第 四 章     非 公 式 外 交 チ ャ ネ ル の 活 躍
 4 − 1   「 沖 縄 問 題 等 懇 談 会 」
 佐藤栄作が用いた非公式外交チャネルが果たした役割の中で、首相の諮問機
関である「沖縄問題等懇談会」の重要性は '67年9月に出したその中間報告が
11月の第二回佐藤・ジョンソン共同声明の骨子となったことにある。
 これの前身となったのが森総務庁長官の諮問機関の「沖縄問題研究会」であ
る。前者と後者の差はたった一文字、「等」の字があるかないかだけに過ぎな
いが、この一文字が付く過程で、沖縄返還史上重要な事件の一つである佐藤の
「大津発言」が密接に絡んでくる。
 そこで、この経過を終始みつめていた、より正確にいうと「等」の字をつけ
させた仕掛け人である末次氏が、そこのところを詳しく語ってくれたので載録
してみる。
 まずは、教育権のみの部分返還論を唱えた森発言について。(*54)
 当時は総務長官の所管事項の一つに沖縄があったために、就任すると沖縄訪
問をするのが慣例だった。形式的には復帰前なので、高等弁務官の招待を受け
るという格好での訪問になる。森長官は、随行団の中に事務方の責任者である
総理府の沖縄所管局長の山野氏がいたにもかかわらず、全く相談もせずに、当
時のキャラウェー弁務官に向かっていきなり教育権の返還を求めたという。
 「…ところがこれにも相談しないでね。キャラウェイと会ったときに、せめ
 て教育権だけでも返してくれんかと、こう言ったわけ。事務方の責任者がま
 ず一番ビックリしたわけですよ。それは当然のことながら新聞にバーッと翌
 日書かれたわけね。政治家一流のまぁ一種のハッタリですね。」
 この教育権のみの返還を求める部分返還論は、森長官の発案ではなく、講和
条約締結当時から大浜早稲田大総長とか茅東大総長とかが講和条約の準備をし
ているダレスに向かって、締結の際に教育権だけを返してくれないかという文
書を出したりしていたという。これに対して、教育権よりも福祉の問題を考え
る方が先であろうという主張もあわせてこれらを機能的部分返還論と呼んだ。
もう一つの部分返還論は、例えば離島といった基地でない部分の返還を求める
地域的部分返還論とかがあった。(*55a,b)
 これらの部分返還論に対して、末次氏は「揺さぶりの道具にしかならない」
と断じている。

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 先の森発言に対して、実にはっきり「困ったものだった」と末次氏は語って
いる。しかし、一度公的な責任ある人物の発言でもあり、捨ておくわけにはい
かず、アメリカに対する「揺さぶり」の効果は認められるというので、彼らの
アドバイスによって「沖縄問題懇談会」は発足した。これが '66年9月のこと
だった。その年も押詰まった12月27日に衆議院は解散し、翌年1月に総選挙
が行なわれた。その遊説先の大津市で佐藤総理のいわゆる「大津発言」がある。
 「…佐藤さんが応援に行って大津で休憩しとったときに、記者懇になるわけ
 です。そのとき、森総務長官が教育権返還を主張しているけれども、総理は
 同じ考えですかと聞いた。そうすると総理は、そうじゃないよ全面返還だ。
 と、非常に気軽に答えた。すると翌日の朝刊が、まるで閣内不統一というよ
 うなトーンでね、ワーッとこれを取上げたんです。それで楠田秘書官から慌
 てて大浜先生に電話があって、居なかったから僕が受取って、総理は実は、
 それ程ウェイトをおいて言ったのではないと弁解をした。何故なら大浜さん
 は教育権返還を巡って発足した沖縄問題懇談会の座長だから、それに水をか
 けるようなことを言った結果になる。だから、軽い気持ちで、究極の気持ち
 は全面返還だと言った。大浜先生の動きを否定するものではないと言って非
 常に気にしておりますという連絡があった。そこで、僕は実はこの機会に、
 この懇談会を解消してね、総理の諮問機関に持っていこうという謀り事があ
 りましたから、その善後措置を考えるから帰ってきたら相談しようと答えた
 んです。」
 こうして首相の諮問機関である「沖縄問題等懇談会」が誕生した。

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 4 − 2   「 沖 縄 返 還 と 基 地 問 題 研 究 会 」
 「沖縄返還と基地問題研究会」の果たした最大の役割は、 '69年3月8日に
発表した「基地研報告」にある。これは、「問題の位置づけ」、「得られた結
論」、「検討の概要」、「展望と課題」という見出しを持つ4部構成の小冊子
である。
 この報告は完成後時を置かずして、総理のもとに届けられた。
 奇しくもこの頃、国会では沖縄返還の際の基地の形態について論議が白熱し
ており、野党は執ォにそれを追及しつづけたが佐藤総理は一貫して「白紙」を
繰返していた。(*48)
 「…佐藤さんが国会でよく野党に『一体沖縄は、いつ頃どういう格好で返し
 てもらうつもりなんだ』という質問をしばしば受ける。それに対し『今のと
 ころ白紙であります』という答弁をずっと続ける。」
 「基地研報告」がプレス発表された翌々日の '69年3月10日、首相は遂に社
会党の前川旦氏への答弁で「核抜き本土並み」を明らかにする。この経過につ
いても末次氏は詳細に語っている。
 「私どもが日米京都会議というものをやって、そこでいろいろ議論した事を
 基礎にして今度は『沖縄基地問題研究会報告』というものをまとめる。そし
 て論議をした結果あげられた結論は、 '69年中に一括返還について取組み、
 その時期を確定しなさい。返還の時期はなるだけ早いほうがいいけれども遅
 くとも '72年までにしなさい。施政権返還後は、沖縄に全面的に安保条約を
 適用する。したがってこの地域の米軍基地はですね、同条約に基づく地位協
 定の適用を受ける。したがって非核になるということですね。つまりこれは
 本土並みの基地にしましょうということ。過密であるのは結構だから本土に
 近いようにしなさいと。これを『一括核抜き日本と同じ72年』というスロー
 ガンになったわけです。それでこれを報告を八日付でだしたんです。われわ
 れのメンバーには、新聞社の人間が三人いたんですよ。読売と朝日と毎日。
 それで、いつ発表したら新聞が書いてくれるかとか、長さはどのくらいまで
 なら全文載せるかとかも配慮した上で、まとめました。三月の八日というの
 は土曜日でした。そこで、日曜日の朝刊に掲載されるという時間を見計らっ
 て記者会見をしたわけです。」

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 「それより前の五日の日に、八日付で発表しますからといって私が総理のと
 ころへ持っていきました。それで日曜日は、鎌倉の別荘に佐藤さんは休んで
 いました。それで十日の日に国会があって、社会党の前川君という香川選出
 の議員が、『総理は今日まで白紙白紙と言ってきたけれど、昨日の新聞によ
 ると、民間のさるグループが、核抜きで本土並みの基地にして72年に返せと
 言っている様だが、これを一体どう思うか』と尋ねた。それに答えて佐藤さ
 んが、『私も大体その辺ではあるまいかと見当つけています』と、こういう
 言い方を初めてするわけです。正確ではありませんが、それまで白紙白紙と
 いってきたのに対して、どこかの新聞が“総理白紙に筆を取る”というよう
 な見出しを付けたことがあるんですよ。われわれの流れと政府の流れのズレ
 というか、時差というか、そういうものを象徴する一つの出来事と言ってい
 いんじゃないんでしょうか。」
 こうして沖縄返還交渉の基本方針が確定され、同年6月の愛知外相のワシン
トン入りを最初とする政府の公式な交渉が始まったのである。

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 4 − 3   「 日 米 京 都 会 議 」
 1969年1月28日に京都国際会議場で開催されたこの会議は、後に「核抜き本
土並み」を佐藤総理に発言させるきっかけをつくった「基地研報告」の元となる
会議であった。末次氏はこの会議の事務局長であった。(*53)
 「どうしてこの会議が開かれるにいたったかという経過を考えてみますと、
 2回目の訪米のときにね、ライシャワーの家に行きました。ライシャワーと
 はその前からいろいろとありましたから。それで僕は、彼に感想を述べたわ
 けです。『結局、役人相手で表玄関から行ったんではしょうがない。私が思
 うのには、日本でも学者が、政府の政策決定のプロセスに関与することはあ
 るが、大体審議会みたいなの多い。あるいは懇談会という格好で、つまみ食
 いされることになる。僕の見るところアメリカの場合はね、地域専門家とか
 主要国についての専門家とかそういう人々の政策決定の過程における関与は
 日本よりはるかに大きいような気がする。すると、日本でもそれに近い役割
 をしている学者がいまして、その中でアメリカと比較的つながりがある人々
 とそれからアメリカの、特に対アジア対日政策などに関与している、あるい
 は今後関与するであろうというような有力学者とか、いずれは一堂に集まる
 ことがあるかも知れないと。リストアップしてみると、京都大学の高坂君は
 シェリングと親しいとかね、若泉教授はウォールステッターとばかに親しい
 とか、そういう関係が描けるんじゃなかろうかと思うがどう思うか』という
 話をしたら、ライシャワーが膝を叩いて、『君はいいところ気がついた。そ
 れでは僕がリストアップしてあげよう』といって、四十何人リストアップし
 てくれました。」
 この会議は、ライシャワーも沖縄返還交渉史上、重要なものであったとその
自伝のなかで書いている。そして、この会議での米軍人の態度を知ってから政
府は返還交渉の決断をしたという見方を披露する。(『ライシャワー自伝』)
 「1969年のこの京都会議では、元外務次官、駐米大使として外務官僚トップ
 ポストを歴任した武内竜次が、私と共同議長をつとめた。日本側出席者は、
 沖縄の将来に関する私の意見をよく知っていたせいか、あまり関心を示さな
 かったが、アメリカ側の二人の退役軍人−マクスウェル・テーラー将軍と元
 海軍作戦部長アーリー・バークの意見は拝聴した。二人がアメリカ側主席者

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 中の学者達と同じように沖縄返還に賛成と知ると、日本人ははじめて安心し
 その結果としてやっと公式に返還を求める度胸ができたらしかった。」
 これらの、非公式外交チャネルの働きによってアメリカ側の反応を知ってから、
外務省はやっとその重い腰を上げたのであった。

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               第 五 章  
    これまで四章にわたって分析してきた沖縄における認識のギャップの問題に
この章では結論をつけ、沖縄返還について評価を下すわけであるが、予め断っ
ておきたいことは、認識という非常にパーソナルな事柄を分析するにあたって、
現時点で収集することができた資料には非常に偏りがあるということである。
「沖縄住民の認識」については枚挙に暇がないほど資料が公表され、研究書の
類いも天頂の星の如くある。また「日本本土の認識」は言うに及ばず、「アメ
リカの認識」も最近刊行された『ライシャワー自伝』などでその充実度を増し
ている。ところが「佐藤栄作の認識」についてはその現象面によって類推をす
る他に手立てがなかった。勿論、帰納的に全ての資料を網羅できるはずもなく、
それにも増して勉強不足の観は否めないが、それでもどうしても越えられない
壁のようなものを感じ、釈然としないままに最終章まできてしまった理由は、
佐藤栄作自身の言葉がなかったからであった。国会の安保論争の記録等で彼の
オフィシャルな発言は追跡可能であるが、彼自身の生の本音といったものは第
三者の手(例えば、キッシンジャーであり、末次氏であり小谷先生であるとい
った)によって切れ切れに伝わってくるに過ぎなかった。現象とは本質の表現
であると考えれば、断片的な事実を繋ぎ合せてそれに肉薄することも決して不
可能ではないかもしれず、それこそ研究の名に値する作業かもしれない。しか
し、否定しようのない事実の前には推測などは跡形もなくふきとんでしまう。

 佐藤栄作自身の手によって書かれた彼の心の動きを、環境認識を知りたいと
いう欲望がふつふつとたぎるのを感じながら、自分なりの沖縄返還に関する
「認識論」に終止符を打つべく結論に筆をおろす。

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               結 論
 坂口安吾・く「人は同時代的にしか生きられない」。
 社会的な動物である人間にとって、時代を超越することは非常に困難な事で
ある。時代の流れに身を任せていれば、他人とそう異なった生き方に踏込むこ
ともなく、衝突も少ないであろう。他人とヲいをおこさずに暮らすことが幸せ
であるとすれば、幸福とはきっと平凡なところにあるのだろう。佐藤栄作はそ
の意味では不幸であったかもしれない。政権担当中は安保騒動、学園紛争に悩
まされ、沖縄返還を決定づける佐藤・ニクソン会談に臨む訪米の朝には、反対
派の阻止行動のためヘリコプターで羽田へ向かうという一幕もあった。
 こうした佐藤と世間との衝突はある意味で、当然のことであった。何故なら、
彼は時代を超越していたからである。
 前々章で佐藤の日本の国益に関するバイタルな認識は「日米関係の同調」で
ある、と述べて2節を締めた。「発展」でも「促進」でもない、「同調」の認
識である。何故、「同調」であるのか。それが、沖縄返還に彼が政治生命を賭
け、「核抜き」を決断した謎をとく鍵である。
 ここで、序論で軽くふれた沖縄をめぐる三主体の認識の変遷について、まと
めてみる。(章末の認識の変化の概念図を参照のこと)
 沖縄の認識が一直線であるのは、第二章の2節ですでに述べた通り、その認
識の第一義性のために変化しない。それに変化が生じるとすれば、それは方向
性が変わるのではなく、より太い線を描くことになろう。その幅の広がりが本
土の認識を飲込んで流れたのが沖縄返還の動きであった。例えば '55年の朝日
報道がきっかけとなった土地問題を契機とする認識の高まりは、沖縄のそれが
本土を飲込んだのではなく、本土が沖縄のポテンシャルの高さに引かれて、そ
の認識を沖縄よりにしたといえる。それが55〜58期の沖縄に急接近した本土の
認識線の意味である。58年になって揺り戻しがきたことも第二章3節の分析で
明らかである。つまり土地問題によって高まった本土の認識のレベルはその土
地問題の沈静化と共にもとの水準に戻っていったのである。その後本土の認識
が霞んでいるのは、高度成長期における経済中心主義の横行で認識のレベルが
非常に低下したためだが、そのレベル低下は反動として安保闘争や学園紛争に
見られる無軌道な破壊的政治行動を招来した。これら一連の動きが高い認識の

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レベルになかったことはその後の運動の消滅をみればはっきりしている。もし
もその認識が、かの大石内蔵助のように天下大道に恥じることがないものであ
ったならば、もっと人の心を捉えたに違いないし、当時を振返って「あの頃は
若かった」などという回想がなされるべくもない。
 アメリカの認識が波打っている要因は、第二章でははっきりと分析しなかっ
たが、一言でいうなら、認識の「ゆらぎ」状態である。勿論、既述の分析通り、
アメリカの沖縄に対するバイタルな認識というものは基本的には決して変化し
ていないのだが、軍事基地の効率的な運用という観点から、住民とのトラブル
を極力避けようとする政策が随所に取入れられたため(例えば対沖援助の授権
法であるプライス法の成立など)アメリカの沖縄認識が揺らぎ始めたように沖
縄や本土の人間が認識したことによるギャップを表現するために、あえて波打
った認識線を書いてみた。このことは、例えば、62年のケネディ新政策をみれ
ば証明できる。沖縄が日本のものである事を認めたにしても、同時にバイタル
な認識である極東の平和維持に対するその重要性についてもはっきりと述べら
れ、その上調査団報告にふれたくだりでは「…米国の施政を続けることが軍事
上絶対に必要であることと、琉球住民の希望を、いかに調和させるかを検討し
ている」と全く基本的な認識に変更のないままに住民との調和をはかろうとし
た姿勢が如実にあらわれている。
 こうした三主体の認識状況を背景として佐藤内閣は成立する。第三章で述べ
たように、佐藤栄作の認識がイコール本土の認識となっていったのも、彼の透
徹した時代認識とそのレベルの高さが、砂漠に突然湧き出た泉のごとき状態だ
ったことを考えれば、オアシスに動物が集まってくるように自然とオピニオン
・リーダーとしての立場を走っていったことも至極当然のことではあった。
 彼が時代を超越していたと最初に述べたのはこういう背景であった。次の時
代を先取りした人間が薄幸であるのは世の習いである。全くの余談だがそうい
う意味で、佐藤が後の評価ではなく、現世においてノーベル平和賞という御褒
美を授かったということは、彼自身の幸せもさることながら彼の超越性を正当
に評価できる人々がその当時の世界にいたという意味で非常に高く評価できる
ことであった。

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 最後に、佐藤内閣成立以降のアメリカと日本(もはや本土という呼び方は国
際関係においては適当ではない)の認識線の漸進的な接近について分析してみ
る。
 この認識線の一致こそが佐藤栄作の超越した認識によってイメージされた日
米関係の究極の形であった。アメリカと日本のちょうど中心にあたるように注
意深く作図したつもりである。この認識線を佐藤が政権獲得当初から明確に意
識していたことは、内閣成立直後の第一回佐藤・ジョンソン会談において、発
表した共同声明の内容が、それまでの2回の共同声明(57.6.22 岸・アイゼン
ハワー、61.6.22 池田・ケネディ)の内容と決定的に違う「沖縄・小笠原の米
軍軍事施設を極東の安全のために重要である」と認めたことからはっきりと分
る。相手のバイタルな認識を理解すること、相手が大切に思っていることを自
分も大切だと思うこと、これが即ち、真のイコール・パートナーシップの始ま
りであった。この二人の出会いの最初に相手の大切なものを理解したことが、
やがてくるであろう密月を予感させたのである。事実それは「核抜き」となっ
てフィードバックしてきた。佐藤が「核抜き」に固執したのは、それがまさに
日本にとって大切なものであったからである。
 こうして沖縄返還交渉の過程を通してお互いを認めあい、理解しあった日本
とアメリカは歴史上これ以上はないほどの、密接で親密な時代を迎えたのであ
る。この相互理解と信頼の構造を見失うことさえなければ、日米が離反するよ
うな時代は全く予見できない。事実、沖縄返還が決定されたあとのニクソン・
ショックも繊維問題も見事日米は切抜けてきた。現在のジャパン・バッシング
も恐れるには足りぬ。むしろ、悪口までどうどうと言える関係になったと自負
すればよい。今後はますますアメリカの対日要求は強まるであろう。しかし、
いまや成熟した二人の関係は冷静にお互いをみつめられるはずである。沖縄返
還交渉で育まれた愛はまだ幼く、繊維問題で一方的に相手をもとめたり、ニク
ソン・ショックで意地悪をしたりした。その度に恋した方の辛さで日本はだま
ってホゾを噛んでいた。いまや二人は立派な大人に成長した。国際社会でのパ
ートナーシップはより一層強固なものとなるに違いない。

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 論の最後を締めるにあたって、僕をこの結論へと導く大きな示唆を与えてく
れた、敬愛するエドウィン・O・ライシャワー博士の自伝の最後の言葉を引用
して脱稿の辞としたい。
 「しかし、そんな私も、未来についてただ一つ、絶対の確信を持っているこ
とがある。それは、日米関係が今後とも共通の利害と理想という強固な基盤の
上に立ち続けるだろうということである。かつて私の二つの祖国を巻込んで敵
味方にした悲劇は、もう繰り返されることがないはずである。」

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