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 この見事なまでの整合性の意味することは、ひとつ。即ち、どちらの認識も
バイタルなものであり、本質を見詰める認識だということである。
 バイタルな認識を沖縄に対して政権獲得の2年前に佐藤が持っていたという
ことは、前述した大石的価値観、つまり沖縄返還は国民にとって第一義的意味
をもっているという価値観、を総裁選挙の出馬表明の時点ではほぼ確立させて
いたと見て間違いない。事実、佐藤内閣が誕生した翌年8月に敢行された沖縄
訪問の首相ステートメントの「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国
にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております。これはまた
日本国民すべての気持ちでもあります。私が、今回沖縄訪問を決意いたしまし
たのは、なによりもまず、本土の同胞を代表して、この気持ちをみなさんにお
伝えしたかったからであります。」('65.8.19朝日新聞夕刊より)というくだ
りは、ともすると「戦後」のくだりばかりが強調して捉えられがちだが、それ
以降の「日本国民すべての気持ち」とあわせた方がこの場合より大きな意味を
持つ。
 彼がいいたかったことは、ドゴールに対してぶつけた疑問そのままだった。
 あえて彼の心情を推測するならば次の如くだろう。「このまま戦争の後始末
をきちんとせずに現状を肯定することは日本の国益を大きく脅かすものだ。早
くそのことを国民全員が意識して欲しい。必ずできるはずだ。なぜならばこの
問題は全ての国民にとってバイタルなものだから。」
 「国民すべての気持ち」というのは、その当時のセンチメンタルな沖縄に対
する感情を代弁したものではない。今はまだ国民がバイタルな認識をすること
に目覚めていないけれども、いつかはきっと、日本人が皆そうできるに違いな
い。みんな頑張れ。と沖縄住民に向けたメッセージの中で、日本国民に向かっ
てエールを送ったのである。
 この佐藤の認識を再び、大石にむかってフィードバックすると、彼の声も聞
こえてくる。
 「沖縄を訪問したのは、返還の意思表示をするためだけではないのだ。(そ
うだ、吉良の首をとったのは、主君の仇討ちだけではないぞ。)国民のみんな
に日本が今どういう立場にたたされているのかをしっかり認識して欲しいから
なんだ。(そうだ、武士の諸君よ、君たちみんなに、幕府の御政道に誤りはな

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かったのか、考えてみて欲しいんだ。)」
 大石の声については少し穿ちすぎたきらいもあるが、佐藤の思いはこうであ
ったに違いない。

 佐藤が政権獲得以前から沖縄返還というものをバイタルな観点から眺めて認
識していたことは間違いない。そして、その本質さ故に生じる認識の一貫性が
第二回佐藤・ジョンソン会談直後の '67年12月7日の衆議院予算委員会で証明
される。(勝間田社会党委員長への答弁)
 「近い将来沖縄の祖国復帰を実現するためには、沖縄を含めた日本の安全を
 いかにして確保していくかという問題を、いまから国民ひとりひとりが真正
 面から考えなければならないと思う。(拍手とヤジ)日本国民は、核兵器の
 開発はしない、他国の内政には干渉しない、こういう二つの大きな国民的総
 意をもっているが、世界の現実の中でみずからの国の安全を確保するという
 最も根本的な問題については、わたくしをして忌ォなくいわしむれば、いま
 だ国民の間にこの問題についての関心が十分向けられているとは思っていな
 い。(拍手とヤジ)ここに国民的総意を形成するための真剣、かつ、現実的
 な討議が十分に行なわれていないというのが現実の姿である。したがって、
 わたくしは、国民ひとりひとりの認識と努力によって、この総意が着実につ
 くられていくことを念願しており、それが、ひいては沖縄の祖国復帰を促進
 するゆえんであると確信している。(拍手)」(速記録より)
 彼の内なる叫び声が聞こえるではないか。

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 3 − 2   「 核 抜 き 」 決 断 の 瞬 間
 佐藤が「いつ」、「核抜き」を決断したかについては、諸説混交としていて
定かではない。この検討は後に論じるとして、まずは「何故」、「核抜き」を
決定したのかを考えてみたい。
 最初に結論を先に述べてしまうと、これもまた彼の認識に基づいたものであ
った。
 彼の認識によれば、日本にとって「沖縄を返還させる」ということが焦眉の
急であり、これが何ものにも優先するバイタルな課題であった。前項で述べた
強力な目的指向性は、政策におけるリーダーシップとなり、政策課題のプライ
オリティを明確にして、その遂行を円滑にするものであったが、一旦その優先
順位が決定されるとその最初の目的達成のためにそれ以下の政策が規定される
という特徴を持つ。例えば、軍事問題というのは平時には、比較的その優先順
位が低く押えられているものだが、条約締結や他国との共同コミュニケ発表と
いった場合には最優先の考慮がなされる。その訳は、これが国家の存亡に関わ
るバイタルな懸案であるからである。たとえ、外部環境の変化が一時的に政策
のプライオリティを入れ替えることがあっても、潜在的に認識の主体が抱いて
いるバイタルな認識というものは、第二章で検討したように、その原因が除去
されない限り、潜行はしても消滅は決してしない。
 「沖縄返還」は佐藤の政策ヒエラルヒーの中で最上層に位置するものであり
この目的達成が日本にとってバイタルなものだと彼が考える限り、その政治課
題としての優先順位は絶えず最高のものであった。つまり、彼が政策上、特に
外交上でのアクションを起こした際には、その陰に「沖縄返還」への伏線が存
在すると考えなければならない。小谷先生がインタヴューの中で何度も、「同
時代的な考察の必要性」といった意味のことをおっしゃっていたが、この当時
になされた外交上の決定の背後には佐藤の認識というものがあり、すべてはそ
の認識のもとに一貫性を保っていた、あるいは保とうとしていた、という視点
で政策を捉えなければならない。何故なら現代の視座のままで、当時を眺める
と、それはあたかも日本史のテキストを読むかの如く全てが過去の史実として
平版に並べられているように見え、実際には歴然と存在していたはずの価値の
ウェイトの違いや相関関係を見失うことになるからである。

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 そこで「核抜き」、と「沖縄返還」の関係であるが、そのプライオリティを
単純に比較すると後者が当然に優越するが、何故、「核抜き」が「沖縄返還」
という目的達成にとって緊要であるのかと考えると、一見してそこに必然性を
見出だすことはできない。「沖縄返還」が真に最優先であるなら、かなりの国
内の反対はあっても「核付き」の方がはるかにアメリカとの交渉がしやすかっ
たはずである。
 こう考えると、「沖縄返還」という目的の最重要性は揺らいでくる。どうや
ら「沖縄返還」を一つの手段として達成しようとするなんらかの目的の存在が
見え隠れする。要するに、「核付き返還」では達成できない目的に対する認識
が佐藤にはあり、それが「核抜き」を必死で模索した理由であった。
 この究極の目的は、結論の中核となるものであり細かい分析は第五章に譲る
が、それは端的にいって「日米関係の同調」である。

 次に、「いつ」決断されたかであるが、歴史を過去へと遡って考えてみると
まず、第61通常国会の衆議院予算委員会における社会党の前川旦に対する答弁
で「核抜き本土並み」を初めて公表し、「白紙」に筆をとった。
 これが '69年3月10日月曜日。
 その年の1月28日に行なわれた日米京都会議の結果をもとに作製され、「核
抜き本土並み72年」を提言した「基地研報告」が公表されたのが3月8日土曜
日。これに先立って当会議の事務局長の末次氏が佐藤のもとへ予めそれを持っ
ていったのが3月5日水曜日。「…沖縄国会はメチャクチャだった。がしかし
日曜日だけは(総理は)きちんと休まれた。」と、後に竹下登現首相が述懐し
ている鎌倉の別荘での休息が3月9日日曜日で、この時丹念に読んだという
「基地研報告」が、翌日の「核抜き」発言につながったことは間違いない。
(*49・50、『宰相 佐藤栄作』より)
 しかし、前出の『佐藤内閣回想』によると、駐米大使の下田武三が首相官邸
で「核抜き」を指示されたのが同年1月14日。これは京都会議よりもほぼ2週
間早い時期である。
 ここで公式の記録による「核抜き」決断の瞬間を探る記録はプッツリと切れ
る。ところが、卒論の最終ゼミが '87年も押し迫った12月27日に花井等教授の

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自宅で行なわれたときふと花井教授が「佐藤に核抜きを示唆したのは京都産業
大学教授の高瀬さんだ。というエッセイを雑誌『潮』の臨時増刊号で読んだ記
憶がある。」とつぶやいた。すわ、というので、早速高瀬教授に電話をかけて
みた。
 がしかし、
 「公表できないねぇ。」
 という返事とともに『沖縄復帰への道』に詳しいからと本の紹介をしてくだ
さるにとどまってしまった。
 今にして思うと、慌てて電話に飛び付かずにじっくりと戦略を練ってから話
を聞くのだったと後悔の念が先に立つ。その上、筑波大学の図書館には高瀬教
授について言及してあるという「潮」の '68年のバックナンバーがあるにはあ
るのだが、臨時増刊号だけが見事に欠落しているのであった。
 だが、彼がアメリカのフーバー研究所から帰国した時期が '68年の5月以前
(5/1からは教壇に立っていたそうである)であることと、『佐藤内閣回想』に
いう基地研メンバーの学者から佐藤のもとに届けられたワシントンからのレポ
ートの日付が6月14日であることを比較すると、どうやらこの学者よりも早く
帰国していた高瀬教授がなんらかの形で佐藤に接触して、情報を与えたことは
間違いなさそうである。また、彼が、日米京都会議に参加者としてではなく、
実行委員会事務局の特別補佐という形で名前を連ねていたことを卒論完成の直
前に発見した。そして、時期的にみても佐藤の「核抜き」発表の一年以内での
最も早い接触であったことを考えると、「核抜き」決断の瞬間解明のカギを握
る人物は、どうやら彼だということになりそうである。

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 3 − 3   「 公 式 」 チ ャ ネ ル へ の 不 信
 「…私は東京からひどく興奮した電話を受けた。相手は佐藤の使者だった。
 彼は自分の身分を隠し、もしかすると盗聴しているかもしれない情報機関の
 耳をたとえ2分間でもごまかそうとして、「ミスター・ヨシダ」という偽名
 を名乗った…。」(『キッシンジャー秘録第2巻』)
 これは、1969年11月の佐藤・ニクソン会談を直前に控えて、キッシンジャ
ーが、佐藤総理の繊維問題に対する立場を使者から電話で伝えられた一場面の
描写である。
 「ミスター・ヨシダ」なる人物は、この電話に先立つこと約一ヵ月前の7月
18日にキッシンジャーのもとを訪れ、以来、「二人は、両国の官僚機構の頭越
しに」秘密のチャネルをつくりあげ、核、繊維の両問題について佐藤−ニクソ
ンの直接合意を秘密交渉で成立させることに腐心していたという。
 また首相の私的諮問機関である「沖縄問題等懇談会」を活用して対米交渉の
政策立案のブレーンとして活用するなど、このように、彼は公式なルートを通
さずに情報を収集する術に長けていた。これは、彼自身が「早耳の佐藤」とあ
だ名されることからも分るように、情報の重要性を高く考えていたためであろ
うが、裏を返せば、「公式な」外交チャネルに対する彼の不信感の現れではな
かったろうか。
 彼の期待に答えてこれらのチャネルは見事に機能し、有効な情報や提言を送
りつづけた。情報収集に労力を注ぎ機が熟するまでじっと潜行することこそ
「待ちの政治家」たる佐藤の本領発揮であった。また、「両三年以内」の沖縄
返還合意が成された第二回佐藤・ジョンソン会談の後に開かれた第58臨時国会
から第61回通常国会に至る4回の国会における答弁で、返還後の基地の態様に
ついて「白紙」を貫き通したのも独自の情報源を持っているという自信のなせ
る技であったろう。
 佐藤栄作が好んで非公式チャネルを用いた理由は、もちろんニクソン・キッ
シンジャーという海の向こうでも「非公式」好みの政権が誕生したことも状況
としてはあろうが、やはり直接的な理由は公式チャネルへの不信、突き詰めれ
ば外務省に対する不信感があったように思われる。
 彼が公式チャネルに対してはっきりと不信感を抱いていたという証拠はみつ

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からなかったが、キッシンジャー秘録に以下のような逸話が載っている。
 「( '69年7月下旬にロジャーズ国務長官と愛知、佐藤が会談し、)会談後
 に発表されたコミュニケは、ロジャーズ長官と愛知外相が『沖縄施政権の対
 日施政権の返還問題について協議したこと』しか明らかにしなかった。しか
 し日本側はたちまち新聞に情報を漏らしてしまい、ロジャーズ長官も8月3
 日の記者会見で、アメリカが沖縄返還に原則的に同意したことを確認した。
 このため、ニクソン、佐藤両者とも、もっとも微妙な話し合いは、漏洩の危
 険の少ない私的チャネルに限定しようという決意をいっそう固めることにな
 った。」
 誰が漏らしたかは明示されていないが、いずれにせよ外務省関係者であるこ
とは間違いあるまい。
 また、当時の外務省の実態について末次一郎氏が非常に興味深いエピソード
を披露してくださったのでそのまま引用してみる。
 「外務省の場合、局長クラスというのはだいたい、どこかの大使を辞めてき
 て局長になる。アメリカ局長というとステイタス高いですからね。大使経験
 者がなるか、あるいはこれから大使になる人がなる。ですからね、外務省と
 いう所はね局長というのはあまり実務に通じないんですよ。内政も同じ。ち
 ょうど沖縄返還交渉の際どいときにね、名前はいいませんけど局長も参事官
 も沖縄問題については知らない人でした。そのときの外務大臣が福田さん。
 福田さんは局長を呼んでいろいろと聞くわけですよ。局長は課長からネタし
 いれてくるわけね。ところが隔靴掻ヲの観があった。それをこっちで見てい
 た課長はね、俺を呼んでくれりゃいいのにと、こう思う訳だ。そうすっとき
 ちっと大臣がわかるように説明をするんだがと。ところが、大蔵省育ちの福
 田さんはね、大蔵省の場合はね、局長に聞けば何でも分るわけ。局長という
 のはね、銀行畑は銀行畑、主計局は主計局ですから課長よりか場合によって
 は詳しいわけ。それである日その外務省の課長の千葉君の悩みを聞いた僕は
 ははぁと思って、それで福田さんに会って、それで僕はそれとなく外務省と
 大蔵省の組織的にだいぶ違うんだという話を僕がチラッとしたわけですよ。
 で、福田さんは頭のいい人だから、あぁそうと。だから僕のアドバイスは、
 『課長に直接聞かれる方がいいですよ。現におたくの局長さんは3年もアメ

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 リカにいっていて帰ってきてから数ヵ月しか経っていない。わかる訳ないで
 すよ』と。それからなるほど課長が直接言うようになった。」(*46)
 第一次佐藤内閣の発足当時、沖縄返還に関しての外務省の対応が非常に緩慢
であったことも、末次氏は指摘している。
 例えば、 '66年の訪米時に当時の武内駐米大使に対して「あなたは、一体ア
メリカ政府との間で沖縄返還についてどういう交渉をしているのか」と尋ねた
ところ「何もしていない」という返事が返ってきたという。また、ワシントン
駐在の千葉一等書記官には、「あなたは一体どうして沖縄返還なんかに関わる
んですか。できるわけはないでしょう。」と言われたという。この年、佐藤首
相は、歴史的な沖縄訪問を敢行している。まさに返還交渉の立て役者となるべ
き駐米日本大使館のトップが、こういった捉え方をしていたのだから、少なく
とも政権初期の段階では、佐藤は全く外務省に指示を出してはいなかった事が
分かる。(*47)
 ただし、武内氏はその後沖縄を訪れ、感銘を受け、退官後の米国講演では必
ず沖縄の話をし、また、千葉氏は返還協定締結時には北米第一課長となり、返
還協定調印式の日米同時衛星中継の司会者を務めたという。
 佐藤が積極的に非公式チャネルを利用し、それが成功した背景には、あまり
よく機能していたとは言えない当時の外務省の実態があった。
 そして、政権末期にはその外務省の監督不行届きのため、蓮見外務事務官が
毎日新聞の西山記者に機密漏洩し、沖縄返還直前の '72年3月27日の衆議院予
算委員会の席上で横路孝弘議員によって暴露された「沖縄返還密約問題」とい
う強烈なパンチを食らったのである。(注6)
 もはや沖縄返還の日は近付き、いまさら外務省不信もなにもない時期だった
ろうが彼としては心中穏やかざるものがあったに違いない。

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