我が家のルーツ

広島県府中市木野山町95ー1に石碑があります。当院の待合室にはこの石碑 の拓本があります。漢文で書いてあります。現在では使用されていない漢字が相当あるために、 当用漢字に直した所が随分とあります。


長 寛 信 綱 の 碑

先生 姓は長 名は寛(ひろし) 諱(いみな 亡くなってから言うもの)は信綱   其の先に出でし葛原親王より其の裔孫長谷部信連なる者有り。 信連 十七代の孫 實連曰はく「勇にして力有り。當に毛利氏の麾下に属す。慶長五年  関が原の役 興り西軍敗績し、以って故に毛利氏の国削らる。當に此の時、父勘解由 其の子  秀近と去りて 備後の国 世羅郡黒川村に伏匿す。 後に一子生まれ豊丸と曰ふ。幼にして聰慧。学を好み 初めて見岐の門に入り 医を学ぶ。 其の後 子孫世世 医業を以ってす。十世の孫 正秀 又 世羅より蘆田郡木野山村に徒居し  其の業を継ぐ。 正秀の嫡子 信綱と曰ふ。幼名は祐馬、甫(男子の美称)は七歳にして母を喪ふ。其れ  十有六歳に及ぶや 又 父を喪ふなり。恬恃(てんじ たよるところ)無く、其の衰退  以って知るべきなり。 是に於いて 奮然として志を立て 長崎に游び、子田使譲平に従ひて 益々医術を研究し  業成りて 帰郷せり。 是に於て 名聲 大いに聞こえ請ひて治ふ者 日に門にみちる。又 傍に子弟を教授し  門に入りて学ぶ者 数百なり。此の郷に至りて今進みて学ぶ者 衆多、乃ち 先生の力なり。 明治弐拾三年四月弐拾日 溘然としてにわかなさま)以って寿 卒はる。享年 六十有九。 法諱 曰はく「義正院泰嶽道寛居士」と。 是に於いて 其の弟徒 相ともに議し 碑を建て以って 不朽とす。其の教育の恩 是れ亦  子弟の厚義なり。因りて其の梗概を書す。銘に曰はく
 
             r-1  磨いても うすくならない

r-2 墨の中にあっても染まらない

  r-3 掘り出した石のように堅い

   r-4 後々の世まで師と仰がれる人である

   従四位 勲三等 千阪高雅篆額    明治弐拾五年三月   備中 犬養 博 撰文    備前 磯山堅曹 書


これ以降現在までは次の通りです

          寛→武介→委三美→義勝→健→誠司