今週の泥棒市場の幻燈台
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mado

その界隈を褒めるひとはだれもいない。

三年前、空港のタクシーの運ちゃんに騙されてここに来た。いかにもいかがわしいホテルがあった。あのときは、深夜ということもあり、一泊だけならいいか、くらいに思っていたのだ。それが一週間の「沈没」になってしまった。

今回も「やばい」という実感はあったのだ。空港にはまた深夜に着いた。気が付いたらあのホテルのロビーだ。

ホテルの食堂から化粧の濃い女たちが出てきた。今夜の仕事にあぶれたのだろう。さっそく流し目攻撃に遭遇だ。三年前もこれだった。

顔見知りのボーイが「レディーレディー」と何度も部屋に来る。彼としては当然のサービス提供なのだ。
「今夜は疲れてるから」と僅かなチップを渡して帰した。もう4時だ。

部屋のカーテンを開けた。バンコクの夜景はいつもどこか哀しい。

朝、食堂に降りた。3年前と同じ窓際のテーブルだ。あの頃のウェイトレスの娘はもういない。当然だろう。

この食堂には沢山の記憶がある。
広いわりには客はほとんどいない。ウェイトレスの娘たちは「別の顔」を持っているのかも知れない。その「怪しさ」を感じながら、ここに佇むのが好きだった。

街を歩いた。

この界隈を正式に紹介してるガイドブックもwebサイトもない。あったとしても「あんなとこ行くな」って感じで書かれている。いわゆる「危ない」系でそう断言されてるのだ。よっぽど危ないのだろう。

もともと地元相手の歓楽街だったのだろう。しかもかなりうらぶれた歓楽街だ。忘れ去られたようにひっそりと存在しているのだ。忘れ去られた三流以下の女たちと。

街は風の音がした。

ゴーゴーバーの扉が開いていた。
廃墟。そんな感じがした。
黒いソファー。天井の扇風機。ジャングルジムのような鉄棒。踊り台。
犬が寝そべっていた。

隣のカラオケバーはもはや扉もなかった。
火事にでもあったのだろうか?
瓦礫の上に一枚のポラロイド写真があった。
ピースサインの女が写っていた。タイ語のサインがあった。
わたしはタイ語は読めないので、なんという名前なのか知らない。彼女が、どこかでいまハッピーであることを祈った。

近くのソイの入り口みたいなとこの屋台でビールを飲んだ。

やはり廃墟だ。そして廃墟には奇妙な懐かしさがあった。

この3年間のことを想いだしていた。ニホンでのわたしの生活も変わった。別れた子供たちとの再会。わたしの母の死。会社のリストラ。

ホテルに戻った。食堂の女の子が待っていた。
昼のほんのちっぽけな宴だ。
許されるだろう。

ある日、スリクルンでmoonと待ち合わせた。

moonから言われたものだ。
「あーぐ、さみしそうな顔してるよ」

あのとき、moonにはなにも答えなかった。

ほんとうは、言いたかったのだ。
「moon、君の見てるバンコクはわたしには見えないんだ」と。

いつもあのホテルに戻った。戻るとほっとした。あの廃墟のような界隈が、わたしのバンコクだ。あそこだけが。

その街の名前をもう知らない。